静かの海

この海は水もなく風も吹かない。あるのは静謐。だが太陽から借りた光で輝き、文字が躍る。

エッセネ派の人々とプリニウス(つづき)

2010-06-23 14:49:45 | 日記


 ④クムランの洞窟 
 
 プリニウスの上記の文章は、ある意味では不思議である。彼がティトゥスの遠征軍に加わってユダヤに行ったとするなら、あまりにもあいまいで無責任な叙述である。しかも簡単すぎる。プリニウスがエッセネ族と呼んでいるのは、ユダヤ教の一宗派であるエッセネ派であることは通説になっている。

 このエッセネ派については、先にあげたようにヨセフスとフィロンが書いている。ヨセフスは若い頃エッセネ派に見習いとして入っていたことがあるらしく、詳しく精確である。ヨセフスはウェスパシアヌスに降伏した後、ローマ軍のエルサレム攻撃のときに司令官ティトゥスに助言をしたり、エルサレム陥落の現場にも立ち会っている。だからプリニウスはヨセフスと顔を合わせていたかも知れないのである。

 また最初にアラム語で書かれたヨセフスの『ユダヤ戦記』が、ギリシア語で出版されたのが79年から81年の間であるから、プリニウスの眼に触れることはなかった。もっとも、プリニウスが仮に『ユダヤ戦記』を読んだとしてもそれを典拠としたかどうかはわからない。プリニウスは自分と同時代の著作者の作品はほとんど用いていないし、当時の傾向として、ローの著作者たちは一般的にユダヤ人の著作をそんなに評価していなかったらしいから。 

 ところでプリニウスは、そのエッセネ族の住むところを比較的正確に特定している。それは、死海の西岸で、岸辺から少し離れたところにある。その箇所から南へ行けば、土地が肥沃でエルサレムに次いで椰子が豊かに茂っていたが、今はエルサレム同様死灰の山に過ぎないエンディゲの町、さらに南下すれば岩の上の城砦マサダが死海から遠くないところにあるという。 

 ⑤完全な共同生活
 
 第二次大戦後、国連での、アメリカ合衆国主導のパレスチナ分割案の採択によって、この地でのユダヤ人による建国が承認されたのが1947年11月である。いわゆる第一次中東戦争が始まったのはこの直後であるが、その前からすでにユダヤ人とパレスチナ人の対立が激化していた。そういう情勢の中で、その年の春、死海西岸の断崖にある洞窟で、ベドウィン族の少年が偶然亜麻布でくるんだ巻物を発見した。この洞窟はそのあたりの地名クムランから、クムラン洞窟と呼ばれている。それ以後もこの近くの洞窟から写本が続々と発見された。 

 一括して「死海文書」と呼ばれるようになったこれらの大量の写本は、聖書の各書、外典書、宗団の文書などであることが分かり、世界に大きな衝撃を与えた。聖書やキリスト教の由来について大論争を巻き起こすことになる。

 そしてさらに、1951年に、このクムラン洞窟のある断崖と死海の間の海岸で、埋もれていた古い石造建造物や墓地などが発掘されたのである。調査の結果、石造建造物のほうは、これこそエッセネ派の人々、プリニウスのいうエッセネ族の住居であったことが判明した。プリニウスは、「金銭を持たず、ただ椰子のみを友として」と書いていた。これはなつめ椰子だと思う。なつめ椰子は、昔から砂漠地帯の重要な栽培植物である。だが、この遺跡が発掘された時代にはもう椰子などは生えていなかった。そして数百枚の貨幣が発見された。

 このように修道僧のような暮らしをしていたエッセネ派の人たちは、一切の私有財産・私物もない完全な共同生活をしていたので、内部的には貨幣は必要なかったのだが、宗団として外部と折衝するためには貨幣も必要だったのだろう。発見された貨幣と周囲の状況によって、この建物は、紀元68に戦火に見舞われたことが推測されている。つまり、エッセネ派の人々はこの年、ローマ軍と戦い敗れて消息を絶ったと考えられる。この年、ガラリアに進軍したウェスパシアヌスが死海を訪れたという記録がある。したがってクムランにも来ている可能性がある。

 ティトゥスやプリニウスがこの地を訪れたかかどうか、それは分からない。
 プリニウスが、岩の上に城砦があるとしたマサダは、66年に駐留ローマ軍を撃滅してユダヤ人約千人が立てこもり、エルサレム陥落後も三年間ローマ軍に激しく抵抗し、ようやく73年に滅ぼされたところである。だがプリニウスは城砦があると書いているだけである。 
 また、エッセネ派の集団居住地は68年には破壊されたようだがこのことにも一切触れていない。

 ⑥幻想の民

 このようなわけで、プリニウスがユダヤやエッセネ派についてどれほどの知識があったのかはよく分からない。だが彼はしばしば幻想的な話をする。
 たとえば、アフリカの内陸部に住む人類の文明の水準以下に落ち込んでしまっているアトランテス族の話、言語も持たない穴居族の話など・・・これらはみな他人から聞いたいい加減な話だ。

 黒海の北の極北に住むヒュペルボレア人といわれる人々のことも書いている。彼らは不和とか悲しみを知らず非常に長寿だ。生に飽きると最後のご馳走を食べ、高い岩から飛び下りる。これは古くからギリシアに伝わる伝説であり、プリニウスはその出典も示している。

 彼はまた、北ドイツの北海に面した低地でささやかな漁業に従事するカウキ族というゲルマン人の生活を描いた。かれらはローマ帝国の支配に屈することを潔しとせず、貧しくても誇り高い原始共同体の生活を送っている。これはプリニウス直接の見聞だ。

 エッセネ派についてのプリニウスの記述が相当あいまいだということは前にも述べた。日々の生活に疲れた人たち、運命にもてあそばされた人たちがやってきて、そのため何千年という年月にもわたって住民が補充されてきたなど誰が信じよう。プリニウス自身が、「こんなことを言っても信じがたいことだが」と書いていたように、本当は彼自身が信じてはいなかったに違いない。
 ヒュペルボレイア人のことにしても、もちろん単なる伝説だということは分かっていた。カウキ族のことだけは精確である。

 常にローマの奢侈を批判してやまなかったプリニウス自身は、ローマ帝国の高官として望めばどんな贅沢な生活も送れただろうに、毎日精励の日々に明け暮れた。睡眠時間を削り、食事中も、入浴中も読書や執筆に励んだと伝えられる。架空の話にせよ、現実の話にせよ、『博物誌』にしばしば現れるこのような叙述は、後世のヨーロッパ人に色々な感慨を与えた。空想的社会主義の思想を生み出した一つの母体であったともいえよう。  


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