つれづれなるままに

日々の思いついたことやエッセイを綴る

祝嶺正献先生との出会いと躰道を学ぶ息子達(その8)

2007年04月05日 | 躰道
尾崎健一氏は祝嶺正献先生に空手道、躰道の指導を受けた人。 躰道師範協議会副会長。
ロック歌手・尾崎豊氏の実父であります。
躰道壮年倶楽部講演会の資料より掲載しています。

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「祝嶺正献先生との出会いと躰道を学ぶ息子達」(その8) 尾崎健一

3.躰道と子供たち

①弟・豊

これを書くために、古い日記をひっぱり出して、その中から子供たちが躰道にかかわった記事を探してみました。
先ず弟の豊の方についていえば
昭四四、三、二〇(三才)『――将来の希望は、自衛隊の隊長になることと、空手の先生になることーー』
と言ったと書いています。
子供のことだからハッキリしたことをいった訳では勿論ありませんが、少なくとも父親や兄の影響で、空手に対して幼少時から関心を示していたことは、みてていたと思います。
また、昭五〇、九、二六 小三(九才)『躰道の練習に(練馬・区役所裏の)タコ公園へいき河内銑重郎先生から勢命の法形を習ったーー』とあります。

実は、日記には残していませんが、豊が五才位のとき(兄・康は小学五年生)私は、当時の練馬都営住宅の庭先に一坪位の空き地を作り、巻藁を立て、地面には莚を敷いて子供たち二人に躰道の手ほどきを教え始めたのです。
先ず座り方から始め、あとは立川で初めて先生に習ったことを思い出し乍ら、かつ先生の書かれた『新空手道教範』を頼りに指導したことを思い出します。
この一坪ほどの庭先は、かつて練馬大根を作ったであろう豊饒な畠土です。
以前私も家庭菜園をしていた場所なので、敷いた莚に座ってみると莚の下にふかふかと柔かい土の弾力を感じ、気持が良かったことを思い出します。
指導は、先生から教えられた時のように、子供乍ら師弟として対した記憶があります。
親には普段余りみせない生真面目な顔をして座礼する二人をみて、内心嬉しくもあり、若干オカシクもあり、頼もしくもありました。

この、父子の師弟的関係は、その後の家庭教育に極めて良好かつ効果的な影響を及ぼしたと思っております。
小学校の頃の学習指導をする際にも、子供は父を仰ぎ見る姿勢をとるようになり、これはその後の基本的父子関係に好影響を及ぼしているように思っております。
正に躰道の五条訓にいう『態端正にして心形の一体を図り、態位正しきを得れば侮られる事なし』で、この言葉は私の信条となって一生の心の支えとなってきたようにさえ感じています。

また、日記にある幼い頃兄弟が通っていた
タコ公園では、この公園のほど近くに住んでおられた河内先生ご兄弟(銑重郎氏、重典氏)に指導をして頂いたのだと思いますが、恐らくご兄弟のボランテア的活動であったろうと、今更申し訳なく有難く思っております。

昭五一、九、二九(豊 小五)『今日、僕はずる休みした。皆が余りイジメルからだーー』
昭五二、十、十六(豊 小六)『朝霞(埼玉)躰道大会、少年の部個人法形で優勝。カップを貰う』

昭和五十一年八月。
豊が小五の夏休みに、現在の朝霞に家を新築して練馬から引っ越してきました。(つづく) 

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祝嶺正献先生との出会いと躰道を学ぶ息子達(その7)

2007年04月05日 | 躰道
尾崎健一氏は祝嶺正献先生に空手道、躰道の指導を受けた人。 躰道師範協議会副会長。
ロック歌手・尾崎豊氏の実父であります。
躰道壮年倶楽部講演会の資料より掲載しています。

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「祝嶺正献先生との出会いと躰道を学ぶ息子達」(その7) 尾崎健一

②先生の武道家へのデビュー

自衛隊を去られて間もなく、恐らく昭和三十一年春だったと思います。
先生は満を持した如く、武道家へのデビューを華々しく果たされたのです。
当日の思い出を再現します。
ところは、神田共立講堂。舞台正面には三十数枚の瓦が積まれている。
客席の私からはよく見えないが、たぶん数枚のコンクリートブロックがその下に敷かれている筈である。
舞台右ソデから、道着姿も凛々しい先生が静かに現われ、積まれた瓦を前にして客席に一礼された。
この頃は、まだ白黒のテレビが漸く町角などに出始めた頃で、場内には武道新聞の記者らしい人たちは多くきていたが、テレビ撮影は勿論ない。
今なら早速民放でライブ放映されるはずの名場面である。
それに、残念乍ら私もまだカメラなど持っていなかった。

最前列の席で、私はその瞬間を待った。
場内寂として、観客は息を殺し、一瞬静寂が凍りつく。
下から見上げると、三十数枚の瓦は先生の腰の辺りにまで及んでいる。
何しろ、五枚の瓦割りに苦労している私である。
祈る気持ちであった。
裂帛の気合が、凍りついた静寂を破った。
全身の力が、右肩から腕に流れ先生の手刀はグズッとにぶい音をたてて瓦の上にくいこんだ。

万雷の拍手が湧く。
だが、私はまだ心配だった。
高さの半分位までは左右に割れているが、更に下方の状態がよく判らない。
成否は。
と客席は固唾をのむ。
やがて介助者が現われて、積まれた瓦の片側を静かに引き離すと、積み重ねた瓦の中心線は見事に最下部の一枚まで左右に割れたのである。

成功。
再び場内には割れんばかりの拍手が鳴りひびいた。
先生は、再び静かに一礼して舞台を去られた。
安心と、喜びが余りに大きかったせいか、遠い日の事でもあり、このあとのことを私は良く思い出せない。
先生が、武道家として躰道をひっさげて、見事にデビューされた一瞬であった。(つづく)


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