明け烏:
すべての思想・信条の源は私怨(ルサンチマン)であると勝手に思い込んでいる。人はいわれなき屈辱を受けたときにこそ頭の芯が痺れるほど考え、己の私怨と屈辱を与えた対象に明瞭な姿形を与えんとする。そしてこの深い思考に基づいて発せられる言葉や文章だけが他人をして心を動かされるものと私は信じている。
いかりや:
>すべての思想・信条の源は私怨(ルサンチマン)であると勝手に思い込んでいる。
「いわれなき屈辱」が「ルサンチマンの種」、種が芽を出し葉をつけて華になったのが思想・信条、 「種(たね)」をどのように育てるかはその人の器量による。筆者のよう小物は、ルサンチマンをルサンチマンのままで、うまく昇華できずにストレートに相手を攻撃しようとする、情けなか(涙^^)。
明け烏:
1970年代の学生運動が東大医学部から始まったことはご存知の方も多いことだろう。当時、東大医学部の助手を勤めていた養老孟氏は突如、黒雲のごとく湧き上がった学生運動の運動家たちによって理由なき吊るし上げを受けたり、屈辱を与えられたことが何遍もあったことだろう。
人は肉体的な苦痛は忘れることもあるが精神的な屈辱は絶対に忘れない。学生運動が沈静化したあとも養老氏は、あの忌々しい疾風のような学生運動の正体は何であったのだろうと、ずっと考えていたに違いない。
その養老氏が司馬遼太郎氏の「人間の集団について」の中の一章、NYの黒人青年たちの話から日本の学生運動について論じた文章を読んだときの衝撃を私は、さながら自分のことのように感じたものである。「バカの壁」一冊はこのとき成ったのである。30年にも及ぶ思考の末に出てきた書物であれば売れないはずはない。しかもその淵源は強いルサンチマンなのだ。
いかりや:
>しかもその淵源は強いルサンチマンなのだ。
明け烏さんのコメントを読んで、養老先生の「バカの壁」の内容を思い出そうとしたが、どうしても思い出せない。ということは、失礼ながら筆者にとって影の薄い本だったということになります。改めて書棚を探したがみつからないので、ネット上で探していたら、次のような、批評があることを知った。評価しないのは筆者だけではなかった(そうかと言って、この本の価値を貶めようと言うつもりは毛頭ありません)。
ブログ: 「 読んでムカつく 噛みつき評論 」
「バカの壁」を読めばバカになる
http://homepage2.nifty.com/kamitsuki/baka.htm
冒頭でこの評者は次のような書き出しで始めています。
”” 「バカの壁」は二百万部を超えたそうである。著者の養老孟司氏は東大名誉教授の著名な人物で、出版社は一流である。怪しげな本ではないだけに二百万部が世に与える影響力は小さくない。自分だけ知らずに恥をかいては、と思い購入した。帯には「朝日・毎日・読売各紙で大絶賛」と大書してある。一読した。そのお粗末さはまさに驚異的であった。時間を浪費したという思いと共になぜこんないい加減な本が大量に売れるのかと疑問がわいた。私の購入したのは三十五刷であり、初版後七ヶ月以上が過ぎているのに明らかな間違いが訂正されていない箇所がある。二百万以上の読者があって誰も指摘しないのは何故だろう。ほとんどの読者が真面目に読んでいないのだろうか。
書籍等のネット販売大手のアマゾンには販売している本についての読者の感想・評価を載せるカスタマー レビューという欄がある。二百を超す感想・評価が出ていたが、ざっと見たところ、否定的なものが七割でその半数以上は酷評といえるものであった。こんな評価の低い本が何故ベストセラーになるのか、なんとも不思議である。僅かな時間で作った本によって新潮社は十億円以上を売上げ、担当者と養老氏は共に笑いが止まらぬであろうが、反面、多数の読者の期待に背いたことによる将来の悪影響を免れることはできない・・・・”” (この続きは上記URLでお読みください)。
この評者の意見に全面的に賛同するわけではありませんが、養老大先生は、この頃から、あまり進歩していない(笑)。ほんまもんの「ルサンチマン」ならば、この東電の福島原発事故を、他人事のように ”” 「答え」はいつも目の前にある 見えていないのは「問い」の方だ・・・・”” と、軽々しくは言えないはずである。
この評者の、最後の結びは次のようになっている。
””不幸にしてこの本を買った人は今後、一流出版社、著名な著者、新聞の大絶賛、本屋に平積み、この四つの条件が揃っても、安易に買ってはいけないという教訓を得たはずである。さらに権威というものを無条件に信じることの危うさを「知る」ことに役立てればよいと思う。””
まさしく、権威というものが如何に薄っぺらでいい加減なものか、そして真実は少数派のなかにあって、横暴な多数派の陰に隠れていることを知らなければならない。
明け烏:
「エコエコ運動」について、
「エコエコ運動」を推進せんとしている者たちの文章は読むにたえない。それどころか常に胡散臭さや偽善を感じてしまうのは、エコエコ運動家たちがエネルギーの浪費によって何らかの苦痛や屈辱を受けたことがまったくないからなのである。つまり彼らは「反エコ運動」に対してルサンチマンをまったく抱いていない。それどころか盛大な電力の浪費によって支えられているマスコミによって恩恵を受け、結構な金銭を得ているのである。こんな人間たちのエコ推進の言葉や著作によって、誰が感動などするものか。
原子力発電所に関しても、観念的にこれが危険だとはわかっても、現実にこれから被害を受けた人間は少数であるし、またそれらの者の声は告げられることは無い。したがって原発によって利益を受けたものだけの発言だけが取り上げられることに難しさがある。
最近、やっとお目にすることが出来るようになった京都大学の小出裕章氏や広瀬隆氏の発言や著作が、ズンと腹に響いてくるのは、およそ以上のようなことに拠るのであろう。
いかりや:
なんとなく最近の「エコエコ運動」は、非常に軽薄ですね。小出氏は反原発を唱える一方で、その良し悪しは別にして、彼の部屋(京大原子炉実験所)は、無駄な電灯は点けない。インタビューをうけるときでさえ、部屋は暗い。真夏でも、クーラーは滅多につけないという徹底ぶりである。小出氏は反原発を唱えて40年、そして今も尚、助教のままである。しかも、その姿勢は権威に対してひるむことなく、論理的で凜としている。
5年前に行われた佐賀県玄海町のプルサーマル公開討論会における東大教授の傲慢な態度と小出氏の姿をご覧ください(再掲です)。
プルサーマル公開討論会日付:平成17年12月25日
http://hiroakikoide.wordpress.com/2011/04/25/genkai-h17/