●「まち」とは?
リーマンブラザーズの破綻、メリルリンチへの緊急つなぎ融資、AIG保険の支援、そして世界同時株安、ロシアの経済変調、日米欧によるドル支援と、世界経済は激震、激動の一週間でしたが皆様はいかがお過ごしでしょうか。
そんな、世界に走る経済変動とは無縁でありながらも激しい資金不足で資金繰りに苦しむ日々を送っている、わたしインマヌエルでした。
さて、ここしばらく日本の農業の持つ問題と農産物について、そしてこれらの食材の下ごしらえという食品加工技術であるソフトスチームについて、またこの技術を開発したY氏の「まちづくり」にかける思いについて、Y氏の思いとソフトスチーム技術の導入を計画する農業生産者の期待とのズレを書いてきました。
Y氏の思いは、地域が疲弊しシャッター通りと化した商店街の再興と老齢化社会の進む地域社会への、食を通じた問題解決への働きかけを期待するものです。
一方無農薬栽培やオーガニック農法をすすめる農業生産者の期待は、ソフトスチームなどの技術活用による、生産品の出荷歩留まりの向上と加工分野への参入による雇用の確保、そして新しいマーケット開拓です。
これは、何も無農薬栽培やオーガニック栽培を目指す農家ばかりではなく、特に地方圏に位置する、農業・畜産・林業・漁業に従事する方たちの素朴な願いでしょう。
ここに、生産者とY氏の目指す「まちづくり」とにギャップが生じていることが見えてきます。
では、Y氏の「まちづくり」への期待は夢物語となってしまうのでしょうか。
わたしは、決してそんなことはない。
と考えています。
そもそも、Y氏のいう「まち」とはどんなものなのでしょうか。
サブプライム問題が発覚したのは、昨年の夏でした。
そしてリーマンブラザーズが破綻したのは、ほぼ一年後の先週でした。
シャッター通りという商店街の疲弊、地域経済の崩壊が言われてはや十年以上経ちました。
この問題に対して、「取り組む」と言った政治家は選挙の前に沢山いました。
しかし、シャッターが開いた店は少ないのです。
これはおそらく日本ばかりの問題ではないのでしょうが、民衆レベル、一般大衆レベルに属するビジネスと言うのは、ニュースにもなりにくく、そしてFRBも再生機構も、資本注入もありません。
これらに対する金融の働きかけは、「貸し渋り」「貸しはがし」「競売決定」などです。
つまり、これらに対する「支援」などと呼べるものは皆無に等しいのです。
これに対して、憤ったり、怒りを持ったり、絶望したりするのは愚かです。
昔から、「民百姓は生かさず殺さず」というのが為政者の常ですし、そうだからこそ民衆は真理を見極める力が養われてきたのです。
「まち」とはいったいなんでしょうか、経済が活性化して人がなんとなく集まリだし、狭い地域に多くの人が暮らしだした人口密度の高くなった地域(エリア)です。
人間には口があります。
普通の人はこの口を用いて言語を発し、自分の想い、要求を他人に伝えそれを実現するために智恵や知識を働かせます。
人口密度が高くなったということは、この口の活用による暮らしの向上を目指す人が増えると言うことです。
多くの人がその必要を訴える機会を得ることにより、地域社会という概念が生まれてきたのです。
ところが、もの言う口が多いということは為政者の望むことではありません。
為政者にとっては、黙って従ってくる人が好ましいのです。
そこで、「まち」は、暮らしの向上を、環境面での整備をすることから「まちづくり」が行なわれ、そこに人を誘致するということに定義されてきました。
つまり「まちづくり」は、ニュータウンの開発と都市の再開発事業の実施へと定義されてきたのです。
そして、少子高齢化と人口減少という、数十年前から既にわかっていた現象が今の問題のごとく現代のわたし達の前に置かれているというのが問題の本質なのです。
わたし達の目が開かれねばならない「まちづくり」の持つ問題の本質とは、ニュータウンの開発と都市の再開発事業の実施が、実は本質的な「まちづくり」ではなかったということを自覚し、では本物の「まちづくり」とはいったいどういうことなのかということを、国民的レベルで、民衆のレベルで、一般大衆のレベルで論議し、皆が納得のできる定義を見出すところから始める必要があるのだ。
ということなのです。
ハイ。
あ~あ、疲れた。
◆今日の祈り
全能なる御父天の神様、あなたの豊かな恵みと祝福に心から感謝申し上げます。
主の御前にあって愚かで弱く罪深いわたしですが、どうかお許しくださいますように。
主の御手は我が頭上にあって、主の恵みは溢れるほどにこの愚かなしもべに注がれています。
願わくは主よ、しもべは人の役に立つ働きを為すこと喜びとする自分を発見しました。
しかし、これもよく吟味してみると自分の言うことを尊重し、それを受け入れる人に対する者への働きという「条件」が見えてきました。
しかし、主の愛はまったく見返りを求めない無条件の愛です。
しもべのものは、偽善者の持つものと同一なのです。
主よ我が罪深きをお許しください。
このように、どのように見てもしもべは御前に汚れた心の持ち主です。
その汚れたしもべを主は愛してやみません。
主よ、助けてください。
今しもべはあなたの驚くべき助けを必要としているのです。
どうかしもべの必要を備えてください。
この祈りと願いとを尊き御子、主イエス・キリストの御名前を通して感謝してお祈り申し上げます。
アーメン
リーマンブラザーズの破綻、メリルリンチへの緊急つなぎ融資、AIG保険の支援、そして世界同時株安、ロシアの経済変調、日米欧によるドル支援と、世界経済は激震、激動の一週間でしたが皆様はいかがお過ごしでしょうか。
そんな、世界に走る経済変動とは無縁でありながらも激しい資金不足で資金繰りに苦しむ日々を送っている、わたしインマヌエルでした。
さて、ここしばらく日本の農業の持つ問題と農産物について、そしてこれらの食材の下ごしらえという食品加工技術であるソフトスチームについて、またこの技術を開発したY氏の「まちづくり」にかける思いについて、Y氏の思いとソフトスチーム技術の導入を計画する農業生産者の期待とのズレを書いてきました。
Y氏の思いは、地域が疲弊しシャッター通りと化した商店街の再興と老齢化社会の進む地域社会への、食を通じた問題解決への働きかけを期待するものです。
一方無農薬栽培やオーガニック農法をすすめる農業生産者の期待は、ソフトスチームなどの技術活用による、生産品の出荷歩留まりの向上と加工分野への参入による雇用の確保、そして新しいマーケット開拓です。
これは、何も無農薬栽培やオーガニック栽培を目指す農家ばかりではなく、特に地方圏に位置する、農業・畜産・林業・漁業に従事する方たちの素朴な願いでしょう。
ここに、生産者とY氏の目指す「まちづくり」とにギャップが生じていることが見えてきます。
では、Y氏の「まちづくり」への期待は夢物語となってしまうのでしょうか。
わたしは、決してそんなことはない。
と考えています。
そもそも、Y氏のいう「まち」とはどんなものなのでしょうか。
サブプライム問題が発覚したのは、昨年の夏でした。
そしてリーマンブラザーズが破綻したのは、ほぼ一年後の先週でした。
シャッター通りという商店街の疲弊、地域経済の崩壊が言われてはや十年以上経ちました。
この問題に対して、「取り組む」と言った政治家は選挙の前に沢山いました。
しかし、シャッターが開いた店は少ないのです。
これはおそらく日本ばかりの問題ではないのでしょうが、民衆レベル、一般大衆レベルに属するビジネスと言うのは、ニュースにもなりにくく、そしてFRBも再生機構も、資本注入もありません。
これらに対する金融の働きかけは、「貸し渋り」「貸しはがし」「競売決定」などです。
つまり、これらに対する「支援」などと呼べるものは皆無に等しいのです。
これに対して、憤ったり、怒りを持ったり、絶望したりするのは愚かです。
昔から、「民百姓は生かさず殺さず」というのが為政者の常ですし、そうだからこそ民衆は真理を見極める力が養われてきたのです。
「まち」とはいったいなんでしょうか、経済が活性化して人がなんとなく集まリだし、狭い地域に多くの人が暮らしだした人口密度の高くなった地域(エリア)です。
人間には口があります。
普通の人はこの口を用いて言語を発し、自分の想い、要求を他人に伝えそれを実現するために智恵や知識を働かせます。
人口密度が高くなったということは、この口の活用による暮らしの向上を目指す人が増えると言うことです。
多くの人がその必要を訴える機会を得ることにより、地域社会という概念が生まれてきたのです。
ところが、もの言う口が多いということは為政者の望むことではありません。
為政者にとっては、黙って従ってくる人が好ましいのです。
そこで、「まち」は、暮らしの向上を、環境面での整備をすることから「まちづくり」が行なわれ、そこに人を誘致するということに定義されてきました。
つまり「まちづくり」は、ニュータウンの開発と都市の再開発事業の実施へと定義されてきたのです。
そして、少子高齢化と人口減少という、数十年前から既にわかっていた現象が今の問題のごとく現代のわたし達の前に置かれているというのが問題の本質なのです。
わたし達の目が開かれねばならない「まちづくり」の持つ問題の本質とは、ニュータウンの開発と都市の再開発事業の実施が、実は本質的な「まちづくり」ではなかったということを自覚し、では本物の「まちづくり」とはいったいどういうことなのかということを、国民的レベルで、民衆のレベルで、一般大衆のレベルで論議し、皆が納得のできる定義を見出すところから始める必要があるのだ。
ということなのです。
ハイ。
あ~あ、疲れた。
◆今日の祈り
全能なる御父天の神様、あなたの豊かな恵みと祝福に心から感謝申し上げます。
主の御前にあって愚かで弱く罪深いわたしですが、どうかお許しくださいますように。
主の御手は我が頭上にあって、主の恵みは溢れるほどにこの愚かなしもべに注がれています。
願わくは主よ、しもべは人の役に立つ働きを為すこと喜びとする自分を発見しました。
しかし、これもよく吟味してみると自分の言うことを尊重し、それを受け入れる人に対する者への働きという「条件」が見えてきました。
しかし、主の愛はまったく見返りを求めない無条件の愛です。
しもべのものは、偽善者の持つものと同一なのです。
主よ我が罪深きをお許しください。
このように、どのように見てもしもべは御前に汚れた心の持ち主です。
その汚れたしもべを主は愛してやみません。
主よ、助けてください。
今しもべはあなたの驚くべき助けを必要としているのです。
どうかしもべの必要を備えてください。
この祈りと願いとを尊き御子、主イエス・キリストの御名前を通して感謝してお祈り申し上げます。
アーメン