天台宗の寺院です。坂川の改修工事や明治の初めの松戸本陣の火災で焼失などで手狭になってしまった。創建は不詳ですが、本堂前に残された石造物に寛文や延宝の年号があり江戸時代前期に開山されたと思はれる。本尊の大日如来は離れた墓苑に伽藍を建立し祀られている。
(角町交差点)
日蓮宗真間山弘法寺の末寺。寛永二年(1625)頃日感上人が開基したと謂われている。国府台合戦の古戦場跡の低地江戸川左岸で開山したが、享保年間の江戸川の大洪水で壊滅し現在の台地に移った。
(中矢切538)
旧三村新田(昭和34年では戸数8戸)はその中央部に位置しています。
開発された各新田には豊作祈願と感謝を込めて、穀物の神・倉稲魂命(うかのみたまのみこと)稲荷社が祀られました。この為か稲荷社が多く存在しています
(西馬橋4-589)
前田公園そばの崖の中程に建っのているが住宅に遮られて目立たない。現在は住宅街となっているが、昔は此処から(前)田が広がり見通しが良い小高い処に稲荷社を建てて豊穣を祈り祀ったのだろう。
創建は不明だが、本覚寺の祀られている西山稲荷と対応して”東の稲荷”と呼び地元の人に親しまれている。
(上本郷2750)
写真の遷宮記念碑によるとこの天神社は、昭和36年に富士川流域の平賀天神下から当地に移されたとある。
境内の石造物は比較的新しく、江戸時代末期から明治時代にかかるものが並んでいる。
周囲に新築住宅が出来て何時の間にか住宅に囲まれた状態になった。
(平賀153)
本尊は阿弥陀如来、脇仏に観世音菩薩と勢至菩薩を合わせた善光寺式の仏様です。
吉田松陰が嘉永四年(1851)脱藩して水戸の学者、志士を訪ねる際、松戸宿を避けて変名で泊まった寺と「東北遊日記」に書かれている。
墓地にはフランス文学者の平野威馬男が眠っている。
(上本郷2381)
昔は、矢切村の多くに民家や寺社は江戸川沿いにあったが、宝永元年(1704)の大洪水の被害にあい村民はこの台地上に移転した。そして、京都東山より稲荷を勧請し「稲荷五社大明神」と号して鎮守とした。
かっては「稲荷神社」と呼ばれていたが、昭和二十九年に稲荷社に素盞鳴社を合祀して今日に至る。祭神は倉稲魂命。 本殿棟瓦下、鬼瓦台座に鏝絵が描かれている、これは鏝絵伊豆長八の流れを汲む高橋三四郎氏の作品。
(下矢切332)
日蓮宗の寺院。中山法華経寺の末寺で、中山法華経寺第五十世貫主日厳上人が開山した(元禄三年)。伝教大師の真作と謂われている子安鬼子母大善神の像を安置している。 江戸川の対岸の柴又帝釈天は兄弟寺。矢切日枝神社と隣り合わせ、後ろの斜面林が屏風代わりになって趣がある。 江戸川を矢切の渡し舟で渡るが、ここまで足を伸ばす人はまれかも?
(栗山298)
通称栗山神社。創建年代は不詳。昔はこの辺りは山野の産物が多かったので、山神に奉謝するため山王日吉大神を勧請して祀ったという。本久寺と境内が隣在っている。
脇の細道を登ると栗山の台地の上(栗山浄水場の前)にでる。
(栗山297)
小金城主高城氏の菩提寺で歴代の墓所がある。下野守高城氏は戦国時代、東葛全域を勢力圏とする力を持っていた。
元は栗ヶ沢にあったのが、大谷口城の築城に伴って天文六年(1537)此処に移されたと伝わる。
その後、豊臣秀吉の小田原征伐の際、北條氏の幕下であった高城氏は滅亡再び返り咲くことはなく、寺は旧幕臣や農民達によって守られてきた。文化十年(1813)に再建されている。
境内から鎌倉時代正徳四年、南北朝時代康永元年の板碑が発掘され、当寺に保存されている。
(中金杉4-3)
江戸時代、下総台地に江戸幕府の馬牧が置かれた。幕府の崩壊とともに牧は明治新政府によって開墾場とされ、明治2年5月三井八郎右衛門ら36名に基金20万両を貸与して開墾会社を設立した。しかし開墾事業は失敗に帰し,同5年5月会社は解散,以後旧社員と開拓民との間に開墾地所有権獲得の争いが続いた。
開墾地には入植計画の数字順に従った地名がつけられた。順に初富(中野牧・鎌ケ谷)、二和(下野牧・船橋)、三咲(下野牧・船橋)、豊四季(上野牧・柏)、五香(中野牧・松戸)、六実(中野牧・松戸)、七栄(佐倉牧・富里)、八街(佐倉牧・八街)、九美上(佐倉牧・香取)、十倉(佐倉牧・富里)、十余一(印西牧・白井)、十余二(高田台牧・柏)、十余三(佐倉牧・成田および多古)。実施は必ずしも数字の通りではなかったようだ。
(六実2-1)
本堂には、ご本尊のほか花梨に彫られた大きな板曼荼羅、三十番神などを安置する。
階段をのぼった左手には、大谷口稲荷が祀られている。
(大谷口18)
ここは、常陸一の宮鹿島神宮を分社したと伝わる。主祭神はタケミカズチノカミを祀ってある。
境内左に石造物が並んでいる所に、坂川に架かっていた旧石橋が横たわっている。これは、坂川整備に尽力した鰭ヶ崎村名主渡辺庄左衛門が懸けたもの。
また、本殿裏の土盛りは小金城の土塁ではないかとの推測もある。
(殿平賀180)
その中にある「遷宮記念碑」を読むと、江戸時代寛永期頃に七右衛門新田村は開村し、村の中心地に鎮守として稲荷神社を祀ったという。
(七右衛門新田254)