シンクロニシティ & etc.

日々訪れるシンクロニシティの意味の探求と、「青天井」な人間力向上の追究、その他いろいろなことについて。

情報の海の中で生きた証を残すこと

2008-09-30 23:18:01 | 気づき

 現在の我々が生きている世界では、行きかう情報の量が加速度が加速するくらいの勢いで増加しています。

 毎日、とんでもない量の情報が次々と我々の脳にインプットされていくのです。

 我々は、あたかも、未だにその量を増大させている情報の海で泳いでいるようなものです。

 この、情報の海の中で、情報を摂取したり、消化したり、吐き出したりする一連の流れが我々の毎日の生活、というより人生そのもののプロセスになっているのです。

 では、情報の大海原を毎日泳いでいる我々1人1人が、自分の生きた証を残していくにはどのようにしたら良いのでしょうか?

 ただ、世の中の情報を頭に詰め込んで、吐き出しているだけでそんな証が残らないことは間違いないでしょう。それはいかにも空しいです。

 私は、そんな中で自分が生きた証を残すには、自分が扱う情報の密度を限りなく上げていく他ないと思います。

 では、具体的に密度が限りなく高い情報とは何でしょうか?

 定義は難しいけれど、そういう情報を扱うときに私が感動を覚える、ということだけはっきりしているように思います。

 人が感動を覚えるときというのは、人が無限を感じるときです。そして、無限を感じるときに、扱う情報の密度が限りなく高まっているに違いないと感覚的に思うのです。

 長い話になりましたが、まとめてみると、「我々は、感動することによって、膨大な情報の海の中であっても、生きた証を残すことができる」ということです。


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5 コメント

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古典に帰る・・・ (YOSHI)
2008-11-18 18:37:32
なんて偉そうなことを書きましたが、モンテーニュの『エセー』(まだ1です)を少しづつ読んでます。
すると300~400年前も、今も人間のやってることはあまり変わり無いなぁ、と思います。
泡のように浮いては消える現代の情報(玉石混合ですね)より、
今の世にまで残っている先人の言葉の中に、より真理が多い気がします。

あ、モンテーニュはあくまでも例です。
数学的回答 (imagingstar)
2008-11-20 11:40:25
真理がどれくらい多いか、というのは絶対量でしょうか?
それとも何パーセント含まれているかという相対量でしょうか。

私は、相対量で言えば、古典には歴史の研鑽に耐えた分だけ今の情報よりも価値のある真理ははるかに多いと思います。

しかし現代においても、玉石混交という言葉どおり、価値のある情報は、相対的には少ないですが、絶対的には沢山あるわけで、それを探し出すのもまた楽しいことだと思います。

そして何より、古典にはない、現代の問題を直接的に解決するような素晴らしい知識が現代の情報の中に含まれていると思います。
古典が現代について役立つのは、人間が考えることや行動することについて、過去と共通する部分についてですね。

私はどちらかというと、古典を書いた過去の人と同じ立場(模範となる教科書が少なかった時代)に立ち、内なる自分の声を聞いて、それを書いていきたい方ですね。

「学びて思わざれば則ち罔(くら)く、思いて学ばざれば則ち殆(あやう)し」という孔子の言葉の中ではどちらかというと前者を重視し、更には、孔子よりも老子の立場に近いです。

これからも、どんどんコメントお願いします。私はいろんなことについて論じるのが大好きです。
くくり方が乱暴でした、失礼しました。 (YOSHI)
2008-11-22 10:17:27
まず《価値のある情報》と《真理》は別物でしたね。

日記の趣旨を理解せずに書きたいことを書いてる自分(私)・・・ということで赤面の限りです。


しかも「真理が多い」とは「はて?なんじゃろな?」となってしまいますね。
真理が絶対数や相対的にくらべられるほど星の数ほどあったら、それは真理でななくなってしまう(汗)

(あ、哲学的でなく、科学や宇宙の分野はまだまだ謎が多く未来にかかってますし、
主観的真理ならば生きてる人の数だけありますね)
ということで、私の書きたかったことは
「より良く生きるための智恵、悩んだとき振り出しにもどる時の指南の言葉」に訂正します。

(客観的真理なんて高尚なものでもないですね)

こちらのブログを時々拝見しているということは、
もちろん『宝(玉)』があるからに他なりません。

東洋思想・・・深くは詳しくないですが・・・もゆったりした気持ちになれて好きです。
いえいえ (imagingstar)
2008-11-24 01:45:13
お返事、ありがとうございます。

私の場合、真理はあまねく私達の周り、あるいは私達の内側に充満しているという立場です。だから、真理は星の数ほどあってもかまいません。
また、真理はいつも普遍かつ一様な面を持つ一方で、その発現の仕方はTPOに応じて多様に変化する面も持っていると思います。

YOSHIさんの鍵括弧で表現されたことについて、古典の中に多いというのは確かだと思います。

いつも私のブログを読んでいただき、しかもコメントまでいただき、非常に嬉しいです。
しかも、「宝がある」とまで言っていただけるとは光栄至極です。
私のブログはコメントを書いてくださる方が少ないので大変ありがたいです。


東洋思想については私もそれほど理解が深いわけではありませんが、孔子と老子については、孔子はどちらかというと「こうあるべき」というルールみたいなものに自分をはめこむことで立派な人になろうという立場で、老子は無為自然の境地についてひたすら説明しているような書だと思っています。

前者の方が具体的な行動規範が書いてあり分かりやすいことは分かりやすいのですが、内心からの行動にならないので、偽善っぽい人になってしまうのではないかと前から思っております。
後者は、その境地が全然分からない人には誤解の恐れがある書だと思いますが、子供的な境地をまだしっかり持っている人なら何となく分かるのではないかと思います。
いろいろ (imagingstar)
2008-11-24 01:51:49
書きましたが、もともとブログで書きたかったことに、少し付け加えつつまとめるなら、

「僕らが生きた証を残せるのは、人を感動させたり、感動したりするときである。でも、それは何も特別なことをしなければならないわけではない。何気ない日常の中にこそ、感動的な物語が潜んでいる。心の眼の鱗を落として、この感動的な物語を読み解いていこうではないか。」

くらいの感じです。

眠い頭なのでちゃんとまとまってるかどうか分かりませんが、とりあえず。
ではおやすみなさい。

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