「業際」を超え・「域際」を超え・「世代の際」を超えて!

理論を貫いて実践に生き! 実践を通して理論を究め! 前へ前へと進もう!

インパナトーレとミルキィウェイ

2006年05月31日 | アパレル放談
日本の下請工場の現状と将来は厳しいものがありますが、この会社の取り組みは下請けメーカーの一つの行き方として参考になるので紹介します。

IFI学長の尾原蓉子氏が提唱されています。
尾原蓉子学長は3年程前に「OEM・ODM・OBM」を提唱されました。
OEMは産業の用語として定着していますが、ODMとOBMは多分先生の造語と推察します。
先生は下請けのOEMからオリジナルデザインを付加して提案型のODMになる事を提唱されて、発展的にオリジナルブランドを展開するOBMになることを勧められています。

ミルキィウェイ㈱はこの下請け工場の自立策を自ら実践されています。
IFIで学んだものでなく長年の経験(下積みの苦労)と顧客志向の感覚で実践されているようにお見受けします。
いわゆる実学から生まれたようです。

ミルキィウエイの生産は中国で行なっています。
前は韓国での生産を行なっていましたが、数年前から中国山東省の威海に工場を移設しました。
韓国の機能を全部中国に移すのではなく、韓国を素材や副資材の調達のバイイングオフィスとして活用しています。
中国で調達できない韓国の素材や副資材を韓国のバイイングオフィスが調達と管理を行なっています。
韓国の素材と副資材を活用し中国縫製のいわゆる韓中生産です。
ここまでは韓国のメーカーが何処でもやっている内容ですが、ミルキィウェイは違います。
日本の国内営業と企画提案を行なう機能が大阪の本社に完備されている事です。
最近のアパレルの多くは、企画のアウトソーシング化が多い。

特にカット&ソーは季節商品的な要素があり、特にその傾向が強い。
ミルキィウェイのデザイナーが提案用サンプルや得意先からの依頼のサンプル作成を行なっています。
韓国にもデザイナーがおり協業しています。

国内営業は本社で行なっており、カット&ソーのベテランの営業部長がこれを支えています。

日本、韓国と中国のそれぞれの機能を効果的につなぐのは、本来商社の機能ですが、実務的に1社で代行できる点に優位性があります。
問題となる、品質管理や納期管理、素材管理やデザイン提案などの煩雑な作業が一本化できる意味でメリットは大きい。
山下喜美榮社長の15年以上の工場経営の経験を生かして、中国の管理と指導を自ら行なっています。
大きいのは経験だけでなく、女性特有のファッションセンスを生かした物つくりのスタンスが他と異なるところと思います。

現在は関西中心の営業ですが、東京への展開も考えています。
社長の山下喜美榮さんは日本、韓国、中国を飛び回っていますが案外東京近すぎと感じているかも知れません。

原料《韓国)、加工《中国)、ソフト《日本)のそれぞれの強みを生かした仕組に興味を持っていましたが、ミルキィウェイはこれに取り組んでいました。

そういった縁で㈱インパナトーレ窪添も業務のサポートを行なっています。

山下社長のもう一つの夢はODMからOBMへ展開することです。
OBMは尾原学長もおっしゃっているように「顧客が求める商品を造れるデザイナーが必要です」

山下社長の近いところに、そのデザインソースがありました。

少女が描いた一枚の「絵」からブランドが誕生する事になります。
それがBlankie Nu-Nu(ブランキ ヌ-ヌ)のBrandingです。
そのブランド誕生の奮闘記を書いてみます。   以下次回・・・・



 《日経マスターズ》 の廃刊のお知らせ

2006年05月30日 | 今様隠居道
先日のブログで日経BP社の日経マスターズの購読を勧めましたが、日経BP社から廃刊お知らせが今日届きました。

会社という組織を離れ、社会といかに関わっていくか、長年の夢を叶えるにはどうしたらよいかといった「行動を起こすためのヒント」を伝えてくれましたが、発行継続のための基盤が整わず、廃刊となったようです。

2002年の創刊時から定期購読していました残念です。

2007年を目の前にしての撤退ということになります。

団塊世代の定年をターゲットとしたマーケティングが各業界で行なわれていますが、この廃刊は理想と現実とのギャップを感じさせ、参考になります。

購読のお勧めをつい最近ブログしましたので、廃刊のお知らせをしました。

挨拶文にはこの分野の情報はウェブサイト&メールマガジンセカンドステージで提供するとのことです。

これも時代の流れかも知れません。

「団塊世代」は「IT世代」になりつつあるのかも知れません。
まずは先のブログの訂正を兼ねてお知らせします。


「熟年一人起業」とインパナトーレと新ブランドのBlankie Nu-Nu

2006年05月29日 | アパレル放談
㈱インパナトーレの顧問先の一つにミルキィウェイ株式会社というカット&ソーのOEMメーカーがあります。

企画提案の出来るOEMメーカーなのでIFIの尾原蓉子学長の言葉を引用するとODM(企画提案型)の分類になる会社です。

大阪の本町にあり、日本で企画、営業と物流、管理を行い、韓国ソウルに素材と副資材のバイイングオフィスの会社を持ち、中国の威海の縫製工場で製品化をするODMメーカーです。

社長は山下喜美榮サンという女性で、日本、韓国、中国を飛びまわっておられます。
私は前々から海外生産はこのような素材と縫製と縫製がアジア諸国の特質を生かした方法で行われるべきだと言っていました。

いわゆる原料と加工とソフト・サービスが一本化されて価値が生み出されるのです。
昔のような資源だけ、労働だけ、ソフトだけの切り離したものでは価値を生まなくなって来ました。
ミルキィーウェイ社の山下社長は既にこのことに着手しています。

そんな事もあって、一昨年ほど前から㈱インパナトーレ窪添の顧問先です。

ミルキィウェイ㈱はOEMからODMメーカーとなり今後はオリジナルデザインのODMメーカーになりたいと夢見ていました。

私は工場メーカーが中抜き的にODMになるのは賛成しませんが、直接消費者との接点があるという意味で会社全体が顧客満足を知ることが出来て、結果お得意様との商売にいい影響が出てよいことと思っています。

そのブランドの商品が、その会社の特異とするアイテムで、既存の商品と異なるコンセプトのものであれば、なお良いと思っています。

丁度、そのようなブランドを展開できるチャンスがありました。

社長の親戚でアメリカサンフランシスコに在住している小学生の少女Angelaが、3歳くらいからユニークなイラスト画を描いています。

そのイラスト(絵)は大人が描くことが出来ない少女の夢の世界です。
犬、ネコや空想の動物をファミリーに置き換えて描く絵は、ストーリー性もあり興味深いものです。
そのデザイン画を活用したブランドが出来ました。

サンフランシスコ在住の少女Angelaのイラストをキャラクター化して、ファミリーブランドのBRANDINGを行います。

ブランド名はBlankie Nu-Nuです。

ミルキィウェイ㈱の得意なカット&ソーを中心としたファミリーブランドです。

団塊ジュニアのファミリーを対象にして、Webやフランチャイズを中心とした展開を考えています。

チャネルが大きく変化していますが、従来の概念にとらわれずに新しい展開も研究したいと思っています。

またこのキャラクターを行かしたコンテンツマーケットも興味があります。

このブログを見ていただいている皆さんからも良いアイデアがあれば是非参考にしたいと思ってます。
宜しくお願いします。

先週末を利用して、娘夫婦たちと私の田舎(実家)にお墓参りをかねて帰省してきました。
1台のミニバンに、3家族7名が乗っての一泊旅行でしたが、楽しく過ごしました。
(私の故郷は今NHK大河ドラマ「功名が辻」の千代の生まれた所といわれている 長浜市です。市といっても浅井長政の居城の有った浅井町です。敗戦を覚悟で、 時の強者に立ち向かった浅井長政の美学?は興味が有ります。また淀君に仕え、翻弄された片桐且元の生地です。見る人によっては、生き方の下手と言われそうな戦国時代の武将の生誕の地です)

長女がまさしく団塊ジュニアです。(私は少し外れますが家内が団塊世代です)
団塊ジュニアの子供である、2歳の初孫の実緒にブランキ ヌーヌーのT-シャツを着せて家族旅行をしました。

写真はジジ馬鹿といわれそうですが、孫の実緒がブランキ ヌーヌーのT-シャツを着せました。
そのときの写真です。
可愛いです。
(孫の実緒もブランキ ヌーヌも!)
(孫を抱いてる好々爺?は私です。初めての方も居られるかも知れませんが、
 仕事の時はもう少し、しっかりした顔をしてりますのでご安心を・・) 



ブランキ ヌーヌの詳しい内容はHPとBLOGを見てください。Blankie Nu-Nu

《熟年一人起業》 《日経マスターズ》 「㈱インパナトーレ窪添の一人起業・SOHO」の事例  Ⅱ

2006年05月26日 | 今様隠居道
企業戦士は猟師(漁師)に似ていると思います。
家族の生活の糧を獲る意味で猟師に似ています。

私が3年前に猟師(漁師)をやめ、半農半漁(猟)の生活になったとブログに書きました。
しかし、私の現在の仕事は、狩猟の仕事より、養殖、酪農のような「育てる仕事」が多い。

私が退職した3年前は、その光と陰が指摘されてる小泉・竹中改革の真っ只中でした。

繊維業界の古典的、伝統的な生産流通体制が疲弊し崩壊が顕在化した時でした。

川上(紡績・原糸メーカー・産元)、川中(テキスタイル問屋・縫製工場・ニッター)や川下(専門店・百貨店・量販店)などの古典的・伝統的な構造問題が顕在化しつつある頃でした。
大手企業は人員カットや資産圧縮、原価の圧縮や下請け企業の切り捨てなどのリストラ策と政治の保護策による対応でその後復活しました。

川上から川下の垂直的な生産流通の流れから放り出された零細な企業は、大手企業のリストラ策の犠牲となった、産元、機屋や縫製の零細の企業は、座して終焉を迎えるか、その新しい流れに敢えて乗り出し、翻弄されながらも自立を懸命に模索しています。

そんな零細な企業の方から、自立のための相談が多くあります。

現在の事業が上手くいっていないので相談に乗ってほしいと、依頼があります。
私は既存事業についての相談は、原則的にお断りしています。

既存の事業についてはその古典的な手法が企業風土として根付いてしまっています。

その企業風土を打ち壊す小泉首相ほどの蛮勇(冷徹さ)は私にはありませんし、長年その会社の社員が努力して創った事業を改革できる孫悟空の如意棒のような便利なものは私は持っていません。

私の仕事は、零細な企業の社長が自立の為の新機軸つくりを目指して、新規事業を「育てようとされる時」に、その「育てに参加」する事が多い。

大企業の新規事業と異なり、資金や人材などが限られており、ビジネスモデルを作成するときに、この事に留意しています。

資金や人材は有限な資源ですが創意や意欲は無限です。

困難な局面に対して意欲を持った社長と一緒に仕事が出来て楽しく幸せです。
社長の意欲に応える創意を立案する事も楽しみに感じます。

ビジネスモデルつくりが重要ですが、その実行のためのサポートも重視しています。
社員のみんなと一緒に作業するのも面白く刺激を受けます。

ボランティア的な内容の仕事もありますが、逆に彼らから今まで経験した事のない現場を学ぶところも多くあります。

猟人だった私が、「育てること」の楽しみを感じ出してきました。
インパナトーレという仕事を勝手に名付けて3年が経過しました。
少し手当たりのようなものを感じ出しています。

2007年のこれから新しい「熟年一人起業」の魁になれるようにしたいと思います。
インパナトーレ企業のときに「在野の経験者やスペシャリストの新たなネットワークへの参画推進」を事業内容の一つに掲げていました。

新しい仲間(ネットワーク)つくりも意義ある内容と思います。











《熟年一人起業》《日経マスターズ》 を読んで 「㈱インパナトーレ窪添の一人起業・SOHO」の事例

2006年05月24日 | 今様隠居道
「熟年一人起業」を読んで、3年前の㈱インパナトーレ窪添の一人起業のこととを思い出しています。
当時はSOHOが流行っていましたが、IT関係の起業が中心でした。

IT関係のように、パソコンやサーバーとその周辺機器だけで、在庫無し、人無し(ネットワーク)で起業可能な職種です。
まさに、自宅を使ったHome Office・Small Officeのが最適です。

私のインパナトーレはIT関係ではなくその対極にあるような、人を介したハイタッチなインフォーメーションテクノロジー?です。
ハイタッチにインターネットやメールのハイテクなWebを、初老の私のスキルの範囲で使う事によりSOHOも可能となります。

私がSOHOにしたのは、かたちや体面を重んじて初期投資やランニングコストが負担になる事を防ぐためでした。

都心の立派なオフイスやスタッフを充実して起業された先輩や後輩がおられました。
お祝いのお花などをお送りした事を思い出します。
大きな組織や会社に属していますと、どうしても容(カタチ)に囚われてしまいがちです。
その後オフィスを閉鎖されたのをよく見ていました。

起業の内容が自分が持っていた商圏や商材をもとにしたものであれば、すぐにある程度の果実が期待できます。
しかし起業の内容がベンチャー的なものであれば、すぐに果実は期待できません。
その意味で初期投資はできるだけ抑えるべきと考えました。

SOHOにしたもう一つの理由があります。

退職という大きな節目は、夫婦や家族との「新しい絆」つくりが重要になります。

定年退職とは、「男が外にでて、給与という獲物を稼いでくる狩猟生活から、家族が共同して生活する農耕生活」に変ることと思います。
(歴史的にも古代の農耕時代の家族は母系家族であったが、狩猟時代や商工業の時代になるにつれ、父系家族に移行したと歴史の本で読んだ記憶があります)

現役時代の家族は、私が他の猟師より少し多い獲物を持って帰ることに満足し、安心して、信頼、協力してくれていた思っていました。

ある意味では、仕事、会社のためと、家庭を省みない部分もありました。
むしろ獲物をたくさん取る猟師(企業戦士)になることが、妻のため子供のためと勘違いしためんもあり、結果的に家族を犠牲にしていたのかもしれません。

大猟の獲物を持って帰るえることが出来なくなる退職を契機に今までと代わる家族との「新しい絆」を造る事が重要と考えました。

突然の退職を機に従来の狩猟家族から半漁半農(半猟半農)の生活に変ることを考えました。

自宅で事務ワークと、適度な商談外出は、現役時代の早朝出勤と深夜帰宅?の生活から大きく変りました。

SOHOで家族との適度なコミニュケーションが生まれました。
仕事の進捗状況など、妻には細かく話していませんが、それとなく解っているようです。

嫁いだ長女は私のブログを見てます。
私の入力ミスの誤字脱字をチェックしてメールで知らせてくれます。
私の赤ペン先生です。

そんな新しい家族の絆のようなものが出て来たと思っています。
半漁半農生活を楽しんでいます。

「熟年一人起業」にも、その重要性が書かれています。

「日経マスターズ」にも、リタイヤ後の夫婦の絆つくりについて、時々掲載されています。
前に購読者からの投稿の「妻への詫び状」が掲載されていました。
定年退職を経験した企業戦士(猟師)達の妻への詫び状が綴られています。
その妻への詫び状が本となり出版されています。

定年を控えた方や、企業戦士の強者の現役の方にお勧めです。

ちなみに私は未だつ前の詫び状は書いていません。

㈱インパナトーレ窪添をSOHOでやっていく事が妻への詫び状かも知れません。
(妻もこのブログを見ていますので詳しくは控えます。別に機会に・・・・)




 

「熟年一人起業」と日経BP社「日経マスターズ」について

2006年05月22日 | 今様隠居道
沼波正太郎氏著の熟年一人起業を読んで、私の3年前の㈱インパナトーレ窪添の起業と酷似していて興味を持ちました。
私が何となくリタイア後のことを考えたのは50歳代中頃でした。

しゃにむに働いて来て、少しは自分の第2の人生を考えて見ようかと思っていた時に、日経BP社から月刊誌の新刊の定期購読案内のデモ版(創刊前特別編集号)が送られてきました。
月刊誌は日経マスターズでした。
サブタイトルには「自由に働く自在に遊ぶ、人生の達人へ」と書かれていました。
リタイアを控えた人たちへ下記の情報と機会を提供することを編集の主眼にした情報誌です。

《働:知恵と経験を生かして、社会とかかわり続けるための情報》
《遊:贅沢に我儘に遊んだり、長年の夢をかなえるための情報提供》
《学:古典から政治経済、ITまで自分を高めるための情報の提供》
《居:健康や資産、住居など暮らしを豊かにするための情報提供》
《交:投稿やインターネット、イベントなど交流の場を提供します》

いずれの内容も、会社の仕事を中心で、リタイア後の準備をすることなく、過ごしてきた私に強い印象を与えました。

早速定期購読の手続きをして、4年になりますが今でも愛読しています。
時々リタイア後の夫婦家族のあり方についての記事も掲載されますので、女房も読んでいるようです。

私の予定より早くなった退職に、この日経マスターズの月刊誌が役立つとは購読申し込みした時には思っても見ませんでした。

私が「熟年一人起業」を思いついたのもこの書の影響があったと思います。

今でも創刊号から全冊書棚に置き、時々読み返しています。

このブログを開いてくださっている団塊世代やその歳に近い方に購読をお勧めします。

間違っても準備不足型で定年退職を迎える事のないようにしておくべきと思います。

「熟年一人起業」は定年退職後を生きるための手段の一つですが、
「日経マスターズ」はリタイア後の第二の人生の生き方、目的を語っているように感じます。

この月刊誌は、準備不測型だけでなく、悠々自適型や再雇用型、自立雇用型の方にも参考になると思います。






《熟年一人起業》 沼波正太郎著 を読んで 

2006年05月22日 | 今様隠居道
先日ぶらっと紀伊国屋書店に入って、タイトルに興味があった本を購入しました。
本の名前は熟年一人起業です。(沼波正太郎著)
内容は退職を控えた熟年の方に一人起業を勧め、起業のためのマニュアルを書いたものです。
著者の経験とコンサルタントの体験を綴った本です。
2007年団塊世代の定年退職が話題となっていますが、時流に合致した本の内容と思います。

読んでいると私が3年前に経験した離職、㈱インパナトーレ窪添の設立の経緯と酷似しています。
著者のような文才が無いので本にするほどのものでは有りませんが、私の体験をブログしてみます。

前にブログに書きましたように、大手アパレルを40代前半に退職し、設立に参画した、アパレルで定年退職し、悠悠自適の老後生活を夢見ていました。
3年前に「青天の霹靂の退職」を余儀なくされました。

著者は第二の人生の選択肢を以下の4つに分類しています。
①悠悠自適型 =老後の資金には全く問題のない
②雇用延長型 =契約社員・嘱託で大幅賃金カットで雇用延長
③自立雇用型 =起業
④準備不足型 =少し休んで、それからゆっくり職探し・何とかなるさ

著者の分類では私は①を夢見ていましたが実質は④準備不足の内容でした。
幸いヘッドハント的に企業を紹介していただいたのですが、退職の経緯からして、「新たな宮使え」に対して躊躇しました。
ゆっくり職を探すわけにも行かず、自立=起業を目指しました。

著者は起業のコンセプトの確立を強調しておられます。
㈱インパナトーレ窪添の企業にあたってキィワードを探しました。
そのキィワードは下記です。
①人を使わなくてできる会社
②在庫を持たない会社
③設備・事務所がいらない会社
④資金(借入)の苦労のない会社
⑤いつでも閉鎖できる会社
いずれも私の35年の経験(苦労)を裏返したものです。

還暦を前にした起業です、永年アパレル業界にお世話になり、多くの方から戴いた経験と知識を、社会(業界)にお返しする事により社会(業界)貢献が少しでも行ないたいと考え、元気の続く限り社会参加ができる環境も大切にしたいと思いました。

そのキィワードと目的(ミッション)、私の強み(弱み)を分析しているうちに、日本版インパナトーレの起業のアイデアが生まれました。

3年前の私の退職と㈱インパナトーレ窪添設立の挨拶文の抜粋を下記紹介します。

《挨拶文》 抜粋

(前文略・・・・)
 
気が付けば還暦まで後1年を残すのみの歳となり
今後の新しい生活(価値)を見つけ出さなければならない歳となりました。
第一線を退き悠悠自適の生活を満喫するには未だ早く
これを機会に、これまで多くの方から戴いた知識と経験を生かし、社会に還元することも
価値あることと考えます。
人の身体は年とともに衰えていくものですが、人の知識や経験は年とともに古びていくものではなく、むしろ年とともに高まっていくものと思います。
生涯現役を志し、元気の続く限り社会参加と社会貢献を大切にしていきたいと考えています。

これまでの時代は、「高度成長、オイルショック、バブル経済とその崩壊》の激動の時代でした。
これからの時代は、起業も個人も自らの手で再生を果たさなければならない時代となりました。
この度退職を機にフリーの立場で、これまで戴いた知識と経験を生かし、企画、生産、流通のコーディネ-とサポートを行なう㈱インパナトーレ窪添を設立いたしました。

(中略・・・)

プラトーのインパナトーレ(使い走り屋)に習い、あくまで実践、実務を重視して川上から川下の新しいネットワークの構築に貢献する日本版インパナトーレを目指します。

(以下略・・・)









台湾の友人のベトナム工場について Ⅴ

2006年05月20日 | アパレル放談
ベトナムの生産工場の問題点は物流です。
ベトナム国内の原料(素材)のインフラがないので、原料調達を海外に求めざるを得ない。
副資材関係の調達も海外が中心となります。

船便数や航空便数の少なさだけでなく、通関手続きや国内輸送の未整備もあり、短納期生産、小ロット生産などの日本の市場の要求に応えることが出来ず、ベトナム生産が増えない原因と思われます。

ベトナムに工場建設をした台湾のK氏やニットメーカーの氏の友人も、このことは事前に判っていました。

彼らはこの物流について、いろいろ工夫し対応しています。

素材の多くは日本やヨーロッパからの輸入が中心で、すべて台北の本社に集結し、副資材、パターン、指示書などを一括パックで船積みします。
船積みはアジアのハブ港の高雄港の優位性を生かしています。

特に遠隔地生産で問題になるのはサンプル生産や確認修正などの作業です。
ファーストサンプル縫製を台湾で行い、日本のアパレルのようにサンプル確認のため、サンプルを行き来することがありません。
(日本の海外生産はこの前作業が多く煩雑過ぎると思います)

特殊なやり方ですが、台湾のニットメーカーが行っているのは、依頼を受けた展示会用サンプルを台湾の自社工場にベトナムの工場から工員を台湾に長期出張させ、サンプル作成を行っています。

サンプル作成をまとめて台湾の自社工場(サンプルだけの設備)で行い、その後ベトナムに帰って自分達が台湾で造ったサンプルをベトナムの工場で本生産します。
台湾で研修してきた技術を自分達の生産ラインに指導して生産しています。

サンプル作成が技術指導も兼ねています。
経費的にもこの方が安く済むと言っていました。
よいアイデアと感心しました。

遠隔地のため無理した短納期の生産は行わず、逆にじっくり造り込む商品に集中しています。

中国のように生産効率至上主義(水揚げ)ではなく品質中心の物つくりに向いています。

ヨーロッパのアパレルもコートやジャケットなどの生産を行っています。
日本の著名な百貨店アパレルもイタリアの生地を使った、本格的なコートの生産現場を見たことがあります。
常夏の国で汗を流しながら分厚いコートを縫製している光景が印象に残っています。

中国で、店頭展開中心の商品の短納期生産と進化する中国素材を使った価格対応の商品の生産を行い。
ベトナムでのヨーロッパの素材を使用した手の込んだ商品をジックリ造り込む棲み分けする方法が考えられます。

技術指導を行えば中国より学習効果は発揮すると思います。

我々側の姿勢次第と思います。
それほどベトナムは労働の質が高いと思います。
少しベトナムに入れ込みすぎかもしれませんが、昔のから感じていたことをブログしてみました。
当時の日本航空とベトナム航空のシェアー便の時にベトナム航空の機内食のガーリックトーストが日航の運行のときのパンより数段美味しかったのが懐かしい。
最近の味はどうなっているか、機会があれば行きたいと思います。

ベトナム工場の雑感はこれで終了します。

台湾の友人のベトナム工場について Ⅳ

2006年05月19日 | アパレル放談
ベトナム人の労働の質的な高さは近隣の諸国に比して優れていると思います。
歴史的にも長い間欧米の影響下にあった関係か、パンやコーヒーなどの食べ物や建築物などにフランスの文化の影響が感じられる。

フランスのブランドにも昔からベトナムでのOEM製品を多く見かけました。
特にインテリアや雑貨とファッション小物のヨーロッパのOEM製品はいいものが多かった。

パリのオートクチュールのお針子サンとしてベトナム人が多く働いていました。

ベトナムの繊維関係に働く人の中にも、ベトナム戦争中に欧米に租界(?)していた富裕層の子息が帰国して事業をしている人も多くいます。

彼らはスマートなビジネス感覚を持っている方も多くいました。

最初にベトナムに行ったのが10年ほど前でした。
その時にはお土産に買うものがなく象嵌の器とベトナムコーヒーを買って帰った思い出があります。

両替して余ったドンを使うのに苦労しました。

3年後に出張した時にはモダンな小物やアクセサリーが沢山あり、ドンが足らなくなりクレジットカードでかって帰った思い出があります。

一時日本もブームになりましたが、アジアエスニックのイメージばかりの商品が中心でしたが、何故かそういう商品が少なかったのが不思議でした。
(最近は変わってきましたが・・・)

ホーチミンのレックスホテルの近くにあったS×S(エスバイエス)というブランドの商品が印象に残っています。
アメリカに亡命時に生まれたシルビアという女性がシルクを中心にアジアモダン(私の造語)感覚で面白い商品を作っていました。
(シルビアによるシルクの意味でS×Sとのこと)
日本の会社が時々輸入して日本展開をしていたようですが、育っていないようです。
インターネットを開くとネットオークションやネット業者の扱い商品になっているのが残念です。(インターネットによるとホテルの近くの店は閉店したようです)
当時は26歳のかわいい女性でした。あれから10年近くなりますが、今はどうしているか?ご存知の方は居られませんか?

K氏の工場のこととは直接関係ない話と、お思いでしょうが、ベトナムの労働の質の高さも歴史、文化の面ともつながりがあると思います。

先のブログにも書きましたが、クチのベトコンがサイゴンに侵攻するときに掘った地下トンネルを見た時にも、ベトナム人の忍耐力に驚きました。
手掘りの地下要塞のようでした。

筋肉マンのシルベスタースタローンのランボーもさすが入れないくらいの狭い穴倉が縦横無尽に交差していました。

どれだけ戦略的な意味があったのかわかりませんが、サイゴン川を地下から侵攻するつもりだったのでしょう。それを考えつきコツコツ(チマチマ)と掘りつづけた忍耐力と団結力には驚かされました。

圧倒的に劣っている装備を技術力、センス(創意・工夫)、忍耐力で対応するのは、どこか縫製工場と相通ずるものがあるように思います。
その意味でベトナムの労働の質の潜在力は高いと思います。

(戦争時代のこと、戦後のこと、戦後復興のことなど、政治体制は異なりますが、何故か日本と共通しているところがあり、妙な親近感があります・・・・?)

日本と同様の良質な労働力が有る点で共通する部分があります。
 
ただベトナム生産の問題は素材(原料の)インフラが無いことと、物流が近隣諸国に比べ悪いことです。
この問題の改善は当面難しいと思います。

この現実問題を前提としてベトナムをどう評価するかということになると思います。

K氏はこの問題について割り切った考え方を持って対応していると思います。

以下次回・・・・。

台湾の友人のベトナム工場について Ⅲ

2006年05月18日 | アパレル放談
彼ら特有のネットワークを持っている台湾のK氏も最初からベトナムに工場建設という直接投資を行った訳ではありませんでした。

最初は国有工場のラインのスペース契約で1年ほど生産をしていました。
社長自らベトナムに出張し技術指導をしながら生産を行っていました。
海外でスペース契約の生産は往々にして問題が多い。

直接指導していた時は問題は少ないが、常駐するわけに行かないので帰国し現地に任せると途端に問題が発生することが多い。

中国でのライン契約でもこのようなことが多い。
K氏は半年後に自社の生産の技術者をベトナムに派遣し常駐し技術指導を行いました。

生産いついては問題は激減したのですが、ライン契約のため人事などの権利がなく、技術指導して習熟度があがってくると、他のラインに入れ替えられて、いつも新人研修のようになり「賽の河原」状態でした。

ベトナム人の労働の質は高いと判断したK氏は自社工場の建設を決断したようです。

決断した後のK氏の行動は早かった。
まずK氏の華人のネットワークを駆使しベトナム人の元役人のD氏を見つけ出しました。
D氏のベトナムのネットを生かして工場敷地の確保や建設をすばやく行いました。
ミシンなどの設備は台湾製、日本製、ドイツ製を特長ごとに調達をしてコストを抑えたようです。

日本の場合商社やジェネコンに丸投げすることが多いが、殆どの作業はK氏が自前で行っていました。

特に興味があったのは敷地の調達です。
ホーチミン市から2時間ほどブンタオです。
近くに日本の企業も入っている台湾資本の整備された団地があるのですが、あえてそこから離れた田んぼを買い取り、友人三人で工場敷地に造成してしまいました。

私がどうして団地に入らないのかと尋ねたところ「団地ではすぐに人手の調達が難しくなり人件費が上がる。ここは離れているために後10年は大丈夫だ」、「港にも近く物流はこちらのほうが有利だ」と笑っていました。

日本の海外の進出の拠点を決める時に、日本人スタッフのためのインフラが整備されていることが重要な決め手としていることが多威のではないかと思います。

上海近郊の昆山や大連の団地などを見ると、整備された日本人向けのインフラを見て、かえって羨ましく思ったことがありますが、台湾のK氏のしたたかな計算に感心しました。
(韓国の中国生産も山東省の場合でも、青島でなく煙台や威海が多いのと同じことかもしれません) 

先にも触れましたが3人の友人の各工場が共有できるインフラは共同使用しているようです。
我々では理解できない彼らの独特な合理主義かもしれません。

K氏のベトナム工場は自社の直営売り場の商品供給のために建設したものです。
トータルブランドのためニットセーター以外すべての商品を縫製する設備やラインになっています。

生産性アップでコストダウンより、品質、少量多品種生産を主眼においているようです。

台湾から派遣したスタッフは殆ど現地化した感じで、作業に当たっています。
当然住まいや生活のスタイルも現地化している感じです。

以下次回・・・・・。







台湾の友人のベトナム工場について  Ⅱ

2006年05月16日 | アパレル放談
台湾のK氏がベトナムに工場を建設するに至った経緯は1990年頃の台湾の国内事情が起因しています。
アジアの開発途上国を見てると歴史的に同じような経緯があります。

日本でも1950年代後半から70年代初頭にかけて、綿、合繊のシャツやブラウス等の対米への繊維製品の輸出が盛んだった時代があります。

日本の1ドルブラウスといわれたポリエステルブラウスは、1$が360円の為替と、安価な労働力、特恵国待遇が対米輸出の根底になっていました。

綿や合繊の原料とそれの縫製の加工が輸出産業として発展しました。

香港、韓国や台湾も対米輸出により繊維産業が発展したと言えます。

中国もノー・クオーターのアイテムのシルク製品の輸出が繊維産業を牽引した時代がありました。
香港のニット製品、韓国の合繊、インドネシアの合繊、台湾のアクリルセーター、デニムなど自国の原料(素材)と加工(縫製)が対米のクオーター制度のもと開発途上国の基幹産業になりました。

それらの国も新たな開発途上国からの追い上げと自国の産業構造の変化により、コンピュータやその周辺機器、電化製品等へより付加価値性と生産性の高い産業へシフトし、繊維製品の衰退が始ました。

アジアの優等生といわれた日本の繊維産業の盛衰と同じような歴史の道を他のアジアの開発途上国も歩んでいるといえます。

台湾も1990年頃のNT$の引き上げと輸入関税の低減策により、台湾のアパレルや輸出メーカーが質的変化を求められました。
台湾国内の流通も「そごう」の本格的な百貨店の出店で、それまでの東急百貨店や京王百貨店等が行なっていたライセンス契約方式の台湾のローカル百貨店を完全に駆逐してしまいました。

樫山、三陽、イトキン、レナウンなどの現地法人も撤退(縮小)や質的な変更を余儀なくされました。
台湾の国内アパレルは従来のWHOL SALEからSPAに変革した新興のアパレルが太平洋そごう百貨店やその後相次いで進出した新光三越、高島屋などの日系百貨店中心に成長しました。

輸出メーカーの多くは中国に進出しアパレルは日本や欧米ブランドの輸入にその活路を見出しました。

1990年前後が台湾のアパレルとその流通の大きな変化の時代だと見えます。

台湾のK氏との出会いはその時期でした。
長く続けてきた自社のアパレル体質を日本のアパレルとの商売により自社の企業の体質を変えようとしたのではないかと想像します。

生地と製品の仕入れの商談に1年間に10回ほど来日していました。
常にデザイナーと店の店長と同行し、商談と市場調査を熱心にしていました。
日本にいる私より、百貨店の売場のことやブランドの事はよく勉強していました。
時間を見つけて大阪市内にある現金問屋で自店で販売するアクセサリーや雑貨をハンドキャリーしていました。
(それだけで充分出張経費が補填できている感じでした)

商社や専門の機能を使っていなくても、氏独特のネットワークを生かして幅の広い情報をもっていました。

ベトナムの工場建設についても、華人的な彼独自のネットワークを生かしています。

単独で工場建設をするのではなく、K氏の長年の二人の友人と共同で建設しニット工場とシューズの工場とK氏の布帛の縫製工場の3工場を造りました。
共有できる部分は共有する合理的な方法をとっています。

もう一つはベトナムに良きパート-ナーを造っています。
ドイモイ政策とは言いながら社会主義の国であり、その辺の難しいことは彼を介して対応しています。

いずれもネットワークや人との信頼関係が基本になっています。

詳細な契約等はあまりなさそうで、全てお金(資本金)で割り切った関係が背景になっているようです。

この点は日本人はなかなか理解ができないかも知れません。

以下次回・・・・。

台湾の友人のベトナム工場について

2006年05月15日 | アパレル放談
アパレル生産の海外依存の現状は、一部の商品の国内回帰は期待できるものの、空洞化はいまさら避けられない状態となっています。。

その海外依存の中心が80%中国となっていますが、これも急激に低下するとは思えませんが、ここにきて、為替の問題、中国の人件費や諸物価の値上がりなどの問題が懸念されます。
またヨーロッパやアメリカのへのシフトチェンジは中国の有力メーカーや日系の商社、日系工場でも散見されます。
中国の国内事情や国際情勢も少しづつ変化が出つつあります。

緊急を要する問題ではなく、過剰反応をする事は得策ではないかも知れませんが、ポスト中国といった大掛かりでは無くても、何らかの対応はしておく必要はあると思います。

リスク管理の面からも、リスク分散の対応をしておく必要があると思います。

この点、昔から華人はリスクを分散化したり、リスク管理能力に先天的に長けていると言われています。

私の台湾の友人のK氏のベトナムの工場進出の経緯を見ていると、このことがよく理解できます。
私と台湾のK氏との付き合いはもう15年以上になります。
私の前にいたアパレルの会社のお得意様でした。

K氏は私より10歳若く52歳だと記憶しています。

26歳のときに独立し、日系百貨店中心にハイミセスの自社ブランドを20店舗ほど展開しています。

台湾は日本のような卸型のアパレルは少なく、製造小売型のSPAが大半です。
K氏の会社も製造小売型のSPAです。
全ての商品は自社の企画⇒製造⇒小売です。

自社ブランド以外に、私が前に在籍していた会社のブランドを、台湾の日系百貨店の中でインショップ展開してくれていました。

日本のショップと同じスタイルで展開し、日本上代の1.5倍以上の価格で販売していました。
売上も順調でワールド、レリアン、ヒロココシノ等の日本の有力ブランドと遜色なく15年以上の長い間、頑張ってくれていました。

K氏とは家族同士の付き合いです。
昨年の夏に家族旅行で台湾に行った時に大変お世話になりました。

私が彼に日本のアパレルの経験を教え、K氏からは若くして独立し成功した華人の経営術を頂戴するという、所謂ハーフ&ハーフのお付き合いの関係でした。
正確には、私の日本人的考え方とK氏の華人的な考え方を、お互いに交流しあい、影響しあっているということになると思います。
(K氏を華人と呼ぶのは適当ではないかも知れません。台湾人と呼ぶべきだとは思いますが、広い意味で華人と使いました。問題あれば、私の浅学とご容赦ください・・・)

10年程前に多くの台湾のメーカーが中国進出を挙ってしたときに、K氏も中国生産に興味を持っていました。

自社のブランドの生産が台湾では価格的に難しくなり、中国生産を計画していました。

再々上海に出張して、現地事務所を設立するところまでいっていました。

ところが上海での工場を取り止めて、急遽ベトナムに工場を作ることに計画変更しました。

その理由は多くは語りませんが、彼独特の直感だったようです。

K氏は他の台湾人が多く進出している福建省ではなく、上海へ計画していましたが、現地の上海で自分とフィーリングが会うパートナーが見つからなかったようです。

彼もやはり信頼できるローカルのパートナーが重要視しています。
共通の言語をもったK氏でも、ローカルのパートナーを重要視していることで、パートナーの重要性を再認識しました。

K氏はベトナムホーチミンで工場設立をし、その商品を台湾の百貨店の自営のインショップで販売をすることを考えました。

それからK氏のベトナム出張が多くなりました。

遠くて不便でその上、上海なら言葉が通じるのに、言葉の通じないベトナムなのかという認識でした。

K氏のベトナム事情は次回に・・・







衣料輸入統計に関連して ベトナム

2006年05月11日 | アパレル放談
衣料輸入統計の数字について、中国が輸入総額の80%シェア-のダントツ1位の状況からすれば2位や3位の順位など意味はないのかも知れません。

ただ、消費者にとっては選択肢が少ないという意味で如何なものかと思っています。

私が昔から買っているアメリカの通販LANDS ENDの生産国を見ていると昔の香港(中国)一辺倒から中米、アジア、南欧、西アジアなど分散してきています。
単にクーターや価格の為でなく適地適品の為の生産国の分散と思います。

昔のカジュアルからビジネス用の商品も増えてバラエティーさが出てきています。
多分生産国の分散化により可能になったのでしょう。

日本のマーケットが今までのように価格、スピード、少量などの、生産の利便性が重要視されるのなら分散は必要なく、ますます中国偏重でもいいのかも知れません。
重視点がお客様の視点でなく供給側の視点であるのが困ったものです。

分散化が必要ならば、2位、3位の国が何処かと言う事も重要かも知れません。

ベトナムがイタリアについで金額ベースで3位でした。(数量では2位)

私がベトナムへ初めて行ったのは「ドイモイ政策」が始まった頃でした。

アメリカがクリントン(民主党)政権時代で特恵国になる可能性が有り、日本の商社も先行的に進出しだした時代でした。

台湾、韓国も為替や人件費高の国内時事情がありベトナムシフトが流行ったときでした。

最初に訪問したときの印象は、市内には米軍の放置した軍用車を無蓋トラック(多分若い人は解らないと思いますが・・・)に改造したり、ホーチミン空港のリムジンバスが京都市営交通のバスが塗装せずにそのまま走っている時代でした。

クチのベトナム戦争時代の地下トンネルを見てベトナムの苦難と忍耐力、団結力や、何か日本人的な創意工夫・器用さに妙に関心し、親近感を覚えました。

歴史的にもフランスとの関係も深く、物造りの文化、センスは、他の新興国とは特異な感じでした。
そういえば、パリのオートクチュールのお針子さんにベトナム人が多く働いていました。

刺繍・手芸のハンカチやテーブルクロス、小物などやインテリ、インテリア雑貨など最近見かけるようになりましたが、ヨーロッパ向けのOEM商品の中に良いものが沢山ありました。

物流のスピードの問題、素材原料が限られて加工中心になる点や言語、商談方法(ドイモイ政策といっても社会主義の国)、遠隔地などの問題もあり、潜在力が生かせていません。
本来であれば商社が機能を発揮できる国と思えますが、クリントン後のブッシュ共和党政権下では期待した特恵国にもならなかったためか、商社もベトナムに重点をおいていません。
繊維の専門スタッフは配置していないような状況と思います。

物造りの潜在的な力や良質の人的な資源などを生かせば、分散のための最有力国になると思います。

私もアパレル退職後はベトナムとも疎遠になっていますので最近の事情は詳しくわかりません。
台湾の友人が10年程前からベトナムでの工場で成功を収めています。
次回は彼のベトナムの経験をブログしたいと思います。







衣料輸入統計について

2006年05月09日 | アパレル放談
1-3月期の衣料輸入統計の数字が今日の日本繊維新聞に出ていました。
昨年比の数量と金額が国別に掲載されています。

中国のシェアー80%の数字は、いまさら日頃から実感しており驚くべき数字ではないのですが、韓国の数字が異常な数字で違和感があります。
統計では、数量比101%、金額146%と言うデーターです。
この数字からすると、韓国のメーカーは今は未曾有の好景気にわきかえっているはずですが、何ら変化がありません。
むしろ為替と単価ダウンで青息吐息の状態です。
この統計の異常数値の原因は他にあるのではと思われます。

多分この異常は数値の要因に付いては、日繊の記者は解っておられると思いますが、記者に代わって私の推論をブログで書いてみます。

韓国側の輸出統計を調べれば、金額ベースではダウンではないかと想像します。

日本の数字は昨年までのイレギュラー(違法)な輸入のデーターが基礎になっているのでは?と思います。

横行していたハンドキャリーへの対応が税関で厳しくなったのが昨年4月だと記憶しています。
金額アップした分が、違法に横行していたアンダーバリューが表面化したことが要因しているという推論が成り立ちます。

具体的なっ調査をしたわけでないので、異論がおありかも知れませんが、あながち暴論ではないかも知れません。
どちらにしても当時のアンダーバリューの現状は異常な状態でした。

私等がいくらこの違法性を説いても理解されず、逆に馬鹿正直呼ばわりされました。
昨年の4月後半から水際(税関)でのみなし課税の対応で鎮静化しました。

この恩恵?に浴した日本のヤング専門店や韓国の東大門周辺のヤングメーカーが大きく成長と言う意外な副産物を生んだといえます。(?)

正常化した後の統計数字がどうなるか、次の期の数字の発表が楽しみです。

ただ懸念されるのは価格の皺寄せが韓国のメーカーにいっていることです。

このコストプッシュに堪え切れずに廃業した韓国のメーカーがたくさんあります。

日本のメーカーの次に韓国までもと言えなくないが、これもビジネス戦争ということかも知れません。
ただフェアーでなければと思います。

情報のこと ゴールデンウィ-クのこと

2006年05月08日 | アパレル放談
長い連休も終わり、仕事モードに戻られていると思います。
 私は殆ど六甲アイランドを出ることなく、自宅と自宅近辺の散策の毎日でした。

最近ケーブルTV(CATV)の会社が変りました。
六甲アイランドだけのケーブルテレビの会社の運営でしたが、5月からJ-COMに経営が変りました。

他の神戸地区のJ-COMグループの配信しているローカル情報番組が増える事になり、デジタル放送のネットが充実されます。
デジタル化への対応が行なわれています。

六甲アイランドは高層マンションが多いせいか、開発当初からCATVでした。

TVショッピングのジュピターが放映当初から流れていました。
深夜の番組をずいぶん前からよく見ていました。
見るだけで購入配していませんが、あの独特の販売トークに興味を持って楽しく?見ていました。
そのジュピターやQVCがこれほど成長するとは想像できませんでした。
今や立派な流通のチャネルに成長しました。

六甲アイランドは光ケーブルも早く施設されていた関係上、比較的早くからブロードバンドでした。

近くの神戸ファッションマートにある小さなベンチャーが開いたポータルサイトの神戸・大阪・京都に限定したタウン情報のポータルサイトのQレップが充実した内容に成長してきているとのことです。
地域限定のタウン情報だけのポータルサイトです。
もう少し充実してくれば結構重宝すると思います。

WebだけでなくMobileも大きく進化しています。
いつのまにか携帯電話が電話ではなく情報端末化しています。


従来の情報も多様化しています。
ポストには新聞だけでなくミニコミ誌や宅配によるカタログが何時も満杯の情報が来ます。
町にはフリーペーパー誌が溢れています。(フリーペーパが雑誌の部数を上回ったとのことです)
テレビ番組もローカルな情報番組も充実してきています。

最近では情報をいろんな方法で、何処でも入手する事が出来ます。
情報の坩堝、情報過多で情報に麻痺して(疲れて)いるかも知れません。


その意味で連休はその情報過多から遮断するためのものであるべきかもしれません。
欧米人がリゾート地でのんびり休んでいる姿をよく見かけましたが、昔は不思議だったのですが、解るような気がします。