世田谷区は比較的、食料品の買占めみたいなことは起きていない。しかし米については、どこに行っても、たいていの店では普通の米も、レンジですぐにできる米飯も売り切れているように見える。
しかし、私が行きつけの自然食品店に行くと、レンジでできる米飯はしっかりと陳列されていた。買占めをする人たちにとっては自然食品店はターゲットとならなかったということだ。
また、カップ麺についても同じようなことがあった。カップ麺はどこに行っても全然見当たらないように見える。しかしよくよく観察していると、地味な商店で店の前にいくつもカップ麺を並べているところがあるのだ。地味な食力品店も、買占め集団にとっては存在しないも同じ存在だった。
こういうパターンというのは以前から、野菜の値上がりとか品不足のときもあった。買占めとかに走る人というのは、結構視野狭窄的な人が多いようで、いかにもそういうものを置いていそうなところに集中するようだ。
買占めに走ろうとする利己的な動きと、視野狭窄というのは私から見るとリンクしているように思える。
私の見立てによれば、利己的な人間というのは、ある意味自分というものを周囲から切り離して考えているということだ。それは自我という概念についての考え方が狭いのだと思う。
若干分かりづらいだろうから、たとえ話で説明する。
人間というのは、竹の群生のようなものだ。竹の群生というのは、表面的にはそれぞれが独立しているように見える。しかし、根っこでしっかりとつながっている。だから、1本1本の竹は別々に見えても、実際には一体なのだ。人間もこれに似て、1人1人が別々に見えても、実際にはあらゆるところでつながっている。
だけど、自分というものを考えるときに視野狭窄的な見方をする人は、竹で言うと土の上の部分しか見ていない。自分が、自己の属する社会の一員であるということが自分のアイデンティティの大きな部分を構成しているというところまで見ることができないのだ。
そして、視野狭窄的な考え方の人というのは、何かにつけて視野狭窄になりやすい。これは視野狭窄というものが脳の機能の低下であるという性質からすればいかにも自然なことだ。
そういうことを考えると、やはり利己的な人間が、視野が狭い人間であることが多く、だから思い込みも激しくて、普通想定される場所に目掛けて一目散に買占めに走るのではないか、という結論になってくるのである。
ここまで書いて分かってきた。こういう話はこんな風にくどくどと説明しないと分からないし、説明しても分からないことが多いのかもしれない。そして何かにつけて私はそういうことが多い人間なのだ。
でも、私はこういう話に対して、賛成でも反対でもいいから乗ってくれる、あるいはせめて耳を傾けてくれる人を友としたい。