静かの海

この海は水もなく風も吹かない。あるのは静謐。だが太陽から借りた光で輝き、文字が躍る。

プリニウスの章(4)

2017-06-17 09:54:12 | 日記

         プリニウスの章(4)

 

     ソーンダイク『魔術と実験科学の歴史』の抄訳

 

  第二節 実験的傾向

 

観察と経験の重要性

中世の二つの写本が(1) 最後の巻の七六章の真ん中で "Experimentapluribusmodis  constant・・・・Primum pondere" (「実験は多くの尺度から成り立つ・・・・第一のものは重さである」)という言葉で『博物誌』を終りにしているのは、たぶん、単なる偶然の一致だろう。著作の性質からプリニウスは膨大な書物を利用しているが、彼はしばしば、自然の事実を取り扱う人は、真理へ到達する方法として観察と経験の重要性を認識することが必要である、ということをはっきり述べている。遠くアトラス山まで兵器を運ばなければならなかったローマの多くの高官たちの主張について、プリニウスは経験上、それは嘘であるとくり返し言明している。さらに彼は、権威ある著者が間違った記述を保証したものを信用することほど、軽信的な誤りはないという意見を述べている(2) 。他の個所で彼は、経験はあらゆるものの最良の教師であると呼んでいる(3)。そして荒れ地へ出かけて行っていろいろな植物をその適当な季節に探し求める代りに、おしゃべりや教室での聴講に頼っている、と批判している。地球の上の大地は完全に水によって囲まれていることは論議による研究の必要はない、すでに経験によって確かめられているから、と彼は言う(4) 。そして、もしサンショウウオが実際に火を消すなら、ローマではとっくの昔に実験されていたはずだと(5)。 他面、われわれは『博物誌』で断言しているもので、プリニウス自身が容易に実験して誤りを発見することができたに違いないものをいくつか見出す。たとへば、卵の殻は力やどんな重量でもってしても、少しばかり傾けない限り破ることができないと述べている(6) 。ときどき彼は彼個人の経験を加えているが(7) その他の多くのことに関連した経験についても述べている。

 (1)  Escorial Q-I-4  とR-I-5 .両方とも一四世紀。

   (2)五4<「ギリシア人が言いふらした驚くべき虚誕を聞いても」>、五12<「この判断 の基準の大部分はきわめて虚妄であることがわかる。というのは、高い地位にある人々というものは、実を求める気もないくせに知らないと言いたがらないからだ。従って平気で嘘を言う」>。

(3)二六11." usu efficacissimo rerum omnium magistro"; 一七 2,12, "quare  

experimenti optimecreditur."<3>「すべてのことについての、とりわけ医術についてのもっとも有能な教師である経験」(二六11)。「経験によって私の信ずるところでは」(一七13)              

(4)二166  <「理論的調査の必要はなく、すでに経験によって確かめられたこと」> 

(5)二九76<「ローマは実験によってすでにそのことを発見していた筈だ」>    

  (6)二九46<「卵殻はひじょうに強力だからどんな力も重みも、卵が立っているときにはそれを砕くことはできない」>

(7)二五54."coramque nobis"(「私の目の前でも」);二五169."nos eam Romanis experimentis per usus digeremus."(「私はそれについてローマ人が実験によってその用途を発見したものにかぎって述べよう。」)二五98<「カンパニアの漁夫たちはその丸い根<ウマノスズクサの>を『土地の毒』と呼んでいる。わたしは彼らがそれを潰して石灰と混ぜたものを海に散らすのを見た」>。

 

「実験(experimentum)」という用語の使用                               

経験という語を示すためにプリニウスがもっとも多く使用した用語はexperimentumで ある (1) 。多くの文節においてこの言葉は何か目的のある、前もって意味づけられた、われわれの言語感覚で言うところの科学的経験というようなことを意味するものではなくて、単に、日常生活における通常の経験を意味しているのである(2)。 われわれはまた、経験があって助言してくれる人を意味するexperti(3)という語を見出す。しかしながら、ある文節においては、experimentumという語が、われわれの「実験」という語に大変近い意味に使われている。たとば、一つの卵が新鮮か否かを調べるのに、それを水に入れてみ て、浮くか沈むかを観察することをexperimentumと呼んでいる(4)。 他の画家の絵ではなくアペレスの描いた馬の絵を見て馬がいなないたということが、illius experimentum artis  つまり、芸術家の技量を試す、あるいは立証する、と言われたことなのである(5)。religionis experimento という表現は、クラウディアの貞淑が立証された宗教テストまたは試練にあてている (6)。 この言葉はまた、軟膏の良し悪しを見分ける方法や(7) ブドウ酒のいたみが始まっているかどうか(8)、 薬や宝石や土壌や金属などの真贋をテストする方法を現すのに用いられている(9)。 また二度、大きな酒樽の中と井戸の中に火をともしたランプを入れて底のほうに有毒な蒸気の危険がないかどうかを調べるときに、この語が用いられている(10)。もしランプが消えれば人間の命が危ないしるしだ。さらにプリニウスは、地下水(11)を発見するためや接木(12)するためというような目的をもった実験をすることを示唆している。                                                                                                        

 (1)ときどき他の言葉、たとえば usus という言葉を使っている。

 (2)次の例を見よ。

*二109に「日常の経験で気がつかなかった人は、ヘリオトロープという一種の植物は太陽が通るときいつもその方向に向いていて、日中のどんな時刻にも太陽とともに回り、太陽が雲に隠れているときもそうだということに驚くであろう。」とある。*二235「実験<経験>によると土によってだけそれを消すことができることが わかった。」とある。*八18<「ピュロス王との戦いの経験で、ゾウの鼻を切り落とすことはごくたやすいと いうことが明らかになった」>。*一四61<彼に続いた皇帝たちも多くは、この酒を飲んでも、有害な不消化の発作は容易に起こらないという経験に基いて愛用した」>*一六3<「経験されたいちばんの高潮よりも高い台を築き、そのようにして選んだ敷地につくった小屋に住んでいる」>。*一六156< 「葦は経験上、戦争遂行にも平和時にも欠かせないもの・・・・」*一七13>。*一七163<以前は刈り込みをしないツゲの木からそういう枝を切り取るのが習いであって、そうしなければ活着しないと信じられていたが、経験によってそういう考えは捨てられた」>。 * 一7,163<「以前は刈り込みをしないツゲの木からそういう枝を切り取るのが習いであって、そうしなければ活着しないと信じられていたが、経験によってそういう考えは捨てられた」>。*二二1 <「食物として、香料として、あるいは装飾用としての優秀性のゆえに実験が繰り返されてきたのであり・・・・」>。*二二87<「すなわち、彼は実験によって、その嫌な匂いが脇の下から消えることを証明したというのだ」>。*二二106<「そういうことをした結果高い所から身投げをした人が現われるという大変な経験をしたからだ」>。*二二111われわれの誰もが試みることができる」>。

*二五23<「今迄の経験からもっとも激しい苦悩をひきおこす病気は、膀胱結石による排尿困難であるという結論がでている」>。

経験というのはまた、二つの次の文節の 中にある観念でもある。だが experimentum という語は、それを字義どおり "experience" と、ただちには訳するわけにはいかない。三四139<「鉄を無害なものにしようという実験がいくつもおこなわれてきた」。三四171< 「このことは、物質の残渣やもっとも嫌らしい残物をも、放置せず、いろいろな方法で人々が実験した結果の、その驚嘆すべき効能に注目しなければならないことを暗示している」>。

(3)一六64<「経験のある人たちはこういっている。火と蛇をとりまいてトネリコの葉の輪 が置かれると・・・・」>。二二121<「経験をつんだ経験者たちはまた小麦あるいは大麦の 籾殻を暖めて・・・・」。二六93<「経験をもつ人々はわれわれにこう断言した」>。

(4)一〇151<「また卵は水の中で検査( experimentum ) してもよい)」>。

(5)三五95<「数頭の馬を連れてこらせ、それらに順々にその馬の絵を見させたのだ。すると馬どもは描かれた自分たちの姿を見ていななき始めた。その後はいつもそういう方法がおこなわれ、それが芸術家の技量を試す正しい方法であることを証明した」>。

 (6)七120 < ローマの貴婦人クラウディア・クインタは不貞の非難をうけた。キベラの像がペッシヌスからローマへ運ばれてきたが船がティベル河口で座礁したとき、占い師は、貞淑な婦人だけがそれを動かすことができると告げた。クラウディアが進み出て綱を握り、すぐさま船を引き出した。プリニウスは、謙虚な婦人を選ぶ投票の第二回目にクラウディアが選ばれたことを述べている。「第二回目には、『神々の母』がローマもってこられた際、敬虔さが試されたクラウディアが選ばれた」>。

(7) 一三19<それを試験するときは、肉質の部分の暖かみによって損なわれないように、手の背につける>。

(8)一四130<鉛板をその中へ入れてみてそれが変色するなら、ブドウ酒がいたみはじめた 証拠である>。

(9)四43<あらいものと滑らかなもので、そのどちらも握った手触りで見分けられる>。

(10)二〇5<そのエラテリウム(純粋さの試金石)はそれを当てると炎が消える前に上下にちらちら揺れるかどうかにある>。

(11)二〇203<さらに純粋の阿片の識別法は水によるもので・・・・>。

(12)二二49<これが<アンクサ>が純粋であるかどうかの目安である>。

(13)二九52<純粋な卵の目安は、それを金に結び付けておいても、水流に逆らって浮んで いることだ>。

(14)三三59<金は火に焼かれるほど質が良くなり、火はその良否を試験するのに役立つのだ>。

(15)三三126<試金石をヤスリのように用いて、ある鉱石からテスト用に削りくずをこすり取った場合・・・・>。

(16)三三127<だがインチキはこのテストにもはいりこんだ>。<また磨いた銀に人間の 息をかけてテストする方法がある>。

(17)三三164<商品の標準的な価値の観念を与えるために、ローマでの一般的価格について述べる・・・・>。

(18)三四112<緑青の良否は熱した十能にのせてみるとわかる>。

(19)三四163<「白鉛の良質の目安は、それを溶解してパピルスの上に注いだとき・・・・>。 

(19)三六147<それ(アンドロダマス)を試験する方法は、それをバサニテス石にこすりつけることである>。

(20)三六177<大理石化粧漆喰が適当な濃度になったことを確かめる目安はそれがもう鏝にくっつかないことであり・・・・>。

(21)三七83<本物と見分け難いことこの石<オパール>以上のものはない。唯一の鑑定方法は、日光によってである>。

  (22)「<宝石の>試験はいろいろ違った方法でおこなわれる」(三七・198)、「 もっとも有効な試験の方法は、その石の一片を欠いて鉄板の上で焼いてみることだが・・・・」(三七・200)

(23)二三63<ブドウ酒の滓はひじょうに強力だから、大桶の中へ下りていったら生命が危ない。下したランプがよい信号である>。

(24)三一49<井戸が深くなったとき、良い掘り手でも硫黄またはミョウバンの気に出会うと死ぬ。この危険があるかどうか調べるためには点火したランプを下げて、それが消えるかどうか見ることだ>。

(25)三一46<(水を探す)「この緊張を避けるために、彼らは他の検査の方法に訴える。彼らは五フィートほどの深さの穴を掘り・・・>。

(26)一七127<とはいえわれわれは実験によって自然界に存在するあらゆるものに到達することはできない>。

 

 科学的好奇心からの実験

 今までずっと挙げてきた試験や経験のほとんどは、農業や工業と関係した実用的作業で あった。だがプリニウスは、科学的好奇心だけに基づく若干の事例を挙げている。プリニウスは experimenta  を次のように区分けしている(1) 。底まで完全に光が達することによって、夏至の正午には太陽が蔭をつくらないことを証明するための井戸を掘る例、イルカの寿命を調べるために尾に印をつける実験、いつかふたたび捕えると思っていたのだが、実際は三百年後になってしまったー これは記録された中で、もっとも長く続けられた実験だろう(2) 、それから、ほんとうに蛇の咬傷に免疫になっているかどうか調べるために、ローマで、毒蛇を入れた穴に投げ込まれた人のことを述べた例。                                                                                                                                                            

 (1) 七五183<シエネの町では、夏至の正午には全然蔭がない。そしてこれを    試験するためにつくられた井戸では、光がその底に届き・・・・>。

 (2)九22<実験用標本<イルカの>の尾を切断して確かめたところ、三 十年も生きることがわかった>。

 (3)二八30<こういう氏族から派遣されたエウァゴンという名の使節が、ロー マで執政官によって試しに蛇を入れてある樽の中へ投げ込まれた>

                                                                    

 医学上の実験

 Experimentum  という語はプリニウスによって医学的意味に用いられ、それは中世においてきわめて一般的なものになった。彼は歯痛や目の充血のためのある種の治療を certaexperimentumー 確かな経験(1) 、と呼んだ。のちに experimentum はほとんどの他の処方箋や治療にも用いられるようになった。実際、プリニウスは、われわれの危険やわれわれの死による経験から医者たちが教訓を得ていることを語っている(2)。他の個所で彼はもっと好意的に「あらゆる事物を実験するためには終りを知らず、毒さえもわれわれの治療に利用しようとする」と述べている(3) 。より詳しくはガレノスのところで説明するが、プリニウスは簡潔に経験医学派のことを述べている。彼らは経験に頼ったので自分たちを経験派と呼び(4)、アクロンとエンペドクレスの保護のもとで、シチリアのアグリゲントゥムで創始したとプリニウスはいっている 。                                     

(1)二八56<経験は・・・・歯痛を防ぐためには、朝奇数回だけ冷水で口をすすぐのがよいこと、酢を入れた水に目をひたすと眼炎を防ぐこと、一般の健康は自然な種類の摂生法によって促進ささることをはっきりと教えている>。                                                              (2)二九8. "Discunt  periculis  nostris  experimenta  per  mortis agunt ."ここのあとの文節を BostockとRiley は「そしてわれわれを死に至らしめることによって実験し」と、他の人たちは「そして彼らの実験は人命を代価とした」と訳している。中野訳は<医者たちは、われわれの生命の犠牲において実験を行ない、われわれ の危険を材料にしてその知識を得るのだ>。

(3)二五37 "・・・・adeo  nullo  omunia experimendi  fine ut cogeretur etiam  venera  prodesse." ローブ版中野訳は「あらゆる可能な実験をする探究はまことに疲れることを知らず、毒を強いて有用な薬たらしめることすらあるのだ」。                                                                   

 

 偶然的経験と神の摘発

 プリニウスは、いままでに経験に学んだ筈の「賢いことで有名な著述家たち」の言っていることの中のいくつかの事柄に当惑している。たとえば、ヒトデが非常な高熱をもっていて、海のなかでそれに触れるものはなんでも焼き焦がし、すべての食物をたちまち消化してしまうということ(1) 。堅硬石<1> が山羊の血によってのみ砕かれるということは神の摂理によるものに違いない、と彼は考える。というのは、どんなはずみであろうとそんなことを発見することは困難だし、誰であろうとこんなにとんでもない高価な物質に、不潔な動物の一種の流動物でテストしてみようと思いついたなどと、とても想像できないのだ(2) 。いくつかのほかの個所で彼は、幸運・偶然・ 夢(3)もしくは神の啓示が、ある種の薬草の医薬的効用が発見される契機であることを示唆している。たとえば最近、野バラの根が狂犬病の薬であることが、親衛隊の一兵士の母親によって発見された。彼女は夢の中で息子にこの根を送るよう警告を受け、それによって息子を助けたのである。それ以来多くの人たちがそれを用いた(4) 。また、ポンペイウス時代に一人の兵士が、恥ずかしがってある種のハッカの葉で顔を隠したとき、偶然にも象皮病の治療法を発見した(5) 。ある葉が脾臓の薬であることを偶然発見したが、それは犠牲の内臓がたまたまその葉の上に投げられたとき、その葉が脾臓を完全に食い尽くしてしまったからである(6) 。エジプトコプラに咬まれたとき酢が治癒の特性を持っていることが次のような機会に発見された。それは、ある男が酢の入った皮袋を運んでいるとき、エジプトコプラに咬まれたが、皮袋を下したときにだけ痛みを感じた(7) 。そこで彼はその液体を飲んでみて効果を試そうと決心し、そして完全に治癒した(8) 。その他の薬効は田舎の無学な人々の経験に学んだり、また動物が自分で自分の病気を直すのを観察したりして発見した。プリニウスの意見では、それらの動物は偶然の機会に見つけたのだという。

(1)九183<内部に非常な高熱をもっていて・・・なんでも焼き焦がし・・・たちまち消化してしまうという。どんな実験によってこれが確かめられたのか、私にはどうも分からない>。

(2)三七59<アダマス(主にダイヤモンドか)がヤギの血によって砕かれるという発見が、誰の研究により、どんな弾みでなされたのかとプリニウスは問い、このような発明や利益は神に負っている。また、「われわれは自然の中のどこかに理由を発見しようと期待するのではなく、意志の証明を期待しなければならない」>(三)と述べている。

(3)後に述べるように、ガレノスによれば、経験医学派の人たちは多くを幸運と経験と夢に頼っている。

(4)二五17<母親が神のお告げによって、キュノドロン(バラの一種)の根を息子に送って狂犬病にかかった息子(兵士)の命を救った話>。

(5)二二144

(6)二五45                                  

 

(7)二三56

(8)酢の他の効能で、岩を砕く性質があるとされていること以外に、プリニウス は、口に酢をすこし含んでいれば入浴中熱さを防ぐことができると述べている。       

 

 経験によって証明された驚異

 プリニウスは、多くの驚異や、またわれわれにとって信じ難いような事物を、経験によって証明されたとして述べている。例えば、雷による占いは、公私にわたる数えきれないほどの経験によって裏づけされている。experiti とい

う言葉について私が前にあげた三つ事例のうち二つにおいては、経験者たちは明らかに一種の魔術の手順に従っている(1)。もう一つの個所での「多くの経験」という言葉は、つぼみを摘むときの「奇妙な風習」によって証拠づけられている<2>。魔術的手順の四つめについては、「驚くべきことだが、 容易に試される」と書かれている<3>。このようにして、『博物誌』のなかの経験科学の 徴候から次の話題、プリニウスの魔術の評価へ移行することは容易である。

 (1)二六93<ヘビとトネリコの関係について、「実際に実験したことのある人たちはこう言っている」(一六64)。裸処女の手による膿腫治療について「経験をもつ人々はわれわれ にこう断言した>。

(2)二三110<キュティヌス(ザクロのつぼみ)から採れる目の薬について「多くの研究者の注目の的になった>。

 (3)二八36<人間の唾液が、怨憎を和らげるが「容易に試されうる」>。

                                (第二節了)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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