五香から県道57号線を鎌ヶ谷大仏まで車で走ると新京成線の踏切を4回渡ります。道路は直線、線路は曲がっているからです。直線距離約16kmの松戸駅と京成津田沼駅間が約26kmになっています。なぜ新京成線はカーブが多いのか? この鉄道の基は旧陸軍鉄道連隊の演習線であったからです。松戸工兵学校と習志野鉄道連隊を結ぶ演習線の建設許可を得るため距離(45km以上必要)を稼いだとか、いろいろな線路条件の基で敷設訓練を行うためだとか言われています。いまの常盤平駅付近は旧軌道敷を大幅に短絡しています。元の軌道は駅北側の熊野神社の左から栗ヶ沢を回り松戸養護学校の東を通り五香へ抜けていました。 (この写真は「21世紀の森と広場」とガスタンクの間の旧軌道跡です・千駄堀522)
市役所正面の階段右脇にある標識板を見たことがありますか。「松戸貝層」の解説です。市役所から岩山稲荷神社にかけて沖積層中期(70万~13万年以前)に堆積した貝化石層の一部が露見している所です。この貝化石層は海中に土砂が堆積して出来た「成田層群」の最上部に位置する砂鉄を含む褐色砂岩層で、県の天然記念物の印西木下で確認されている「木下貝層」に繋がっているということです。発見された貝の種類は111種に及ぶといいます
新京成八柱駅北口の階段を降りたロータリーの北隅に、フェンスに囲まれた空き地に石祠がある。駅前が整備される以前はこの辺りに藤塚稲荷が在った。戦国時代相模台の合戦の折、日暮にあった高城氏の出城を占拠していた足利軍が高城軍によって壊滅し多くの戦死者をだした。村人は哀れんで戦死者を葬った塚を築き、高城軍に悟れれぬよう上に小社を建てて藤塚稲荷と称したとの言い伝えがある。現在藤塚稲荷は徳蔵院に移されている。
中矢切にある神社です。最近裏手に外環状線が出来るので小奇麗になったのか?。矢切を訪れる人でここに立ち寄る人は数少ないでしょう。かっては、上矢切・中矢切・下矢切の総鎮守で江戸川河畔にありましたが、江戸時代宝永時の洪水により台地の上に移り祭られました(矢切村自体がほとんど移動したようです)。その後、上矢切に神明神社、下矢切に矢切神社が祭られ中矢切の鎮守になったと伝わっています。
(中矢切597)
所在地ですが神社名鑑では中矢切601となっていました
(中矢切597)
所在地ですが神社名鑑では中矢切601となっていました
綺麗な名前の川で松戸市内に流れています。現状は両岸を矢板で強化されて川のイメージがありません。黎明橋から上流で日暮の新しく出来た県道のバイパスの所までが、河川法で春木川というようです。その先は暗渠になり排水路に変わります。さらに遡りますと川らしい雰囲気になりますが名無しです。川の水は汚れています。霊園を過ぎると暗渠になり消えてしまいます。更に谷間を遡りますと釣り堀があります。以前は涌き水を利用していたが今は井戸水を入れているとのこと。その上流は「御立場」のそばの第四中学校辺りに湧水があったと地元の古い人が語っていました。一方、黎明橋から下流は国分川と変わります。市川市内に平行して春木川の名前が記せられている川は、国分川のバイパスで洪水対策用に作った川のようです。
松戸市は宅地開発のため比較的多くの区画整理事業を行っているようです。戦後になってから始まったと思っていました。しかし岩瀬自治会集会所前(聖徳大学北側崖下の道)を通り過ぎたところ隣の小公園に大きな記念碑が立っていました。それによりますと「昭和12年8月土地区画整理組合認可・13年4月工事着工・14年4月完了」と刻まれていました。とすると、松戸市最初の区画整理が行われた所と思われます。
21世紀の杜と広場へ行ったら西側台地(JR武蔵野線のある)を訪ねた見ませんか、林に囲まれた田舎道を歩いてみてはいかがでしょうか。適当に散歩して迷っても狭い所だから何とかなるでしょう。この馬頭観音と庚申塔の在りかを知っている人は相当通の方です。
この標示板が在る所をご存知ですか。森のホール21の駐車場の一角にありますので是非読んでください.松戸市内の遺跡で一番多いのは何時代でしょう? 石器時代・・44 縄文時代・・141 弥生時代・・18 古墳時代・・60 中世以後・・・・・・ 時代区分では重複している遺跡があります(例えば石器時代と縄文時代、縄文時代と弥生時代など)