<「Z4 フキヌス湖のトンネルと桝本セツ」の改訂版>
(一) 桝本セツと三笠全書
(二)フキヌス湖のトンネル
(三)枡本セツとアグリコラ
(四) 行き着く先は?
(一)桝本セツと三笠全書
古代ローマのフキヌス湖の排水工事のことを最初にわが国に紹介したのは桝本セツだと思う。
桝本セツは、男女不平等で固められた戦前の旧民法下で、社会的非難を浴びることを覚悟しながら、相手の妻の嘆きをも振り切って、すでに三男三女のある岡邦雄と同居生活をはじめた。邦雄四六歳、セツ二四歳のときである。
岡邦雄は、戸坂潤、三枝博音らとともに一九三二年、唯物論研究会を発足させた、すでに名の知れた学者であった。研究会発足二年後、セツはこの研究会の趣旨に惹かれて事務所を訪れ、そこで邦雄と知り合う。二人はやがて論文の共同執筆者にもなる。二人が一間きりのアパートで共同生活を始めたのは一九三五年末のことらしい。そして、両者とも治安維持法違反で検挙され、長い勾留生活を送らねばならなかった。(澤地久枝『昭和史のおんなたち』参照)。
セツには多くの著作・翻訳がある。ロシア語関係の書、自然科学の書など。その一冊が三笠全書の中の『技術史』(三笠書房、1938年)である。そもそもこの三笠全書は唯物論全書として始まった。第一冊目が戸坂潤の『科学論』、二冊目が岡邦雄の『科学思想史』であった。だがこの全集は一九三八年三笠全書と名を変え、また内容も若干変わった。理由もあるだろうが、ここでは問わない。ただ、この全書刊行の辞の一節を載せておく。わが国の従来の書は、ともすれば西欧の直訳に堕し、知識の正確性に欠く面があったとして「科学・哲学・経済・産業・文学等の汎ゆる学術分野に於ける各々の中心テーマを包含し・・・、現代学術の完璧を期し、一大百科全書としての最高機能を遂行せんとするもの・・・」と意気が高い。
明治政府の文部省は一八七四年から八〇年にかけて『百科全書』なるものを発行したが、これはイギリスのチェンバーズ兄弟の著作の翻訳で一冊約百頁、全九二冊である。上述の唯物論全書・三笠全書の版型・体裁などはこの『百科全書』に似ている。一テーマに一執筆者というのも同じ。縦一七センチ横一五センチの箱入りの小型本、濃紺(三笠全集は茶)の布を張ったハードカバー、紙質は少し劣るが美しく品がある。戸坂潤のは三百頁超え、岡のも三百頁に近い。
桝本セツの『技術史』は二五二ぺーじ。旧石器時代から一九世紀末までの人類の技術の発達を概観したものである。「序」で桝本は「技術史の卓れたものは西洋に於いても極めて少ない。まして日本に於いては、文字通り、まだ一冊も出てゐないのである」と述べている。まさにわが国における技術史研究の草分けである。この書にあるローマのフキヌス湖の隧道(トンネル)の記述もおそらくわが国初出だろう。
(二) フキヌス湖のトンネル
イタリアのヘソ、フキヌス湖
ローマから東へほぼ八〇キロ、アペニン山脈中に卵型をした大きなフキヌス湖があった。ほぼイタリア半島の中央に位置し、イタリアのヘソと呼ばれたりした。この湖のある盆地は海抜約二二〇〇フィート、それを取り巻く山々はもっと高く、とくに北側の嶺は八〇〇〇フィートを超える。その山麓から湖畔に至る土地には古くから町や村があった。主要な住民はマルシ族である。
このフキヌスの湖水の出口は見当たらなかったが、普段は流入と流出は均衡していた。後年、北辺の湖底に石灰岩の裂け目があり、そこから流出していたことがわかった。だが過剰の水を流すには不十分であった。急激な増水があると湖の堤防を越えて平地に浸水し大きな災害を招くのが常だった。事実、アルキャベという町がフキヌス湖に沈んでしまったという話もあった。しばしば浸水する土地は耕地にも不向きである。
多分住民のマルシ族の人たちは政府、といっても今日のような政府はなかったから、執政官とか元老院とかにだろうが、そこに陳情を繰り返していたに違いない。ここでマルシ族と言っているが、彼らもローマ共同体(レス・プブリカ)の一員であり、れっきとしたローマ市民であった。カエサルは排水路の建設を企画したが、彼の死によって実現しなかった。アウグストゥスのときも嘆願したが叶わなかった。そしてこの大事業はクラウディウスによって着手され、完成をみたのである。
至難の掘削作業
桝本セツは、トンネルあるいは坑道技術が、始めは住居や墓として、次に石材の切り出し、採鉱のため、最後に給水、排水その他さらに高度の文明の要求によって取り上げられたと述べる。そしてエジプト、メソポタミアなどのトンネル技術を概観したあとローマに移る。ローマに直接影響を与えたのはエトルリア人であった。だが高度にその技術を発達させたのはローマ人である。セツは、フキヌス湖排水のためのトンネル(桝本の表現)をその例としてあげている。ごく簡単に触れているだけだが、当時としては立派な記述である。こう書いている。
フキヌシ(フキヌス)湖の出路は、爆発物を使用せずして造られたロマ(ローマ)・トンネルの著しい一例である。それはユリウス・ケーザル によって設計せられ、クラウヂウスによって完成せられたもので、三マイル以上の長さのものである。その一マイル以上は、その頂上が湖面から一〇〇〇フィートの高さにある山の下をつきぬいている・・・穴は・・・非常に硬質の石を通して穿たれたもので、一インチ、一インチと鑿によって掘り続けられたのである
この工事に関して記録を残したのはプリニウス、タキトゥス、スエトニウスだが、三人ともこの工事の目的は干拓ではなく排水だという認識だった。たとえばスエトニウスは干拓と排水を明確に区別した表現を使っている。それによると、クラウディウスは、排水によってできる副産物の干拓地を譲り受ける条件で工事を請け負うという何人かが現れたので、栄光と実益のためにこの工事に着手したと。つまり干拓地はあくまで副産物だったのである。真偽のほどはわからないが。いずれににせよ、ローマにとってこの事業は長年の懸案であった。
しかし当時にあっては極め付きの難工事であったことは確かである。山をくりぬいて水路を作り、リリス川という深い谷川に流入させる。工事が完成したのは後五二年、一一年かかった。もちろん、言語に絶する費用と多数の人夫を要した。スエトニウスによれば、一一年の間つねに三万人が働きつづけたという。水路の長さは、先の桝本によれば三マイル(4・8km)であるが、これは一八二五年のリベラという技術者の実測結果とほぼ同じである。
プリニウスの報告
山の内部が土でできたところでは、掘り取った土を巻き上げ機で竪坑のてっぺんまで引揚げて水路をきれいにしなければならず、それができないところは、堅い岩を切り取って運び出さねばならなかった。地下の作業は暗闇の中だった。そんな作業は、目撃したものでなれば想像できるものではなく、どんな人間の言葉でも言い現わせるものではない」「腹黒い彼の後継者には顧みられなかったとはいえ、少なくとも私の考えでは、クラウディウス帝のもっとも目覚しい業績のひとつであった
プリニウスはこの工事の様子を観察していたに違いない。完成は彼三〇歳のとき、タキトゥス三歳、スエトニウスの生まれる前のことである。プリニウスは完成という言葉こそ使っていないが、完成を前提とした文章になっている。タキトゥスは「フキヌス湖とリリス河を結ぶ地下水路が貫通した」と書いた。スエトニウスも「完成する」と書いた。「腹黒い彼の後継者」というのはもちろんネロのことである。徹底的にクラウディウスを憎んでいたネロは、このトンネルのメンテナンスを全く行なわず、崩壊するがままに放置した。そこで後にハドリアヌスが修復しなければならなかった。
その後の経過ははっきりしないが、衰退してゆく中世のなかで、岩石や土砂の崩落によって水路はふさがってしまった。その後何度も復旧の試みがなされたが成果はあがらなかった。一九世紀末になってフキヌス湖の干拓が行なわれ、現在は耕地になっているらしい。このフキヌス湖の工事については何人もの人が書いているが、その多くは工事の内容やその意義よりも、水路の完成を祝って行われた竣工式についてである。竣工式では、湖の水を落とす直前、実戦的規模で摸擬海戦が行われた。このイベントは後々までも語り草となった。列席していたプリニウは、「クラウディウス帝が海戦の見世物を催したとき、彼の妻アグリッピナが金の布だけで作った軍用外套をまとって、クラウディウスの側に座っているのをわれわれは見た」と記している。
この竣工式のことだが、目前で見たプリニウスが言うのだから竣工式とそれに伴うイベントの模擬海戦は実際にあったことなのだろう。だが、「模擬海戦が行われた」とだけでそっけない。海戦の模様には全く触れていない。失われた彼の同時代史『アウフィディウス・バッススの歴史書の続き』には書いたかもしれないが。タキトゥス以後の人たちの描写は面白可笑しく描かれている。歴史物語とでもいうべきものか。二万人とも書かれている戦士たちが、海兵なのか囚人なのか死刑囚なのかもはっきりしない。摸擬海戦というのはローマ市内でも時々ティべリス川に近い競技場や人造湖で行われた。そこでの軍艦はせいぜい数隻だろう。二万人といわれる武装した兵士を乗せるに足る艦船は何隻必要か。それを山越えで運んだのか、湖畔で建造したのか・・・そういうことは書いていない。目前で見た人間(プリニウス)が黙っているのに、後世の人間があれこれ言っている。
(三) 桝本セツとアグリコラ
枡本セツの思想
プリニウスはこのように、工事開始にいたる政治過程を紹介しながらクラウディウスの「もっとも目覚しい業績の一つ」と語り、目撃したものでなければは想像もできない工事のありさま、そして、これが一番の狙いかもしれないが、クラウディウスの妻アグリッピナが完工式に金糸で造ったマントを見せびらかしたことを描いた。
桝本もプリニウスも、困難を極めたフキヌス湖の排水工事については、むしろ肯定的である。だが、桝本は鉱山の発掘現場の実態についてプリニウスと同じように徹底的な批判を行った。次の一節は彼女の真骨頂をしめすものである。少し長くなるが載せる。
採鉱に於いては人は全く無機物の環境に入り込む。そこは鉱石と金属のみの世界で、野も森も、流れも、海もない。地下の岩石の内部には 生命がない。地下水を通してしか或いは人間が持ち込む以外には、バクテリア、原生動物さえもが居ないのである。鉱坑の内部には、何らの形もない。雲をうかべた青空は勿論のこと、眼を楽しませる樹木も、獣もない。鉱夫等は物の形態を見る目を失う。彼らの見るものは物体ではなく物質のみ。目は失われ、自然のリズムは破れている。外界にはあまねく太陽の光が降り注いでいるときにも、幽闇な坑内にはただかすかな蝋燭の光が青白く明滅するばかりだ。そしてアグリコラの『デ・レ・メタリカ』には当時の採鉱技術を集大成しながら、そして彼自身医者でありながら、鉱山労働者の受けている肉体的、精神的の殆ど破壊的な苦痛、それを如何にして解決するかの途は少しも述べられていないのである。そして、かかる労働者の状態は、産業革命期を通し、一九世紀を通して、ひとり採鉱業のみならず、産業の全領野に拡大し、現代に於ける産業機構、ひいては社会機構の根本的矛盾にまで深化しているに拘わらず、技術者、工学者はもとより、実際政治家は少しもこれに本格的な解決を与えようとはしていないのである。だが、解決のみちは決して存在しないわけではない。
これが昭和三(1928)年に書かれた文章である。感動的な文ではないか。アグリコラについては後述するが、彼は『デ・レ・メタリカ』第六巻の最後の箇所で、鉱夫たちの事故・病気・予防について若干触れている。桝本はそれを無視しているように見受けられるが、確かにアグリコラはそれを一企業の問題ととしてとらえているだけで、社会的・政治的視点には欠ける。
この桝本の書に先立つ明治四一(1908)年、夏目漱石は『坑夫』を執筆した。この年、幌別鉱山で暴動が起きた。その前年四二年には、足尾銅山スト、別子銅山スト、生野銅山ストが相次いで発生した。漱石のこの『坑夫』は衝撃的で恐るべき小説である。しかしこの作品は、発表当初から今日に至るまであまり高い評価を得ていない。執筆の経緯はこうである。あるとき漱石のもとへ一人の青年が訪ねてきて、自分の身の上話を小説にしてくれと話し込んだ。漱石はその話のうち、その青年の坑夫としての経験だけを素材にして『坑夫』を執筆したのである。
この小説の主人公の青年は、ある理由から家を飛び出し自殺場所を探しにゆく、その途中で一人のポン引きに捕まり、銅山で働くことになる。汽車に乗り、真っ暗な山道をいくつも超えて辿り着いたところが、一万人もが働いている鉱山。一夜をタコ部屋で南京虫に刺されながら過ごした青年は、翌日、鉱山の中を案内される。カンテラひとつを頼りに地下へ地下へと降りてゆく。道はだんだん狹くなり、寝転んでようやく通過するような穴をいくつも抜けたら今度は急な崖である。底も見えない階段を死ぬ思いで降りる。更に進むと小道は枝分かれし、その先に掘削現場があり、それぞれ数人の男たちが働いている。掘り起こした鉱石や岩石をどうやって地上に運び出すのか。あちこちに深い竪穴が掘ってあって、そこに投げ込む。ここ鉱山の奥深さは計り知れない。帰り道、疲労困憊した青年は案人に置いてきぼりをくう。一人で帰ろうとするが道がわからず死も覚悟する。
ダンテの『神曲』の地獄編では、一人の男(ダンテ)が案内役のウェルギリウスに従ってすり鉢のように先細りになった地獄の底へ降りてゆく。地底には半身を地に埋めた巨大な魔王が、あらゆる罪人を口にくわえて噛み砕いている。だがダンテは、やがて現れたベアトリーチェによって天国に導かれる。しかし漱石の『坑夫』の世界にはベアトリーチェはいない。魔王もいないが死は遠慮なく襲ってくる。劣悪なタコ部屋生活、暗闇での重労働、鉱夫たちはやせ衰え、頬は削り取られたように落ち窪んで青黒く、目の玉だけがぎょろぎょろしている。重病患者は広いタコ部屋の片隅の固くて冷たい床に、板のように平たくなって一人寝かされ死を迎える。死者は四角い棺桶に入れられて運ばれる。運ばれる棺桶の前後に金盥がじゃんじゃんと鳴る。その後ろにお経を浪花節調にした唄が続く。ジャンボーと呼ばれるこの鉱山の葬式である。
ゲオルグ・アグリコラ
ゲオルグ・アグリコラは一四九四年ドイツのザクセン生まれ。ライプツィッヒ大学で学び、また同大学で教師もし、人文学者として有名になる。その後医学に転じてイタリアに留学、帰途ボヘミアの銀産地のヨアヒムスタールという町に七年間とどまる。その目的の一つは、彼の医学上の知識をこの鉱山で役立てること、もう一つは,彼が従来から関心を持っていた鉱山学・岩石学を深め、この両者を結びつけることだった。桝本が「彼自身が医者でありながら」と書いているのはそういうことである。
アグリコラは多様な書を書いているが、畢生の大作が『デ・レ・メタリカ』(1556年)である。この鉱山町での経験が役立った。『デ・レ・メタリカ』は桝本の言うとおり「当時の採鉱技術の集大成であり、近代鉱業、ひいては近代工業の発達に大きく貢献した」ことは大方の認めるところである。この『デ・レ・メタリカ』を邦訳したのが三枝博音である。三枝は三浦梅園の研究やこのアグリコラの大著の翻訳などでプリニウスを知ったのだと思う。彼は「プリニウスと自然誌の問題」で極めて適格なプリニウス評を行っているが、プリニウスの自然破壊への批判についてはほとんど触れることがなかった。三枝は桝本と同じく唯物研究会のメンバーであり唯物選書に『論理学』も出しているのだが、この点に関しては互いに交わった気配はない。
アグリコラはこの書全一二巻のうち最初の第一巻全部を鉱業についての既成概念の打破にあてた。彼は、鉱業は、自然を破壊するものだとか、自然に反する人間の貪欲から発生したものだという古代からある思想に対し種々の観点から反論した。真っ先に槍玉にあげられたのはオウディウスである。オウディウス(前43-後17)は『転身物語』で、人々は大地の内臓まで侵入し、大地が地中深くに隠していた財宝、人間を悪へと誘う財宝、それは鉄、それよりもっと危険な黄金であるが、それらを掘り起こすと弾劾した。アグリコラはこのオウディウスの考え、さらに十人近くの人々の見解を挙げそれらに厳しく反論した。ここではアグリコラが挙げていないローマの思想家二人の意見を追加する。最初はルクレティウス(前94頃―55)。
人々が銀や金の鉱脈を追い、道具を用いて地中深く隠れているものを捜している時には、スカブテーンスュラ<鉱山の名>は下方から何という臭気を発することだろうか?或いは金鉱山は何たる害毒を吐き出すことがあるだろうか! 人々の顔を如何に変え、何という顔色にさせることだろうか!切実な必要にせまられて、このような仕事に拘束されている人々は、通常如何に短い期間の内に死亡してしまうか、如何に生命が殺(そ)がれてしまうかを、君は見聞きしないことはないであろう? であるから、これらの流れはすべて大地が発散し、直ちにひろがった空へはきだすのである(ルクレティウス『物の本質について』樋口勝彦訳)
次はセネカ(前5~4―65)
マケドニアのフィリッポス王の以前にも、銭を求めて地下の最も深い隠れ場まで下った者たちがいた。・・・そこには夜と昼の区別も決して届くことはなかったのである。・・・どんな大きな必要が、天に向かって直立している人間を屈めさせ、地下に送り込み、最も深い地の底に沈めたのか―黄金という、所有することにも劣らぬ、獲得することの危険な代物を掘り出すために。この目的のために人間は坑道を掘り、泥だらけの不確実な捕獲物の周囲を這い回り、昼の日も忘れ、また事物のよい本性も忘れて、そこから自らを他方に転じたのである(セネカ『自然研究』茂木訳)。
だがアグリコラの、最も強力な批判の的はプリニウスであった。彼はプリニウスに敬意を表していたせいか、直接プリニウスの名を挙げることはしないが具体的事例で批判を繰り返した。たとえば、アグリコラはいう、鉱山はほとんどが役に立たない山野で行なわれているのだから自然の破壊にはならないと。プリニウスは、例えば、ヒスパニアの金鉱山の開発などで自然の破壊が進むことを具体的に糾弾した。アグリコラは、鉱業は戦争などという暴力ではなく平和な手段で富をもたらすという。プリニウスは富の蓄積自体に批判的だった。アグリコラは、物々交換は原始社会のもので社会の発展に貨幣は必要不可欠であるとして、物々交換を高く評価したプリニウスを正面から批判した。アグリコラは、重要な医薬は鉱石などの地下の物質から入手できるといい、本や草や土・石・生き物など、ほとんどが地上で得られるとするプリニウスに反論する。
それでは二〇世紀の枡本セツの発言をもう少し聞こう。
採鉱技術は古代以来最近までほとんど発達しなかった。他の産業に比べても遅れ、ほぼ二〇〇〇年にわたって最も原始的な方法が持続され てきた。それと同時に、それに従事する労働者の地位は、最も低い階級に置かれた。最近まで、戦争俘虜や犯罪人、奴隷でもなければ鉱山で働こうとは思わなかった。そして(注;現代アメリカの文明批評家マンフォードの『技術と文明』<1938年>から引きながら)、採鉱業はまともな人間の商売ではなく刑罰の一形式でしかなかった。人間の困難な、命がけの仕事のうち、旧式の鉱山採掘に比べられるのは恐らく近代戦争の第一線の仕事だけであろう。鉱山労働における事故による死傷は、それ以外の労働の四倍にものぼる。一四世紀以来、主として軍事的要求によって、このような劣悪な労働条件での採鉱業が強行されてきたのである(註:枡本の『技術史』はマンフォードから多くを学んだのかもしれない)。
(四)行き着く先は?
現代の物質文明の発達、大量破壊兵器(なかんずく核兵器)の開発のために人類は地下深く掘削を続けているし、今後も一層掘り進んでゆくだろう。地球の地下資源の獲得競争は激化の一途を辿り、国境紛争の止むこともない。一方で、掘削技術はますます向上するが、坑内での事故は絶えることがない。医術の発達にもかかわらず病気が地上から消えることがないように、地下の惨事も後を断つことがない。
二〇世紀は穴掘りが盛大に行なわれた世紀だといってもいい、もう桁外れだ。罪悪感などなしに掘り下げた。この世紀は革命と戦争の世紀といわれるが、革命と穴掘りはあまり関係ないが、戦争とは大ありだ。マジノ線塹壕などは序の口。日本軍兵士は延々と続くソ満国境や南方戦線などで随分穴掘りをした。国内でも、一億総特攻のかけ声の下、こぞって防空壕掘りをさせられた。米軍の上陸に備えて各地の海岸沿いに横穴が、天皇や大本営を守るためには長野県松代町に総延長十キロにも及ぶ地下壕が構築された。日本中が穴だらけになった。だが、この二一世紀だってそれに負けず進められているのだろう。いや、それ以上かもしれない、われわれの我々の気付かないところで。
戦争のための道具は今日でも大方が鉄でできている。桁外れな軍拡競争が続いている。多くの人が金属、とくに鉄を口汚く罵り非難し、鉄が殺人、追い剥ぎ、戦争に用いられると誹謗しているが、その誹謗自体が間違いだとアグリコラは主張した。その非常に多くの人の代表がプリニウスであった。
たしかにプリニウスは、鉄は土地を耕し、木を植え、ブトウ蔓の剪定をし、また建築用の岩石を切り出しなど、各種の有用な目的に使うと述べたうえで「同時にわれわれはそれ鉄を戦争に、殺戮に、そして山賊行為に用いる。・・・(それだけでなく)羽をつけた飛び道具として、カタパルトから発射するかと思えば腕で投げる。・・・こういうものは、人知が生み出したもっとも罪深い工夫だと私は思う」と語った。そして悪いのは自然ではなく人間なのだという。アグリコラは上記の「 」の中だけを引用しながら、プリニウスを代表とする古代の論者たちに反駁を加えたのである。それは恐らく時代の要請だったのだろう。「自然」観も変わりつつあった。アグリコラはいう。
第一流の人々は、金属は自然が深く地の底に埋蔵したものだし、また金属は生活に必要なものでもないといって軽蔑し卑しめてきた。そして、金属は地中から掘り出してはいけない、それはいつも多くの人のひどい災いの源だったのだという。従って、鉱山の技術もまた人類にとって有益なものではなく、有害危険なものであるという結論に彼らは導くのだ。
『デ・レ・メタリカ』は、このような、金属を軽蔑し卑しめた「一流の人々」に対する反論であった。アグリコラはいう。「私は・・・この人たちの魂から一切の誤謬をえぐり徹底的に除去して、正しい考え、人類に有益な意見が明るみに出るようにしてやらねばならぬと思うのである」。「正しい考え」の導く道は、自由な資本主義へと導く道であった。そして今日がある。地下深くウラン鉱を掘り出し、現在人類が保存している原爆・水爆は、人類を何十回?何百回?も滅ぼすことができると言われている。これが行き着く果てだったのか?今、全面核戦争の危機を語る人も少なくない。しかしダンテのベアトリーチェの出現を期待することはできないのだと。