古郷(ふるさと)へ廻る六部は気の弱り
という古川柳があります。
「六部」は「六十六部」の略で、
「六部」ならずとも、「気の弱り」で故郷回帰を起こすケースは多いようで、芥川龍之介が、どうやらそうだったみたい。
ご承知のように、芥川の生まれは京橋区入船町8丁目1番地(現在も中央区に「入船町」の地名が残る。中央区明石町10ー11。同地に芥川龍之介生誕の地の記念碑あり)、聖路加病院のすぐ北側)ですが、生後すぐに養子に行、彼の幼児の記憶は、本所区本所小泉町15番地(現在の墨田区両国3-22-11)から始まっています。
若い頃はともかくとして、芥川も晩年近くなると、作物(さくぶつ)にも故郷回帰が現れてくるようになる。
端的な例が、昭和2(1927)年に「東京日日新聞」に発表された『本所両国』。これは彼が自殺する年に書かれた文章です。
しかし、何とも皮肉なことに、その本所は関東大震災後によりすっかり面差しを変えてしまっていた。
という古川柳があります。
「六部」は「六十六部」の略で、
「六十六部の法華経を書写し、日本六十六か国を遍歴して、その霊場に各一部ずつを納めて歩く行脚僧」または「後世、鉦をたたき、鈴を振り、あるいは厨子入りの仏像を背負いなどして、米や銭を請い歩く巡礼。回国。六部。」そのような、全国行脚の巡礼も、(老齢などで)気が弱ってくると故郷へ立ち返ってくる、という意味の川柳。
「六部」ならずとも、「気の弱り」で故郷回帰を起こすケースは多いようで、芥川龍之介が、どうやらそうだったみたい。
ご承知のように、芥川の生まれは京橋区入船町8丁目1番地(現在も中央区に「入船町」の地名が残る。中央区明石町10ー11。同地に芥川龍之介生誕の地の記念碑あり)、聖路加病院のすぐ北側)ですが、生後すぐに養子に行、彼の幼児の記憶は、本所区本所小泉町15番地(現在の墨田区両国3-22-11)から始まっています。
若い頃はともかくとして、芥川も晩年近くなると、作物(さくぶつ)にも故郷回帰が現れてくるようになる。
端的な例が、昭和2(1927)年に「東京日日新聞」に発表された『本所両国』。これは彼が自殺する年に書かれた文章です。
「僕は生れてから二十歳頃までずつと本所に住んでゐた者である。明治二三十年代の本所は今日のやうな工業地ではない。江戸二百年の文明に疲れた生活上の落伍者が比較的大勢住んでゐた町である。従つて何処(どこ)を歩いてみても、日本橋や京橋のやうに大商店の並んだ往来などはなかつた。若しその中に少しでも賑やかな通りを求めるとすれば、それは僅に両国から亀沢町に至る元町通りか、或は二の橋から亀沢町に至る二つ目通り位なものだつたであらう。勿論その外(ほか)に石原通りや法恩寺橋通りにも低い瓦屋根の商店は軒(のき)を並べてゐたのに違ひない。しかし広い「お竹倉」をはじめ、「伊達様」「津軽様」などといふ大名屋敷はまだ確かに本所の上へ封建時代の影を投げかけてゐた。」
しかし、何とも皮肉なことに、その本所は関東大震災後によりすっかり面差しを変えてしまっていた。
「僕『さあ、これから驚いたと云ふことを十五回だけ書かなければならない。』
妻『驚いた、驚いたと書いてゐれば善(い)いのに。』(笑ふ)
僕『その外(ほか)に何も書けるもんか。若し何か書けるとすれば、……さうだ。このポケツト本の中にちやんともう誰か書き尽してゐる。――『玉敷(たましき)の都の中に、棟(むね)を並べ甍(いらか)を争へる、尊(たか)き卑(いや)しき人の住居(すまひ)は、代々(よよ)を経(へ)てつきせぬものなれど、これをまことかと尋(たづ)ぬれば、昔ありし家は稀(まれ)なり。……いにしへ見し人は、二三十人が中に、僅に一人(ひとり)二人(ふたり)なり。朝(あした)に死し、夕(ゆふべ)に生まるるならひ、ただ水の泡(あわ)にぞ似たりける。知らず、生れ死ぬる人、何方(いづかた)より来りて、何方(いづかた)へか去る。』……」
母『何だえ、それは? 『お文様(ふみさま)』のやうぢやないか?』
僕『これですか? これは『方丈記(はうぢやうき)』ですよ。僕などよりもちよつと偉かつた鴨(かも)の長明(ちやうめい)と云ふ人の書いた本ですよ。』」