「業際」を超え・「域際」を超え・「世代の際」を超えて!

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オンワード樫山と資生堂のメガブランド戦略

2006年10月28日 | アパレル放談

オンワード樫山の繊研レディースバイヤーズ賞の授賞は、同社のメガブランド戦略によるところが多いと思います。
最近、メガブランド戦略で成功し業績を大ききく改善した化粧品の資生堂が話題になっています。

資生堂は、売り上げ減少を防ぐための手段として採った多ブランド戦略や委託販売戦略が業績の低迷につながったと、アナリストは分析しています。

先週のテレビ番組のサンデープロジェクトで、資生堂のメガブランド戦略のことが報道されていました。
化粧品業界の販売形態は、従前のアパレル業界と似通ったところがあります。

番組では、数年前のアパレル業界と似通った事例が紹介されていました。
資生堂もアパレル業界と同様に、委託的な販売形態で、「押し込み販売」による売り上げ拡大の手法に頼っていたそうです。
売上低迷を防ぐために次々と新ブランドを発表し100ブランドを超えていたそうです。

花椿会で知られている強固な販売網は、委託性を生み、キャシュフローの伴わない押し込み販売の売り上げ至上主義が資生堂の業績を圧迫していたのです。

「押し込み販売」とか「店頭起点」など、アパレル業界だけと思っていた業界用語が資生堂のトップが頻繁に使っておられるのを聞いて、資生堂の実態を垣間見た感じでした。

創業家で無く、始めての社長となった池田前社長が最初に着手した政策が委託販売の撤廃でした。
店頭を無視した押し込み販売の結果、協力店の店頭在庫が400億円に膨れ上がっていたとの事です。
その全量を200億円強の損失を伴って返品処理を行う大手術を行い、前田現社長にバトンタッチを行わったと報道していました。

前田新社長は100以上になっていた多ブランド戦を絞込み、MaquillageやTsubaki、Unoのメガブランドに集中する戦略です。
最近の広告宣伝を見ているとメガブランドへの集中化がうかがえます。

もう一つ注目すべきことは、資生堂の美容部員へのノルマ撤廃の政策です。
資生堂にとって美容部員を通じた強力な販売手法は創業来の伝統であり、店頭販売の原点でした。
その美容部員による店頭販売は、厳しいノルマにより成り立っていたといっても過言ではありません。

「真の顧客満足」と「店頭起点」を徹底するために、「店頭販売のノルマ撤廃」の断行です。
当然それに代わるモチベーションアップ策は採られていますが、売上ダウンのリスクを伴う大改革です。

最初に資生堂の番組を見た時は、社長の口から「店頭起点」「押し込み販売」と古い用語が出て、それを聞いて、「アパレル業界に比べ資生堂の旧態依然の体制」に奇異な感覚を持ちましたが、番組後半の「美容部員のノルマ撤廃の大政策」には、ノルマ主義が前提になっているアパレル業界のFAの実態を比べ、アパレル業界の後進性に少なからず衝撃を受けました。

心配された売上の減少も数%にとどまったとの事です。




 


オンワード樫山の繊研ベストバイヤーズ賞受賞とメガブランド戦略

2006年10月26日 | アパレル放談

毎年発表される繊研新聞の「百貨店レディースバイヤーズ賞」で特徴的な現象が見受けられました。

プレタ特選部門を除く、ヤング、キャリア、ミッシー、ミセス4つの部門のベストセラー賞を、オンワード樫山が独占した事です。
例年はワールドやイトキン、フランドルなどの百貨店アパレルが、それぞれの賞を競っています。

それが今年は、
ヤング部門 ⇒組曲
キャリア部門⇒ICB
ミッシー部門⇒23区、
ミセス部門 ⇒自由区
常連のプレタ特選部門のバーバリー(三陽商会)を除いて、
オンワード樫山が集中して獲得しました。

そのブランドが、10年程前に相次いで開発投入されたブランドであることも興味が湧いてきます。

他のアパレルが数多くの新規ブランドを次々に投入し、多ブランドで売り場シェアーを確保して、売上げ増の戦略に走ったのとは異なり、オンワード樫山のメガブランド政策は、他社の戦略に比べ異彩を放っています。

オンワード樫山は、ライバル他社が採った多ブランド政策に走ることなく、
綿密なマーケティングに基づいたブランドを、生産、販売、ロジスティク、セールスプロモーションなど、メガブランド育成のための総合的な取り組みを着実に実行して来た結果だと思えます。

各ブランドごとに、店頭MDの確立や、海外・国内生産の整備、店頭販売強化、メディアミックス、プロモーション、情報・物流体制、品質管理などメガブランド育成のための基本的な作業の積み重ねが実を結んだものと思われます。
カリスマデザイナーやMDの個人の力に頼ったヒットブランドではない、オンワード樫山の企業力を感じさせます。

今回の授賞は、単純に人気ブランドの授賞と言ったものではなく、もっと重みのある物に思えます。
各ブランドが授賞したのではなく、「オンワード樫山という企業の授賞」といったほうが良いでしょう。










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伊太利屋というブランドのこと

2006年10月25日 | アパレル放談

ブランドがその商品の製造者が自社製品の品質やサービス、イメージなどを発信し
差別化する定義づけするなら、その典型的なブランドが有ります。
40年代後半の会社設立から変わらず、ワンコンセプトを守りつづけている、
伊太利屋がそれにあたると思います。

トレンドを表現することがファッションとすれば、伊太利屋は特異なブランドといえます。
伊太利屋のホームページを開くと、菊池社長のブランドに対するメッセージが出ています。
時々このようなHPで主張している内容と実際の企業活動とが異なっている会社を見かけますが、
創業以来変わらないブランド(企業)は、ファッション業界では珍しいと思います。
伊太利屋の菊池社長について、私は強い印象を持っています。
一般的に知られている、「ピンクのロールスロイスやイタリアヴォーグ誌に掲載された
豹と一緒の写真」やイメージではなく、それより随分と前のことです。

昭和40年代に、三紫グループという婦人既製服の会社が東京にありました。
菊池社長は、その三紫のボトムのMDだったと記憶しています。

三紫グループは、三紫シメオン、カーメットなど、最初にディビジョン制を取り入れ、
三紫の会社はなくなりましたがその後のマンションメーカーからDCアパレル時代へと
人的に大きく影響を残しました。

菊池社長は、ミニスカートが大流行した昭和40年代に、次々ヒット商品を生み出す、
三紫カーメットの敏腕MDでした。

タータンチェックのキルトスカートやローラライズ(当時はヒップボーンと言っていましたが)の
マイクロミニスカート、ジャージのワンポイントのロゴ付きスカートなど、
ヒット商品を生み出す、私にとっては憧れのMDでした。

私は当時20歳半ばでMD経験が浅く、菊地課長の商品造りを大いに参考にさせていただきました。
それが、その後のジャージースカートの大ヒット商品を生み出し、
その後の私のMDの仕事に、大いに役立つ事となりました。

伊太利屋ブランドに興味を持っているのは、そんな思い出があったからです。


ハンカチ王子と歌舞伎

2006年10月24日 | アパレル放談

女房は私のBlogをDocomo携帯で見ています。
昨日のハンカチ王子のBlogを見て、その話題に関して、歌舞伎の面白い話しをしていました。

先週の日曜日に市川染五郎の「10月花形歌舞伎」を友達仲間と観に行きました。

その通し狂言の中で、「私の息子もハンカチ王子のようになってくれると良いのに・・・」と青いハンカチを取り出して汗を拭くアドリブ的な演技が観客に大うけしていたそうです。
確かに「ハンカチ王子」の人気を支える観客の大半が中年女性である歌舞伎に、うけるアドリブかも知れませんが、古典芸能の歌舞伎にも、「ハンカチ王子」のような時事的なアドリブが使われているのを知り少し驚きました。

文楽や浪花節などの古典芸能がすたれた中で、最近の歌舞伎の人気は目を見張るものがあります。
古典を守りながら、新しい試みが、中年女性達が歌舞伎に興味を持つきっかけとなりました。

市川猿之助の「宙に舞うダイナミックなスーパー歌舞伎」や中村勘三郎の「馴染みやすい歌舞伎の平成中村座」など、気鋭の歌舞伎役者が、古い伝統に対して、新しい試み、挑戦が、古いしきたりの中で行われていました。
その結果、「ハンカチ王子」のアドリブに反応できるような中年女性を歌舞伎ファンに取り込みました。
その後、若手の歌舞伎役者の後継者が後に続き、歌舞伎の若返りのきっかけとなり、今日の隆盛となりました。

長く低迷していた大阪の落語会も、若手の地道な努力や大阪の繁盛亭の新しい試みなどで、新しいファンを掘り起こして、最近では人気の回復傾向が見られます。

低迷しているアパレル業界も、古い商慣習や、手法にとらわれることなく、歌舞伎や落語会に見習って、新しい取り組みが必要なのかも知れません。









 


一澤帆布と信三郎の騒動と「ハンカチ王子」商標登録問題

2006年10月23日 | アパレル放談

一澤帆布と信三郎帆布の騒動やハンカチ王子のブランド騒動のことを見ると「ブランドとは何ナノか?」と思ってしまいます。
元々ブランドは「昔、牧場主が自分の牛に焼印をして、他人の牛と区別するために行われたもので、その後、製造業者が商品に商標やマーク」として利用されたものです。
その意味では製造者が自社製品の品質やサービス、イメージなどを識別し、差別化させるものとして定着しています。

本来は自社の製品の優位性を表すものとしてのブランドが、「今回の騒動で素材や職人が変わり、外注委託生産の以前と異なった製品になった一澤頒布が本家ブランドとして再スタートし、反対に元の素材や職人の造った本家の商品が信三郎帆布として新ブランドとしてスタートしています。
少し奇異な感じがします。

一方、サワヤカなイメージとして定着した「ハンカチ王子」の愛称が、商業主義の伊藤忠商事がブランド登録し、お葬式の会葬御礼の品として使われていた青いハンカチが「幸せの青いハンカチ」というブランドで、サンリオとニシオ㈱から再発売されるとのことです。

ブランディングの中でメディア対策が重要であることは理解しますが、そのブランドの商品の質やサービス、メッセージ性などが軽視される風潮が多く、ブランディングに携わる者の一人として憂慮しています。


 


一澤帆布と信三郎帆布

2006年10月21日 | アパレル放談

先日六甲アイランドのライナーの中で信三郎帆布のバックを持っている人を初めて見ました。
30代半ばのステキな女性がデニムのパンツスタイルに、さりげなく肩に掛けていました。
久し振りに一澤帆布の騒動のことを思い出していると、一澤帆布が店を再開したと、テレビで報じていました。
同時に、信三郎氏が、遺言書の真贋をめぐって、筆跡鑑定を専門家に依頼していると報道していました。

一方一澤帆布側は、職人が信三郎帆布に移ってしまったので、外注委託加工で素材ルートも変更して新たに再出発と信太郎社長は説明していました。
一澤帆布のブランド力のためか、それとも野次馬的な好奇心か分かりませんが、お店は再オープンで賑わっていたようです。

どちらも一歩も譲らぬ構えのようです。

いずれにしても、長い時間を掛けて積み上げてきたマニヤックな一澤帆布ブランドも、この騒動で一夜にして話題になった信三郎帆布ブランドも有名(話題)ブランドになりました。

マスメディアの力を改めて感じるとともに、その怖さも感じます。
また、メディア対策の重要性も改めて痛感するとともに、ブランドとは何ナノかという疑問も湧いてきます。

双方とも商品力を競うといっていますが、兄弟喧嘩の延長ではなく、本当のブランド力をつけるための争いで決着をつけて欲しいものです。

(一澤帆布と信三郎帆布のBlog)
http://blog.goo.ne.jp/impannatore/e/d0f728cf2b9e0bf033943c961cc260ea
http://blog.goo.ne.jp/impannatore/e/ef8a99bd2b1a06b13754c97d3c1b4930



 


コスチュームジュエリー エクセルの粂伸夫社長様

2006年10月20日 | アパレル放談

10月9日のブログにコスチュームジュエリーのエクセルの記事を投稿しました。
東京都が指摘した、「鉛含有のアクセサリー問題に積極的に対応し、自社の在庫で該当する商品の12億~13億円分を廃棄処分にした」との日本繊維新聞の記事を紹介しました。ttp://blog.goo.ne.jp/impannatore/e/6dfd60c6d4268183ae4786b8f169aeb2

現行法では規制されておらず、「赤ちゃんなどが誤って飲み込んだ場合など危険な場合があり、消費者の取扱いと業界の今後の対応を指摘」した内容でした。

エクセルさんの廃棄処分の英断に拍手をおくるブログのなかで、廃棄金額の12億~13億円を、上代金額ではないかとか勝手な憶測を書きました。

先日粂伸夫社長からBlogにコメントを頂きました。
12億~13億円の金額は原価と書かれていました。

改めて粂社長の大英断に感銘を受けました。
エクセルさんの財務内容を知る立場にはありませんが、原価の金額とすれば、在庫の廃棄処分は相当厳しい判断だったのではと推察します。

その様な時に軽率なコメントをした事を恥じるとともにお詫びします。

粂伸夫さんの新社長就任の最初の大きな決済だった事でしょう。

一般的に社長就任に際して、新体制のもと新CI(コーポレート アイデンティティー)の導入を行うことが多く見かけます。

今回のエクセルさんの対応は、客様に対するエクセルさんの企業理念そのものです。

今回の大英断が新体制のCIにつながり、エクセルさんの新たな発展につながる事を期待します。 

 


専修学校と守・破・離

2006年10月19日 | 今様隠居道

稽古や修行にあたる順序を表す言葉に「守・破・離」という世阿弥の有名な言葉があります。専修学校が専門の技能・技術の習得を目指す機関とするならば、この「守・破・離」の言葉と大いに関係します。

ピカソや著名な画家、書道家などの初期の作品を見ると、模写と思われるような作品に出会う時があります。
画や書の基本を修得するために、最初は師の流儀を学ぶことから始め、その後他流も研究し、自分の奥義を極める例えです。

守・破・離をファッションビジネスの専修学校の教育に当てはめると、専修学校と企業と個人の関係が浮かんできます。

「守」は専修学校が技能・技術の基本の修得の時にあたります。
私は、これまで数百人のデザイナーやパタンナーと仕事をした経験があります。
あくまで企業側に立った経験ですが、「良いデザイナーは良いパターン力のある人」、「良いパタンナーはデザイン画の上手な人」と思っています。
基本的な技術がその人の将来に大きく影響します。

その技術的な面以外に、「良いデザイナー、パタンナーは良い人間性を持った人」も重要と思います。
(人間性に対する判断は何が正しいかは決められませんが・・・私なりの判断で)

「破」は専修学校のインターシップにあたると思います。
学校では出来ない教育を、他流や現業から教える課程として重要視されだしました。

最近大学や企業(産業)側も積極的な取組みが始まっています。
他産業に比べて遅れているのが現状です。

その原因は、他産業では、大変革の時代を経て、新しいビジネスモデルの構築に着手し、産業の新しいスタンダードに対して、教育機関の専門性とのインターシップが行われています。
どちらかと言えば企業(産業)側からの要望が強いように感じます。

繊維・アパレル産業は、生産から流通(川上・川中・川上)の新ビジネスモデルの確立が出来ていない状況にあります。

川上の「グローバル化、IT化、新技術、非繊維化、新流通チャネル」などの新しい取り組みや、川中、川下の「SPA化、新興アパレルの参入、海外ブランドジャパン社、Webショップアパレルの誕生、セレクト&SPAの台頭」など、徐々に新しいビジネスモデルに移行しつつあります。

今後、この移行に伴い、ますますインターンシップの重要性が企業(産業)側からの出てくることが予想されます。

専修学校側はこの要望に応えられる体制創りと、一方、企業(産業)側の今以上の理解と共同体性が重要となります。

「離」は個人と企業の関係となります。
個人の資質と努力が重要となります。
企業は、その資質と努力が生かされる環境創りが需要です。

世阿弥の言うところの[離」とは少し離れますが、専門技術の職は、その技術による自立が基本で、重要な要件です。
その「自立は自律」につながると思うのです。

その意味で人間性が重要と思います。
専修学校の「守」の重要な要素として、取組んでいただきたいと思います。



 

 

 

 


アパレル業界と服飾デザイン専門学校

2006年10月17日 | アパレル放談

アパレル業界と服飾デザイン専門学校との関係は、切り離すことの出来ない関係にあります。それぞれの誕生と発展の歴史に、双方が果たした役割は大きな物があります。

戦後、ブラウスやニット、ボトムなどの洋品単品からスタートした単品アパレルや、スーツ、ドレスなどの洋装から出発した重外装アパレルが、総合アパレルに発展するとともに、デザイナー業務がアパレルに欠くことのできない存在になりました。

服飾デザイン専門学校は、人材の育成機関として、アパレル業界の発展に、大きく寄与してきました。

戦前から戦後にかけて服飾研究所として設立された洋裁学校は、家庭洋裁習得の「花嫁学校」的な性格から、アパレル業界の発展によるデザイナーの需要の高まりとともに、職業人としての「プロのデザイナーやパタンナー養成学校」的な内容に進化して発展してきました。

DCブランドアパレルや大手アパレルの拡大がデザイナーの活躍の機会が広まり、ファッション専門学校の地位は確立しました。

その後DCアパレルの衰退や、大手アパレルのSPA化、生産の空洞化、欧米のメガブランドの日本進出、香港、韓国などの製品輸入などの影響でデザイナーの需要が著しく減少しました。
専門店卸型アパレルの弱体化や、企画生産のアウトソーシング化、CADの普及など構造的な変化も大きく影響しました。

少子化問題も他の教育機関と同様に服飾専門学校に重く圧し掛かり、質的な変化を余儀なくされています。

アパレル業界のみならず、ファッション産業は人材産業であり、人材の育成は重要な課題です。

優秀なデザイナーやパタンナーの人材育成と確保の問題は、単に専修学校の問題として傍観するのではなく、産業界や行政が一体となった対応が必要となります。

ワールドや一部大手アパレルなどによるインターンシップへの協力取り組みが始まっていますが、SPAやセレクトショップ、OEMメーカー、企画会社などの新しいチャネルの積極的な参加によって、今後の新しい人材の育成に向けて、総合的な広がりを期待します。


 

 


ファッションビジネス学会

2006年10月15日 | アパレル放談

昨日14日土曜日にファッションビジネス学会関西支部の合同研究会が開かれました。ファッションビジネス学会はその名が示すとおり、ファッションビジネスの教育に関係している先生方や業界に関係している有志の人たちが、共同研究を通してファッションビジネス教育と業界に貢献することを目指しています。私は、一昨年に研究会の講師の依頼を受け、その後、お誘いを受け、勉強の意味もあり学会に加入しました。

私は加入暦も浅く、積極的な役割を果たせていませんが、教育現場の先生方の真摯な取り組みに興味を持っています。
私が知っている範囲内で、会の活動をご披露します。
具体的な活動は、分科会に分かれて専門分野の研究をし、年一回、各部門ごとに論文を発表し、小冊子を発行しています。

分科会は下記の6つです。
①ファッションマーケット論研究会
②ファッションIT研究会
③ファッションデザイン研究会
④ファッションビジネス教育研究会
⑤インターシップ研究会
⑥和文化ファッション研究会

分科会での研究以外に、時々のテーマについて、講師を招いて合同研究会が開催されています。
昨日はその合同研修会でした。

調講演として、属健太郎氏の「ファッションのネットビジネス最前線」、妹尾俊之氏の「関西ファッション都市としての今後ー都市ブランディングを考える」の特別講演がありました。

両講演ともに、今注目される議題でもあり、興味深く拝聴しました。

その後、会員はそれぞれ懇親会に呉越同舟した模様です。
私も知人とビールを前に9人の特別研究会(?)に楽しく参加しました。

こういう特別研究会(懇親会)が生の情報交換や本音の討論が出来て、案外良いものです。

大学や専修学校のインターンシップの重要性が問われていますが、教育者と我々の実業現場の交流から生まれる事もあるのではないかと考えます。

今でも座右の銘として大切にしている、大学卒業記念に頂いた末川博総長の色紙、
「理論を貫いて実践に生き、実践を通して理論を究める」の実践になればと考えています。
http://blog.goo.ne.jp/impannatore/e/9c85eb8630af0061c43fc5ba8fc6b5b0
  

先のブログで書いたように、「現代版カタカナ業界用語集や繊維アパレルの歴史」などを、この学会の有志の方とまとめられれば良いなと想いを浮かべながら、気持の良いビールの酔いで帰宅しました。 http://blog.goo.ne.jp/impannatore/e/0b80656316734aea365a181a0d3a285a


アメリカンフットボール応援!

2006年10月14日 | 今様隠居道
久し振りに大学時代の同期の3人で、関西大学アメリカンフットボールの試合を観に行きました。京都の西京極競技場で京都大学との対戦でした。

私は、中学時代にアメフトのジュニア版のタッチフットボールをやっていたことがあります。
滋賀県の湖北地方のいなかの小さな中学校で、50年も前に、そんなスポーツが有ったことが、今から思えば不思議な感じがします。

中学校の先生が大学時代にやっていたアメフトを赴任地で最初に広められたのです。
オレンジ色のユニフォームに憧れての入部だったのかも知れません。

その後周辺の中学校でも盛んになり、長浜は中学校のアメフトの盛んな町として知られています。

その頃から、何かにつけて、私は新しい物への好奇心が強かったのかも知れません。

そんな関係で、アメリカンフットボールは好きで、毎年関学戦と京大戦や全日本の甲子園ボウルは応援にいきます。

試合は37対0で立命館大学の快勝でした。

京大は先の不祥事の影響からか、全盛時代の勢いは無く、精彩を欠いていました。
    私には40年程前に、不幸にも、ご縁の無かった(?)大学ですが
    京都大学の早い復活を期待しています。

学生時代に帰って校歌や応援歌を歌い、懐かしいひと時でした。
関西学院に勝って5年連続の甲子園ボウル出場と、正月のライスボウルを目指してほしいものです。

観覧席には、同年代のグループが多く、たぶん我々と同様に若い時の昔を懐かしんでの集まりのようで、楽しんでいました。
今後のリタイア世代の楽しみ方の一つを垣間見た感じがしました。

ナイターだったので、終了は9時過ぎになりましたが、途中の駅で下車して飲み会になりました。

例の「和民」ではなかったが、同類の店で盛り上がりました。
最近は我々世代が気楽にいける店が、めっきり少なくなりました。
若者達でいっぱいで、遠慮がちに飲んでいる感じがします。
時代の流れかもしれません。
それぞれ工夫を凝らしたメニューが用意されていますが、どれも画一的で、集中調理の味がします。
味覚は慣れで変化する物で、時流にあわせざるを得ないのかも知れません。
ファッション界も、チェーン化、巨大化し、画一化の傾向にありますが、これも時代の流れでしょう。

話しに夢中になり、久し振りに最終電車になりました。

車中は週末のせいか満員状態でした。
残業か、接待酒かは解りませんが車内は混雑していました。

政府は「いざなぎ景気」に並んだと発表していますが、この混雑を見ていると、
庶民の実感のことが言われていますが、政府の発表も正しいと認めざるを得ないのかも知れません。

もう一つ気が付いたのは、12時過の終電車にも関わらず、若い女性が多い事です。
半分近くしめているといっても過言ではありません。

これは景気とは関係なさそうです。

周りのスーツ姿のビジネスマンや、オシャレした若い女性に比べ、「スポーツキャップとパーカー、チノパン、スニーカー」姿の初老の私が一人だけ目立っていました。

時々、これもタウンウォッチングのひつつと、視点を変えて見るのも重要な事だと思いました。

少し違和感を感じましたが、久し振りのアメフト観戦で、彼らに負けない程の若さを貰い、上機嫌の酔の終電帰宅でした。


川上・川中・川下という業界用語

2006年10月13日 | アパレル放談

川上・川中・川下の用語は繊維業界の業界用語として定着しています。
最近おおく見られる外来語のカタカナ業界用語に比べると、繊維の生産流通の経路を的確に表現しております。
私が婦人既製服製造卸業(婦人アパレル)に従事していた頃は、我々の業種は川下と位置づけられていました。
いつの間にか川下が小売業になり、アパレルは川中に押し上げられました。
紡績原糸メーカーが川上で、テキスタイル問屋やコンバーターが川中で、アパレルは川下とされ、当時小売は繊維業界の範疇では無く別の業種と位置づけられていました。

当時は、川上と川中の糸と織編テキスタイルが繊維業界の中心で、製品はその下流という考え方をあらわしたもの考えられます。

供給側が消費者に物を供給する供給型の市場経済では,川上⇒川中⇒川下の緩やかな川の流れのように清流となりますが、選別的な消費が進むと、川の流れは濁流となります。

選別的な消費は、川上・川中・川下の川の流れの古典的な概念を根本的に崩すことになります。

紡績、原糸メーカーとの直接取引や、アパレルのSPA化、小売のSPA化、海外企業の参入、商社のTVショッピング、Webショッピングなどの新しいチャネルが入り乱れ、川は際が無くなった水平的な広がりに変化しています。

さながらベトナムのホーチミン上空から見る支流や入江の入り混じったサイゴン河の下流のようです。
時には海からの満ち潮が、川下⇒川上に流れを変える事がたびたびあります。

川上・川中・川下の古典的な分類が意味をなさなくなっています。

新しい潮流に各企業が、それぞれ船を乗り換え、改造し、造り替えて乗り出さなくてはなりません。

船が大きすぎる場合は小さくし、新しい装備が必要であれば導入し、新船を投入したり、事によっては廃船を考える事も必要かもしれません。

最近、私のBlogのプロフィールの表現を少し変更しました。
  川上・川中・川下の新たな仕組みつくりのサポート


 


アパレルとDCブランドというカタカナ用語

2006年10月12日 | アパレル放談

私がこの業界に入ったのは1968年です。
私の最初のBlogで自己紹介を、婦人服製造卸業(ツブシ屋)に入社と書いた記憶があります。

1970年代は老舗専門店や百貨店に続き、鈴屋、三愛、玉屋などのナショナルチェーン店やダイエーやジャスコなどのスーパーが多店舗化した時代でした。
樫山、レナウンなどの老舗メーカーに加え、ワールド、イトキン、ジャバなどが躍進し、70年代半ば頃からマンションメーカーが猛威をふる出だした時代でした。

その頃のメーカーは、企業内に自家工場やサンプル製作の生産機能を持った、企画・製造・卸の形態でした。
伝統的な「企画・製造・卸業」の形態でした

その頃は「自社企画の商品をサンプル製作や付属の管理などは社内で行い、自家工場か協力縫製工場で縫製し、販売も買取、現金、展示会受注主義の伝統的な企画・製造・卸売り業」でした。
百貨店の取引も現在のようなインショップ形式ではなく、建て前上は買い取り条件でした。

1980年代に入り、企業内(元マンションメーカー)デザイナーや東京文化服装出身デザイナーたちが、DCメーカーを起業し、伝統的な製造、販売方式を打ち破り、新しい生産、販売方式を打ち出しました。

生産を外部に委託し、販売は店頭消化のフランチャイズ方式の採用を行いました。
既存の大手企業もこれに参入し製造、販売の形態が大きき変化しだしました。

その頃からから、製造は、従来の自家製造や委託加工の製造方式から、現在のOEMの原型である製品納入方式に変化がしました。
それまで原材料の商売が中心であった商社が、OEMの製品ビジネスに参入する契機と
なりました。

販売面もフランチャイズの取引条件が、展示会受注方式や買取の従来の商慣習が崩れ、店頭消化中心(委託・返品・値引き容認)の取引条件が生まれだしました。

店頭消化を重視するメーカー側はショッップ出店や店頭販売などに資金や人材を集中せざるを得なくなり、企画・製造や卸営業の軽視の風潮が広がるのは、この時代から始まったのでしょう。

DCブランドの台頭で既製服業界が新しいビジネスモデルに進化しアパレル業界のその後の発展につながり、一方では、伝統的な既製服製造卸売り業の現在の衰退と混乱を招く結果になりました。


 

 





 


Apparelという英語

2006年10月11日 | アパレル放談

Apparelという英語は既製服製造卸売業界だけでなく、カタカナ文字として一般的に普及しています。
繊研新聞のプロへの道、フレッシャーズのページに
「これだけは知っておきたいFB業界の基本用語」が特集されていました。

それによるとアパレルとは「衣服」のこと.同義語で(ウエア)(クロージング)(ガーメント)などがある。洋服全般が対象で、和装は除いて使われる。アパレルを生産販売する企業を(アパレル企業)、アパレル関連の雑貨、小物を(アパレル小物)、アパレルの製造、卸販売に携わっている企業群を(アパレル産業)と総称する」と要約しています。

1970年代にアパレルと言う用語が普及したように記されていますが、私の記憶では1980年代が正しいのではないかと思います。
斎藤栄三郎博士の1970年版の「外国から来た新語辞典」にも載ってい無いことで、ご理解いただけると思います。

1980年代に、DCブランドがブームとなり、既製服が華やか産業となり、アパレルという用語が使われだしたのだと想像します。

辞書によるとApparelは(きらびやかな)衣裳、服装とも列記されています。
アメリカでは、Apparelは一般的ではなく、readyーtoーwear(既製服)の方がが多く使
われます。

DCがアパレルの用語を最初に使ったかは、定かではありませんが、
その頃から、製造卸業がアパレル業と称せられだしたと記憶しています。

華やかなアパレル業界に勤める主人公が、トレンディードラマになったり、ショップで販売に従事するハウスマヌカンの生活が歌(戯れ歌)になったりして、
それまで3kに近い既製服製造卸売業花形産業として表舞台に立った時代です。

アパレルが人気産業になり、多くの若者がその華やかさに引かれてアパレル業界に入社した時代です。

ことばの意味は時代とともに変化する物です。
アパレル企業を「アパレルを生産卸販売する企業」とするのは、今では正しい語義ではないと思います。
ワールド始めイトキン、サンエイなどは今やアパレルといえません。

その他のアパレルも実質的に製造卸売ではありません。

2年前に、川中製造業の支援事業の説明会で、経済産業省の若いお役人が、
アパレルの語義を「企画卸販売業」と、製造を省いて定義づけていました。

私の辞書?的にはアパレル産業とは、「返品・値引・延勘・帳破の取引条件を暗黙に了解した企画卸販売業」と解釈しています。

そのアパレルが、最後に残った重要な用件である企画機能をOut‐SourcingによるOEM(ODM)で放棄してしまえば、企画も持たなくなり、Whalesalerになってしまうのです。

昔、ヨーロッパやアメリカの展示会の会場に入場する時に、会社の業種を記入しなければならず、記入する業種で迷った経験があります。

入場申込書にはManufacturer、 Whalesaler、 Retailer、 Importerと分かれており、自分が何に該当するのか迷いました。
イトキン㈱は自社LCでの輸入が多かったので、一応Importerと記入しました。
当時海外では、業種の欄にApparelの欄は無いのが普通でした。

現在のアパレル業界の商慣習が定着してしまったのは、DCアパレルの誕生と、その商売スタイル(FC)に、大いに関係していると、私流の独自の解釈をしています。



 





 

 


OEMという英語?

2006年10月10日 | アパレル放談

日本語の中で、外国語やその造語を使うと、理知的に見えてくるような気がします。

特に核心の部分を曖昧に表現する時に便利なのかも知れません。

安倍首相の施政方針演説を聞いていると、そんな感じがしました。
野党やマスコミの指摘で、翌日の代表質問からは、英語の使用は少なくなりましたが、却って、ますます解らなくなってしまいました。
案外、外来語で聞く方が、勝手に自分の想像で解釈を広げられるからかも知れません。

前に多摩大学のクラーク学長(オーストラリア人)が、「日本人の英語力は素晴らしい、私が知らない英語をたくさん使っている」と皮肉っていました。

OEM、SPA、OUT-SOURCING、SELECT-SHOPなど多用していますが、正確な意味で理解して使っているか、私も含めて疑わしい

人によって理解の仕方が異なっているのではないかと懸念しています。

既製洋服や流行産業(アパレルやファッション産業)はもともと欧米からの海外輸入文化産業なので、外来語の使用は避けられません

今日のブログ(?)も外来語を省いて書こうとしたら、なかなか難しく、苦労します。

この業界では、外来語の使用が、避けられないのなら、その正確な意味を業界基準として、共有できるようにする必要があります。

先日、繊研新聞に、最近の外来のファッション用語の解説が特集されていました。
現状の解説が翻訳にi生かして記述されていれば、良いのにと感じました。 
紙面の都合で仕方が無かったのでしょう。

「繊維・アパレル・リティルの外来用語現代辞典=便利手帳」が必要かも知れません。

どこかの研究機関で取り組む必要があります。

今週土曜日にファッションビジネス学会の関西支部の会合がありますが、ファションビジネス学会の研究課題としても最適だと思います。
私も出席するので機会があれば提案してみようと思います

この業界もBtoBやBtoCのIT分野の利用が緊急課題になっています。
外来語100%に近いIT用語とあわせて、検討しては如何でしょう。

[追]
私の「インパナトーレ」もイタリア語です。
一応「使い走り屋」と訳をつけていますが、イタリアの辞書を引いても出てこないかも知れません。
イタリアでも、業界用語か造語だろうと思われます。
日本版インパナトーレの確立を目指そうと思っています。