一風斎の趣味的生活/もっと活字を!

新刊、旧刊とりまぜて
読んだ本の書評をお送りいたします。
活字中毒者のアナタのためのブログです。

文語文についての「おさらい」

2007-04-20 05:16:58 | Essay
最近、「文語文の文章を復活させ、メールやネットで広めようと活動している人たち」がいるそうです。
ご趣味のことですので、端からとやく言うこともありませんが、どうも、具体的な趣向としては、方向が違っているような気もしないではない。
というのは、資料として載っている文章が、あまりにも格調が低い。どこかに誤解がありやしませんか、と思えてなりません。

新聞記事によりますと、以下のようなものが、公表されているようです。
「風邪を引いて熱が出てしまいました。もし下がらなかった、明日は休ませてもらいます」
という口語文が、
「風邪引き、熱出でにし候。若し下がること無く候はば、明日は暇を頂きたく候」
となるというのですが……。

これでは、単に現代口語文の文法を、文語のそれに変えただけに過ぎません。
というのは、文語文(特に漢文脈)の文語文には、現代口語とは異なる「用語」が必要になると思われるからです。
それは、明治時代の小学生が作文の例として与えられた、
「一瓢を携え墨堤に遊ぶ」
という文を見ただけでも分るでしょう。
現代口語文で言えば、「隅田川に遊びに(花見に)行ったよ」とでもなるところを、このように表現するのが、正統派の文語文と言えます。

そこで、若干、明治以降の文語文(漢文脈)について、おさらいを(都合により、軍事分野に限定します)。

まずは、軍事分野では、公用文ないしは報告文として、広く使われていました。
有名な例では、「日本海海戦」時に、東郷聯合艦隊司令長官が大本営に宛てた電文。
「敵艦見ユトノ警報ニ接シ聯合艦隊ハ直チニ出動之ヲ撃滅セントス。本日天気晴朗ナレド波高シ。」
「本日~」は、秋山真之が追加した文との説がありますが、いかにもありそうな話です。
というのは、電文しかも公式の報告という特殊性を考えた場合、「簡潔に」かつ「必要な事項のみを」文章にする必要があるからです。
これが、文語文の持つ、一つの特徴ともなっています。

また、「簡潔に」「必要な事項」を伝える、という特徴は、「叙事性」にもつながってきます。
「コレヨリ敵地ニ入ル 右ニ九州 左ニ四国 シカモ制海制空権ヲ占メラル」
「死ハスデニ間近シ 遮ルモノナシ 死ニ面接セヨ 死コソ真実ニ堪ウルモノ コノ時ヲ逸シテ 己ガ半生 二十二年ノ生涯ヲ総決算スベキ折ナシ」
「徳之島ノ北西洋上、〈大和〉轟沈シテ巨体四裂ス今ナオ埋没スル三千の骸 彼ラ終焉ノ胸中果シテ如何」(吉田満『戦艦大和ノ最期』)
著者は、
「死生の体験と重みと余情は日常語には乗り難い」
「戦争をその只中で描こうとすれば、“戦い”のもつリズムがこの文体の格調を要求する」
と述べていますが、これは「叙事性」ということに他ならないでしょう。

しかし、文語文には、「必要な事項」という要素が拡大解釈され、次のような「こけ脅し」の文章を生む危険性があることも事実です。
「夫れ戦陣は、大命に基き、皇軍の神髄を発揮し、攻むれば必ず取り、戦へば必ず勝ち、遍く皇道を宣布し、敵をして仰いで御稜威(みいづ)の尊厳を感銘せしむる処なり。されば戦陣に臨む者は、深く皇国の使命を体し、堅く皇軍の道義を持し、皇国の威徳を四海に宣揚せんことを期せざるべからず。」 (『戦陣訓』序)
「皇軍の神髄」「御稜威の尊厳」「皇国の使命」など、書いたご当人にとっては、「必要な事項」を「簡潔に」述べているつもりでしょう。しかし、実際には、内容不明な独りよがりの用語にしか過ぎません。
このように、文語文は、内容不明なことを、さも大事なことのように「見せかける」こともできる文章でもあるのです。

ここまでは、軽いおさらい。
それでは、現代に文語文を趣味として生かすには、どうすればよいか。
それを次の課題にしたいと思います(特に、樋口一葉系の和文脈文語文について)。

吉田満
『戦艦大和ノ最期』
講談社文芸文庫
定価:987円 (税込)
ISBN978-4061962873

人物を読む(2)―真間の手児奈のこと その2

2007-04-19 08:33:44 | Person
まず、手児奈伝説と同様なものが、菟原処女(うないおとめ)伝説として神戸市に残されていることを確認しておきたい。
つまり、これは物語パターンとして、かなり原型に近いものであるということだ。おそらくは、東洋各地あるいは西洋にすら、同じパターンのものがあるかもしれない。
となると、なぜ手児奈は身を投げて死なねばならなかったか、という心理的な穿鑿は、無意味ということになる(北山茂夫による虫麻呂評「ただ一つ残念なのは、何故に娘子が死をえらんだのかの悲劇の焦点が、つっこんで書かれていないことである」など)。

以上を踏まえた上で、参考になるのが、「手児」は普通名詞で「幼児」を指す、という大和岩雄説(「奈」は愛称の接尾語)。また、彼は、真間の手児奈は「遊行女婦(あそびめ、または、うかれめ)」であり、後代の「遊女」につながる存在だと述べている。
となると、手児奈伝説もかなり様相を異にしてくる。
たとえば、柳田国男説を借りれば、
「遊女といふ語には、本来売春といふ意味はありませんでした。(中略)日本の語に直してうかれ女と申したのも、今日の俗語の浮かれるといふのとは違ひ、単に漂泊して定まった住所の無いことです。」
と、手児奈は定着民ではなく、漂泊民ということになる。

人物を読む(1)―真間の手児奈のこと その1

2007-04-18 07:07:59 | Person
手児奈(てこな、または、てごな)という奈良時代以前(『萬葉集』の時代には既に伝説であり、その生きていた時期ですら特定されない)の女性について知られていることは、まことに少ない。
『萬葉集』に高橋虫麻呂と山部赤人の、長歌とそれに対する反歌のみが残されている。

基本的には、葛飾の真間に住む手児奈という可憐な乙女が、多数からの求婚に応えられず、淵に身を投げて死んだ、という内容。
そして虫麻呂は、
  勝鹿の真間の井を見れば立ち平らし水汲ましけむ手児奈し思ほゆ
と、また赤人は、
  葛飾の真間の入江にうちなびく玉藻刈りけむ手児奈し思ほゆ
と詠んだわけである。

さて、真間(現在の市川市)や間々(小山市に間々田という地がある)という地名は、「急な崖・斜面」という自然地形を指す。葛飾の真間の場合には、下総台地が真間川(手児奈時代には東京湾の入江最奥部)になだれ込んだ崖場を差すと思われる(真間山弘法寺の石段のある急斜面一帯)。
当然、赤人の歌にある「真間の入江」は、その崖下ということになる(現在、真間川と崖場との間の平地に、手児奈霊堂や真間の井がある)。

この時代、入江に面した平地には、東京湾での漁を生業にしていた人びとの集落があったことだろう。
また、その背後の台地上には、下総国府と国分寺・国分尼寺があり、一種の先進地帯をなしていたと思われる。

それでは、この両者に関係していたと思われる手児奈という娘は、どのような存在だったのか。
*ちなみに『萬葉集』(巻9 1807、1808)高橋虫麻呂の長歌と反歌とは、「挽歌」に分類されている「勝鹿(かづしか)の真間娘子(ままをとめ)を詠める歌一首、また短歌」というタイトルのものである。
長歌は次のとおり。
   鶏が鳴く 東の国に 古に ありけることと
   今までに 絶えず言ひ来る 勝鹿の 真間の手兒名(てこな)が
   麻衣(あさきぬ)に 青衿(あをえり)着け 直(ひた)さ麻を 裳には織り着て
   髪だにも 掻きは梳らず 履(くつ)をだに はかず歩けど
   錦綾(にしきあや)の 中に包(くく)める 斎(いは)ひ子も 妹にしかめや
   望月の 足れる面(おも)わに 花のごと 笑みて立てれば
   夏虫の 火に入るがごと 水門(みなと)入りに 舟榜ぐごとく
   行きかがひ* 人の言ふ時 幾許(いくばく)も 生けらじものを
   何すとか 身をたな知りて 波の音(と)の 騒く湊の
   奥城に 妹が臥(こ)やせる 遠き代に ありけることを

最近の拾い読みから(142) ―『江戸東京〈奇想〉徘徊記』

2007-04-17 06:18:24 | Book Review
全30編の東京町歩きなのだが、今出来の小洒落た町などが出てこないのが、いかにも種村調。
では、どのような町が出てくるかといえば、
「一種廃物のようななつかしい気分を感ずることが出来る」(田山花袋『東京近郊一日の行楽』)
街々である。
上野、浅草、神楽坂などの有名どころは別にして、碑文谷、森ヶ崎、立石、大塚坂下町、というのだから、これはもう末枯れた風景が目に浮かぶようだ。
もうこうなると、懐古趣味ですらない。

しかも、そのような街々の現状や、著者の直接の記憶にダブって、例えば碑文谷の場合では、「蓮華往生」などという江戸時代の怪しげな宗教儀式が紹介される。
「信者に即身成仏を願うものがあるとしよう。まず希望者を募ったうえで、その人に経帷子(かたびら)を着せ、唐金(からかね)の八葉(はちよう)の蓮華の台にすわらせて葉を閉じる。坊主どもが蓮華台を囲んで木魚や鉦(かね)をジャンジャンたたき、耳を聾(ろう)せんばかりに読経の声を上げる。と、そのすきに蓮華台の下にもぐりこんだ黒衣の男が、犠牲者の肛門を槍先(焼け火箸とも)でエイヤッとばかりに刺しつらぬくのである。
ギャ、ギャッーと断末魔の叫びもものすごく、と思いきや、読経の合唱にかき消されて叫び声は周囲を取り巻く信者たちの耳には届かない。やがて蓮華の葉がおもむろに開くと、往生した信者がうっとりと安らかな死に顔を浮かべているという寸法。」

立石の章では、もっと古い「石」の正体。
「武蔵野研究でも知られた考古学者の鳥居龍蔵博士は、アイヌの建てた古代のメンヒル(巨石遺蹟)という説を提唱している。半村良の『葛飾物語』もこれを踏襲してストーン・ヘンジ説だ。もっとも、これはかならずしもそうと決まったわけでなく、現在はあまたある説の一つとされている(『葛飾の歴史と史跡・名所・文化財』葛飾区教育委員会)。
なにしろ奇怪である。石が生きて伸び成長するのだ。しかし石が生きているあるいは成長する、という考え方は、なにも立石の石、あるいは日本の石だけ(『君が代』の「さざれ石の巌となりて」は石が成長することを意味する)の特性ではない。古代ヨーロッパでも、石は生きて成長すると考えられた。しかしキリスト教が到来すると同時に石は成長をやめた。おそらく万物が生きているというアニミズム的世界観が一神教によって淘汰されたからだろう。」

街々には、地層のように、古くからの記憶が層をなして堆積している(それを「ゲニウス・ロキ」: Genius locii=genius 〔精霊〕of placeという)。
本書は、東京の各地の「ゲニウス・ロキ」を文章で呼び出す「マギ」、種村季弘の試みの一つであろう。

種村季弘
『江戸東京〈奇想〉徘徊記』
朝日新聞社
定価:1,680円 (税込)
ISBN978-4022578891

「遅れてきたロマン派たち」―アレンスキー、タネーエフ、カトワール

2007-04-16 06:54:07 | CD Review

Treasures of
Russian Chamber Music
Arensky - Taneyev - Catoire - Shostakovic
The Amsterdam Chamber Music Society
(BRILLIANT CLASSICS 93018)

ロシアには知られていない作曲家たちが、まだまだたくさんいるようです。
特に、ここで取り上げようとする作曲家たちは、旧ソヴィエト政権によって「無価値」との烙印を押されたことが大きいようです(また、当局が社会主義リアリズムを標榜するようになってからは、ロシア革命前後のアヴァンギャルドたちの音楽が、「非民衆的」であるとしてシャット・アウトされた)。

つまりは、時代から取り残された「遅れてきたロマン派」音楽の作曲家たちなのね。

アントン・アレンスキー(1861 - 1906) は、リムスキー-コルサコフの弟子で、その門下生にはラフマニノフ、グリエール、スクリャービンなどがいます。

また、セルゲイ・タネーエフ(1856 - 1915) は、アレンスキーと同世代で、こちらはチャイコフスキーの弟子。ピアニストとして嘱望され、チャイコフスキーの『ピアノ協奏曲第1番』のモスクワ初演、同『第2番』の世界初演でピアノを弾いています。彼の弟子には、グラズノフ、プロコフィエフ、メトネルなどがいますから、名前を聞いたことのある方もいらっしゃるでしょう。

一番知られていないのが、彼ら二人と同世代のゲオルギー・カトワール(1861 - 1926)。リャードフの弟子筋に当たるようですが、むしろミャコフスキーやカバレフスキーの師としての方が知られているのかもしれない。
また、作品の上では、最近になってピアノ曲がマルク-アンドレ・アムランの演奏で、やっとCDで聴けるようになりました(hyperion)。

この3人の間に親交もあったようですが、いずれにしても、ロシア音楽における一種の「ミッシング・リンク」といったところが、共通した位置づけになりそうです。

一口で「遅れてきたロマン派たち」と言っても、やはり個性がありますが、曲の印象については、また別の機会に。
ここでは、このようなCDがあるという、御紹介に留めておきますが、ロシア音楽(特に室内楽曲)にご興味のある方には、お勧めのセットではないでしょうか。

新派大悲劇『椿姫』!?

2007-04-15 09:41:24 | Essay
『白野弁十郎』という芝居があります。
原作があって、フランスの劇作家エドモン・ロスタン(Edmond Eugene Alexis Rostand, 1868 - 1918)の『シラノ・ド・ベルジュラック』。岡本綺堂の弟子の額田六福(ぬかだろっぷく、1890 - 1948)が翻案したのが、この芝居です。
このような翻案ができるのは、物語構造に「日本的なるもの」があるからでしょう。
例えば、シラノのロクサーヌに対する「秘めたる恋」や、クリスチャンの恋へ協力する「男の心意気」など。

なぜ『シラノ・ド・ベルジュルラック』と、その翻案劇『白野弁十郎』を思い出したか、と言えば、昨日、たまさかオペラ『椿姫』などを聴いたからですね。
まず、水谷八重子(初代)が、アレクサンドル・デュマ・フィス原作の『椿姫』を、赤毛芝居(西欧人に扮しての芝居)でやったことが想い浮かびました。これ、どこかで読んだ話なので、詳細は定かではありませんが、確か、相手役のアルマン・デュヴァル(オペラではアルフレード・ジェルモン)を森雅之がやったと記憶しています。
しかも、これ、興行サイドの意向ではなく、水谷のたっての希望だったらしい。

新派の水谷八重子と赤毛芝居というのは、水と油のように思えますが、意外とそうでもないのね。
その藝歴を見てみると、若い頃には島村抱月や小山内薫に認められ、『アンナ・カレーニナ』で松井須磨子と共に出演している(なんと男役に扮して『ハムレット』なども演じている)。
新派に関係し始めたのは、その後、関東大震災前後らしいから、水谷は赤毛芝居にまんざら縁がなかったわけでもない。

でも、『椿姫』の場合は、水谷の藝歴だけに理由があるとは思えません。
というのは、『シラノ・ド・ベルジュルラック』の場合と同様に、物語構造に「日本的なるもの」があるからとも思えるのです。

ちょっと考えると、『椿姫』の場合も、簡単に翻案できそうな気がします。
『椿姫』と呼ばれるデミ・モンドの女マルグリッド・ゴーティエは、そのまま芸者にすることができるでしょう。
プロバンスの田舎から出てきたアルマン・デュヴァルも、明治時代の地方素封家の息子が上京してきた形。
この二人の仲が、素封家であるアルマンの父親に割かれるというのも、まるで『婦系図(おんなけいず)』の世界。マルグリッドが死の床に着くのも、「千年も万年も生きたいわ」の『不如帰(ほととぎす)』浪さんを連想させます。

そう考えると、なんで赤毛芝居にして、翻案を考えなかったかが、かえって不思議にも思えます。
新派大悲劇『椿姫』なんてのも、見てみたい気がしますけどね。

デュマ・フィス、新庄嘉章訳
『椿姫』
新潮文庫
定価:620円 (税込)
ISBN978-4102009017

気分はもう「戦前」

2007-04-14 08:55:38 | Essay
「国民投票法案」が衆議院を通過したニュースは、各メディアで大きく扱われていますが、こちらは、あまり重視されていない記事。
「PAC3装備品、防衛省が初公開」です。

PAC3という地対空迎撃ミサイルは、湾岸戦争で有名になった「パトリオット・ミサイル」の最新版(3は第三段階を示す)。それが、埼玉県の入間基地で公開された、というものですが、注目すべきは、記事最後の。
「2010年度末までに全国計16の空自高射隊に導入されるPAC3の最初の配備で、首都防空の役割を担う。」
というもの。
とうとう「首都防空」なんていう勇ましいことばまで登場しました。

さて、このミサイルで防衛を図る、というのですが、それでは何を防衛しようとするのか?
軍隊によって国民の生命・安全が守られる、というのは一種の幻想に過ぎません(旧軍が「天皇を中心とした国家体制」=「国体」、いわゆる「明治コンスティテューション』を守るためにあったことは、敗戦時に露呈した)。
まず第1に守られるのは、国家の中枢機能。
これはPAC3の展開計画を見れば分ります(固定式ではないのね)。
「航空自衛隊入間基地(埼玉県)に配備される地対空誘導弾パトリオット(PAC3)ミサイルの緊急時の展開場所として、防衛省が自衛隊駐屯地のほかに東京都心の皇居前広場や日比谷公園などの国有地、都有地の使用を検討していることが21日、明らかになった。」(3月22日8時0分配信「産経新聞」)

さて、小生、ここで思い出すのが、1933年8月11日「信濃毎日新聞」に桐生悠々が発表した「関東防空大演習を嗤う」なる記事。
「帝都の上空に於て、敵機を迎え撃つが如き、作戦計画は、最初からこれを予定するならば滑稽であり、やむを得ずして、これを行うならば、勝敗の運命を決すべき最終の戦争を想定するものであらねばならない。壮観は壮観なりと雖も、要するにそれは一のパッペット・ショーに過ぎない。」
そして、1942年4月18日には、「ドーリットル東京初空襲」を迎えることになるわけです。
結果は、
「爆撃機接近の知らせで、霞ヶ浦航空隊からの戦闘機が発進、高度3000メートルを警戒し(たが)、捕捉は出来なかった。」
「開戦4か月での本土空襲は一機も打ち落とせずに海軍の面目はつぶれた。」
わけでありました(新聞発表では「敵機9機を撃墜!」とあり、庶民はこれを「空気を撃墜だろう」と揶揄したといいます)。

かようなわけで、ここ数日、「気分はもう〈戦前〉」というフレーズが脳裡に浮かんでは消え、消えては浮かんでいるのです。

編集者へ一言

2007-04-13 06:00:56 | Essay
この本自体は、小林信彦がさまざまな媒体に書いた雑文を集めた、いわゆる「エッセイ集」です。
ですから、本の内容については、特に言うことはありません。
今回触れたいのは、むしろ、この本全体の作り方なのです。

気になるのは2点。

まず1点は、裏カバーに書かれた「惹句」です。
短いので全文引用します。
「あなたは最近、心の底から笑ったことがありますか?本当に楽しいと思ったことは?それがないのは、あなたが何か大切なものを失ったからです―。援助交際や凶悪な犯罪の増加など、どこかおかしいこのごろの日本人。そのワケを、鋭敏な時代観察者の著者が見事に解きあかします。バブル後の東京、人さまざま、本のうわさなど、多彩なテーマで日本の今と未来がわかるエッセイ集。」

違うだろうが!
そんな「本当に楽しいと思ったこと…がないのは、あなたが何か大切なものを失ったからです」なんて、新興カルトじみたことが、どこに書いてあるというんだ!
著者が言いたいのは、「笑いの幼児化、空洞化→消滅」ということ、「ドラマの流れとは別なところでゲラゲラ笑っている」のは「笑っていないのと同じではないか」ということなのです。
そんなことは、著者の作物(さくぶつ)を少しでも読んだことのある人なら、とっくにお分かりのことだと思うのですが。

「この調子で書いていると、一冊の本ぐらいの長さになりそうなので、」第2点に移ります。

巻末解説を、なぜ中野翠に書かせるのか?
小生のイメージですと、中野は、幼少時に身近に児童文学全集があったような家庭に育った、山の手のお嬢様が、今になって〈異国文化〉である落語や歌舞伎のお勉強をし始めた、書き手ではないでしょうか。
つまり、ハビトゥス的には〈下町〉とは、完全に小林とは正反対の存在なわけです。
ちなみに本書に収められた「日本人は笑わない I 」には、このような文章があります。
「〈落語的素養〉というのは、学校やテレビで教えるものではありません。親や家族の会話をきいて、または自力で、子供が少しずつ身につけていくものです。」
どうも、本書の解説者として、違和感を感じてなりません。
第1点と合わせて考えると、この文庫版の担当編集者は、「分っていない」のではないでしょうか(装丁は悪くないのにね)。

「分っていない」編集者に作物を扱われるほど不幸なことは、書き手にはまずありません。
小林氏への同情の念を禁じ得ません。

小林信彦
『日本人は笑わない』
新潮文庫
定価:500円 (税込)
ISBN978-4101158334

最近の拾い読みから(141) ―『幕末バトル・ロワイヤル』

2007-04-12 07:08:15 | Book Review
週刊誌(「週刊新潮」)への連載をまとめたものであるためか、文章には感心しません。いつもの野口氏らしい「詩情」や「想像力の切れ」が感じられないからです。

とはいっても、中味には、他書を圧倒する情報量が含まれています。その情報の多くがゴシップだというのが面白いところ。
氏は本書の「まえがき」で次のように述べています。
「さきに『大江戸曲者列伝』で筆者が唱えたゴシップ史観は、その項目(=史観の元になる、歴史を動かすとされる要因/評者註)を空欄にしておいて何も代入しない。永遠に x のままにしておこう。歴史という暗流は、何か不可視の力が人間を引っ張り回している光景としか思えない。」
ある意味で、歴史に対するニヒリズムと言ってもいいのかもしれない。
そのような目から見た場合に、歴史がどのような光景に見えるのか、その解答の一つが本書でありましょう。

さて、「ゴシップ史観」のため、本書では、かなり変った文献が随所に使われています。
『明良帯録(めいりょうたいろく)』(これはかなり固い資料)『浮世の有様』『燈前一睡夢(とうぜんいっすいむ)』などなど。
特に、幕末から明治に生きた漢学者大谷木忠醇(醇堂。1828 - 1897)の記した随筆『燈前一睡夢』は、かなり頻繁に引かれています。
この本、どうやらかなりのゴシップやスキャンダルが載っているらしく、面白い書物のようです(その筋には、結構知られているらしい。野口氏もかつて『江戸の毒舌家』で紹介している)。

それでいて、本書第二部の「嘉永外患録」では、水野忠邦、土井利位、安部正弘といった政界権力の推移と、ペリー来航への対応のしかた、などがきっちりと抑えられてもいる。

「歴史に対するニヒリズム」とはいえ、端倪すべからざる複眼視覚ともいえるでしょう(大人向きの歴史観。受験生にはお勧めできません)。

これから幕末維新期にかけての記述で、どのような視点を著者が提示してくれるのか、なかなか期待できそうです。

野口武彦
『幕末バトル・ロワイヤル』
新潮新書
定価:756円 (税込)
ISBN978-4106102066

「思い込み」と悪文

2007-04-11 08:12:37 | Essay
安斎育郎の『だます心 だまされる心』を読んでいたら、「思い込み」と「思い入れ」との違いについての、次のような一節がありました。
「私のような研究者にとっても、企業経営者にとっても、受験生にとっても『何が何でもこの問題を解かずにおくものか』という対象に対する強烈な〈思い入れ〉は、問題解決のエネルギーを生み出すために不可欠のものです。対象に惚れ込む強く深い〈思い入れ〉なしには、問題を解決するための強烈な意志も湧いてこないでしょう。だから〈思い入れ〉は必要なのですが、『問題解決の道はこの方向しかない』といった〈思い込み〉は思考の可能性、柔軟性、融通性をせばめ、結果的に問題の本質とは違う落とし穴にはまる危険があるのです。〈思い込み〉にとらわれると、真実を見きわめる目が曇ります。」

このような〈思い込み〉による錯誤の例は、科学界でも例外ではないようで、
本書には、有名な森鴎外の「脚気=細菌感染症説」や、野口英世の「黄熱病病原菌発見」などが挙げられています。
話が脇に逸れますが、その他、小生は初耳だったのが、長岡半太郎の「水銀から金を取り出す」という「現代版錬金術」の試み。
これも、本書の著者に言わせれば、
「どんなに『偉い人』でも、自分の思い込みを正すことのできない状況下では錯誤に陥りかねないことをしめす典型例のように思われます。」
という結論になります。

では、文章の世界で、この「思い込み」がどのように現象面で現われるか考えてみると、それは一つには「悪文」ではないかと思われます。
「悪文」の定義も難しいのですが、ここでは、
「書いた人間の意図が、読者に十全には伝わらない文章」
ということにしておきます。

文章上のテクニック不足はともかくとして、少なくとも「物書き」という職業に携わっている人間が陥りやすいのが、物事を伝えるのに性急な余り、論理展開を疎かにし、その結果として「悪文」になってしまうというケース。
このように「性急になる」のは、一歩退いて考え直すという余裕がない、つまりは「思い込み」が激しい、ということが多いようです。

ここで例を挙げればいいのですが、小生、「悪文」のコレクションをしているわけではないので、それはまたの機会にしましょう。
いずれにしても、「思い込み」の宝庫である「トンデモ本」には、その手の「悪文」が多いのは確かなようです(秋庭俊の一連の「地下モノ」など)。

安斎育郎(あんざい・いくろう)
『だます心 だまされる心』
岩波新書
定価:735円 (税込)
ISBN978-4004309543