旧大橋村の寺院跡、今は墓地のみが残されて元檀家が管理している。寛文六年(1666)建立の庚申塔をはじめ古い石造仏が保存されている。ここには、明治時代末期盛んに巡礼された「秀海講」の弘法大師の石像5体が集められている。 かつて大橋に浄念坊という大日如来を本尊とする真言宗の寺院があった。当地域の寺院の殆どが真言宗であったが、日蓮宗の進出によって、真言・法華混在となり、やがて浄念坊は廃寺となったと伝わる。
** Unknown(ねずぼ)さんよりコメントを頂きました。ご指摘のとおり「秀海講」の石仏は4体です。弘法大師供養塔を勘違いして数えていました……有難うございました……
(大橋632)
向って左が首が取れた秀海講の大師像。中央が地蔵菩薩像。右の四角の空地にあったのが庚申塔。地震で倒れて危険のため門の中の置いたのだろうか。
ちなみに寛政四年(1792) に造った物、道しるべを兼ねているので分かれ道にあったのだろう。
(栄町7-571)
ちなみに寛政四年(1792) に造った物、道しるべを兼ねているので分かれ道にあったのだろう。
(栄町7-571)
大橋の”ころく神社”の裏手は広い畑で田舎の風景が広がっています。その畑の中の三叉路に建つ石仏です。
右の小さい石仏が弘法大師の像で首が欠けています。素朴な石仏ですが地元の人の供え物が絶えません。
秀海講第八十四番ですが、石の表面の剥離が進み判読しづらくなっています。大橋地区には他に5体の秀海講の大師像が見られます。
そうそう、今月 市の「広報まつど」に秀海講を巡る、募集が載っていましたネ
(大橋803)
右の小さい石仏が弘法大師の像で首が欠けています。素朴な石仏ですが地元の人の供え物が絶えません。
秀海講第八十四番ですが、石の表面の剥離が進み判読しづらくなっています。大橋地区には他に5体の秀海講の大師像が見られます。
そうそう、今月 市の「広報まつど」に秀海講を巡る、募集が載っていましたネ
(大橋803)
千葉大の旧正門内に石碑が三つ固まっている一郭がある。
その中の一つがこの仏画です。 辨榮(べんねん)上人の描いた弘法大師像です。
秀海講と刻字があり、講の人が上人に頼んで描いて頂いたようです。
辨栄上人は明治から大正時代の浄土宗の高僧で、世界的有名な数学者岡潔博士が「釈尊の再来」と言われていました。上人の描いた線刻画の石仏は市内では、松龍寺、万福寺などにもあります。
なお、秀海講は松戸市内のこの辺りを中心に設けられている八十八ヶ所巡りの霊場ですが、謎の部分があり全容が判明していません。
(松戸1583)
その中の一つがこの仏画です。 辨榮(べんねん)上人の描いた弘法大師像です。
秀海講と刻字があり、講の人が上人に頼んで描いて頂いたようです。
辨栄上人は明治から大正時代の浄土宗の高僧で、世界的有名な数学者岡潔博士が「釈尊の再来」と言われていました。上人の描いた線刻画の石仏は市内では、松龍寺、万福寺などにもあります。
なお、秀海講は松戸市内のこの辺りを中心に設けられている八十八ヶ所巡りの霊場ですが、謎の部分があり全容が判明していません。
(松戸1583)
小山バス停の近くに小さなお堂があります。馬頭観音を納めているのですが、写真のように赤い前掛けをした仏像が同居しています。この石仏はお地蔵様ではなく、秀海講の札所に置かれた弘法大師像です。
秀海講の像は、松戸市内のこの周辺から大橋、矢切、市川の国分にかけて多く見られます(八十八ヶ所造られていると思われます)が路傍に置かれていたようで、全貌が不明です。
(小山92)
秀海講の像は、松戸市内のこの周辺から大橋、矢切、市川の国分にかけて多く見られます(八十八ヶ所造られていると思われます)が路傍に置かれていたようで、全貌が不明です。
(小山92)
小山浅間神社前の国道16号下にある弘法大師像です。お地蔵様と勘違いして誰かが付けたのか赤い御掛けをしていました。「秀海講」と刻まれています。この辺りや矢切、大橋、市川の国分地域に数多く点在しています。第一番の像は何処にあるのでしょうか。教えて下さい(小山665)