鮮魚街道の一支線の道端に立派なお堂に納められ、大事に扱われてきた庚申塔は市内では類を見ない。風雨にさら触れていないので風化していない綺麗なお姿が拝める。
宝永三年(1706)造立の刻字がある。
(松戸新田523)
宝永三年(1706)造立の刻字がある。
(松戸新田523)
松戸市街地の真ん中、花藏院の筋向いに路地を入った所に、槻の大木を挟んで庚申塔5基と阿弥陀石仏1基が並んでいる。欅の幹が太く(約2m)半数しか写っていない。
古いのは延宝三年(1675)建立、元禄六年(1693)建立のものがある。
(岩瀬135)
古いのは延宝三年(1675)建立、元禄六年(1693)建立のものがある。
(岩瀬135)
明治神社の参道から水戸街道に下る坂の途中にあり、一寸見落とすかもしれません。
素禄二年(1689)に建立されたものです。
裏手の崖の上は、上本郷の七不思議の一つ「ゆるぎの松」在った所です。
(上本郷2275)
素禄二年(1689)に建立されたものです。
裏手の崖の上は、上本郷の七不思議の一つ「ゆるぎの松」在った所です。
(上本郷2275)
庚申塔だといわれています。小金町の裏通り廃寺跡の墓地の一角にあります。
庚申塔といいますと、「青面金剛」の像が刻んであったり「青面金剛」とか「庚申塔」の文字が銘されていますが、全く違った文字が刻印されています。
文字の形や意味が解りません。教えてください。
松戸市内ではこれ以外見当たりません。
(小金216)
庚申塔といいますと、「青面金剛」の像が刻んであったり「青面金剛」とか「庚申塔」の文字が銘されていますが、全く違った文字が刻印されています。
文字の形や意味が解りません。教えてください。
松戸市内ではこれ以外見当たりません。
(小金216)
16 土手下のお堂 で紹介しました庚申塔(松戸市有形文化財)の移動先が分りました。
東葛飾橋(前の有料橋)登り口の古ヶ崎にある圓勝寺の境内に祀られていました。
この標識が寺の入り口に立てられています。
(古ヶ崎175)
東葛飾橋(前の有料橋)登り口の古ヶ崎にある圓勝寺の境内に祀られていました。
この標識が寺の入り口に立てられています。
(古ヶ崎175)
林の樹木が伐採されて、大きな病院の駐車場の変わった時、この庚申塔はアスファルトで固められた。これではお花やお供えが上げられない。そのうちに交通事故に遭い倒されるか、自動車が破損するだろう。
庚申様(青面金剛)は申と猿で猿田彦神に習合し、江戸時代の民間信仰と結びつき村の辻に建てられて道の神や、災いや病魔の侵入を防ぐ賽ノ神の役割をしてきた。 今後はCTスキャンやX線がその役割をするとでもいうのだろうか。
昔の人の信仰心を大事にしたい。
現在は綺麗に管理されていました・・・2013/12
(金ケ作五本木)
長い間風雨に晒さわれていたので、刻まれた文字が読みにくくなっていますが、寛永二乙丑年十一月吉日(1625年)の銘が刻字されています。となると県下最古となるそうです。
前に(106)紹介した福昌寺の幸谷観音堂の境内にあります。
また武蔵野線の向う側の墓地入口には、切られ地蔵と呼ばれている元禄十二年(1699)建立の地蔵尊と、享保七年(1722)建立の石仏があります。
2020年5月に松戸市の有形文化財になりました。
(幸谷176)
神明神社の境内にあり、松戸市内の百庚申はここだけです。
元の姿は分かりませんが、庚申塔が石垣の代わりになっているみたいですが、境内にも多数あり大小約200基位が在るようです。
安政五年(1858)から文久三年(1863)の間に大谷口村の大熊伊兵衛が願主となり、武蔵、上総の近郷村々の43ヶ町村の人々が奉納しています。(大谷口260-2)
元の姿は分かりませんが、庚申塔が石垣の代わりになっているみたいですが、境内にも多数あり大小約200基位が在るようです。
安政五年(1858)から文久三年(1863)の間に大谷口村の大熊伊兵衛が願主となり、武蔵、上総の近郷村々の43ヶ町村の人々が奉納しています。(大谷口260-2)