「業際」を超え・「域際」を超え・「世代の際」を超えて!

理論を貫いて実践に生き! 実践を通して理論を究め! 前へ前へと進もう!

「私の心に残った語録」Ⅳ 駄目モト 裸一貫

2006年07月31日 | 今様隠居道

私は1968年にアパレル業界に入りました。
 40年近くになりますが、そもそもアパレル業界の起源を何年とするか、明解な見解がありません。

戦前の家庭洋裁や注文洋裁や制服、実用既製服製造の時代とするか、
戦後の下請け縫製工場を使った既製服業を起源とするか異論はありますが、
戦後の衣料統制経済が解除になった戦後25年(1950年)を起源とするのが適切考えています。

衣料統制経済解除を契機に復員兵や海外帰還の方々が、戦前の問屋丁稚や縫製業の経験を生かして既製服業を起業したのが昭和25年から30年ごろに集中しています。

その創業者の殆どは戦争で九死に一生を得た帰還兵や大陸で商売をされて、着の身着のままで引揚てこられた方々です。

ワコールの塚本(故)元社長やラピーヌの奥本(故)社長、クロスプラスの辻村重治(故)社長、東京のサンデカグループの各社、三喜堀田会長、イトキン辻村名誉会長など、日本のアパレルの草分け的な大手アパレルの創業が25年から30年ごろに集中しています。

ワコールの故塚本氏のインパール作戦の話しや、堀田会長や故奥本氏等軍隊時代のご苦労話し、辻村金五名誉会長や、ワールドの木口元会長の中国時代の丁稚修行のお話しなど、我々の世代には心に残り、大いに影響を受けました。

同じように、戦後起業の産業であるスーパー業界も中内(故)氏やライフの清水会長等からもよく戦中戦後の体験談を書物やテレビの対談などでよく読んだ記憶があります。
アパレル同様の戦後の産業で創業一代の産業の特長と勝手に想像しています。

その両者が2000年代に入り、創業世代から事業継承し、新しい時代に入っていると思います。

私は創業一代企業には創業者の若いときの原体験が社風に大きく影響していると前々から感じています。

創業者の若い時の経験が経営、社風に大きく影響している例が見受けられます。

それらの特長と傾向は「駄目モト精神、裸一貫、統率力、率先垂範、自己抑制、リーダシップ、滅私奉公」などです。

私がアメリカ担当の時に、生意気にもアメリカからの撤退を進言した時に「駄目で元々やないか!」、「わしは戦後に青島から引き上げてきた時に、木箱で数箱の満州紙幣(軍票)を持って帰ってきた」、「それが税関で紙切れ一枚で没収され、そこから裸一貫でここまでなったのだ」、「もし失敗しても裸に戻ったと思えば良い」

決して本気で仰った訳ではないと思いますが、事業にかける壮絶な姿勢は、戦中戦後の原体験から生まれてきたものと印象に残っています。

多分その他の創業会社も同じような社風を持っているのではないかと思っています。

 


 

 

 


「私の心に残った語録」Ⅲ

2006年07月27日 | 今様隠居道

私はヨーロッパのライセンスブランドを担当していた関係で、フランスやイタリアに同行して出張することが多かった。
数回目の海外出張の夕食の時に、少しお酒を召し上がっていたからか、冗談とも本気とも取れる話がありました。(お酒は強くなく、普段はほとんど飲まれませんが)
どちらにしても、生き方を表した言葉でした。

「君は出張の時に枕が替わっても夜眠れるか?」との質問だったので心配をおかけしないためにも「良く眠れます」とお答えしました。

しばらくして、にこやかに笑いながら、
「君は一生損をするな!君は一生の間で意識のない時間が長い」、「私はその点で君より得をしている」、
「枕が替わるとほとんど眠れない。眠れない時間に私はズット考え事をしている。私は意識の有る時間が君より長い。君は眠って意識のない時間が長く、一生損しているが、私は得をしている」

冗談でおっしゃっているのですが、若かった私はどう応えたらいいか、苦笑するのみで、強烈に印象に残っています。

意識のある時間は常に頭を働かして、仕事の事を考えておくようにと、暗に諭しておられたと思っています。

眠れぬホテルの部屋で便箋にギッシリ書き込んだメモがイトキン㈱の大胆な経営の中身だったと思います。

気のせいか、海外からの帰国後直ぐに大きな改革や政策転換があったように記憶しています。
多分眠れぬ海外出張時にいろんなことに頭を働かせておられたのだと思います。

その後、私は相変わらず睡眠は充分とって、意識のある時だけは、常に考える習慣が身についたと思っています。

 


 


「私の心に残った語録」Ⅱ 

2006年07月26日 | 今様隠居道

イトキン㈱入社2年目の時に、初めてお聞きした「最初の語録」を昨日のBlogで披露しました。
今日は、それから20年後に私がイトキン㈱を退職の時にお聞きした「語録」を書きます。

常務に昇任した年で、サラリーマンとしては、何の不足のない環境にいた私が、
「40歳にして惑わずの不惑の年」に迷いが生じ、20年間お世話になった
イトキン㈱を退職することになりました。
最後の挨拶でお目にかかった時にお聞きした、私にとっての「最後の語録になった印象に残った話しをします。

退職の非礼を詫び、在職中のお礼を述べた後、昔の思い出話になった時に、
「君は、わしの言ったことに意見がある時や考えが違う時に、顔を赤らめて反論してくる。その時、わしはもっと良い考えがないかと、夜眠らないで考えている」
笑いながら話されました。

それに付け加えて
「最近はわしの言ったことに意見を言うものが
少なくなった。・・・これは問題だなー」
と嘆いておられました。

海外出張に同行する機会が多かったこともあり、ホテルで朝食をご一緒することが多くありました。
その朝食の時に、前の晩ホテルの部屋の便箋に書き留めたお考えを私に話されます。

素直にお聞きすることが大半?でしたが、時々朝から議論になってしまう時も
有りました。
私が海外出張の気安さもあり、ルームサービスのお酒を楽しんでいる時に、
ご自身は、部屋で考え事をまとめられて、翌日また前日の話しの続きになることが
度々有りました。

私の記憶では、反対意見を述べても、余り酷く怒られたことはありません。
(一度だけありますが、その内容はBlogでは書けません)
むしろ安易な迎合する態度や意見は好まれず、無視されておられる感じでした。

積極的で前向きな具申には、充分耳を傾けて聞いていただけました。

耳を傾けるという表現より、目で聞くという表現の方が正しいかもしれません。
じっと私の目を見ながら聞いていおられました。

信念を持って、正論を述べる時の目は多分澄んで輝いた目をしていると思います。
反対に自分に邪念が有り、別の意図するような邪論には、その人の目に表れるのではないかと思います。

私もそれ以降、部下との話しを聞くときは、目を見ながら聞くようにしていました。

只、あの眼光鋭い眼で見られると、若かったこともあり、緊張して顔が赤らむのは
無理はありませんが・・・。

慣れてくると、あの緊張感は、終わった後で快感に変わり、懐かしい思い出となっています。
最近そんな緊張感と快感が少なくなっているのかも知れません。





 

 


 

 

 

 

 



 

 

 

 


即断・即決・即実行・即撤退? 「私の心に残った語録」Ⅰ

2006年07月25日 | 今様隠居道

イトキン㈱入社2年目の時に、上司の病気入院のために、急遽MDに指名をされました。
抜擢の人事ではなく、やむにやまれぬ人事だったのだろうと思っています。

その時の私は、ようやく営業の事が少し解りだした頃だったので、その素人がMDという、今から思えば随分無茶な人事でした。
当時は教育、研修制度といったものもなく、即MDの実務を行なうという時代でした。

私は入社2年でMD経験もなく、仕方なく前任者が行なっていた業務を、そのまま忠実にフォーローしていました。

ある時に、私の仕事ぶりをご覧になっていた辻村金五社長(当事)からお言葉をかけられました。

「わしの言ったことを直ぐやらないのは馬鹿だが、わしが言ったことを何時までたってもやっているのは、なお馬鹿だ!」

前任の先輩の作業に何の疑問も持たず、改善もせずに、漫然と仕事をしていた私に、新しい提案や企画を期待されていた結果のお言葉だったと思います。
この一言は、その後の私のアパレル業界での仕事の指針になりました。

企業にとっては結果(実績)は重要では有りますが、結果責任より、経過責任=不作為責任の追求の方が厳しかったように記憶しています。

「即断・即決・即実行→ダメなら即撤退」という手法は、予測が難しく、変化の激しいファッションアパレルにとって、一つの考え方と思います。
特に即撤退の決断も重要なのでしょう。

私が最初に触れた「語録」の一つです。

 

 

 



 

 

 

 

 

 


ブログ投稿100回目となりました 「私の心に残った語録」

2006年07月24日 | 今様隠居道
1月中旬から始めた「インパナトーレアパレル放談」が今回で100回目の投稿となりました。
概算すると2日に1回強の投稿と言うことになります。

私がブログに投稿するきっかけとなったのは、今年の正月に「一人起業」のインパナトーレが、より広いつながりを持とうと思いたったことからです。
6ヶ月が経過し、ライフワークの一つとなりました。
一部分でも社会につながって生きているという実感と自己満足に浸ることが出来ています。
私のつたないブログを開いていただいている皆さんに、お礼申し上げます。

私は、1960年代後半に「潰し屋」と揶揄された婦人既製服業界にお世話になり、アパレル業界の成長期から成熟期を現場で経験することが出来ました。

「日本版インパナトーレ」の起業を機会に、私がアパレルの現場で得た経験」を、「成熟期から次の局面に向かいつつあるアパレル業界」の後輩諸氏に、何らかの指針になればと願っています。

私なりの考えもありまして、ブログの投稿に際して、私がお世話になった会社を、「大手アパレル」、「専門店アパレル」と社名を出さずに投稿してきました。

私の経験を語るとき、大学を出て最初にお世話になった「大手アパレル」での経験を抜きにして語れません。
多くの事を学ばしていただき、私のアパレルの原点といっても過言ではありません。

その「大手アパレル」の創業者から直接薫陶を受ける機会が多くありました。

幸いにも、比較的若い時から、その創業者のお傍で仕事をさせていただくことが多かった関係上、若い時から貴重な経験をたくさん積む事が出来ました。

時々に発せられる禅問答のような創業者のお言葉は、30年近く経った今でも私の脳裏に深く刻まれています。

当時は若かった事もあり、時には辛く、疎ましく感じる時もありましたが、その後の長い間アパレル業界での仕事に大いに役立ち、感謝しています。

親子ほど歳が離れていましたが、生意気盛の時でもあり、創業者との「禅問答」を楽しんだ思い出があります。
今から思えば随分無礼なことだと反省しています。

ずぼらな私のことで、今話題の宮内庁の富田元宮内庁長官のように「メモ」は取っていませんが、沢山の「語録」は今でも忘れていません。

お許しは得ていませんが、20年以上時も経過していることでもあり、思い出を込めて、ブログに投稿したいと思います。

このブログを読んでいただいている殆どの方は、既にご存知かと思いますが、「大手アパレル」とはイトキン株式会社で、創業者とは辻村金五名誉会長のことです。

日本のアパレル業界の誕生から成長、成熟期の中心的な存在の経営者で、時代の変化に対する蛮勇とも思われる決断が、いつも後々に評価されることになる辻村金五名誉会長の「語録」を、次回からブログに投稿します。

アパレルに従事している後輩諸氏には参考になる事が多くあると思います。







大学の同期のM君との久し振りの懇談

2006年07月23日 | 今様隠居道
インドネシアの吉武氏との飲食(痛飲)会に続いて、大学時代の同期のM君と懇談(痛飲)会がありました。

M氏は敢えてイニシャルで呼ばないといけないような業界に影響力のある男ではありませんが、一応M氏とイニシャルにしておきます。

大学時代に仲の良かった同期の8名と8月末に久し振りに京都で会うことになっています。
今から楽しみにしています。

同期の連中は、夫々定年退職しています。

定年退職後のスタイルは、まさに「熟年一人起業」の著者の池波正太郎氏が分析した定年リタイアの四つのスタイルそのままの生活をしています。

①悠々自適型
②再雇用延長型
③自立雇用型
④準備不測型
のそれぞれ典型的な定年リタイアの生活を行なっています。

同期の連中の多くは、地方公務員や地銀、生保、製造業などの大手企業に就職しましたが、時代的に、ほぼ全員オールドエコノミーに分類される産業に就職しました。

残念?ながら六本木ヒルズ族的なニューエコノミーの同期は一人も居りません。
今話題の勝ち組み、負け組みの仕訳をすれば、負け組みが殆どです。

現状の社会保険制度の最後の恩恵に浴せると信じてリタイア後の設計をしています。

日本の高度成長に少しは貢献したと、「小市民的な自己満足とあきらめ」で不本意ながら納得している世代の集まりです。

8月末の久し振りの全員の再会を待ち遠しく、その会の準備の意味もあって幹事役の同期のM君と痛飲しました。

たまには業界の話題に囚われず「取り留めのない馬鹿話」も愉しいものでした。

今回は、前に会食した「和民」から少し奮発して?「えん」で痛飲しました。

ファミレスの低迷に比して、ターゲット、コンセプトのはっきりしたカテゴリキラー的なレストランの隆盛が話題になっています。

ユニクロの新戦略やメガセレクトショップ、ヤングSPA等のニューエコノミー的な積極的なマーケティングに比して、既存のオールドマーケティングとの低迷の現状を見るような気がしました。







インドネシア在住の友人との懇談

2006年07月20日 | 今様隠居道

今週初めての投稿です。
一昨日と昨日は連続で午前様でした。
先日ブログに書いたインドネシアのY.T氏が一時帰国していたので、久し振りに痛飲しました。
仕事の話や昔の思い出話など愉しい時間でした。

Y.T.氏の名前をイニシアルで使っていましたが、本人の了解を得ましたので、今日から吉武力と呼びます。

吉武力氏は、商社のCIから、イトキン株式会社に途中入社して、アメリカ勤務や国内の事業部勤務後、イトキンを退職し単身でインドネシアのバンドンで仕事をしています。
インドネシアを第二の故郷と思っている「親インドネシア家」です。

興味があったアジア通貨危機後のインドネシアの状況について、前線の状況の貴重な情報を聞くことが出来ました。

インドネシアの対欧米中心の体制は、昔と変わっていないようですが、やはり最近は中国向けのビジネスが増えているようです。

対日向けは、日本の受け皿の小ささがネックですが、これを解決すれば、日本向けのビジネスにも通用するところも多いと思います。
現状では、生かされていないのが残念です。

インドネシアと日本の状況を良く理解している吉武氏が、経験を生かしてインドネシアのインパナトーレとしての機能を発揮すれば新しいビジネスになるでしょう。

吉武氏はCI時代から川上に強く、テキスタイルのビジネスには最適な人材です。

吉武氏はインドネシア好きが昂じてバンドンで焼き鳥と日本食のレストランを開店しています。
「鳥元・TORIGEN」の屋号で、日本スタイルの焼き鳥と日本料理とのことですが、日本人相手のレストランではなく、インドネシア人の来店も多いとのことです。

現在の氏の悩みは「味はもとより、サービス・接客を日本のレベルにする」インドネシア人の従業員教育のようです。

昨日の飲み会でも、それほど高級ではない居酒屋の従業員の接客にも感心していました。
吉武氏の悩みが手に取るように解りました。
台湾や韓国や中国などの発展した国の例を見ていますと、インドネシアも案外早くサービスが重要になる時がくると思います。

吉武氏の現在の苦労が報われるときが来るでしょう。

皆さんがバンドンにご出張の時は是非「鳥元・TORIGEN」にお寄りください。
テキスタイルに強い「焼き鳥屋のオヤジ」が良い情報を与えてくれるでしょう。










インドネシアに在住(永住?)の友人のこと

2006年07月13日 | 今様隠居道
タイに出向しているY氏は滞在通算20年を超え、「タイ大好き人間」ですが、それに劣らずインドネシアに通算20年以上滞在している「インドネシア大好き人間」がいます。

Y.T氏は大手商社に勤務していた時に、最初は語研生としてインドネシア語を学び、帝人、東レなどの合繊メーカーのインドネシアでの合弁事業が盛んに行なわれた頃に、奥さんと帯同でインドネシアで勤務していました。

その後大手商社を退社し、私が在籍していたアパレルに途中入社して国内勤務をしていましたが、アメリカ事業に伴い語学力を買われてアメリカ勤務となりました。

その頃2年間ほど私と一緒に仕事をしていました。
アメリカには家族帯同でしたので、単身赴任の私は度々奥さんの手料理を御馳走になったことを懐かしく思い出します。

10数年前にそのアパレルを退社し、現在はインドネシアのバンドンで繊維貿易の事業をしています。

現在は単身赴任でバンドンにいます。
ご存知じかもしれませんが、バンドンはインドネシアのような喧騒はなく、高地で比較的涼しく過ごし易い町です。

もうそろそろ60歳近くの歳ですが、青年のような夢と行動力を持った愉快な男です。

前々からインドネシアの鶏は正真正銘の地鶏で美味しいと自慢していました。
いつかその鶏を使って焼き鳥屋をやるのだと言っていましたが、数年前に夢?が叶って「鳥元・TORIGEN」という焼き鳥屋を開店したようです。
残念ながらその鳥元には行けていませんが、本人は美味しいと自慢しています。
御店は繁盛しているようです。

焼き鳥屋の夢はかなえたようですが、本業の状況はわかりません。
彼の事だからアジア通貨危機も上手く乗り越えて頑張っていると思います。

インドネシアのビジネスはヨーロッパやアメリカが主流で、日本人には少し取っ付き難いところがあるのかも知れません。

昔(10年程前)岐阜のシンガポールさんが、バンドンの工場でインドネシアのT/Rを使って、イトーヨーカ堂にスラックスをアイシンの看板方式で発注から1週間で店頭展開する、マジックのようで信じられない程のQR生産のラインを見て衝撃を受けましたが、今どうなったのでしょうか?

最近のメールには、インドネシア国内の消費も変化して、パートナーの経営する国内アパレルと小売事業は好調と書かれていました。

インドネシアは通貨危機以降忘れ去られた地域ですが、タイと同様に変化しているのかも知れません。

また一度ゆっくり美味しいと自慢の焼き鳥を食べがてら、バンドンに行ってみたいものです。

7月末に日本に帰国?出張?するとメールがありましたが、久方ぶりの再会が楽しみです。
日本の美味しい焼き鳥で一献と約束しています。
(昔は酒豪でしたが、最近は年とともに・・・・・)

Blogを見ていただいている方でバンドンにいかれたら是非「鳥元・TORIGEN」に行ってみてください。
氏の自慢どおりか、味のご感想をBlogにコメントください。

「鳥元・TORIGEN」住所: 
J1.Dr.Setiabudhi No.48 Bandung
(Setiabudhi  スーパーマーケット内)








ミヤザキ氏のコメントについて(タイのこと) タイ・サハグループのこと

2006年07月12日 | アパレル放談
先のミヤザキ氏のコメントにタイの生産機能のことが書かれていました。
私はしばらくタイとの直接的なビジネスはしていませんが、氏のご指摘のように、生産国の一つとして再評価することは同意見です。

タイと日本との取引は中国が開放経済前は海外生産の中心でした。
カット&ソーやメンズシャツ、インナー、パジャマ、ワーキング等の実用衣料中心に関係の多い国でした。

イオン(ジャスコ)ダイエー、西友などの量販店が香港のバイイングオフィスを介して積極的に取組んでいました。
その後中国の台頭で表舞台からは消えつつありましたが、他のアジア地域と少しことにするのは加工貿易だけでなく、原料、副資材など製品の貿易が可能です。
ご指摘のようにカットソーや綿布帛、合繊などのテキスタイルのインフラは充実しています。

タイは台湾、香港、シンガポール同様に大丸、そごうなどの日系百貨店が初期のタイの小売・流通業に大きく影響力したと言えます。(その後日系百貨店は日泰双方の事情で解消したが)
百貨店だけでなくアパレルも現地企業との合弁を多く、私が在籍していた大手アパレルやワコールなどの合弁もあります。
あまり業界紙では取り上げられていませんが、双方とも良好な関係が続いているようです。
タイワコールは台湾ワコール同様に米ワコールの重要な位置を占めていた時期もありました。(最近はわかりませんが)
アパレルの合弁会社もタイではトップクラスのアパレル企業に成長しているようです。

双方の合弁先の共通項はタイの財閥企業のSAHA GROUPの系列のICCとの合弁です。
当時ICCの社長であったブンシット・チョクワタナー氏は超親日・知日家でした。
会食をした時に
「私の日本語は大阪の船場大学で覚えました」、「日本から言葉だけでなく多くのことを学びたい」と流暢な日本語(大阪弁でなく)で話し出し、「私はコンピューター課長も兼務しています」、「アメリカのロスでセスナの免許取りました」、「夕方からセスナを操縦して、パタヤの工場に行きます」、「ファッションはデザイナーが重要なので、今度タイにデザイナーの学校を作ろうと思う」、「「プリントの良い工場がないので造ろうと思う」、「良い付属がないので造ろうと思う」、「百貨店の取引条件も日本と同じ消化制度がいいと思う」などユニークな会話が飛び出しました。

180センチ以上の長身でにこやかで気さくな方でした。
その後SAHA GROUPの会長に就任されタイの経済界のトップになられました。

インターネットを検索すると資生堂のタイプロフェッショナル事業、 早稲田のエデュケーション・タイランド、SAHA GROUP輸出貿易展示会、旭化成のロイカ合弁、文化服装学園との提携など多くでています。
昔食事のときに話したことを今でも継続していることに驚きと感銘を受けました。

私は常々海外との商売は相手国のカウンターパートナーの良否に掛かっていると思います。
何処の国でもお互いにフィットするパートナーはいると思います。
出会えばそのパートナーとハーフ&ハーフ、ギブ&テイクの関係を作ることだと思います。
日本からの出向社員のY氏は20年以上の永続勤務です。
もう日本より長くタイに在住しているのではないでしょうか?
しばらく会っていないので懐かしく思い出します。
色黒で多分タイの人より顔は黒いと思います。

ミヤザキさんへ貴社は日本でこの会社とのコネクションがおありなので、ビジネスチャンスがあるかもしれません。
但し「ゴルフ漬け」の手法は邪道ですよ!

ミヤザキ氏コメントについて(決算書のこと・プライスウォーターハウスS氏の事)

2006年07月11日 | アパレル放談

昨日のBlogにミヤザキ氏からコメントいただきました。
私の税務申告の経緯のBlog投稿についてのコメントでした。

氏もタイの合弁会社に赴任中に合弁会社の決算書作成の苦労話や、赴任地のタイに関するコメントが書き込まれていました。(詳細は昨日の氏のコメントご覧ください)

現地の会計処理を合弁会社のアメリカスタンダードに合わす為のご苦労が書かれていました。

そもそも会計はアメリカスタンダードというよりグローバルスタンダードです。

PL(Profit/Loss)が損益計算書で、BS(Balance Seet)が貸借対照表と訳していることでも理解出来るでしょう。
会計用語は英語の日本訳が殆どではないでしょうか?
違っているのは、税務に関する規則、内容が国別の事情により異なる程度です。

その点ではBase Ball=野球と同じでしょう。
アメリカのBase Ballのルールブックの日本語訳が日本の野球のルールです。
その後ストライクゾーンや二段モーションの解釈などを少し日本流にカスタマイズして日本野球が出来たのではないでしょうか?
野球の世界選手権や日本人選手の大リーグ参加などが日本野球のグローバル化が必要になって来ているのでしょう。
サッカーのワールドカップを見ているとグローバルスタンダードで戦わざるを得ないと痛感させられます。
海外でビジネスするときも同様と思います。
東南アジアといえども日本のスタンダードを押し付けるより、グローバルスタンダード化する必要があると思います。

私もアメリカの現地法人に赴任していた時に氏と同じ経験をしました。
氏が赴任しておられた合弁会社の会計事務所がプライスウォーターハウスとのことですが、私の担当していたアメリカの現地法人の会計もプライスウォーターハウスでした。
当時は、話題になった日本の中央青山監査法人の前身の青山監査法人と提携していました。
プライスウォーターハウスには多くの日本人スタッフが勤務していました。
その中でS氏という日本人スタッフの印象が強く残っています。
日本の大手銀行のご出身でヨーロッパやアジア、アメリカの海外支店勤務が長い方でした。
ご夫妻と会食したときに自分の海外生活を話してくれました。
リタイア後に一番住みたいところはカナダのバンクーバーだと言っていました。
日本にも比較的近く、海流の関係でカナダにしては冬も比較的過ごし易い町と言っていました。
当時40歳の私に「老後のバンクーバーでリタイアメント生活」を勧めてくれました。
当時はリタイア後のことを考える余裕すらなく、聞き流していました。
近年バンクーバーは大橋巨泉で有名になりすぎましたが懐かしく思い出します。

その後の氏の消息は解りませんが、どうされているのでしょう。
私に言ったようにバンクーバーでリタイアされているのでしょうか。
S氏は生活そのものをグローバル化していました。

興味のあることをもう一つご紹介します。
「海外生活をするときは食べ物も現地の食材で料理することだ。アメリカの赤みの肉を美味しいと食し、秋刀魚や鯵などの高級魚(日本直送魚=食材)を食べないこと。日本からの輸入の食材を食べなければ1週間90$(当時)で生活できる」、「自分の生活を現地化すること」

多分古希を迎えられたのではないでしょうか?

次回はミヤザキ氏のコメントのタイについての話しを書きます。



お久し振りです! 

2006年07月10日 | アパレル放談
久し振りのBlogです。
しばらく投稿していませんでした。

5月が㈱インパナトーレの決算月で、7月末が税務申告の期限で、申告書提出の準備に追われて、Blogを投稿する余裕がありませんでした。

株式会社の決算と言っても、当社は「在庫を持たず」「人を使わず」借金せず」の会社にしていますので、会計処理は比較的シンプルです。

一応税理士さんにお願いしていますが、私のインパナトーレとしての勉強の意味でも、出来るだけ自分で決算の事務的な処理を行なっています。

いろんな会社から相談を受けたときに、一応の財務的な部分まで念頭においたコンサルが必要なので、面倒ですが自分の勉強の意味もあり、出来るだけ自分でやることにしています。

幸い(不幸?)に、当社は某有名法律事務所のように、経費水増しの領収書を集める必要もありません。
シンプルで健全な申告になりました。

18年前に9名でアパレル会社の設立に参加した時のことを思い出しました。

設立の会社の職務分担を決める時に困った問題がありました。

昔、草野球の守備位置を決める時にキャッチャー役が決まらないことがよくあります。
キャッチャーは、他の守備位置と異なる能力が必要です。
守備する方向も打者と同じ方向を向いている守備位置です。
他のチームメートと違った見方、考え方、スキルが必要です。

会社の管理部門とよく似ています。

其の設立時には、管理部門を担当する適任が居らず、やむなく私が財務と総務の管理部門を兼務しました。

今では楽しい思い出ですが、其の時の事(苦労)を思い出しました。

当時の私は企画・営業畑で会計の知識経験はなく、財務の事は全くの素人でした。

パソコンも今のように安くなく、新設会社では高嶺の花でした。

弥生会計や勘定奉行などの便利なソフトもなく、手作業が主流でした。
本屋で買った実務経理のノウハウ本を頼りの悪戦苦闘でした。
(其のとき買った「7日間で経理がわかる本」「実務経理ノウハウ」「絵で解る仕訳の仕方」といった参考書を思い出に残しています。)

銀行提出用の資金繰り表も市販されている日本法令の資金繰り表の用紙を使って、パソコンではなく計算機を頼りの作業でした。
一箇所訂正があれば、殆ど計算し直しと言う苦労が今では懐かしく感じます。

その後エクセルで自分で資金表を作成し、作業的には便利になりましたが、当時の手書きの苦労がその後の私に多いに役立ったといえます。

今は、全てマニュアル化で仕事が進みますが、手作業は其の本質の部分が理解出来ます。

会計だけでなく、企画・生産・販売・管理など全てにこのことが言えると思います。

幸いにも企画・生産・販売・管理の手作業的な作業を経験したことを、時代にフィットさせて、インパナトーレに生かしていければと思っています。

しばらくBlog投稿を休み、その間アクセスいただいた方にお詫びいたします。
申告も終わりましたので今週から再会します。