「業際」を超え・「域際」を超え・「世代の際」を超えて!

理論を貫いて実践に生き! 実践を通して理論を究め! 前へ前へと進もう!

「私の心に残った語録」16 最終

2006年08月31日 | 今様隠居道

 インパナトーレ3年とブログ100回投稿を記念(?)して、イトキン時代の創業者からお聞きし、私の心に残ったお言葉を「語録」としてブログ投稿をしてきました。
いつの間にか、そのシリーズも、16回目になってしまいました。
その他にも沢山の「語録」はありますが、この辺で最終としたいと思います。

インパナトーレのブログ投稿の最初にも書きましたが、梅干し博士と言われた樋口清之の「逆さ日本史」に書かれているように、
「現代に起こっている現象や事件は、過去の歴史に溯って関係している」、「倒除法的に昔の歴史を溯れば、未来が見えてくる」との説に基づいて、私の昔のアパレルの経験を書いてみました。

歴史に完全な連続性を求めることも正しいとは思いませんが、何かのつながりを感じます。
戦後の昭和25、6年ごろがアパレル(婦人既製服製造卸業)の創成期とすれば、そのころ生まれたアパレルの経営スタイル(社風・企業風土)には類似性があるように思えます。
戦後焼跡派、引揚者、帰還兵などの先輩方が、起業され、寝食を忘れて、卓越した統率力のもとに同志的結合で、物のない時代に商品の確保や商品つくりに独特の工夫と苦労を重ねて、「より早く、より安く、より多く」商品供給に成功して、企業発展の基礎を作られたと思います。

 私は前々から「起業の風土や社風と言われるものは創業者の青年時代の原体験が大きく影響しているのではないかと言う仮説」を持っています。

そのように考えれば、
*昭和25,6年の第一世代の企業群
*昭和30年代中頃創業のワールド、ジャバ、ジュン、VANの時代
*40年代のマンションメーカーの時代、
*50年代のDCブランドアパレルの時代、
*平成アパレルの時代やメガセレクトショップの時代、
*平成10年代のSPA時代
*現在のSelect&SPA(造語)時代・これからのクイック&モルタルアパレル?の時代
   ボーダレスアパレル(販売地域もアイテム) 
(異業種参入) 

など、それぞれの時代の企業の風土は、その時代、時代で共通し、影響しあって創造・発展・成熟・衰退の循環をしてきたと思います。

暇を見つけてその時代考証をしてみたいと思っています。
機会があれば、ブログかHPで公開して、皆さんのご批評を仰ぎたいと思っています。

昔読んだ大前研一氏の「ストラテジックマインド」の本の中に興味深く感じたことがあります。

「立派な事業戦略は、厳密な分析よりも、特定の意識、心象から生まれたものである」 「戦略家の意識・心象とも呼ぶべきこの心的状態の中では、洞察力とそれに伴う達成意欲、時には使命感にも通ずる意欲が推進力となって思考作用を開花させる」「基本的には合理性よりも、むしろ創造性と直感に基づく思考である」

20年も前の内容なので、新しい情報社会の今の時代にそぐわないかも知れませんが、興味深い内容と思っています。

松下幸之助、本田総一郎、井深大などの多くの日本の創業者には、
この洞察力」と言うストラテジックマインドが先天的に具わった方が多いのではないでしょうか。

イトキン㈱の創業者の辻村金五名誉会長も、その洞察力が卓越されていたのではないでしょうか。
同時代の他のアパレルの創業者も同様の洞察力を持った方が多いと思います。
時々発せられる「洞察力に基づいた、禅問答的な語録」を凡人の私は、時には反発はしましたが、盲目的?に従い、遮二無二?頑張ってきたのです。

歴史は連続性と不連続性とが入り組んで進化していくものだと思います。
いつの時代にも「洞察力」というストラテジックマインドは必要と思います。
その戦略を達成するための達成意欲、使命感が重要です。

洞察力だけでなく、「達成意欲や使命感」の維持は難しいものです。
「克己」の額を捨ててしまうような私には到底かないません。
せっせと「使い走り屋」のインパナトーレに汗を流すことにします。


*ブログに事前の了解をお取りせず、お名前を出すことに躊躇しましたが、ほとんどが20年以上も前の事でもあり、勝手にお名前を拝借しました。
中身には配慮したつもりですが、もしご迷惑をおかけした内容があれば、お詫びします。

 


「私の心に残った語録」15 「克己」 「理想は高く、姿勢は低く・・・」  立命館大学元総長末川博

2006年08月29日 | 今様隠居道

久し振りに学生時代の友達と会って学生時代のことを思い出しました。

私は「法学部」出身ですが、「法」の字を、「放」の字に置き換えたほうが良いのかもしれません。 
「法学部」→「放学部」=学問を放る。

一応学士号の証書は頂いてはいますが、その卒業証書より大事にしているものがあります。

末川博総長から卒業記念に頂いた色紙です。
その色紙には次のように書かれています。

      理想は高く 姿勢は低く
     いつも心に太陽を持って
    ゆっくりと がっちりと
     理論を貫いて実践に行き
    実践を通して理論を究め
     前へ前へと進もう

             未来を信じ、未来に生きる
                君の洋々たる前途を祝福して

                         末川博

結婚式の記念に頂いた「克己」の色紙は、今は手元には無いと先のブログに書きましたが、
この色紙は今でも私の書斎に額に入れて掲げています。

私の座右の銘として、毎年の始めに、その年の手帳にこの文章を書き込んでいます。

 「未来を信じ、未来に生きる、君の洋々たる前途」の部分は、
還暦を過ぎた私には少し気恥ずかしいところもありますが、
「理論を貫いて実践に生き」、「実践を通して理論を究め」は実社会に出てから大切にしています。

これからも、インパナトーレのモットーとして、
「未来を信じ、未来に生きる」ための励みにしていこうと思っています。

注:末川博http://www.cc.matsuyama-u.ac.jp/~tamura/suekawahirosi.htm
京都大学法学部教授
昭和8年の京大滝川事件に抗議し、京大教授を辞任
立命館大学法学部教授
立命館大学の総長就任


「私の心に残った語録」 14  雑感

2006年08月28日 | 今様隠居道
先週末、大学時代の親しい同期の仲間と久し振りに一泊で京都で同期会がありました。
2名が仕事の関係で欠席しましたが、6人が参加して楽しいひと時を過ごしました。
殆ど定年で年金生活と再雇用の生活です。
昔は仕事の話しや子供、女房の自慢と愚痴話しが中心でしたが、今回は年金制度やリタイア後の生活状況の報告会になりました。

金融・生保、広告・印刷、コンピューターや地方公務員など職種はまちまちです。
一応、名の知れた企業に在籍し、定年を迎えています。
厚生年金や共済年金制度と起業年金基金や退職年金制度などと、再雇用制度を上手に組み合わせて、多少の不満を言いつつも、最後?の年金制度の恩恵に浴した熟年生活を過ごしています。

話しを聞いていると、業種間や企業の事情で制度の差があるのに興味がありました。

アパレル業界では余り耳にしない、退職金の企業年金制度や401kの事や再雇用制のこと等も話題になり、「熟年一人起業」と粋がって、インパナトーレを起業しています私にとって、彼等の話しを聞いているうちに、何故か寂寥感を覚えました。

アパレル業界として確立した歴史も比較的浅く、他産業に比べ諸制度は遅れているように感じます。
アパレルは、人的流動性?の高い産業でもあり、長期スパンで対応するより、成果配分の業績賞与などで対応していることが多いのではないかと思います。

また社員の方もその認識も甘く深刻に考えてこなかったことも否定できません。
家族的、同志的結合の精神は、その様な制度を入り込む余地も無かったのかも知れません。

業種特有の変化やスピードに対する短期的な対応に終われ、長期的な視野に立った対応を排除する傾向が労使双方に会ったと思われます。

そのことがアパレル業界の人材の流動化を促進し、ある意味では業界の発展のもとになったと思われます。

業界の歴史が比較的浅いアパレルでも、その発展期に入社し、その発展の原動力となった社員が、これから定年を迎え、人によっては、「蟻さんとキリギリス」のイソップ童話が現実問題になります。

雇用延長の制度も双方にとってハッピーで有ればいいのですが、そうはいかないのが現実です。

定年後の備えについては、企業側の長期の対応も望まれますが、従業員側も、現役時代に自立できる準備を心がけることも必要と思います。

比較的個人の経験や技術などが重要とされる業種でもあり、組織化された他の産業よりも、活動の範囲も広く、活動の期間も長いと思います。

私の現在のインパナトーレの仕事の話しを興味を持って聞いてくれました。
最後には羨望と励ましの言葉をもらいました。

退職後起業しているのは私だけです。
アパレル業界は、他産業に比べ自立化が出来やすい産業だと思います。
こう考えれば、2007年問題も楽しい(遣り甲斐のある)ことかも知れません。

帰りの車中で一人になった時に、学生時代とは言い過ぎですが妙なファイトが沸いて来るのを感じました。
学生時代の仲間8人で開設しているYahooグループメールを今朝開いてみると、激励のメッセージが入っていました。
関西在住の者から健康のために{六甲山トレッキングの会}の呼びかけもありました。
今回は余り話題の中心にならなかったのですが、健康の維持も重要なことと思います。
次回は多分健康の話しが中心になる事でしょう。

学生時代の友達は良いものだと、つくづく思いました。
大切にしていきたいと思います。









「私の心に残った語録」 13  パートナーシャフト経営

2006年08月24日 | 今様隠居道

創業時代の創業者を中心とした同志的結合の時代から、事業の拡大と共に、新しい組織経営が必要となってきます。
私がイトキン㈱に入社した頃がちょうどその頃だったと思います。
当時の大阪の経営者は松下電器の松下幸之助を経営の師と尊敬しその経営を参考にすることが多かった。
松下電器の連邦経営で業績の拡大を計っていた頃です。

確か、ドイツ出張から帰られた直後の朝礼で突然デビィジョン制の発表がありました。
ドイツのミュンヘン大学のGuido.Fischer(ギド・フィッシャー)教授の「パートナーシャフト経営」について熱弁を振るわれました。
ドイツのホテルで夜通し考えられている姿を想像しながらお聞きした思い出があります。

パートナーシャフト経営とは「労使が共同して研鑚し、労使は二つの同権の対等のパートナー(共同者)であり、企業の中に共感と信頼を基礎に新しい人間関係を築いていく」「成果配分ないし資産配分などの決算利益配分が計画されており社員の生活基盤を企業と共に共同体として考える」という経営です。

ちょうど社員数も増え、労働組合の必要性を求める社員も出だした頃で、新しい経営の必要性があったこともあり、小集団を行動の単位にして、その後のイトキンの経営の基本となりました。

当時は先輩や上司が「功名が辻」さながらに「功名」を争い、会社も大きく業容拡大になりました。
時が経つと、私もその「功名が辻」(?)に迷い込んでいました。

その後、ワールドやジャバさんを始め、東京のアパレルも多く導入しアパレル企業の経営の中心になったと思われます。

残念なのは、その後「成果配分という面のみ」が強調されて、「労使が共同して、個人や人間を中心にしたより良い人類社会をつくりあげる」という、フィッシャー教授の目指したものと違った方向に定着してしまったような気がします。
業界紙で組織変更や人事異動が掲載されますが、頻繁に変更、異動があるのは、このデビジョン制を採用している企業が多いように感じます。
何か関係しているのではと思っています。

ただ昨今の資本の論理のホールディングカンパニーを中心とした連邦経営?よりは私としては共感でき、それよりはマシと思わないといけないのかも知れませんが・・・・。

 

 


「私の心に残った語録」 12 「克己」

2006年08月22日 | 今様隠居道

絵画に造詣が深いが、書も時々書かれていたようで達筆です。
印象に残っているのは、社員の結婚の記念として頂いた色紙のことです。

『克己』と自筆で書かれて、額に装填してお贈りいただくのです。

今までのブログの通り、ご自身は「克己」の言葉そのもののお方の自筆の書ですから、その意味でそ書かれた言葉には説得力があります。
多分ご自分の座右の銘だと思います。

仕事だけでなく、結婚生活まで「己に克ちなさい」という意味か?と変に重たい感じがし、結婚のお祝いとしては少し抵抗がありましたがましたが、当時はありがたく頂戴したものです。
しばらく大事に部屋に掛けてありました。

実はその額は今は手元にありません。
私が退職した時に手元に置いておく事に抵抗があって処分してしまいました。
若気の至りと反省しています。
克己の精神だけは守っていこうとと思っていますがなかなか難しいことです。

その後会社が大きくなり、結婚記念の贈り物も知らない間になくなりました。
今在籍している社員の大半は持っていないと思います。

企業が徐々に大きくなり、初期の創業者を中心とした同志的結合から、
新しい近代的な組織に質的に変わっていく過程を垣間見るようです。

イトキン㈱だけではなく、戦後の産業である同業アパレルも似通った過程を歩んできています。
殆どの創業企業では、これに類したことが行なわれてきたと思います。

 NHKの大河ドラマの「功名が辻」を見ていますと、何故か昔の自分達を見ているようです。


「私の心に残った語録」 11 趣味と実益  

2006年08月21日 | 今様隠居道

小篠弘子先生とイトキン㈱との提携時の辻村名誉会長の言葉も印象に残った言葉でした。
ご縁があって提携をすることになったのですが、その頃はヨーロッパブランドのライセンス契約が主で、国内のデザイナーとの提携は初めてでした。

それまで小篠弘子先生はオートクチュール中心で活動されており、プレタポルテの提携は過去数社行なっておられましたが、余りいい結果が出ていませんでした。

先生がそのことに触れられ「この提携が最後と思って頑張ります」といった意味の話しをされた時に、例のニコヤカに、少しハニカミ気味に話された言葉です。
「私は画商のような者です。画家を育てる事が画商の仕事ですから」

その言葉を聞いて、担当者の私は日本のデザイナーとの提携は初めてで、どのようにプロデュースしたら良いか、迷っていたのですが、時間を掛けて育てることが出来ました。

初期の頃は、両社の企業文化や風土の違いなどで、少し戸惑うところもありましたが、その言葉がよりどころになった思い出があります。
私はイトキン㈱を退職したましたが、その後のブランドの成功は皆さんご存知のとおりです。
小篠弘子先生は日本の画壇(デザイナー界)の重鎮になられ、画商の目も正しかったと言えます。

欧米のメガブランドの企業買収、世界戦略や日本のM&A、TOBなどの記事が紙上をにぎわしています。

さながら、ササビーのオークションでの絵画の売買を見ているようです。
「画商がジックリ画家を育てる」というようなことは、時代錯誤になってしまったようです。

最近ようやくデザイナー育成の機運が生まれつつありますが、行政や業界主導では無く、デザイナー達の自立型の活動が重要では無いでしょうか?
それを企業側がジックリ育てていく関係が理想なのでしょうが、時代のスピードが許さないのでしょうか?


 

 


「私の心に残った語録」Ⅹ 趣味と実益

2006年08月18日 | 今様隠居道
ヨーロッパ扇の収集が趣味と実益を兼ねていると勝手な決め漬けをしましが、もう一つの趣味は絵画だと思います。

私が入社した頃の話しですので、40年近く前の事ですが、何気なく東山魁偉画伯の絵が掛かっていました。

まだ唐招提寺の襖絵をかかれる前で今ほど有名ではなかった時代です。
知る人ぞ知るという感じでした。

その画の話しになった時に「東山画伯は○○のような流行・多作家ではない」「皆は挙って著名な画家の絵画を集めているが、私はそのような絵画には興味がない」「東山画伯のように多作家ではない画家の絵画は将来値打ちが上がる」とニッコリ笑いながら話しておれれました。
その当時は第二期のアパレルの黄金時代で、アパレルのオーナーが画や美術品を買うのが流行った時代でした。

よくあるような、これ見よがしの高価な大作を玄関ロビーに飾るというのではなく、
社長室(当時)に他にも今では名の通った画家の画を時々掛け変えて楽しんでおられました。

藤田画伯の絵もさりげなく飾ってありました。
当時は藤田画伯の奥様が購入者に直接お会いされて、夫の画の購入者の人物を見極め、大事に扱ってもらうために、挨拶を兼ねて訪問されていたそうです。
会社に来社され、ショールームをご案内した思い出があります。


無趣味で絵心など全くない私でしたが、結構影響を受けたのかもしれません。
その頃は若く、社長室でお話しするのは緊張し億劫な事でしたが、何故か楽しみだった記憶があります。

その後の東山画伯や藤田画伯の画壇での評価を見るにつけ、趣味と実益などと乱暴な決め付けは慎まなければならないのかもしれません。

「私の心に残った語録」Ⅸ 趣味と実益?

2006年08月17日 | 今様隠居道
お盆も終わり、今日から平常の業務です。
若い頃のお盆といいますと、家族を連れ遠出をしたものですが、歳とともに変わってきました。
嫁いだ娘家族が盆礼(遊び)に尋ねてきてくれます。
久し振りに皆でお墓参りや、団欒、孫の子守りとのんびりしたお盆でした。

久し振りのブログ投稿です。
しばらく、お暇をもらっていました「私の心に残った語録」を続けます。
今回で9回目になりますが、今までの語録は、仕事に対する厳しい姿勢を強調した内容が多かったかも知れません。
今日は少し違った一面をご紹介します。

趣味は?と聞かれれば、仕事と答え他方が適切かも知れませんが、余り知られてい趣味があります。
ヨーロッパ扇子(Fan)に造詣の深いお方です。

ヨーロッパの扇(Fan)は日本の扇子以上に、ジュエリーと同じようなアクセサリー的なもので珍重されています。
象牙や金を細工して芸術品といえます。

パリ出張に同行すると、市場調査の途中で小さな通りにあるアンティークブティックで品定めにお付き合いをよくしたものです。
私の記憶では、決して高値な物で有りませんが、出張のたびに、忙しい合間を縫って、コツコツと集めておられました。
(若かった私にはどう見てもガラクタとしか見えませんでしたが・・・)

そのフランスの扇子が大阪の本社ビルが新築した時に、応接室のウインドウに趣味よく飾られました。
その後、社内報の名前が『Fan』と言う誌名になりました。

私にはガラクタとしか見えなかったあの古いセンスが、美術品として新しいビルの応接間に美術品として立派に甦ったのです。

ある時に、NHKの番組でその扇子が取材され、辻村名誉会長のインタビューも交えて放映されました。
アナウンサーのインタビューに答えて、フランスの貴族社会の女性の象徴でもあった扇(Fan)のデザインの流れを、フランスの暦史を追いながら説明され、
フランス革命で貴族社会の崩壊と共にその象徴でもあったFanは姿を消したと、ルイ何世、マリーアントワネット等の名前を上げながら、見事に解説されていました。

世間では、サザビーのオークション等で高額落札で集める成金的な趣味もありますが、蚤の市やパリの路地裏の小さなアンティークブティックで安く(失礼!)コツコツと買い集めた物が、本社ビルの応接室の美術品として、皆の眼を楽しませ、社内報の誌名になったり、NHKにも取り上げられる、これが本当の趣味かもしれません。

本社ビルの基本デザインも、このFanが源になったと聞きました。
ビルの建設前の出張では、ディオールのビルやジョルジュサンク通りのビルを写真にとっておられました。
「それもご趣味ですか?」とお聞きしたら、「本社ビルのデザインの参考にするのだ」と言っておられました。


Fanとのイメージ統一をお考えだったようです。
やはりこの方にとっては、趣味も仕事の一つという事かも知れません。
文字通りの「趣味と実益」と言えます。

「私の心に残った語録」ではありませんが、「心に残った出来事」でした。



お知らせ

2006年08月12日 | アパレル放談

このブログをお読みいただいている方の殆どが、アパレルのビジネス関連の方が多いと思います。
私もインパナトーレの仕事の合間に、このブログに投稿しています。
ほとんどの方が今日からお盆休暇に入られたことと思います。
会社の仕事の合間に子のブログをお読みいただいているようで、
私も16日までブログの夏休みに入ります。
17日から再開しますので宜しくお願いします。


「私の心に残った語録」Ⅷ

2006年08月09日 | 今様隠居道

戦後引き上げの時に税関で木箱数箱没収された聞かされた時、20歳そこそこの若者がどうしてそんなにお金を稼げたのか不思議でした。
今から思えば随分失礼なことでしたが、、「どのようにして、そんな大金を稼がれたのか?」を聞いたことがあります。

その失礼な私の疑問に懐かしそうなお顔で、少し自慢げにお話しされました。
「小間物屋の丁稚として店で働いていたが、そんな小さな小売屋では、所詮知れている」
軍隊の将校が履いている長靴は脱ぎ履きするのが大変で困っているということを聞き、短くして半長靴に改良して売ったら爆発的に売れた」
ということです。着脱が長靴より容易で、将校がプライベートな時に重宝したようです。

その商売が青島で数箱の木箱の軍票を稼いだとのことです。
そのことをお聞きした時に、小間物屋からの転進、履きやすい半長靴の企画という二つの決断と判断があったと想像します。
半長靴のアイデアは、将校が遊びに行く時に脱ぎ履きがし易いようにとちょっとしたアイデアで考案されたようです。
どのようにしてそのアイデアが浮かんだか、少しはにかみ、笑いながらお話しされました。

膝近くまである長靴は、確かに脱ぐときも履くときも手間がかかります。一日中はいている時は良いが、食事や座敷にあがる時など大変だということに気が付き、アンクルブーツのような半長靴を考えられたようです。
いろんなことについて、四六時中何かを考えて居られる姿が想像できます。 
小間物屋のような小売では大きな事業は出来ないという判断で、小間物屋の丁稚をサッサと辞める決断の速さと、小さなニーズにアイデアを凝らすし事業化する素早い行動の原点を垣間見たような思い出です。


「私の心に残った語録」Ⅶ 

2006年08月08日 | 今様隠居道

皆さんご覧になった方も多いと思いますが、昨日のニュースで「戦後に海外の引揚者から没収し保管している軍票や日本軍が発行した朝鮮紙幣の虫干しを、税関がしている」ニュースが報道されていました。

そのニュースでは、没収した紙幣は返還はしないとのことです。

辻村名誉会長から、戦後青島から税関で木箱数杯の軍票を没収されたお話しを7月31日のブログに書きましたが、この事だったのでしょう。
多分その軍票も含まれているのだと、他人事ではない感じで、そのニュースを見ました。

最近お盆が近づいて来たためか、太平洋戦争に関する報道が多い。
今年は、ポスト小泉首相に関連して、靖国問題始め戦前戦後の歴史総括の話題が例年に比べて多いように感じます。
また、新たな歴史的証言や資料が出てきて、近代史に無知な世代にとって、興味があり、大いに勉強になります。

政治問題は、このブログはタブーにしようと思っていますが、戦後衣料統制が解除になった昭和25年をアパレル(既製服産業)の起源とするなら、日本の近代史とアパレルの歴史とが妙にトレースができるように思えます。

最近の世論調査では戦争を知らない世代や東京裁判のことを知らない若い世代が80%~90%の結果だそうですが、アパレルの歴史も同様だと思います。

私は歴史を強要する右派でも左派でもありませんが、お盆を迎えたこの頃に、創生期のアパレルの歴史を紐解くのも意義あることと思います。

創世記の部分については、上司や業界の先輩からの伝聞もありますが、私も「つい先ほどの事は忘れて、昔懐かしいことは記憶に鮮明に残る」年代になってしまったのか、昔の事は鮮明に記憶しています。
昭和40年以降は、私の原体験にもとづいています。
実名で書いた方がよりお解りいただけると思い、お許しを得ないままに書いています。
お許しを得ていない事が少し気がかりですが、暫く続けたいと思います。


私の心に残った語録」Ⅵ

2006年08月07日 | 今様隠居道

創業者の若い時の原体験がその企業の社風に大きく影響するのではないかという、私の仮説について今日も披露します。

私がイトキン㈱を退職し、随分経った頃に長崎の専門店の三代目の若社長から聞いた話しです。
その三代目の若社長は、祖母から聞いた話しをしてくれました。

戦後の昭和20年後半頃は、地方の専門店は、店で販売する商品を大阪の船場の前売り問屋に夜行に乗って買い付け(買出し)に行くのが日常でした。

その長崎の専門店の祖母も、度々大阪の船場に夜行列車で買い付けに行ったそうです。
今は少なくなりましたが、船場にはそのような前売問屋が軒を並べていました。
東京では横山町界隈が有名です。

その頃は、物の無い時代で、店の戸を開けると、早朝から店の前で並んで開店するのを待っていたお客様が、基礎って商品を確保し、直ぐに売り切れになったそうです。
昔先輩から赤提灯の飲み屋で、自慢げに話しを聞いたものです。
(今の卸売のアパレルの方が聞かれたら羨ましいことですが・・・・。)

その祖母の話しによると、数ある前売り問屋の中で
「ある前売り問屋が、買い付けが終わると、いつも決まって、お味噌汁とおにぎりとお茶をお相伴してくれた」
そうです

その店の奥さんの手造りだったそうです。

夜行で上阪し、買い付け作業をする訳で、今のようにコンビニやファーストフード店など無い時代でもあり、ましてや食べ物の無い時代で、その祖母には、出された味噌汁とおにぎりが本当に美味しくありがたかったとのことです。
その祖母は、この前売り問屋は、きっと大きくなると確信したとのことです。


その前売り問屋とは、今のイトキン㈱だったそうです。
奥さんとはイトキン㈱の創業者の辻村金五名誉会長の奥様だったとのことです。

私が入社した頃は、既に芦屋のご自宅にお住まいされており、私にとっては「芦屋の奥様」でしたが、創業の頃は社員と一緒に頑張っておられたそうです。

先輩から昔の話しは再々聞かされましたが、この話しは聞いたことはなく、外部の方からお聞きして、あらためて創業時代のイトキンの姿を垣間見る感じがしました。

この話しをお聞きしたのはイトキンを退職して10年近く経っていましたが、妙に我が事のように、うれしく聞き、心に残った言葉でした。

その専門店の祖母は故人となられたそうですが、三代目の孫に、事業の何かを伝えたかったのだと思います。

 


「私の心に残った語録」Ⅴ

2006年08月03日 | 今様隠居道

創業者の若いときの原体験がその社風、企業風土に強く関係しているという私なりの仮説を持っています。

 今日はイトキン㈱の話ではなく、ワールド㈱の話です。
ワールドの創業者の一人である木口衛氏の言葉も何故か私の心に残っています。
私が在籍していたイトキン㈱とはライバル的な関係にあったために、ワールド㈱は何かと気になる存在だったためかも知れません。

私の在籍していた頃、イトキンの社内では、「ワールド㈱のお客様だけでなく、納入業者に対する挨拶、礼儀の良さ」を見習って、挨拶礼儀の徹底の研修が再々行なわれていました。

それほど徹底した躾がどのようにして行なわれているのか興味がありました。
その理由が解ったのは、読売テレビで放映されてた藤本義一氏との対談の番組を偶然に見た時でした。

対談相手の藤本義一氏の「ワールド㈱の挨拶・礼儀の良さ」についての質問に答えて、木口氏は、戦前に満州で、小さな商店に丁稚として働いておられた時の体験談を披露しておられました。

 夏の暑い日に、丁稚時代の木口氏が、ある会社に大八車で納品に行かれた時、その会社の幹部の方が冷たい麦茶を入れて丁重に労をねぎらわれたとのことです。
その時に、木口氏は、丁重な対応のお礼と共に、「納入業者の丁稚に対して、どうしてこのように丁重に対応していただくのか」、その訳をお聞きされたそうです。

その幹部方は
お客様であろうと、納入業者であろうと、当社に利益をもたらしていただいている。納入業者であってもお客様同様に大切さは変わらない」言われたそうです。

この丁稚時代の体験を大事にして、ワールドの社風にしていると、藤本義一氏の質問に答えられていました。
ワールド㈱の
「お客様、業者の区別のない、徹底した挨拶・礼儀の良さ」は、創業者の木口氏の戦前の丁稚時代の実体験が大きく影響していると思います。

 追:満州の会社とは、松下電器の満州支店で、幹部の方とは、後の三洋電機の創業者となられた井植歳男と話されていたように記憶しています。
今の三洋電気の状況を見ていると、創業者の影響が、どの時代まで継承されるのか(されるべきか)という疑問も少し出てきます・・・・・。