「業際」を超え・「域際」を超え・「世代の際」を超えて!

理論を貫いて実践に生き! 実践を通して理論を究め! 前へ前へと進もう!

激安論争 ユニクロは激安??

2009年12月24日 | アパレル放談

先日、ある学会の忘年会に参加した。
日ごろの研究会とは異なり、リラックスした年忘れ会だった。
先生方の服装を何気なく見ていると、ユニクロのTシャツをインナー感覚で着ている方を多く見た。
自然に、話題がユニクロの話しになった。
「安い価格、暖かい機能、カラフルなトレンドカラーでフィット性があり着回しに重宝」など、口々にその良さを賞賛する言葉が出た。
実は、私の当日のインナーウェアーは、Heatテックだった。
ユニクロの一人勝ちが、日本のデフレスパイラルの要因の一つだという説を唱える経済学者が居られるそうだ。
私は「ユニクロの商品は、世間が言うほど安くはない」と思っている。
Heatテックの品質表示を見ると「アクリル41%ポリエステル36%レーヨン20%、ポリウレタン3%」とある。
「マイクロ中空紡績糸、カチオン異型断面糸のアクリル、ポリエステル、レーヨン、ポリウレタン+後加工機能」という原料の中国、ベトナム製の下着と言える。
原料的には取り立てて言うほどのことはない。
百貨店や専門店、量販店のブランドに比べれば激安的な価格ではあるが、
ユニクロの製造原価は驚くほどの安さではないが、消費者の大きな評価を受けている。
これがこれほどまでに高評価を受けるのは、ユニクロならではの秘訣がある。
ユニクロの価格の相対的な安さ、とプロモーション力による魅力の演出だと思っている。
私は常々、ユニクロの勝利の歴史は、「既存の憧れ商品の価格破壊」の歴史だったと考える。
古くは「中国内蒙古のカシミヤセーターの価格破壊」に始まり、「アメリカのポーラテック200のフリースの価格破壊」、「イタリアのゼニアバルファのキャッシュウールセーターの価格破壊」、「日本製(貝原)デニムの価格破壊」等など、手の届きぬくかった“憧れ商品の価格破壊”の勝利の歴史だ。
その秘訣は、正味原価を「20%で割る」か、「25%で割る」、か「35%で割る」かによって価格帯は大きな差が出てくる。
伝えられている『匠』の生産管理力やロジスティックス、イメージ戦略、財務力など成功も多くあるが、価格破壊のもとになっている、原価に対する除算の分母数字の違いだと思えてならない。
分母の数字が大きいほど価格帯は高くなる。
原価を0.2で割るのと0.35で割るのと、数字がどちらが大きくなるかは小学校低学年の問題だ。
私は、次の二つの問題を解き明かすことが重要と考えている。
?分母が大きくなる要因は何か?!
?分母を大きくしても、ソフト、ブランド、サービス力でお客の信頼を得る方法は無いのか?!

百貨店や専門店、量販店の既存の小売業界と既存のアパレル業界が、この二つの矛盾・問題に対して、真剣に取り組くむことが、現在のアパレル業界にとって重要では無いかと考える。


この問題の回答は、単純な除算ではなく、複雑な方程式の解析と見えるかもしれない。
しかしながらアプローチの仕方で、案外単純に解析出来るかも知れないと考えている。

私は、数年前から「アパレルの矛盾」というキーワードでこの問題を提起してきた。
残念ながら、旧態の小売業界やアパレルがこの「矛盾の解析」に対して、正面から取り組んでいるとは思えない。
「ユニクロ、ポイント、しまむら」などの現在の好調企業の共通項は、お客様とベンダー企業、従業員の三者から好(高?)感度を得ていると考えられる。
「三方良し」の古い考え方が新鮮に見えてくる。
一つの方程式の解析に対するアプローチの一つと考えている。


ユニクロ機能シャツについての過去の記事
http://blog.goo.ne.jp/impannatore/m/200806





アバクロンビー&フィッチ

2009年12月17日 | アパレル放談

私がアバクロンビー&フィッチを知ったのは1985年ごろだ。
イトキン?時代に2年ほどイトキンのアメリカビジネスを担当していた頃だったと記憶している。
今ではファッショナブルで刺激的なアメリカンカジュアルウエアーの代表格的なイメージだ。
当時は、フィッシングやアウトドアーのオーソドックスで高質で男性マニア向けのアウトドアー用品の店というイメージだった。
郊外のメガSCに行くと大きな売場でアウトドアー商品が展開されているアバクロの店を見て、アメリカのライフスタイルの広さと奥行きと豊かさに圧倒された事を思い出す。

1980年頃からから1900年後半にかけて、全米に郊外型SCが林立しだした頃で
リミテッド、Gap、エスプリなどの現在のSPAの業態が拡大していた。
郊外型のSCでの有力企業同士の覇権争いの状況は、少し前の日本のメガSCのスペース確保の状況と似通っている。
競ってSC向けのSPAブランドの確保に有力SPA企業は走った。

リミテッドの「ビクトリアシークレット」、Gapの「バナナリパグリック」などM&Aが話題をさらっていた。
リミテットがアバクロをM&Aしたのが1988年だったと記憶している。

『オーソドックスなアウトドアー用品のアバクロ』がマイケル・ジェフリーがCEOとして入社してから大きく変わったと推測している。
当時のアバクロとは大きく変わって、オシャレで刺激的なカジュアルウエアー
となって現在に至っている。
私は、イトキンを退社して、その後の情報は、アバクロ社がリミテット社から離脱したと聞く程度だった。
多分、その頃からファンドの資金を使った拡大が始まったと想像する。
リーマンショックも出店の延期も影響したのかも知れない。

その後のアバクロの商品内容の大きな変貌振りは、マスメディアや一部のマニアから聞いて知ってはいるが、寧ろ、『アバクロ風』という業界連中の商談話から想像することが多かった。
コピーとは言わないまでも『アバクロ』に似た商品が売場に溢れていた。
今回のアバクロの日本進出でそれが加速するのだろうか?
オープンイベント?の『冬の寒いのに、シャツの前を空けて肌を出したスタッフと記念撮影をしている若い女性客のちょっと恥じらいながら、笑みを浮かべている顔』が印象的だった。




アバクロンビー&フィッチ アバクロ 日本に上陸

2009年12月16日 | アパレル放談

昨日のアバクロ銀座店オープンがTVで報道されていた。
またかという感じがしたが、今回は、アバクロ側からの取材拒否があったようで、これまでのH&Mやフォーエヴァー21の時のような過激な報道(騒ぎかた)ではなかった様に見受けた。
取材拒否のせいか、何時もと違い冷静な報道であったという印象がした。
アバクロと他のファストファッションの違いも、一応分析していたようだ。

日本進出がアバクロに取っては、重要な意味を持っているように思える。
日本進出が計画より延びたのは、どのような事情があったのか?
アバクロの米本国での業績低下(赤字転落)が、『リーマンショックによる一時的な消費の変化によるものか?、他の要因によるものなのか?』興味の湧くところだ。

現在の日本のファッション界の混乱(激安・ファストファッション・流通激変・空洞化・グローバル化)の難問に対する答えが出せるかも知れない。
こんな興味を持ってアバクロの今後を見て生きたい。




週刊文春の記事のこと 谷絹子社長のこと 続Ⅳ

2009年12月15日 | アパレル放談
騙された。

谷絹子には、虚言癖がある。
大嘘をつきながら、
自分でもその気になってしまう。
これこそが正真正銘の詐欺師。
私は、過去、谷氏にやられた。
そして大金を失った。
彼女の嘘は天才的な才能がある。
某地方銀行のトップも辞任に追いやられた。
詐欺師とベンチャー起業とを
混同してはいけない。


実害を被られた読者からのコメントを貼り付けてみた。
被害者の言葉だから重いものがある。
私は、谷絹子氏を弁護する立場でもなく、そのつもり無い。
ベンチャー起業と書いたのは、楽天やソフトバンクのようなベンチャー成功者のことではなく、現在係争中のベンチャーのことだ。


幻冬舎の『ついに出た!中国ビジネス虎の巻』の内容に違和感を感じていた。
その著での谷絹子氏の論旨は、中国ビジネス過去の事実に基づいたもので、その指摘は間違っておらず、問題にするようなところは少ない。
しかしながら重大な部分で誤認(錯誤)がある。
谷絹子氏は、1980年後半から2000年(二十世紀末)ごろの中国のビジネス状況を基にして、U.F.Oのビジネスをしている。
その頃は、改革開放のもとに、国家管理の経済活動から自由主義的活動に移行する過程で、多くのトラブルが発生していた。
人民公社から民営公司の移管や合弁公司、合作公司、郷鎮公司、独資公司などが競って作られた。
当時、ようやく民事訴訟法の立法の必要性を小平が唱えだしたことでも解る通り、法治と人治が入り混じった状態だった。
谷氏が指摘している、契約上のトラブルや国、省、市等の法律の未整備も重なり混乱の時代であった。
日本の大手アパレルや百貨店やスーパーも不平等な契約や契約違反も横行していた。
(これについては、日本側の視点だけでなく、中国側の視点からも入れた判断が重要だ)
その頃、谷絹子氏は、香港(ファーストトレーディング)で、香港を拠点として中国ビジネスを行なっていた。
1997年の香港返還を機に、2001年ごろから、多くの香港企業が上海へ拠点を移した。
日系香港企業の多くも同様に上海に移転を行なった。
ファーストトレーディング(U.F.O)上海への移転を行なった。
彼らは、中国のビジネスの問題点(盲点)を香港時代に体験し、充分な学習をしいた。
その学習をもとに、新しい中国ビジネスを構築した。
2001年(二十一世紀)がその起点といえる。
私が考える谷絹子氏の大罪は、新しい中国ビジネスの始まりの時代に、日本の企業の中国ビジネスを、二十世紀末の揺籃期の中国ビジネスを針小棒大に、恫喝的に喧伝し、その喧伝によってU.F.O.のビジネスに取り込んだことだ。

私が納得できないのは、初期の段階に、それに便乗し、利用した(踊った)大手商社や流通関係者がいたことだ。
またそれに踊ったマスメディアも同様だ。
彼らは被害者と憤っているか?
加害者として自責の念を持っているか?

私が週刊文春に谷絹子社長の記事にこだわるのは、3回のBlog記事で、自分の考えの投稿を躊躇した。
そのことに自責の念を持っているからだ。


参考のために、当時のBlog一部を貼り付けた。

私の読後感想は、次回に(恐る恐る?)後日ブログ投稿しようと思います。
谷絹子女史の著作が、その幻冬舎からの出版ということに驚きを感じました。
どのような経緯で、この本が幻冬舎から出版になったのか知りませんが、谷絹子女史の業界内外での幅広い交流、業界紙とのパブリックリレーション、昨年9月のテレビ東京のワールドビジネスサテライト(WBS)の番組取材など、ネットワークの広さを伺うことが出来ます。


普段とは少し柔和に写っている表紙の顔写真からは想像出来ないような「辛辣な言葉と自信に満ちた仕事の記述」は読む人にインパクトを与えるでしょう。
「世の中に出回っている中国ビジネスに関する出版物は山ほどあるが、核心にふれたものは見当たらない。既に中国に進出している日本企業や、そこで働く日本人を見ていて素直に感じるのは、あまりにも中国のことを知らなさ過ぎるということだ。本書は、中国ビジネスの袋小路に迷い込み、身動きがとれず、その解決方法を探していて苦悩されている日系企業や日本人の方々にもきっと役に立つものと思う」と序説に書かれています。


この本を読んで、このブログで書評(読後感想)を書こうとしましたが、30年以上の厳しい香港、中国でのビジネス最前線の激戦を生き抜いて成功された経営者の経験に裏打ちされた記述内容でもあり、それに比べて「友好商社」時代から中国繊維産業と関ってきたと云っても、所詮、アウトサイダー的な関わり合いしかなかった私ごときが、書評を書く事に躊躇します。
既に中国ビジネスで苦労し、失敗された経営者の方や中国担当の商社マン、コンサルタントの方々には、お薦めしません・・・・。
中国でのビジネスで成功している方にもお薦めし
ません。
(腹立たしくなる恐れがあります?!)







 

 


週刊文春の記事のこと 谷絹子社長のこと 続Ⅲ

2009年12月14日 | アパレル放談

Blogの読者からコメントを頂いた。
私のBlogにはコメントは少ないのだが、二日続いてコメントを頂いた。
谷絹子氏の「ビジネスの表と裏」のコメント内容でした。
☆ビジネス上で実害を被った方
☆現地の工場の内容を冷静に見ておれば、谷氏の虚偽的行為は知りえたのではないか、融資した大手銀行に対する苦言
といった内容のコメントだ。
私にも漏れ聞こえていた内容だったが、直接のステークホルダーでは無く、またBlogで指摘する内容でも無いと考えてBlog投稿を控えていた。
今回の事例(事件?)は、過去のベンチャービジネスの事件(事例)に通じるものがあると考えられる。
「ベンチャービジネスの起業者が大成功者になり、反対に稀代のペテン師・詐欺師に成り下がった」事例と事件を過去に多く見てきた。
現在のベンチャービジネスの大成功者の過程には、『一歩間違えば(展開によっては)、大破綻で大事件」になったのではと思われるものもあった。
今回をどの様に進展するかはわからない。
案外、谷絹子氏は「正当な経済活動だ!」と思っているのではないかと想像している
ベンチャービジネスの起業者は、「誰もが見ていない夢」を見ようとして、
冒険すしていると考えられる。
谷氏はその「夢を追い、その夢に翻弄されてしまった」と考えることも出来る。
また、多くの人や起業がその夢を掻き乱したとも思える。
事件性の有無は被害の当事者と司直に委ねるべきであるが、
今回の事例を『過去のベンチャービジネスの事例(事件)」に倒叙してみる事も今後の、このような事例(事件)の参考になると考える。
谷絹子氏のビジネス活動の履歴を見てみると、案外理解できるかも知れない。
最近の情報は殆ど持ち合わせていないので、初期の頃の倒叙をして見たいと思っている。

 

以下次回に・・・。

 









 


週刊文春の記事のこと U.F.O.谷絹子社長のこと?

2009年12月11日 | アパレル放談


予想通り、昨日のBlogのアクセスが、U.F.Oの谷絹子社長プロフィールからの検索から多かった。

週刊誌のスクープの記事なので、余り付和雷同ではなく、慎重に、冷静な投稿の姿勢を保たなければと再認識した。

昨日のBlogに、谷絹子氏に関し、過去の3回の谷絹子社長に関係するブログが、結果的に、「提灯持ち的な記事になったのではないか?」という不安があると書きました。


昨日のBlogに過去3回のBlogのURLを添付しなかったので、今日、下記添付します。
昨日812月10日)の記事と併せてお読みください。

2006年9月24日投稿
http://blog.goo.ne.jp/impannatore/e/1724ae10a7cb107f498536a3e9532c4c
2007年4月26日投稿http://blog.goo.ne.jp/impannatore/d/20070426

2007年4月27日投稿
http://blog.goo.ne.jp/impannatore/d/20070427


週刊文春の記事のこと U.F.O.谷絹子社長のこと

2009年12月10日 | アパレル放談
2週間ほど前から私のBlogにUFOの谷絹子社長のキーワードの検索からのアクセスが多くなっていた。
Blogのアクセス解析は、善悪を問わず直近の情報が反映されることが多い。
今日地下鉄の中吊り広告を何気なく見ていたら、週間文春の広告の
『みずほ、三井住友を手玉に取った“中国ビジネス”カリスマ美人社長』
「第二の尾上縫事件」というタイトルに目がとまった。
まさか!という予感がした。
早速、駅の売店で購入して確かめた。
「まさかの予感」があたっていた。
U.F.O.の谷絹子社長のことが、独占スクープとして4ページの紙面を書いて報じられていた。
[第二の尾上縫事件」のような事件性があるかは、知る立場でないが、かなり核心を突いた内容であった。
業界関係者や近い筋から綿密な取材をしていると思われる。
週刊誌のスクープの段階なので詳しいコメントは、今の段階では控えたほうが良いと考えるている。
気になったのは、私のBlogで谷絹子社長の事を三回ほど投稿していることだ。
3年ほど前に一回、2年ほど前に二回投稿した。
3年前の投稿は、「テレビ東京(大阪テレビ)のビジネスサテライト」の放送の時、
2年前の2回は「幻冬舎のついにでた!本当に役立つ中国ビジネス虎の巻」の出版時だ。
(つい先日、「BS朝日の賢者の選択」も谷社長を賢者として放送していた)
今回の報道が正しいとして、私のBlogの内容が大きく違い、谷社長を『中国ビジネスのカリスマ」に祭り上げるのに、「ひと役かっている事」になっていないだろうかという心配がよぎった。
早速、過去のBlog記事を読み返してみた。
“案外冷静な内容”であると、自分では納得し、安堵した。
谷絹子社長の香港のファーストトレーディング時代から知っている私は多少の「危うさ」は感じていた。
当時のマスコミや業界紙や業界の過大な評価の中で、それに抗するほどのことでもないと考えて、当時としては、精一杯の冷静な表現で投稿した。

谷絹子氏のビジネス手法も問題とは思うが、もっと問題なのは、
そのビジネス手法を充分な取材もなく課題に報道するマスコミ、マスメディアの報道の姿勢こそが問題だと私は思う。
「情報源の問題=危うさ」、「取材の安直さ=手抜き」、「誇張した番組手法」、
「歴史感を持たない記者・ディレクター」などが問題では無いかと常々思っている。
最近の「ユニクロ報道」、「激安報道」、「ファストファッション報道」、「アウトレット情報」など等、少し行き過ぎではないだろうか。





深喜毛織株式会社見学 “不況を生き抜く0円講座” 

2009年12月09日 | 今様隠居道
大阪商工会議所主催の『不況を生き抜く0円講座』でカシミヤの深喜毛織株式会社を見学した。

これ迄に大阪モード学園の生徒、大阪産業大学経営学部アパレルコースの学生を引率してと今回が3回目の工場見学だ。
学生たちには、原料から紡績、撚糸、織布、染色・整理・加工の工程がワンストップで見ることができる。
テキスタイルの生産工程を理解させるのに最適な工場だ。
いつも厚かましく無理をお願いしているのだが、快く受けていただいている。
大変感謝している。
私のお気に入りの場所がある。
資料室に創業から現在までの深喜毛織が製品化した生地のスワッチが奇麗にファイリングされ保管された資料室がある。
指図・設計書も同時に保管されている。
まるで図書室のように、年代別に閲覧できるようになっている。
  *余談ではあるが、昨今の繊維不況でこのような貴重な資料が
   霧散、消滅してしまうのではないかと心配している。
   大手紡績や合繊メーカーには、いくら非繊維化が進んでいるとは言え、
   消滅・霧散は心配ないだろうが、「京都のプリント・絹織物」、
   「摂津地区の莫大小」、「泉州、播磨の綿織物」、「丹後の絹織物」や
   「その他の地域の種々の織物」などを整理、保存しておく必要は
   無いのだろうか。   
   繊維の空洞化は避けられないが、そのような技術、ノウハウが
   繊維のグローバル化のために役立つ時期が来るのではないだろうか。
   “不況を生き残る”ためには、そんな余裕はないのかも知れない。
   ファッション産業を文化的な産業と考えるならば、文化の歴史が
   重要になると思えてならない。

深喜毛織で特筆すべきは、その企業理念だ。
ISO9001(技術・品質)のみならず、
ISO14001(環境・エコ)やOHSAS18001(職場環境)などの認証取得に早くから取り組んでいる。
プライバシーマーク許諾証(コンプライアンス・・・JISQ15001)
CCMI(カシミヤ・キャメル製造業者資格)加盟など、数多くの認証は際立っている。
この会社の経営姿勢を窺い知ることができる。
この認証制度に対しては、最近多くの企業が取り組んでいるようだが、私が感銘を受けるのは、早くからこれらに取り組み、全社の企業活動に完全に浸透し定着していると感じられることだ。
毛織物、カシミと言えば、日本にとっては逆境とも考えられる商品だが、これに果敢に取り組む企業姿勢には、何時もながら敬服する。
深喜毛織の物づくりの姿勢や技術、ノウハウはイギリスやイタリアとも遜色なく、寧ろ上回っていると考えられる。
今回頂いた会社のプロフィールには、これまでの英文に新しく中国語による説明文が加わって三ヶ国語表記になっていた。
『Japan FUKAKI cashimere』の表紙のタイトルが印象的だ。

私が残念に思うのは、深喜毛織のそのような物造りに対する『想い、意志』をマーケティング、ブランディングに充分に生かされていないのではないかと思われる事だ。
当然、ブランディングの重要性は充分理解されておられると思うが、『深喜毛織の想い、意志』が業界はもとより消費者の段階にブランディングが出来ていないのではないかという疑問が湧いてくる。
物造りに携わって居られる方は得てしてこの点を軽視しがちだ。
寧ろ罪悪視する傾向が強い。
物造りの立場に立てば、重要なことで理解は出来る。
しかしながら、これからの“厳しい環境を生き抜く”ためには、物づくりに加えてブランディング力の強化に取り組まれるべきと考える。
(工場見学でお世話になりながら、余計なお節介とお叱りを受けそうだが・・.)
概して、大阪の物造りの現場では、概して、この傾向が強いのではないかとカネがね思ってきた。
 *タオル業界は、海外攻勢で大変な状態だが、タオル業界でも、
  海外には出来ない高級タオルの分野で“生き残り”の兆しが
  見えているようだ。
  『泉州のタオル』は、オーガニックコットンで強みはあるはずだ。
  ところが、アートディレクターの佐藤可士和氏のブランディングによる
  効果の『今治タオル』の後塵を拝していると消費者である私には
  見える。

昔から大阪の企業は、このような「ブランディングなるものは邪道である」と言う風潮があるのではなかろうか。
ブランディング力強化も“不況に生き抜く”ための課題と考えられるのではないだろうか!

深喜毛織に関する過去のBlog
‘07年3月2日 ’07年3月6日 ’07年3月7日
深喜毛織Ⅰ
深喜毛織Ⅱ
深喜毛織Ⅲ

不況を生き抜く0円講座 大阪産業大学アパレル産業コース

2009年12月08日 | 今様隠居道
先日、大阪商工会議所主催の『不況を生き抜く0円講座』に参加した。
従来の「成功者の事例紹介セミナー」の形式ではなく、
今不況に悩む、中小零細な企業(工場や資材、付属やミシン業者、CADなどのサブベンダー)の経営者や幹部が対象でした。
大阪産業大学経営学部アパレル産業コースの学生の有志も参加していました。
講師の講演によるセミナー方式ではなく、大阪産業大学経営学部の教授から
「現状の課題、問題を提起する基調講演」をもとに、受講者が現場からの立場で討論する参加型の講座だった。
教授による基調講演は、日本の文化、歴史、宗教、社会構造の変化などからの提言、問題提起が行われた。
日ごろ、業界内の情報、視点に偏りがちで、このようなアプローチは、新鮮で、違った角度からアプローチの重要性を再発見した。
短期間に4回の集中講義であった。
私は、フル参加をしましたが、
厳しい環境下にある参加者に取っては、厳しいスケジュールだったとは思うが
“不況を生きぬく”には、このような勉強会に問題意識を持って積極的に参加することが重要と再認識した。
参加することも重要であるが、実践・行動がより重要である。
何故なら、「現在を不況と考えてそれに耐える」のか、「不況ではなく混乱期であり、新しい発展の前の漆黒の暗闇であり、やがては黎明が来る」と考えられる。




坂の上の雲に想う  大阪産業大学経営学部アパレルコースのこと

2009年12月02日 | 今様隠居道
NHKのドラマ『坂の上の雲』に想うBlog投稿をしている。
私の若かった頃のアパレル業界を黎明の時代と思いを馳せて投稿している。
その時代を夢と希望を持って生き抜いた青年たちに特別の想いを持っている。

私は今、大学の客員教授をしている。
客員教授といっても、テレビで売れっ子の有名客員教授程ではなく、臨時講師と行ったほうが良いのかも知れない。
大学側が、少し箔をつけて“客員教授”としてくれたのだろう。
大阪産業大学経営学部のアパレル産業コースで「アパレル産業入門」の講義を行なっている。
大阪産業大学のアパレル産業コースの学生は、全員が女性で、40名ほどのコースだ。
このコースは、4年生の大学と服飾専門学校の教程を合わせた内容だ。
その意味では,ユニークで、日本で最初で唯一の大学と言える。
オンリーワン イズ ベストワンと言う考え方も出来る。

アパレルコースの教室には、本縫いや特種ミシン、裁ち台、CAD、サンプルの生地ハンガー、製品サンプルなどが配置されている。
講義のための教室と実験機材がある研究室とを併用したと考えられる。
アパレル産業コースコースの学生たちは、経営学部のカリキュラムからも自由に履修出来る。幅の広い人材を育てることが可能だ。
工業学部もあり、アパレルで重要になってきた、工学的なアプローチを学ぶことも可能だ。
留学生も多く、特に東アジアの留学生との交流は、アパレルを目指す学生たちに取っては、将来的にも魅力のあることだ。
基礎学問と応用・専門的な学びも出来る。
学生には“厳しい業界であるが、「自立と自律」の精神で頑張れば魅力のある業界だ」と私の経験をもとに教えてている。

最初の卒業生となる3回生が、そろそろ就職活動に入ろうとしている。
初めての卒業生を送り出すことになる。
希望とフアンの入り混じった学生を見ていると、客員教授として少なからず責任があり何とか力になることが出来ないだろうかという思いでいっぱいだ。

そんなこともあって、『アパレルの黎明の時期』に、新しい夢と希望を持った学生たちと『坂の上の雲の秋山兄弟』とに想いを重ね合わせている。
学生たちは、もう直ぐ、新しい時代に夢と希望を抱いて巣立っていきます。
彼女たちのためにも、「活躍の機会と場所を見つけ出す」のを、私の生きがいにしたいと考えている。
「見付け出すと言うよりも創り出す」と言った方が正しいと思う。





NHKドラマ『坂の上の雲』に想う  続―Ⅱ

2009年12月01日 | アパレル放談
『坂の上の雲』の主人公の秋山好古・真之兄弟と正岡子規の3人の若者を、
『黎明の時代の日本のアパレル産業界』に当てはめて楽しみ、懐かしんで見ている。

今の時代もある意味同じ時代ではないかと私は考えている。
黎明は、暗黒の空が茜色に染まってこそ美しい。
朝空けの明るくなった空よりも、少し明かりが見え出した頃が美しく感動的だ。
その感動を求めて、山を登り、寒中の海岸に早朝に出かけるのだろう。
時どき若い方と話しをすると、『現在を暗黒と諦め、愚痴と非難」ばかり聞くことが多い。
理解出来ない訳ではないが、少し悲しく、残念だ。

以前、ラグジュアリーブランドの日本上陸や、その後のファストファッションの日本展開を
『黒船来る』と業界紙や業界が騒いだ。
確かに、それに匹敵するぐらいの衝撃だったかも知れない。
その時に『黒船の到来が明治維新につながった』『騒いでいるのは江戸幕府の幕閣たちだけだ』
と言う内容のBlogを幕末から維新になぞらえて書いた記憶がある。
今のアパレ産業界は、幕末から維新、その後の明治時代とにている。
必死で、欧米の猿真似をしながら、それを上回る新しい日本を創り上げた。
その是非は別として、生き残りをかけ、欧米と伍して来た。

誰が坂本竜馬、高杉晋作か?
誰が秋山好古、真之か?
誰が伊藤博文、大久保利通か?
誰が西郷隆盛、勝海舟か?
誰が新撰組、榎本武揚か?
誰が会津の白虎隊か?

アパレル三号産業界において、もうそのような詮索は意味が無く、新しいファッション産業界は維新とは言えないまでも大きく変化しているように思える。
「黎明の夜明けから坂の上の雲」の時代になっているようだ。