静かの海

この海は水もなく風も吹かない。あるのは静謐。だが太陽から借りた光で輝き、文字が躍る。

ギリシアの警察

2010-06-26 10:38:10 | 日記
 けふのことば 
 「なるほどギリシア文明には、現在の私たちの文明より本当にまさっている点が一つあった。それは警察の無能力ということである」
       (B・ラッセル「西欧文明」『怠惰への賛歌』堀・柿村訳、角川文庫)

 ソクラテスは国法を犯したという廉で死刑を宣告された。その理由には多くの説があるが私にはよく分からない。戦前の小学校の教科書でも、ソクラテスは世界四聖人の一人として教えられ、悪法であっても法は法だから従わなければならないという教訓話だったように思うが、確信はない。 弟子たちはソクラテスに国外への脱出をすすめる。しかしソクラテスはその進言に従わず毒杯を仰いだ。

 ラッセルの発言の出所は私は知らない。ギリシアの警察はほんとうに無能だったのか、今日の西欧の警察は果たして有能なのか?ラッセルの言うとおりなら、ソクラテスがアテナイから脱出するのも容易だっただろう。だが私は、無能というより怠惰だったのではないかと思ったりする。ラッセルは「怠惰への賛歌」を書いているではないか。

 現在のギリシアが財政難に陥り、EUをはじめ世界に衝撃を与えている。折から参議院選挙が行われている日本では総理大臣が、財政破綻すると「ギリシアみたいになっちゃうよ」と、消費税の増税主張の根拠に使っているとか。
 
 そのギリシアでは、公務員の削減や賃下げに抗議するデモが頻発したが、警察は深追いはしていないという報道を読んだ。これは警察の無能か?怠惰か? いや、正常な良識ある対応か?ヨーロッパではデモは日常的な行動である。パリでは数十万の学生を中心とするデモが、政府提案を撤回させるなどということは珍しいことではない。 

 その点、日本の学生は借りてきた猫のようにおとなしい。もっとも私は猫を借りたことがないので、その真実は分からない。わが国でも学生デモが盛んな時代があった。だが、かれらは警察・政府に泳がされているのだという見方もあった。浅間山荘事件あたりを境に学生運動はほぼ消滅し、それ以後「借りてきた猫」みたいになった。

 ところでラッセルがこのように書いたのは次のような文脈の中でである。ギリシアではいろいろな理由で一流の人たちの相当数が追放、投獄、死刑の憂き目を見た。迫害の理由の一つは民衆の嫉妬である。だが警察の無能によってかなりの人たちが逃げおおせた。よかった、ということになる。 

 それ以後の西欧の歴史は違うとラッセル言いたいのだ。彼は、ヨーロッパがアジアと違うのは、他を迫害する衝動であるという。日本や中国では、仏教は神道や儒教と共存し、回教世界でもキリスト教やユダヤ人は、貢物を払えば干渉されなかった。だが、キリスト教団を見ると、正統派信仰から少しでもそれると、普通死刑が下されるのだという。

 日本では昔から八百万(やおよろず)の神という。たくさんのという意。自分の好きな神や仏を拝めばいい・・・川崎大師だろうが成田山新勝寺だろうが明治神宮だろうが自由自在。梵天、帝釈天、天満天神、魔利支尊天、愛宕大権現いずれだろうとご利益があればそれでいい。数多く祈願すればそれだけ当たる確率が高い、宝くじみたいなものだ。

 古代ギリシアでもローマでも神は豊富である。哲学者キケロはローマには「人間の言語の数だけ神々の名がある」といったとか。プリニウスはローマの人口と同じくらいいるといった。すると100万くらいか。ユダヤ教では神はただ一人である。ローマ世界では異端。だがローマ政権はこのユダヤ教を特別あつかいにして優遇措置をとった。だがユダヤ教内部で教団間の激しい闘争があり、遂にはローマに弓を引く事態になった。

 『博物誌』は世俗社会の歴史書でないせいもあってか、その辺の経過は書かれていない。 ユダヤ人についてラッセルはこういっている。「ユダヤ人は、当初、唯一の宗教だけが真理の資格があるという考えをうちたてたのであるが、しかし全世界をその宗教に改宗させるつもりはなかったので、他のユダヤ人を迫害するだけであった」(前掲書)。

 さらに彼はいう「キリスト教徒は、ユダヤ人の特別な啓示に対する信仰を守り続けるとともに、それにローマ人の世界支配欲とギリシア人の精緻な形而上学を愛好する心とをつけ加えた。この三つは一緒に組み合わさったため、これまでの世界に知られているものの中で最も激しく他を迫害する宗教が生まれた」(前掲書)。

 彼は、人々は魔法の出来事を信じないかどで人々を死刑に処するような16世紀のヨーロッパに住みたいと思うだろうか、昔のニューイングランド(ブログ「神の国アメリカ・3」参照・信仰のない人を死刑にした)に辛抱できるだろうか、ピザロがインカを取り扱ったやり方を賛美できるだろうか、10万の魔女が一世紀の間に焼き殺されたルネサンス時代のドイツの生活を楽しむことができるだろうか・・・などと問いかける。 

 ヨーロッパはいかに知的であっても、1848年と1914年の間の短い時期を除いて、いつもどちらかといえば恐ろしいものではなかったか。そして、今や不幸にして、ヨーロッパ人はこのタイプに戻りつつある・・・。 

 ラッセルのいう1848年とはヨーロッパの革命の年であり「共産党宣言」が出た年でもある。1914年は第一次世界大戦が始まった年。一世紀に満たないこの期間を、彼はまともなヨーロッパであったと考えた。彼がこの文を書いてすでに70年は経つだろう。ふたたびヨーロッパは恐ろしいものになってきたのだろうか。レーニンは二十世紀を戦争と革命の世紀と表現したが、ファシズムとスターリン主義が猛威を振るった時代でもあった。 

 そして日本でいえばこの間は、ペリーの来航に始まる開国と幕府の滅亡で「徳川の平和」は崩壊し、新しい宗教「天皇主義」のもと、かつてヨーロッパが犯してきた「恐ろしい時代」に突入していき、そのまま破滅へと突き進む。

 バートランド・ラッセルはプラトンを語った箇所でこう述べている。
 プラトンは新しい神話を二世代以降の人々になら信じさせることができるといったが、その意見は正しい。1868年(明治元年)以降の日本人たちは「ミカド」が太陽女神の後裔であり、また日本が世界のいずれよりも昔に建国されたのだ、と教えこまれてきた。大学の教授がその学問的著作においてさえ、このような教条に疑いを投げかけると、いかなる者もその非日本的活動のゆえに職を解かれるのである(『西洋哲学史』1、一井三郎訳参照)。 
 

 日本の警察は無能でも怠惰でもない。治安警察法、治安維持法のもと、多数の「臣民」を拷問、投獄、獄死させ、そして多喜二のように虐殺し、国民を恐怖の中に落とし入れ戦争反対の声を圧殺した。1943年、当時13歳の石崎さんという少女は与謝野晶子の『乱れ髪』を読んだというだけで特攻と憲兵から死ぬほどの拷問を受けた。日本の特高警察の有能ぶりを遺憾なく発揮した事例である。(ラッセルの同書は1946年に上梓されたものだが、まだまだ認識が浅い。仕方ない事だが)。
 
 挙句の果て、幾百万の人々を戦禍にさらし、異国の草ばねのもとに白骨化させ、大海の荒波のモズクと化せしめた。沖縄で25万人の生命を奪い、広島・長崎で、また東京大空襲を始め全国の都市で国民の生命と財産を奪った。そしてこの国の権力者は、今でもアジア大陸で犯した罪を認めようとしない。口先だけでもぐもぐ言っている人はいるが。


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