一風斎の趣味的生活/もっと活字を!

新刊、旧刊とりまぜて
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「思い込み」と悪文

2007-04-11 08:12:37 | Essay
安斎育郎の『だます心 だまされる心』を読んでいたら、「思い込み」と「思い入れ」との違いについての、次のような一節がありました。
「私のような研究者にとっても、企業経営者にとっても、受験生にとっても『何が何でもこの問題を解かずにおくものか』という対象に対する強烈な〈思い入れ〉は、問題解決のエネルギーを生み出すために不可欠のものです。対象に惚れ込む強く深い〈思い入れ〉なしには、問題を解決するための強烈な意志も湧いてこないでしょう。だから〈思い入れ〉は必要なのですが、『問題解決の道はこの方向しかない』といった〈思い込み〉は思考の可能性、柔軟性、融通性をせばめ、結果的に問題の本質とは違う落とし穴にはまる危険があるのです。〈思い込み〉にとらわれると、真実を見きわめる目が曇ります。」

このような〈思い込み〉による錯誤の例は、科学界でも例外ではないようで、
本書には、有名な森鴎外の「脚気=細菌感染症説」や、野口英世の「黄熱病病原菌発見」などが挙げられています。
話が脇に逸れますが、その他、小生は初耳だったのが、長岡半太郎の「水銀から金を取り出す」という「現代版錬金術」の試み。
これも、本書の著者に言わせれば、
「どんなに『偉い人』でも、自分の思い込みを正すことのできない状況下では錯誤に陥りかねないことをしめす典型例のように思われます。」
という結論になります。

では、文章の世界で、この「思い込み」がどのように現象面で現われるか考えてみると、それは一つには「悪文」ではないかと思われます。
「悪文」の定義も難しいのですが、ここでは、
「書いた人間の意図が、読者に十全には伝わらない文章」
ということにしておきます。

文章上のテクニック不足はともかくとして、少なくとも「物書き」という職業に携わっている人間が陥りやすいのが、物事を伝えるのに性急な余り、論理展開を疎かにし、その結果として「悪文」になってしまうというケース。
このように「性急になる」のは、一歩退いて考え直すという余裕がない、つまりは「思い込み」が激しい、ということが多いようです。

ここで例を挙げればいいのですが、小生、「悪文」のコレクションをしているわけではないので、それはまたの機会にしましょう。
いずれにしても、「思い込み」の宝庫である「トンデモ本」には、その手の「悪文」が多いのは確かなようです(秋庭俊の一連の「地下モノ」など)。

安斎育郎(あんざい・いくろう)
『だます心 だまされる心』
岩波新書
定価:735円 (税込)
ISBN978-4004309543