大地震直後の憲政記念館広場の状況
11年3月11日、午後2時46分、東北・三陸沖を震源とする極めて強い地震が起きた。
国内観測史上の最大のマグニチュード9.0で、宮城県北部では震度7を観測した。
大正12年に発生した「関東大震災」が凄く大きな地震であったと聞かされていた。
その映像も観たことがある。たくさんの死傷者が出たと慰霊碑も建てられている。
地震の周期は60年毎であると云われていて、東京ではいつ来てもおかしくないと報道されていた。
9日にも宮城県では震度5の地震を観測していた。
それが余震であったのか、11日には東日本一帯で巨大地震を発生した。
テレビは昼夜にわたり地震の報道を繰り返し伝えていた。
時間が経つうちに被災地の被害状況が伝えられてきた。
津波による被害が大きいことがテレビの映像から理解できる。
地震発生時には、憲政記念館ホールの講演会会場にいた。満席の状況であった。
国際平和機構主催による文化フォーラム「日本の環境問題と国際交流」である。
一人目の講演者が終了して、二人目の講演者を司会者が紹介したときであった。
地震を感じ「地震だ!」と叫ぶ人、「外へ出るぞ!」といって席を立ち上がり、出て行く人。
女性の司会者は「席を立たないでください」と呼びかけるが、既に多くの人たちが出口へ向かっていた。
尾崎行雄の銅像が建っている池の水は大きく波立っている。
駐車場の広場に出て携帯電話をする人が多い。
本館の壁は剥がれて崩れ落ちそうとなった。職員がロープを張り巡らせていた。
講演会に一緒に参加していた同行者も広場に退避する。かなり心臓が激しく息を弾ませている人もいた。
樹木と照明灯のポールは大きく揺れ続けている。
余震が続いている。
地面が揺れているので、足元が落ち着かない。
既に携帯電話はつながらない状態となっていた。
メール送信は出来るので、家族に安否のメールをする。
携帯電話は通じないが、ワンセグが利用できるのでテレビ画像で報道を観ていた。
(3月13日記)
11年3月11日、午後2時46分、東北・三陸沖を震源とする極めて強い地震が起きた。
国内観測史上の最大のマグニチュード9.0で、宮城県北部では震度7を観測した。
大正12年に発生した「関東大震災」が凄く大きな地震であったと聞かされていた。
その映像も観たことがある。たくさんの死傷者が出たと慰霊碑も建てられている。
地震の周期は60年毎であると云われていて、東京ではいつ来てもおかしくないと報道されていた。
9日にも宮城県では震度5の地震を観測していた。
それが余震であったのか、11日には東日本一帯で巨大地震を発生した。
テレビは昼夜にわたり地震の報道を繰り返し伝えていた。
時間が経つうちに被災地の被害状況が伝えられてきた。
津波による被害が大きいことがテレビの映像から理解できる。
地震発生時には、憲政記念館ホールの講演会会場にいた。満席の状況であった。
国際平和機構主催による文化フォーラム「日本の環境問題と国際交流」である。
一人目の講演者が終了して、二人目の講演者を司会者が紹介したときであった。
地震を感じ「地震だ!」と叫ぶ人、「外へ出るぞ!」といって席を立ち上がり、出て行く人。
女性の司会者は「席を立たないでください」と呼びかけるが、既に多くの人たちが出口へ向かっていた。
尾崎行雄の銅像が建っている池の水は大きく波立っている。
駐車場の広場に出て携帯電話をする人が多い。
本館の壁は剥がれて崩れ落ちそうとなった。職員がロープを張り巡らせていた。
講演会に一緒に参加していた同行者も広場に退避する。かなり心臓が激しく息を弾ませている人もいた。
樹木と照明灯のポールは大きく揺れ続けている。
余震が続いている。
地面が揺れているので、足元が落ち着かない。
既に携帯電話はつながらない状態となっていた。
メール送信は出来るので、家族に安否のメールをする。
携帯電話は通じないが、ワンセグが利用できるのでテレビ画像で報道を観ていた。
(3月13日記)