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つれづれなるままに

日々の思いついたことやエッセイを綴る

全日本躰道選手権大会(その1)

2015年12月07日 | 躰道
                  和歌山県の田和茜選手による選手宣誓

全日本躰道選手権大会が東京武道館で開催されました。
観覧する目的の一つは、全国から集まる親しい指導者と選手たちに会って話をしてコミュニケーションを図ることです。

朝、集合場所では熱海市で指導している大川公男先生が元気な声で近寄ってきました。
和歌山の小西美智子先生と小西愛先生、そして船本高正先生とも久し振りの再会であります。
昨年の優勝した田和茜選手と準優勝の瀬藤有希選手も元気な姿を見せてくれました。

田和茜選手の選手宣誓は「躰道創始者・祝嶺正献最高師範」の名前を入れて力強くはっきりと宣誓をしておりました。躰道の井戸を掘った人のことを忘れていないことは立派です。

女子個人法形競技では、瀬藤有希選手が余裕の優勝で圧倒していました。そして優秀選手賞も獲得しておりました。日頃から精進して訓練をしてきた躰道の実技を如何なく発揮しておりました。

(12月7日記)
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躰道創始者・祝嶺正献最高師範のお墓参り

2015年12月01日 | 躰道
                  躰道創始者・祝嶺正献最高師範のお墓

14年前に亡くなりました躰道創始者・祝嶺正献最高師範のお墓参りに行きました。
静岡県伊東市の相模湾が展望できる高台にあります。
お墓を前にして14年前を思い出しました。

亡くなる2日前は東京武道館では「全国躰道選手権大会」が開催され、祝嶺正献最高師範は全国から集まった選手たちに力強いメッセージを送りました。
訃報を聞いて伊豆高原の岳雲荘に向かうとき伊豆の樹木は紅葉しておりました。
葬儀の早朝には大島の上空には明けの金星が照り輝いておりました。
祝嶺正献最高師範(岳雲)から自分に頂いていた「岳泉」の名前で思いを綴っておりました。

 秋晴れに 全国集う 選手権 宗家の挨拶 皆力湧く

 伊豆の山 紅葉燃えて 我が師範 躰道残して 天に旅立つ

 朝焼けに 黒く浮かぶ 大島の 上空輝く 師範の星

                       (岳泉)

今年の「全日本躰道選手権大会」は12月6日(日)に東京武道館で開催されます。観覧無料です。

(12月1日記)
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全国学生躰道優勝大会

2015年10月11日 | 躰道
                      個人法形競技競技

第49回全国学生躰道優勝大会は、夢の島公園内にあるBumB東京スポーツ文化館アリーナで開催されました。
熱戦が繰り広げられた結果、総合優勝は団体競技の3種目で優勝した東京大学が前人未到の8連覇を成し遂げました。近年は東京大学躰道部の抜きん出た実力が他大学を圧倒しております。

最優秀選手には、法形競技で優勝、実戦競技で準優勝をした稲見安希子選手(千葉大学)が獲得しました。
期待の選手として実戦競技で優勝、法形競技で3位の駒澤里香選手(拓殖大学)が注目されております。

全日本躰道選手権大会は、12月6日(日)東京武道館(綾瀬)で開催されます。

(10月11日記)
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全国社会人躰道優勝大会

2015年09月22日 | 躰道
                 個人法形競技(女子の部)で優勝した瀬藤有希選手

第25回全国社会人躰道優勝大会が東京武道館で開催されました。
全国から143名の選手が出場しました。
個人法形競技(男子の部)で中野哲爾選手が12回目の優勝をしました。
女子の部の個人法形競技では和歌山の瀬藤有希選手が5回目の優勝を果たしました。

自分は第1回から第8回大会まで選手として参加しました。
個人法形競技に出場して、最高殊勲選手賞となる「最高師範杯」を4回受けました。
とても楽しい思い出が残っております。

(9月22日記)
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東京城西地区躰道優勝大会

2015年07月20日 | 躰道
                    開会式で挨拶する市川みのる会長(中野体育館)

第26回東京城西地区躰道優勝大会を観戦しました。会場は中野体育館。
関係15団体から多数の選手が猛暑のなか出場しております。
躰道優勝大会の種目は少年部から一般・壮年部まで、個人戦及び団体戦を含めて12競技があります。

開会式では、市川みのる大会会長(中野区議会議員)より「躰道は中野区が発祥であり、日本全国から今では世界各国へ普及が進んで愛好者が増えております」と挨拶がありました。
選手宣誓は足立拓弥選手(早稲田大学主将)、躰道五条訓指揮は濱田有希選手(二松学舎大学主将)が行いました。
その後、特別演武として奥山安雪八段範士による「地制の法形」が披露されました。

少年少女競技は、埼玉県志木所属の会員が大半を占めておりました。
志木では最近少年少女会員の入会が増えており、その父母たちも積極的に運営に協力をしています。
過日開催された埼玉県大会でも好成績を挙げ、城西大会の次は、全国少年少女優勝大会に臨む態勢で準備をしています。

(7月20日記)
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尾崎豊と躰道のエピソード(3)

2015年04月10日 | 躰道


尾崎健一氏は祝嶺正献先生に空手道、躰道の指導を受けた人。 躰道師範協議会副会長。
ロック歌手・尾崎豊氏の実父であります。
躰道壮年倶楽部講演会の資料より掲載しています。

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「尾崎豊と躰道のエピソード(3)」 尾崎健一

豊が歌手デビュー後結婚して、男の子供ができたとき、子供にも是非躰道を教えようと思ったようです。
忙しいツアーの間をぬって、新目白通りの円形のガスタンクの隣にある練馬体育館に時々顔を出してどなたかにご指導を受けたこともあるらしい。
『久しぶりに(躰道を)やったので、今日は体の節々が痛くてしょうがないヨ』などとツアーの合間に、事務所を守っていた私と母の傍らにきて、満更でもない顔をして話していった記憶が残っています。

また、どうせ一人の子供に教える位なら道場を持とうという考えに到達した豊は、少しばかり資金もできたせいで、早々とその実現を思い描くようになったようです。
ツアーの合間に、事務所へ戻る度に、私にむかって『よい道場みつけといてくれた?』と、本気に聞く有様です。
こちらは当面の彼のツアー完走のみが素人経営者の私にとっては目前の大問題で、それどころではない切迫した気分でしたが、豊の気持も察して『あちこち当っている最中』と答えておりました。

豊がもう少し存命したならば、必ずどこかに道場をもったことは間違いなかったと思います。
豊の思い描く道場は、大きな二階建で下が「躰道の道場」、上は「学習塾」でこちらの方は兄の康に任せる、とかなり具体性を帯びていました。
当時兄の方はかなり大きな学習塾の理事候補で、塾講師を兼務しておりました。

彼の夢の原型になったモデル校が今も朝霞にあります。
下が剣道道場で上は学習塾となっております。
ちなみに、彼の死後、豊のこうした意志をきかれた躰道創始者・祝嶺正献最高師範から『躰道五段・教士』の免状と『黒帯』を贈って頂きました。
今は大切に私が保管し、やがて豊の遺児裕哉(ひろや)が青年になった時、こうした父・豊の志を告げてこれを渡そうと思っております。

更にデビュー後の豊に躰道が益したのは、躰道の技――身のこなし――の美しさです。
ロックアーチストというのは、すべてが自作自演の世界のようです。
作詞、作曲、歌唱までの自作自演は誰も知るところですが、舞台でのフリまですべて自前です。
『廻し蹴り』は豊の得意技で、時々舞台ではマイクを相手に披露していました。マイクすれすれのケリは中々難しかろうと、私は若干ハラハラし乍ら観ていたものです。
その頃、他のアーチストの中でも次第にそのフリをまねる者が出てきて『あいつ、俺のマネをしている』などとテレビを見ながらつぶやいているのを覚えています。
ただ私が見ると、空手の心得のない人の廻しゲリは、実にサマになっていないものが多かったのですが、最近は皆がうまくなったような気がします。
当時豊が、深夜、創作の合い間に、自分の部屋に立てかけた大鏡にむかって、ギターを抱えたり、持たなかったりし乍ら、懸命にフリの研究をしていた姿を思い出します。

(4月10日記)
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尾崎豊と躰道のエピソード(2)

2015年04月09日 | 躰道
                           尾崎豊

尾崎健一氏は祝嶺正献先生に空手道、躰道の指導を受けた人。 躰道師範協議会副会長。
ロック歌手・尾崎豊氏の実父であります。
躰道壮年倶楽部講演会の資料より掲載しています。

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「尾崎豊と躰道のエピソード(2)」 尾崎健一

豊が小5の夏休みに、現在の朝霞に家を新築して練馬から引っ越してきました。 
当時の朝霞は、33年経った今では考えられないほどの田舎で、都内から転校してきた豊はさすがに目立つ存在であったようです。
面白くないのは、クラスの男の子ということになります。
直接的な暴力行為はなかったようですが『シカト(皆で無視する)』されたり、知らぬ間に机の上に白い花を飾られたりしたことを、後年、彼自身何らかの中で書いています。
女子や、男子のおとなしい子供たちも、番長格の男の子には従わざるを得なかったのでしょう。
そこで前記の「ずる休み」です。

当時、転勤で土浦の部隊へ遠距離通勤していた私は、朝は四時起き、北朝霞から一番電車に乗って通勤していました。
帰宅すれば、翌朝早いからと早々と就寝する生活で、妻も仕事に出ていた関係で、9月から新学期が始まって約一ヶ月、豊のこうした変化に気づかずにおりました。
先生が訪問されて、そのことを告げられて始めて知り大いに驚きました。
職場にかかってきた妻の電話を聞いて、私は急きょ休暇ををとってとんで帰り、早速豊に問いただすと、日記のような答えです。
 
『何故、やり返さないのか』と、私は問い返しました。
『だって、お父さんは、喧嘩に躰道を使ってはいけないって、何時も言っているでしょう』という答え。
『正当防衛ならいいから、相手に傷つけないように注意してなら、やってもよい』

翌日、豊は意気揚々と学校から帰ってきたらしい。
何しろ子供どうしである。
番長といえども、翌年は埼玉県躰道大会で優勝する腕前の豊である。
苦もなくねじ伏せられた番長は潔く降参したらしい。
豊の死後、友人と共に焼香にきてくれたこの方は『あの時は豊君に首をしめられて、まいりましたヨ』と笑い乍ら語っていかれた。

番長が代われば、クラスの空気は一転。
翌日からはクラスの人気者。
女の子にはモテモテの日が始まったらしい。
翌年、クラスの皆におされて6年生の学級委員に立候補し、当選したことが日記に残っております。
自らの力によって困難を乗り越えたというこの経験は、その後の彼の人生全般に、強烈な影響を与えたものと私は考えています。(つづく)

(4月9日記)

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尾崎豊と躰道のエピソード(1)

2015年04月08日 | 躰道
                       尾崎豊

尾崎健一氏は祝嶺正献最高師範に空手道、躰道の指導を受けた人。 躰道師範協議会副会長。
ロック歌手・尾崎豊氏の実父であります。
躰道壮年倶楽部講演会の資料より掲載しています。

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「息子・尾崎豊のエピソード(1)」 尾崎健一

尾崎豊と躰道

これを書くために、古い日記をひっぱり出して、その中から豊が躰道にかかわった記事を探してみました。
豊の方についていえば
昭和44年3月20日(3才)『将来の希望は、自衛隊の隊長になることと、空手の先生になること』と言ったと書いています。
子供のことだからハッキリしたことをいった訳では勿論ありませんが、少なくとも父親や兄の影響で、空手に対して幼少時から関心を示していたことは、みていたと思います。
また、昭和50年9月26日 小3(9才)『躰道の練習に(練馬区役所裏の)タコ公園へいき、河内銑重郎先生から勢命の法形を習った』とあります。

実は、日記には残していませんが、豊が5才位のとき、私は当時の練馬都営住宅の庭先に一坪位の空き地を作り、巻藁を立て、地面には莚を敷いて子供たち二人に躰道の手ほどきを教え始めたのです。
先ず座り方から始め、あとは立川自衛隊で初めて祝嶺正献先生に習ったことを思い出し乍ら、かつ先生の書かれた『新空手道教範』を頼りに指導したことを思い出します。
この一坪ほどの庭先は、かつて練馬大根を作ったであろう豊饒な畠土です。
以前私も家庭菜園をしていた場所なので、敷いた莚に座ってみると莚の下にふかふかと柔かい土の弾力を感じ、気持が良かったことを思い出します。
指導は、先生から教えられた時のように、子供乍ら師弟として対した記憶があります。
親には普段余りみせない生真面目な顔をして座礼する豊をみて、内心嬉しくもあり若干オカシクもあり、頼もしくもありました。

この、父子の師弟的関係は、その後の家庭教育に極めて良好かつ効果的な影響を及ぼしたと思っております。
小学校の頃の学習指導をする際にも、子供は父を仰ぎ見る姿勢をとるようになり、これはその後の基本的父子関係に好影響を及ぼしているように思っております。
正に躰道の五条訓にいう『態端正にして心形の一体を図り、態位正しきを得れば侮られる事なし』で、この言葉は私の信条となって一生の心の支えとなってきたようにさえ感じています。

また、日記にある幼い頃、豊が通っていたタコ公園では、この公園のほど近くに住んでおられた河内先生ご兄弟(銑重郎氏、重典氏)に指導をして頂いたのです。恐らくご兄弟のボランテア的活動であったろうと、今更申し訳なく有難く思っております。

昭和51年9月29日(豊 小5)『今日、僕はずる休みした。皆が余りイジメルからだーー』
昭和52年10月16日(豊 小6)『朝霞(埼玉)躰道大会、少年の部個人法形で優勝。カップを貰う』
※昭和51年8月。豊が小5の夏休みに、現在の朝霞に家を新築して練馬から引っ越してきました。(つづく)

(4月8日記)
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躰道創始者・祝嶺正献最高師範のエピソード(2)

2015年04月07日 | 躰道
                 祝嶺正献最高師範の瓦割り演武

尾崎健一氏は祝嶺正献先生に空手道、躰道の指導を受けた人。 躰道師範協議会副会長。
ロック歌手・尾崎豊氏の実父であります。
躰道壮年倶楽部講演会の資料より掲載しています。

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「躰道創始者・祝嶺正献最高師範のエピソード(2)」尾崎健一

(2)祝嶺正献先生の武道家へのデビュー

祝嶺正献先生が自衛隊を去られて間もなく、恐らく昭和31年春だったと思います。
先生は満を持した如く、武道家へのデビューを華々しく果たされたのです。
当日の思い出を再現します。
ところは、神田共立講堂。舞台正面には三十数枚の瓦が積まれている。
客席の私からはよく見えないが、たぶん数枚のコンクリートブロックがその下に敷かれている筈である。
舞台右ソデから、道着姿も凛々しい先生が静かに現われ、積まれた瓦を前にして客席に一礼された。
この頃は、まだ白黒のテレビが漸く町角などに出始めた頃で、場内には武道新聞の記者らしい人たちは多くきていたが、テレビ撮影は勿論ない。
今なら早速民放でライブ放映されるはずの名場面である。
それに、残念乍ら私もまだカメラなど持っていなかった。

最前列の席で、私はその瞬間を待った。
場内寂として、観客は息を殺し、一瞬静寂が凍りつく。
下から見上げると、三十数枚の瓦は先生の腰の辺りにまで及んでいる。
何しろ、五枚の瓦割りに苦労している私である。
祈る気持ちであった。
裂帛の気合が、凍りついた静寂を破った。
全身の力が、右肩から腕に流れ先生の手刀はグズッとにぶい音をたてて瓦の上にくいこんだ。

万雷の拍手が湧く。
だが、私はまだ心配だった。
高さの半分位までは左右に割れているが、更に下方の状態がよく判らない。
成否は。
と客席は固唾をのむ。
やがて介助者が現われて、積まれた瓦の片側を静かに引き離すと、積み重ねた瓦の中心線は見事に最下部の一枚まで左右に割れたのである。

成功。
再び場内には割れんばかりの拍手が鳴りひびいた。
先生は、再び静かに一礼して舞台を去られた。
安心と、喜びが余りに大きかったせいか、遠い日の事でもあり、このあとのことを私はよく思い出せない。
先生が、武道家として躰道をひっさげて、見事にデビューされた一瞬であった。

(4月7日記)
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躰道創始者・祝嶺正献最高師範のエピソード(1)

2015年04月06日 | 躰道
                      尾崎健一さん

私の親しい知人に尾崎健一さんがおります。
躰道では、ともに躰道創始者・祝嶺正献最高師範に指導を受けた同志であります。
躰道師範協議会の役員会では、副会長として長年その運営に携わっておりました。
尾崎健一さんは、ロック歌手として活躍していた尾崎豊氏の父親であります。
躰道も学んでいた尾崎豊さんが亡くなり23年が経過しております。
躰道の創始者である祝嶺正献先生も逝去して14年目を迎えております。
尾崎健一さんが「躰道壮年倶楽部」の講演会の原稿としてまとめた資料があります。
尾崎健一さんの許可を得て、この度私のブログで公開をすることとなりました。
テーマ「祝嶺正献先生との出会いと躰道を学ぶ息子達」(尾崎健一著)です。
暫くの間、連載をさせていただきます。
どうぞご愛読下さい。(池内和彦)

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「躰道創始者・祝嶺正献最高師範のエピソード(1)」 尾崎健一

1.(前おき)
 実は今、ここに立って私は少し困惑しております。
 先日「思い出話でもしてくれませんか」と池内和彦先生からお電話を頂いた時は、草創当時の祝嶺正献先生との思い出を話させて頂くのは光栄だな、でももっと他にも、例えば横堀登さん亡きあとといえば、峯村千徳さんあり、牧野力さんありですから、そうした方々と十五分づつ位なら、思い出話しをさせて頂きます。とご返事した――つもりだったのですが、送られた予定表ゲラを見ると一時間にわたる私の「講演会」ということになっているので、びっくりした訳です。
躰道についての講演できる人は、宗家・祝嶺正献先生をおいて他にありません。
語の厳密な意味から言えば『講演とは弟子に対して教えさとす』ことだからであります。――と堅苦しくいえば、まァそ-いうことになります。
――だからいって『一諾を重んずる』ことは宗家から教えられてきた、躰道の伝統的徳目でもあります。
そこで、今日の私の話しは年寄りが昔の思い出話しを囲炉裏ばたでボソボソと語る、言うならば『炉返談話』として気楽にお聞き頂ければ幸いと思います。
何しろ半世紀ほど前の話しになる訳ですから記憶に若干の思い違いもあると思いますが、その辺はお許し頂きたいと思う次第であります。(つづく)

(4月6日記)
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「躰道を語る」山田竜也先生

2015年03月15日 | 躰道
                    音楽家の山田竜也先生

音楽家の山田竜也先生と池袋でお会いして懇親のひとときを過ごしました。
ランチは中華料理店の天府酒家で、多田廣士さん(躰道指導者)も同席しました。

山田竜也先生は、躰道に関する音楽を沢山作曲してくれた方です。現在85歳でとても若いです。
「躰道ひとすじ」、「躰道賛歌」、「躰道行進曲」、「勢命の法形の曲」など素晴らしい音楽を提供してくれました。

躰道創始者・祝嶺正献最高師範との親しい交流のなか音楽が作曲されました。
第10回全日本躰道選手権大会(昭和51年)でのエピソード。
東京体育館で実施され観客は3階席まで満席となり、7400名の人が試合を見守っておりました。
開会式の入場行進は、山田竜也先生の指揮するオーケストラによる「躰道行進曲」です。
全国から選出された選手たちは威風堂々入場してきて、開会式に臨みました。
来賓席には全国から集まった各躰道協会会長ら150名が臨席しておりました。
躰道創始者・祝嶺正献最高師範の力強いスピーチが今でも甦ります。

躰道の良き時代を山田竜也先生と一緒に懐古した一日でありました。

(3月15日記)
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全日本躰道選手権大会(素晴らしき仲間たち)

2014年12月04日 | 躰道
                          志摩制基先生(八段範士)

全日本躰道選手権大会には全国から関係者が集まります。
躰道の発展に尽力している素晴らしい方達がたくさんおります。
その素晴らしき仲間たちと会えることがとても嬉しく楽しいものです。

志摩制基先生
 宮城県で指導仲間として交流してからもう45年の親しい仲間です。躰道創始者・祝嶺正献最高師範の実技と理念を正統に推進しております。祝嶺正献最高師範から武道名「制基」を授与された唯一の指導者です。会員から慕われて尊敬されております。正に躰道そのままの人です。

小西美智子先生と小西愛先生
 和歌山県で躰道の普及に尽力されております。選手として出場し優勝実績も多数残している二人です。今は会員の指導を熱心にしており、出場選手を全日本大会でも常時優勝へ導いている立派な指導者です。

Alvar Hugosson(アルバル ヒューゴソン)先生
 青森県で指導をしております。スウェーデン出身ですが日本人の奥さんと結婚しています。日本人よりも日本人らしい心と思いやりを持っております。現在、審判局長として審判員の育成に取り組んでおります。不安定な日本躰道協会の運営をしっかりと立て直す信念と行動力を持っております。

高道功生先生と原田奈津美さん
 躰道創始者・祝嶺正献最高師範から信頼の厚い指導者です。物事の善悪を心得ておりはっきりと提言をしております。原田さんは3年前まで日本躰道協会事務局で運営を担当してくれておりました。書道の師範資格があり、大会の賞状、段級位の証書などの揮毫を担当してくれました。

泉智慶先生と荒井和美さん
 新潟県の躰道組織を作り発展させております。会員からの信望も厚く自ら率先して大会に出場をしております。荒井和美さんは女子法形の鍛練から初めて今では壮年法形では重要な指導者となっております。世界大会や全日本大会で師匠である泉智慶先生との競技対戦は後世まで語り継がれることでしょう。

その他素晴らしい方が全国にはたくさんおります。

(12月4日記)
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全日本躰道選手権大会(壮年法形競技)

2014年12月03日 | 躰道
                 壮年法形競技で優勝した田部英知選手(左)と芝波田邦博先生

全日本躰道選手権大会の壮年法形競技には毎回新規の選手が出場をしてきます。
今回、田部英知選手が初出場をしました。
田部英知選手は越生武蔵高校で躰道部に入部して芝波田邦博先生から指導を受けておりました。

卒業後も躰道の修練は継続しておりました。
51歳となった現在は志木市の道場に通って稽古をしております。

田部英知選手は準決勝戦で恩師である芝波田邦博先生と対戦して勝利して、決勝戦に進みました。
決勝戦は壮年法形競技では常連である刀禰伯彬選手が相手となりました。

決勝戦では二人とも延命の法形を演じておりました。
演技の表現がとても対照的な二人です。
呼吸法を重んじて演技をする命の法形は判定がとても難しいものです。

勝敗の決定は2対1で田部英知選手が勝ち初優勝の栄冠に輝きました。
芝波田邦博先生も田部英知選手の優勝をとても喜んでおりました。
新たな選手の活躍で壮年法形競技も盛り上がっておりました。

(12月3日記)
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全日本躰道選手権大会(和歌山県選手)

2014年12月02日 | 躰道
                女子個人法形競技で決勝戦を戦った和歌山県の二人の選手

全日本躰道選手権大会は毎回ドラマがあります。
和歌山県から出場した3名の女子選手たち。
瀬藤有希さん、田和茜さん、大江ひかるさん。

3名は小西美智子先生と小西愛先生の指導を受けております。
両先生とも全日本選手権大会で立派な実績を残している素晴らしい指導者です。

3名は女子個人法形競技に出場しました。
Aブロックの瀬藤有希選手は前年度のチャンピオンであり、貫禄で決勝戦まで勝ち進みました。
Bブロックの田和茜選手は3歳から入会して躰道の指導を受けており、ついに全日本大会の決勝戦まで登りつめました。

決勝戦では、小西先生の教え子である和歌山県の二人の選手が戦うことになりました。
緊迫した競技がスタート。観客は息をのんで見守ります。
二人とも得意の法形で決勝戦に挑みました。

拮抗した素晴らしい演武が披露されております。
観客が審判の判定に注目します。
結果は2対1で、田和茜選手が初優勝しました。
2位となった瀬藤有希選手も祝福をしておりました。
和歌山県の偉業は継続されております。

(12月2日記)
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全日本躰道選手権大会(東京武道館)

2014年12月01日 | 躰道
                  全日本躰道選手権大会(東京武道館)

第48回全日本躰道選手権大会」を観覧してきました。
会場は東京武道館です。東京メトロ千代田線の綾瀬駅から徒歩5分です。
やはりこの会場は選手たちや観客にとっては交通アクセスがいいところなので人気の場所です。

全国各地から選出された選手が集まり競技を展開していきます。
競技種目は、男子の部、女子の部、壮年の部に分かれております。
団体競技は、実戦競技、法形競技、展開競技の部があります。

開会式後に予選の部が始まりトーナメント方式で勝ち抜いていきます。
準決勝まで進行をして、三位決定戦と決勝戦は本戦で実施します。
個人戦は出場選手の力量が拮抗しており接戦が展開されている。

本戦に出場して、優勝を勝ち取る人、2位、3位となりメダルを獲得する人たちの褒賞授与が行われると試合中の緊張感が和らぎ、選手の顔には笑みが込み上げてきます。
苦しい稽古の修練を乗り越えて獲得した実績であり、皆から祝福をされておりました。

(12月1日記)
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