下総台地の小金原は、古くから馬の放牧飼育地でした。江戸幕府は下野牧、中野牧、高田台牧、上野牧及び印西牧の小金5牧を整えて牧士(牧の管理者)を配した。
慶長年間に綿貫重右衛門が徳川家康から野馬奉行に任じられ、以後代々世襲して重右衛門・夏右衛門などを名乗ったと伝わっている。野馬奉行は小金牧に置いた牧士の長、御家人の綿貫氏によって世襲され、小金牧の管理業務及び牧内の野馬を捕らえる野馬捕りを差配した。
慶長十九年(1614)一月の鷹狩りの時、家康に呼び出された夏右衛門は、初めて家康に謁見した。この時、夏右衛門は、袷(あわせ)を着る時期でしたが、貧しかったため、綿入れの綿を抜いた服装で出向きました.。この服装に気付いた家康は、夏右衛門政長にこれから「綿貫」と名乗るように命じたと言われている。
(殿平賀209・慶林寺)
標柱では縄文時代中期の遺跡と書かれて、傍らには馬頭観音の石塔があり貝殻が散らばっています。近くの千葉西病院が建築する際の事前調査で、この周辺には旧石器・縄文時代の貝塚があったことが判りました。
(金ヶ作 132)
江戸時代文化三年(1806)の「関宿通多功道見取絵図」では本陣の位置が異なってはいますが、小金宿は数度の火災にみまわれ江戸時代の資料が少なく詳しい事はわかりません。 小金宿では一般の大名用の本陣と水戸藩独自の本陣がありました。
(小金136)
昭和13年に民間のパイロット養成の飛行場が開設され、18年頃陸軍が管理するにあたって飛行機の離着陸の障害になるという理由で取り壊されてしまった。
碑は五香公園にありますが、築山はそこから東南へ約30mの場所にあったそうです。
(五香西1-21)
また、宝光院の一角に浅利道場があった。
(松戸1842)
明治17年に茨城県女化原(現牛久市)の近衛兵演習の天覧のため、松戸を過ぎ小金をお通りになった際に休憩された場所です。
いろいろな記録をみますと、12月6日午前8時5分、東京を出発、千住より陸前浜街道を北上し、新宿(にいじゅく)で小憩され、松戸で千葉県令の奉迎を受け、昼食を摂られ、小金で小休息し我孫子で1泊しています。翌7日利根川を船で渡り茨城県令の奉迎を受け、午前11時55分に牛久行在所に到着となっています。
(小金316)
(松戸1779)
ここのは国道6号線の拡張工事によるもの。標柱の脇に記念樹として榎の苗木が植栽されている。
旧水戸街道は日本橋→千住→新宿→松戸→小金→・・・と繋いでいた
(八ヶ崎8-31)
この遺跡は旧石器時代・縄文時代中期の遺跡で、地元の湯浅氏、下総考古学研究所の調査によって多
量の土器、石器、住居址、人骨などが発掘されている。発掘された土器のなかには、この遺跡名をとって
「中峠(なかびょう)式」と命名されています。
この付近には縄文中期の遺跡、受原遺跡、北総線を挟んで根之神台遺跡があります。
(紙敷960)
庚申塔に「左水戸街道。右印西道」、とある印西道は国道6号を通すため削られ、階段に繋がる細い道で、信号のある桜通りは新道です。
ちなみに、江戸見坂とは水戸街道を江戸に向って来た時、最初に江戸の空が遠望できた坂であった。
(八ヶ崎8-1)
縄文時代後期の馬蹄形貝塚。平成10年に一部を発掘、住居跡など確認、石錘などの石器や土器を出土した大型遺跡との事。
その割には標柱が目立たない。 国道六号線歩道に建っている。電柱と住宅の門柱の間の篠竹にかくれていた。
(二ツ木126)
南北の道(人が歩いている道)は御成り道と呼ばれ、徳川八代将軍吉宗が鹿狩りの際に通った道です。
その道筋が古代東海道と推測されています。
(松戸新田123)
外郭道路を跨ぐこの道が下総の国府から常陸の国府を繋いでいた古代東海道と云われていましたが、それが明らかになったわけです。
(三矢小台1-8)
その道路予定地で発掘がされています。
何時代の遺跡か分かりません。何処かに標示してくれればと思います。
中世の城址・幸谷城の跡ですと興味がありますが・・・・・
(幸谷137)