「業際」を超え・「域際」を超え・「世代の際」を超えて!

理論を貫いて実践に生き! 実践を通して理論を究め! 前へ前へと進もう!

日本・NIPPON・JAPAN  

2007年05月30日 | アパレル放談
現職大臣の自殺、年金問題の再燃など驚愕のニュースの報道の中で、河瀬直美監督のカンヌ映画祭グランプリ受賞と20歳の森理世さんのミスユニバース世界大会優勝の世界的な快挙の喜ばしいニュースが相次いで飛び込んできました。
同じ日に繊研新聞の一面トップに「技術と感性で世界へ」という見出しが躍っていました。
政府が近々発表する「新繊維ビジョンの中間まとめ」に関する時事です。
繊維産業が国際展開を行う為のインフラ整備のための指針と支援策のをまとめたものです。

河瀬さんと森さんは一足早く世界に認められたと言えます。
知名度もない二人が「世界へ」という高い理想を持って、小さな力で(河瀬監督は知る人ぞ知る存在だったらしいが・・・)コツコツ「直向な努力」と「周到な準備、計画」をしての快挙でした。

河瀬監督と森理世さんの快挙は日本人に勇気と希望を与えてくれたと思います。

二人の今回の成功は、中小・零細な企業にとって、大いに刺激となるはずです。
政府が「世界へ」と新繊維ビジョンで謳っていますが、「世界へ」という可能性が乏しいと感じていた中小、零細企業にも、「努力と周到な準備と計画」でチャンスを掴むことが出来る可能性を示してくれました。
官制や大企業でなくても、個人の力で努力すれば可能と云うことを知らしめてくれました。


(余談)
昨日一般放映に先立ってNHKのBSⅡで受賞作の「殯の森」を放映していました。
黒澤明作品や衣笠貞之助、今村昌平、小栗康平など過去の受賞監督の映画は、ハリウッド映画に毒された私には、難解な作品が多いが「殯の森」も同様でした。
奈良の田舎の茶畑の風景の映像は神秘的で「本当の?美しい日本」を映し出しているようで強く印象に残っています。
外国の審査員もこの印象が強かったのではないかと、勝手な素人論評をしています。(最初から難解を予想していたのでビデオに撮っておきました。週末にもう一度ジックリ観ようと思っています。自分では、未だ少し時間あると思ってますが、他人事ではない内容です)
ミスユニバースも「児島絹子や知花くらら」の過去の受賞者や007の日本人ボンドガール、外国人デザイナーが好んで起用するファッションモデル等を思い出すと、「日本人(私が?)好む女性美」が異なっていると前々から感じていました。

日本の繊維産業のグローバル化も、案外こんなところにブラックボックスがあるのかも知れません。

上棟式

2007年05月25日 | 今様隠居道
今日はインパナトーレとしてのBlogではなく、私事について投稿します。
五木寛之の「林住期」の影響という訳ではありませんが、今年8月末に転居を考えています。
五木寛之はその著書「林住期」の中で、50歳から75歳までを「林住期・リンジュウ期」と位置づけ、「人生の収穫期で黄金期」と書いています。

私の周囲にも定年を迎え、それぞれのリタイア後の生き方をしている多くの先輩や同輩がいます。

私も「晴天の霹靂の現役終了」を経験し、新しい生き方を始めました。
その新しい生活も来月6月で4年を経過しようとしています。

「林住期」が、50歳から75歳とするならば、私はその半ばにさしかかっていることになります。
75歳以降の「遊行期」迄の生き方を考える時期に来たと感じています。

五木寛之のような生き方は、到底私には出来ませんが、今までの私の生き方を変えることは重要と考えます。

最近、貸家にしていた大阪の郊外の家が、空き家になりました。
その家は、私たち夫婦が結婚し、初めて住んだ土地です。
夫婦で子育てをし、20歳代から50歳までの30年間住んだ地です。

五木寛之流に云うと、私達家族がその土地で生活した期間は「家住期」でした。
「家住期」とは、社会人の時期で、就職し、結婚し、家庭をつくり、子供を育てる時期と五木寛之は説明しています。
仕事のこと、夫婦のこと、子育てのこと、ご近所のことなど、思い出のいっぱい詰まった期間でした。

「林住期」の生き方を模索していた私達夫婦は、私達の「家住期」を過ごした地に転居をすることを思いつきました。

転居を決意した最大の理由は、「娘夫婦との同居」の話が持ち上がった事です。

我家の子供は娘二人です。
二人とも嫁いでおります。
現在は、夫婦二人で「林住期」です。
後10年もすれば「遊行期」を迎えます。
夫婦二人で「遊行期」を迎えることにしていました。

当初は、私たち夫婦だけの転居を考えて、大阪の市内に住んでいる長女に、その計画を話したところ、長女夫婦が、私たち夫婦と「2世帯同居」を申し出てくれました。

長女夫婦は、私たち二人の「遊行期・75才以降」の事を気にかけていたようです。
今のうちに2世帯で暮らすほうが良いのではないかとの提案でした。
長女のご主人も理解してくれており、感謝しています。

長女が子供の頃育った、大阪市内の阿倍野まで15分程の近場にもかかわらず、未だ自然が残っている環境で、自分の子供を育ててみたいと思ったのかも知れません。

長女夫婦の想いもよらぬ提案は、「かわいい盛りの孫娘との生活」という願ってもないことをも意味しています。

娘夫婦の気が変わらないうちにと、早速2世帯住宅に建替えの計画がトントン拍子に進みました。
昨日無事上棟式を行いました。

2世帯同居ですが、実際は4世代同居です。
介護が必要な女房の母親も同居します。
0歳児と3歳の孫から、90歳までの4世代家族同居です。

「介護・高齢化、少子化・核家族」など、日本にとって特筆される生活形態になります。
夫々の家族の生活やプライバシーを大切にし、子育てに私達の年寄りの知恵を出し、介護に若い力の手助けしてして貰うといった生活が出来れば理想と思っています。

そのような想いが実現できるような家の建築が重要になります。
沢山のハウジングメーカーの見学をしましたが、色んな条件を満たすには、ハウジングメーカーの半企画品では満足出来ないという結論になりました。

運よく、女房の甥が一級建築士で工務店を経営しており、その力を借りることにしました。
身内の気楽さで「土地の狭さや、建築基準法のこと、費用のこと、工法や強度のこと」等、お構い無しの要求が飛び出します。
大変苦労をかけていますが、甥っ子も楽しそうに頑張ってくれています。
私も楽しく参加しています。
今後もインパナトーレBlogに「私なりの林住期」を投稿したいと思っています。









コメントをいただいた「商社のOEMメーカーの担当者」さんへ

2007年05月21日 | アパレル放談
先日の総合商社のOEMに関する私のBlogにコメントがありました。
「商社でOEMを担当」されている方と思われますが、商社のOEMのあり方を真摯に考えておられる内容でした。

氏のコメントに対する私の私見(偏見)を書いてみます。
氏の疑問は「裏原系のインディーズブランドやベンチャー系ブランドにどのよう対応すべきか?」というコメントでした。

「OEMメーカー氏」は商社がそのような先に、「どのように手助け」をしたら良いかと摸索されています。
私の想像ですが、案外、彼らの方は「手助け」を望んでいないのかも知れません。

私も時々そのようなブランドの仕入れ担当者や経営者の方とお会いします。
目まぐるしく変化するヤングのお客様に対して、毎日厳しい商品ラインの修正や補充に追われています。
店頭情報の管理も、ITを駆使した情報より、社長や店頭の担当者の直感に頼った(信頼した)対応が優先しているように感じます。
ITは、その後追いと事後確認に過ぎないような感じさえします。

乱暴な表現になりますが、インディーズ系、ベンチャー系ブランドの多くは、「ヤングの客の声をマゾ的に受け入れ、仕入先にサディスティックに指示する」という奇妙な構図が浮かんできます。

彼らは、それを楽しんで、嬉々としてこなしているような感じに見えます。

そのようなブランドは、インディーズや、ベンチャー系かも知れませんが、その実態は、海外ブランドや海外のインディーズ系のブランドの買い付け(あえて輸入とは言いません)と、それらのレプリカ(コピー)的な物つくりが実態ではないでしょうか。
表面はインディーズ、クリエイティブな物つくりに見えますが、実態は違っているのではないでしょうか。

スピードと価格に対する期待は強いが、それ以上のものを期待しているのではないと感じます。
期待するのは、「物つくりのマル投げて的な対応」です。
辛辣な言い方をすれば、「仕入先に期待しているのは、献身的(奴隷的?)=サディスティックな対応」です。

少し前に「4泊5日」と言う旅行者のような言葉を耳にしたことがあります。

その意味を聞きただしたところ「発注から納品までの日数」ということが解りました。
最近では通関の対応の変化で、少し沈静化しましたが、その「4泊5日」の対応をこなして、会社の業績を大きく伸ばし、多くのメジャー企業(ヤングのSPA)が誕生したことはご存知だとおもいます。

一方では、その企業へのベンダー的なOEMメーカーの多くは消えてなくなりましたが、逆にその奴隷的な立場から、SPAに転換し、大きく飛躍した(飛躍しつつある)企業も知っています。

このように書くと、インディーズやベンチャー系ブランドに批判的な偏見と誤解を受けそうですが、彼らにとっては、変化の激しいヤングの顧客に対する、避けられない対応策であることも事実です。

私が、「OEMメーカー氏」に答えられるのは「商社がそこまでやる必要があるのか?、出来るのか?」「商社の間尺に合っているのか?」「商社の間尺に合った商圏が他にあるのでは?」という事です。









キッコーマン醤油と中国

2007年05月16日 | アパレル放談
上場企業の前期決算発表が始まり、軒並み好決算の発表が続いています。
「創業以来の利益」という見出しが毎日のように紙面を飾っています。
多くは国内販売より海外事業の好業績が寄与しているようです。

その中で醤油のキッコーマンの好業績が目に留まりました。
自動車、家電、鉄鋼、機械などいわゆる文明(科学)的な産業は別として、食文化といわれる文化的な商品の醤油をグローバル化し、好業績をあげていることに注目しました。
キッコーマンといえば昔から欧米のコンビニやスーパーで売られていた記憶があります。
私がニューヨークにいるときもコンビニで買った記憶があります。
海外のコンビニやスーパーの棚にキッコーマンが堂々と並んでいるのを見て、何故か嬉しく感じ、勇気付けられました。
最近の日本食ブームで益々好調のようです。

数年前に、キッコーマンが醤油の本場(本国)の中国に進出の時の模様をTVで放送していました。
当初は社内でも、醤油の本国への進出については、中国製に比べ価格も高く、味も異なり、進出に懸念する向きもあったようです。

日本の醤油は「醸造醤油」ですが、中国の醤油は「合成醤油」です。
キッコーマンの経営的な判断は、将来的に中国の経済も発展し、国民に「健康志向や高級志向」が芽生えて来ると予測し、中国進出の決断がなされたようです。

もう一つ重要なことで、華人との協業で中国展開を行ったことです。

中国ビジネスの複雑さと難しさに日系企業は苦労しています。
「国内法の煩雑さ・未整備と人治法?」、「固有の商慣習」、「複雑な人脈」、「多民・種族」、「多文化・風土」、「多言語」や「中国固有の中華思想」等などの問題に対応する事が重要です。
その対応として、キッコーマンは、台湾企業との提携を行いました。

中国の国内販売の難しさを、台湾の「統一企業公司」との販売提携により解決しました。
(台湾の統一企業公司は台湾の流通の最大手企業で、最近では高雄で阪急百貨店との提携があります)
「醸造醤油」の生産はキッコーマンが行い、「中国国内販売」は華人の統一企業が行う提携により、短期間で高級醤油の販売に成功しました。
華人との協業によって、日本人では理解し対応が難しいとされて来た中国のビジネスを成功させました。

食文化の醤油のキッコーマンのグローバル化による好業績は、同じ服飾文化のアパレル業界にも参考になることが多いと思います。
アパレル業界もキッコーマンの事例が大いに参考になると思います。

OEMてこ入れ本格化  総合商社

2007年05月14日 | アパレル放談
「OEMてこ入れ本格化 ・ 総合商社」今日の繊研新聞一面記事の見出しです。
最近、総合商社のOEMビジネスについて、この種の記事が多い。
5、6年前の商社のリストラ時に旧来の仲介型の取引から製品・(アパレル)ビジネスに展開が行われました。
商社のOEMビジネスと云われていますが、その実態は、関連子会社による仲介ビジネスに他ならないと思われます。
特に総合商社といわれる所においては、顕著です。
私の知る範囲で全てとは言わないまでも、「繊維・アパレルのノウハウを持った優秀な商社マン」はリストラを機会に退職し独立系のOEMメーカーを起業したり、ヘンドハントされて新天地で活躍しています。
「優秀な商社マンは退職している」と断定的に書くと、現在在籍しておられる商社マンが優秀ではないかのように誤解を与えますが、決してそのような意味ではありません。
要するに退職した商社マンの多くは、繊維・アパレルのノウハウに精通していましたが、当時の商社は「リスク管理力」を重点を置き、リスク回避を重点の政策としました。
その政策にそぐわなかった(抵抗を感じた)商社マンの退職・起業が多くあったと記憶しています。
多分彼らは、そのような環境下における「商社のOEM」の限界を感じて行動したと考えられます。
リスクマネージメントはビジネスの最重要課題で、それを否定するものではありません。
ある意味、現在活躍されている商社マンは「繊維・アパレル力よりも総合商社のリスクマネージメント力」に秀でた方が多いといえるのでしょう。

最近商社の方からアパレル(特にSPA)のMD(バイヤーリ)に対する生産(貿易)や企画の経験や知識の無さの苦言をお聞きします。
仕事がらアパレル(SPA)のMDやバイヤーとも話す機会が多いのですが、彼らからも、逆に商社マンに対して、同じような苦情を聞くことが多くあります。

リスクに関する事においても、リスクをヘッジする事だけに双方が腐心し、リスクを互いにテイクすることを考えないで、お互いに不信感をもっています。

商社のOEMビジネスの再構築のニュースがよく流れています。
資本注入による方法も聞きますが、これも商社流のリスクテイクと考えられるのでしょうが、いずれにしても、繊研の記事にもありますように「労働集約型OEMは、総合商社のコストでは間尺に合わない」のであれば、「敢えて執着しな無くても良いのに」と思ってしまいます。

私が懸念(義憤)するのは「間尺に合っていた」中小零細なOEMメーカーや下請工場が消えていく事例を多く見ていることです。





VAN出身 高田恵太郎氏の事

2007年05月11日 | アパレル放談
VANのよき時代の社員さんたちの特長として「頑固なまでのこだわり」と「ロマン」、「遊び心」、「大胆で破天荒な発想と行動力」などユニークな方が多かった。
今でもカクシャクとして活躍されておられる方を時々お見受けします。
話の内容や服装から何となく感じられます。
それだけ強烈なイメージを持った存在だったのでしょう。

VAN出身で最近活躍しだしている元社員のなかに高田恵太郎氏がいます。
神戸貿易商工センター(元のJMC)を退職後「神戸ファッションコレクションや上海公演」などのエクゼクティブプロデューサーとして活躍しています。
先月のTBSのニュースにも上海公演の情報が放映されていましたが、久しぶりに自称「ちょいワル親爺」の彼の上海公演の活躍を拝見させていただきました。

高田氏は20年ほど前にジャパンマーケットセンター・JMC(神戸ファションセンター)に入社しました。
住友信託銀行が積水ハウスらとジョイントで神戸六甲アイランドを開発しました。
その開発の核事業として神戸ファッションマートを建設しました。
神戸市がファッション都市宣言をしており、アメリカのダラスのファッションマートとの提携のユニークなマートでした。

アメリカのファッションマートは、箱物だけではなく、ファッション振興のためのさまざまなプロモーションも行いますが、JMCも新しいファッションマートとして当時としては活気的な事業でした。

住友信託の子会社でしたが、JMCプロパーの社員を採用し事業運営を行いました。
そのためにJMCプロパーの採用があり、多くのアパレル関連の業界の方が入社されました。

JMCの事業理念が、新しいビジネスモデルで神戸のファッション振興という高邁な理念の会社でしたから、それに興味を持ちロマンを求めた方々が多かったと思います。
高田氏もそのロマンを求めた人の一人だったと思います。

とは言え親会社は銀行です。
住信側からの出向の行員も(社員)も多くいます。
硬さと形式主義、官僚主義的で知られる銀行マンとアパレル業界出身の社員との、まさに「呉越同舟」を絵に画いたようなものでした。

当時先に在籍したオッジインターも入居していましたが、傍で見ていても滑稽なものでした。
当時はバブル景気が翳りだした頃ですが、銀行の資金力を背景に、ファッション振興と言う高邁な理想の実現に向かって、思い切った仕事が出来た時代でもありました。

特に高田恵太郎氏はその中でも異彩を放っていました。
彼は営業ではなく企画事業担当でしたが、特に行政、上部団体やマスコミなどとの折衝に独特の才能を発揮していました。
その当時から「ちょいワル親爺」そのものの風貌で、役人や堅物の経営者を説き伏せる能力は凄いものです。

現在のプロデューサーの仕事の中での資金集めのスポンサーリングが重要ですが、
案外、JMC(後に神戸貿易商工センター㈱)時代の環境で培ったともいえましょう。

最近の彼に関するBlogを見ると、若い方(特に女性からの「憧れ・尊敬」の書き込みが多く見られたり、パーティーの時にモデルに囲まれて談笑しているのを見ると「ちょいワル親爺」の重要な要件を具えているようです。

私のパソコンの横のガラス窓に私の姿が映っています。
「林住期」の私の姿が映っていますが、高田氏の「ちょいワル親爺」にはかないそうにありません。
私にはプロデューサー稼業には向いてなさそうです。

高田恵太郎氏の益々のご活躍を祈ります。




見城徹幻冬舎社長とレナウン岡康久社長の対談(5月9日付繊研新聞)

2007年05月10日 | アパレル放談
昨日の繊研新聞にレナウン社長の岡康久氏と幻冬舎社長見城徹氏との対談記事が掲載されていました。
岡社長は「日本アパレル産業協会ドレスアップメン・キャンペーン」実行委員長として、見城社長はメンズ雑誌「ゲーテ」を出版している出版社の社長としての対談でした。

業界の立場からではなく、両者が描く理想の男性像やファッションのこだわりを中心とした対談でした。
見城社長の青春時代のお洒落への目覚めは高校生の時のVANショップの始まりとの事です。

VANは団塊世代にとっては強烈な思い出のブランドでした。
私は団塊世代からは少し前の世代ですが、私もVANに影響を受けた一人です。
当時はJUNも人気がありました。

VAN派、JUN派と分かれていました。
VANがアメカジ・ACとJUNがヨーロッパカジュアル・ECと今は死語になった表現で二分していました。

私はJUNの服は着た経験がありません。
当時の長髪にプリントシャツ・ジャケット&パンツ(パンタロン?)のスタイルにどうしても馴染めなかった思い出があります。

VANに関して面白い思い出があります。

昭和53年に倒産しましたが、そこの社員だった小林さんという方が、
「赤坂一ツ木通り」で小さな焼き鳥屋を開いていました。
店名は「とり亭」だったと記憶しています。
店主の小林さんとは面識が無かったのですが、東京出張で近くのホテルに宿泊した時に、店の看板や暖簾の風情に引かれて、ブラット店内に入りました。

店内にはっぴ姿でしたが、一見して「VAN」という感じのする店主が慣れぬ手つきで串を焼いていました。
これも一見して粋筋の女将風のお客が先客としていました。

多分馴染みの客と思われますが、その女性客が「これから店をやるのだったら、焼鳥の単品ではなく、鳥の水炊きや、お刺身、小鉢もの等、料理品にバラエティーを増やしたほうが良い」と自分の経験からか店主の小林さんに勧めていました。

美味しく焼かれた焼鳥を食べながら、何気なく聞いていたのですが、店主の小林さん曰く「俺はヤラナイよ!焼鳥の単品でやるよ!」「だって昔VAN時代にトータルでこりごりだった」「トータルはロスが多く、在庫もいるし、頭も体も疲れるから」と笑って応えていました。
隣で聞いていて思わず噴出しましたが、核心をついていると思いました。

その後東京出張する度に「とり亭」に通うようになりました。

時々思い出話を串を焼きながら話してくれるのを聞くのも楽しみの一つでした。

ある時に、VANの業績が低迷し、大手商社が介入(支援?)しだした頃のVAN社内の様子を苦々しい表情で話していたことが強く印象に残っています。

「若い社員が在庫商品の上を土足で踏んで出荷したり、窓から商品放り出したりしている」のを見て長くないと感じていたようです。

普段はVAN時代の楽しかった話しをしてくれるのですが、その時ばかりはさびしそうな表情でした。
よき時代のVANを支えた一人といえます。

最近その世代のVAN出身者が「ちょいワルオヤジ」的に頑張っている人を多く見かけます。
ファッションに対する「頑固なまでのこだわり」と「ロマン」、「遊び心」、「大胆・破天荒な発想と行動」など、時代が要求しているなかもしれません。
(私は五木寛之の林住期(幻冬舎刊)の生活に興味を持ち出していますが・・・・。)

最近は東京出張も少なくなりご無沙汰していますがお元気でしょうか?
もう還暦を超えていると思います。




小売店のSPA化について

2007年05月09日 | アパレル放談
アパレルのSPA化について書いていますが、小売店がSPAに転換して成功している事例があります。
アパレルと小売りとの曖昧な取引慣行が崩壊しつつある中で、アパレルのSPA化や小売りのSPA化は新しい仕組みと云う意味では評価されます。

小売店のSPA化について思いついたことを書いてみます。

中小の専門店がSPAで成功した例としてユニクロは別格として、「セシルマクビーのデリカや名古屋の山田屋、大阪の玉屋(MISCH MASCH)、東京のデリカ(セシルマクビー)、倉敷のサキヤ」等、いわゆるリージョナル専門店がSPA化して成功しました。

いずれも創業は古く、専門店の老舗と云われていました。
現在の状況と似通っていますが、駅ビルやファッションビルが競って林立した時代に多店舗化したチェーン専門店の多くが低迷や消滅した中で、SPAへの転換に成功しました。
私の若い時に得意先として商売をした想い出があります。
私が未だ新米の頃で経験も浅かったせいか、何れの得意先も商売は厳しかった記憶があります。
厳しいと言うよりは強引とも言える様な取引でした。
その後、「既存のアパレルの委託取引の商品とOEMメーカーとの巧みな取引に」よるオリジナル商品を組み合わせてSPA化に転換を果たしました。

私の時代からは経営者も代替わりしており的外れかも知れませんが、改革というのは大胆で冷酷とも感じられるような姿勢が必要なのかも知れません。





神戸のアパレル

2007年05月08日 | アパレル放談
大阪のアパレルがSPAに展開した企業の話を書きましたが、神戸のアパレルはもっと典型的です。
歴史的に神戸アパレルは、ブラウスやニットの専門店卸が主流でした。

ニットやブラウス単品の専門店アパレルが昭和30年代に誕生し、日本の専門店アパレルの一翼を担ってきました。
一時期は神戸市の「ファッション都市宣言」の中核を担い、神戸市の財界にも存在価値のあるものでした。

6年程前に神戸ファッションアソシエーション(KFA)の総会に出席した時の話しになりますが、その後の神戸のアパレルの変遷を思うと興味のある内容でした。

25周年記念と記憶していますが、記念の総会のため一泊二日(翌日ゴルフ会)の総会でした。
会場は有馬温泉の欽山で、次第どおり会が進み宴会になりました。

欽山の女将さんが挨拶に来られ、昔の懐かしい話や震災当時の話などの談笑になりました。(震災時にライフラインが途絶えた馴染の社長達は、欽山の温泉を使わせてもらわれたようです)

有馬温泉の欽山といえば屈指の名旅館(高級)です。
神戸のアパレルの社長らは当然馴染みのお客のようですが、私のような地味な大阪船場の会社が長かったものには、何か場違いな感じがし、肩身の狭い感じがしました。
神戸のアパレルの往時の隆盛が感じられる光景でした。

大阪のアパレル業界に比べ、創業時期が同じころということもあり、社長や幹部が仲間意識が強く、仕事でも遊でも、ザックバランな感じがあります。

19社の参加でしたが、隣の席の某社長がポツリと話していたのが印象に残っています。
「最盛期は60社弱あった会員企業が19社まで減ってしまいました。残ったのは直接売場を持った企業が残り、売場を持たない卸売りアパレル企業が殆どなくなりました。」と氏はシミジミ語っていました。

SPA化で見事に業績を建て直し大きく発展したヤングの企業があります。
その社長がSPAへ転換を決断されたキッカケは「休暇を利用してアメリカに旅行した時に、アメリカ市場を見て、今日の日本を予感した」ようです。
帰国後大胆な社内改革に着手されたようです。

その時同行した別のミセス系のアパレルの社長も、その後ミセス卸を全廃し、SPA化で企業を再構築し成功されました。

其の他、ミセスアパレルの社長の「企画失敗の在庫を一気に処分し、卸を全廃し、ヤングのSPA化」を果たした時の奇想天外な話などを温泉の湯船や部屋のミニバーのビールを傾けながらお聞きしたのも懐かしい思い出です。

最近KFAも組織変更になったようですが、今は何社になったのでしょう。

その後。ingniやプロフィールなどユニークな企業が誕生しました。
時代の変わり目だったのでしょう。

アパレル卸とゴールデンウィーク

2007年05月07日 | アパレル放談
ゴールデンウィークが終わりました。
大型休暇を如何お過ごしでしたでしょうか?

昔のアパレルは大型連休を充分に取ることが出来ました。
ある意味楽しみにしていました。
最近は少し様相が変わってきたのではないでしょうか?

多くのアパレルはSPA化するか直営店舗を持っており店頭重視になってきています。
当然、大型連休に対する対応に変化が見られます。

小売り出身のSPAは企業風土が元来小売型で、休日勤務に対する社員に意識は統一されていますが、アパレルからのアパレル系SPAは、社内の休日勤務に対する企業風土作りが難しいように感じます。

アパレル系SPAは製造卸型の業務体系と小売型の店頭業務の体系という相反(矛盾)する体系を共存させなければなりません。

私も現役時代も休日勤務に対する基準つくりやその整合性を持たす事に苦労しました。

昔、ある座談会でアパレル社長から面白いお話が出ました。
その社長曰く「私はSPA化は嫌いです。出来ることならSPA化には取組みたくありません。何故なら、日曜日・休日にゆっくり休めないから!、休日ぐらいはゆっくり休みたいので・・・」。
聡明な頭脳を持っておられるこの社長は、もちろん比喩的、逆説的な意味を込めて「店頭の重要性」を主張されたのです。
アパレルがSPA化を模索していた頃の話ですが、その後社長は、SPA化を強化(転出)され、大阪でミセスのアパレルSPA型企業として注目企業になっています。

その他に、大阪のアパレルでミセスアパレルとSPAとを両立されている優秀な企業があります。
昔の話ですが、業界関連の親睦ゴルフ界の日程を決める時に、その社長曰く「日曜日は忙しいから別の日にして欲しい」
その社長は、月に幾日お休みを採って居られるのか解らないようなスケジュールでの仕事ぶりです。
多分、その社長の手帳の休日欄は、「赤く印刷されていないのではないか?」と思うほどです。
アパレルとSPAを見事に両立させておられます。

どちらの社長も店頭の重要性を理解し、それを実行されているように思えます。
アパレルがSPA化を強化する時には重要なことでしょう。

厳しい(意地悪な)言い方をすれば「日曜日ゴルフに興じているトップはSPA化には向いていない」と云うことでしょうか?

そう云っている最近の私の生活・仕事は、余り休日を意識しなくなりました。
時々「今日の曜日」を間違えるほどです。
これは仕事がらではなく「歳のせい」では無いかと気を引き締めています。

三通治子ファッションフォト展

2007年05月02日 | アパレル放談
最近、私の知人からの書籍出版や俳句の会の最優秀賞受賞の報告など、仕事を離れた文化・文学的な話題が多いように感じます。
昨日も三通治子さんという女性からフォト展のご案内状をいただきました。
三通治子さんは大阪モード学園の第一期卒業のデザイナーです。
大阪モード学園卒業と同時にイトキン㈱にデザイナーとして入社しました。
私とは一緒に仕事をする機会はなかったのですが、強く印象に残っているデザイナーです。

開校間もない当時の大阪モード学園は、従来の専門学校と異なり、企業デザイナーの育成に特化して、クリエイト志向のデザイナーの育成を特徴にしていました。

         三通治子さんを始め、初期のモード学園の卒業生は
         モチベーションも高く、デザイナーを目指して強い個性を
         もったが方が多かったように感じます。
         その後も多くの後輩達が、私が担当していたブランドに
         携ってくれ、それぞれ大きな成果を上げてくれました。
         今でも現役で頑張っている方が多く居られるようです。

三通治子さんは、第一期生として意欲満々で入社してきました。
昨日のBlogにも書きましたように、当時のイトキンは、未だ量販店やボリューム商品が主流でした。
会社も彼女の才能を活かすべく東京支店(当時)で新ブランドを作って、それなりに対応しましたが、充分彼女の才能を活かせぬまま退社ということになりました。

その後イッセイミヤケ・インターナショナル㈱に入社し、伊藤忠ファッションシステム㈱を経て独立、㈱ミトオリインターナショナルを設立し、社長としてオートクチュールを中心に活躍しているようです。
自社ビルのアトリエやショールームを持ち、ニューヨークやパリにもオフィスを構えているとのことです。

昨年の大阪ライフスタイルコレクションの前夜祭(キックオフパーティー)の時に偶然お会いしましたが、お元気そうでした。
自分のブランドの個性あるオートクチュールの話やパリでのコレクションの事、ニューヨークの事など相変らず熱心に話してくれました。

彼女の作品をしばらく見ていないので詳しくわかりませんが、20年以上に渡り、この大阪で自分の会社を経営しつづけているだけでも素晴らしい事といえます。

連休明けに、フォト展を観に、久し振りに訪ねてみようと思います。
心斎橋の鰻谷にあり、地下鉄御堂筋線心斎橋駅と堺筋線長堀駅の両駅ともに近くです。
下記に案内状の写しを記載しますので、お知り合いの方や興味ある方は是非ご覧になってください。


タイトル:
   「三通治子のファッションフォト展」
     大人のエレガンス・華 
会場:
   大阪市中央区東心斎橋1-9-19 ミトオリアートビル5階
期間:
   4月26日~5月15日(13:00~18:00)
電話:
   06-6244-5757
㈱ミトオリインターナショナルのホームページも紹介しておきます。

(勝手連的に三通治子さん(社長・デザイナー)の紹介をBlogに投稿しました)

NHK俳句・フォト五七五(写真と俳句)

2007年05月01日 | 今様隠居道
イトキン㈱時代の先輩の礒野康男さんから昨日メールをいただきました。
礒野さんは、私がイトキン㈱入社した時に品質管理のお仕事をされていた先輩です。
お歳は喜寿を超えられておられると思います。

現在の京都工芸繊維大学のご出身で、繊維の知識と経験の豊富な方です。

昭和40年代のイトキン㈱が、量販店や問屋の中心の販売ルートから、百貨店や専門店に展開し始めた頃に途中入社されて、当時は比較的安価な商品が中心であったイトキン㈱の品質向上と品質管理の確立をされました。

特に、MDやデザイナー、パタンナーの専門的な知識や技術向上に力を入れられ、当時入社したての新米MDだった私は大変お世話になりました。
今では少なくなってしまった繊維の知識や縫製技術に精通された貴重な方です。

現在は退職され、「俳句と写真の趣味や旅行」を中心に、時々、アパレルやテキスタイルメーカーから乞われて時々「技術の指導」を行っておられます。
お生まれは昭和の初期で、「昭和の時代」に活躍し、現役退職後に趣味と技術の伝承をするという、まさに「晴耕雨読」の羨ましいリタイア生活を満喫されています。

氏の俳句の作品が定期的にメールで送られてきます。
写真添付の時もあり、内容もボリュームもいつもながら感心しています。

その礒野康男さんからのメールは、『趣味の写真と俳句がNHK教育テレビの番組の「NHK俳句・フォト五七五」で最優秀賞に入った』ことの知らせです。
NHK教育テレビの番組でその作品が紹介されるようです。

放映は5月6日(日)の朝8時~8時30分とのことです。
このBlogをお読みの方で礒野さんをご存知の方もおられると思います。
是非、ご覧になってください。

礒野先輩の「悠々自適菜」の生活ぶりに触れ、私もそんなリタイアに少なからず憧れます。

礒野康男さんの俳句のBlogを紹介します駄作の俳句
月1回のペースで、俳句を投稿されているようです。
「駄作の俳句」とタイトルはなっていますが、力作、秀作と思います。