ICANまにらブログ~第二巻~

日本のNGOアイキャンまにら事務所の日記。

一番の楽しみはホットケーキ - サンイシロ・キッズ アップデート②

2008年05月30日 | 先住民ドゥマガットの子どもたち
まい@まにら。

今回は、サンイシロキッズ、リンリンちゃんのストーリーの続きをご紹介します。
サンイシロの子ども達は生まれ育った土地や環境に対する誇りを感じていると同時に、低地での文化にも接する中、自分達の環境と比較し、色々なことを感じているようです。

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 リンリンちゃんはサンイシロのきれいな空気と環境が大好きで、ずっとサンイシロで暮らしたいと語ります。サンイシロでの生活はとてもシンプルで普段の暮らしではほとんど出費も無いといいます。食べ物を買うお金がなくなっても自分達の畑から野菜などをとって食卓に並べることができます。それに引き換え、都会での暮らしは、お酒によって喧嘩をする人も多く、「ピースフル(平和的)」ではないと考えています。リンリンちゃんの一番の楽しみは、お父さんが作ってくれるホットケーキだそうです。ホットケーキを食べる機会はほとんどないこともあり、本当に特別な「食べ物」だといいます。

 夏休みには、リンリンちゃんはお母さんを手伝うため、2時間歩いて村市場で野菜を売ります。また、畑や田んぼで雑草を抜く作業も手伝います。毎週土曜日や日曜日は朝6時起きて、畑に向かい、午前11時に家に戻ってきて昼食を作ります。また、家では洗濯や裏庭の掃除なども手伝います。

 リンリンちゃんの家は簡素な素材を使って建てられています。家の中は台所と寝室のみ。トイレはないため外の木や植物の近くの土を掘って済ませます。飲み水は近くの湧き水を汲んで来て、洗濯は家の近くの川で行います。電気はないので夜はケロシンランプを使い、料理には薪を利用します。このコミュニティには健康を管理するヘルスセンター(保健所)がありません。病気になると、薬草を摂取し、病状が悪化した場合は遠く離れた街の病院まで出向き受診します。

 また、コミュニティには低地のように子ども達が楽しめるような娯楽の機会が滅多にないため、リンリンちゃんは「おもしろくない」と話します。(そんなリンリンちゃん、空き時間は常に両親を助けるために家事の手伝いをするそうです。)そんな中、彼女は学校のスポーツ大会でバレーボールをしたこと、また、村のお祭りでは若者向けのダンスを見たことなどが特に印象に残っているそうです。


【おうちの前でパチリ

一組の制服 -サンイシロ・キッズ アップデート①

2008年05月29日 | 先住民ドゥマガットの子どもたち
まい@まにら。
 ICANが教育支援を行っているアンティポロ市サンイシロの事業地より、キッズたちのアップデートが届きましたので数回に渡ってご紹介します。今回は、アンティポロ市の山岳地サンイシロに暮らす先住民の女の子(14歳)のストーリーをお届けします。



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リンリンちゃん(仮名)は、おばあちゃんから、自分の祖先はドゥマガット族であるということを聞きました。リンリンちゃんは8人きょうだいの5番目。リンリンちゃんの一家は自分達の土地を持っているので、そこでお父さんは農業で生計を立てており、野菜(豆、オクラ、サツマイモ、カボチャなど) を栽培し、米を育てています。お母さんは収穫した作物をサンイシロ内の村で売っています。また、にわとりとヤギも育てています。食べる米が無い時はサツマイモをゆでて食べますが、通常はお米と野菜料理を食べています。また、自分達の畑で収穫した野菜とココナツや米を近所で交換してもらうこともあるそうです。

両親は子どもたちの教育をできるだけサポートするため、家族のために本当によく働きます。おねえちゃんは宗教関連団体の教育支援を受け、マニラ南部のカビテの高校に通っています。リンリンちゃんの家族も、お金を貯めてたまにおねえちゃんを訪ねてカビテに行くようです。

リンリンちゃんは、1~5年生まで通っていた小学校は6年生のクラスはないため、その後サンイシロにある小学校に転校しました。リンリンちゃんはその後アンティポロ市立高校の分校に進学し、この新学期から2年生のクラスで勉強しています。学校がある日はいとこ達と学校の近くに下宿しており、毎週末および夏休みには実家に戻るといいます。 リンリンちゃんは家から学校まで1時間弱歩いて登校します。学校で使う制服とカバンなどはお姉ちゃんからのおさがりを使っています。(小学生の頃はおさがりもなかったので、いとこやお姉ちゃんから借りていたそうです。)

リンリンちゃんは現在、授業の内容が難しく、ついていくのがとても大変だといいます。学校での成績もあまりよいとはいえないのですが、絶対に勉強を終らせたいと話しています。

実は、学校の勉強についていけない子、苦労しているのはリンリンちゃんだけではなく、他のサンイシロ・キッズからも耳にします。その理由としては、夜間は電気がなく翌朝も早朝に起きて家事をすませなくてはなりません。学校から帰ってきても、復習や予習をする前に翌日のために当日着ていた制服を洗濯し、家族の夕食を準備しなければならないこともあげられます。

続く…。

ここにいるべきではない人びと

2008年05月28日 | 路上の子どもたち
ゆきよ@まにら。

マニラの幹線道路から北高速に入る交差点は、ホームレスの人びとが目に付く地区である。赤ん坊を抱えた母親がビニールシートに座り込み、そのまわりにも小さな子どもたちが寝ている。ラグビー(シンナーのような薬品)の壊れた瓶がごみにまぎれて道端に転がっている。ラグビーで目がうつろになっている若者も、道端にたむろっている。この地区にある教会の神父さんに話しを聞く機会があった。

この教会では、クリニックや炊き出し(給食)の活動を行っているのだが、その対象は、まわりにたくさんいるホームレスの人たちではない。教会の教区に住む人びとのなかで経済的に困窮している人びとだとのこと。

以前政府機関がここにいるホームレスの人びとを施設に移住させたことがあったが、結局戻ってきてしまった。教会で炊き出しなぞすると、ますます「ここにいるべきでない人びと」が定着してしまうから、政府から怒られてしまうのだそうだ。

それに教会前にたむろされると、近所の人びとが怖がって教会に来なくなるから困る。

ホームレスの人びとは、自分で自分を助けることもしない人びとだから、関わる必要はないのだ。。。という言説。

でも、今日もまたあの交差点に「ここにいるべきではない人びと」のたくさんの命が息づく。

同行したパートナーNGOの神父さんがコメントしていた。「本当のthe Poorが誰なのか知らない人は少なくない。」知らないというか、知ろうとしないのかもしれない。知りたくもないのかもしれない。多くの人びとは、ただ汚れたものを見たくないだけなのかもしれない。



割礼の季節?

2008年05月27日 | ひとりごと
まい@まにら

ICANブログでも、毎年パヤタスの割礼の話がブログで取り上げられてきていますが、(2006年2007年)パヤタスのクリニックでも今年は4月に2回にわたって割礼が行われました。

フィリピンでは、小学生高学年頃からハイスクールに入る年頃の男の子が夏休み(3月~5月)に行うのが一般的なようです。(術後、数日痛むので学校が休みの時期に行う)夏休みも終わりに近づいてくると、私の周りでも年頃の男の子の割礼の話がちらほらと出てきました。

「大人になる過程で必要」という意見では「割礼をして初めて女の子を口説く権利がある」というものから(極論すぎ・・・?)、隣に住んでいる小学校4年生の男の子の話によると、小学校では割礼を済ませたお兄ちゃん集団が「割礼をした人だけ一緒に遊んでやる」というグループ分けをしたりすると言います。

まだ割礼をしていない当の本人はというとそんな高学年たちに「そんなにいばり散らして、なんだい!」と思う反面、本音は「怖い」。その子もお母さんが夏休みのうちにと息子に勧めて、とうとう先日、割礼実行。(なぜ私が知っているかというと、「今日、○○さんちの息子さん、割礼にいくみたいよ」と当日、近所で噂になっている・・・)

「割礼をしないと衛生的によくない」という話もあるので、宗教的というより、文化的なものになってきているようです。あくまで、噂なのでこれらの割礼に対する意見は一般化はできませんが、割礼をした男の子が誇らしいのは確か。なんだか本人も急に大人になった雰囲気。

わが子も男の子。このまま行くと地元の学校に入れることになるのですが・・・。日本人の親としては割礼をさせる予定は今のところありません。でも、やっぱり悩む時期がくるのでしょうか・・・。

母と娘の確執

2008年05月26日 | ごみ処分場の子どもたち
ゆきよ@まにら。

パヤタス事業地のヘルスボランティアのお母さんの一人が、現在17歳になる長女と喧嘩中だ。もう3週間ちかく口をきいていない。そのいきさつはコミュニティに広範囲に知れ渡っており、SPNP(フェアトレ商品生産者グループ)のメンバーたちも、子どもとそんな関係が壊れたままでいるなんて、母親のほうからなんとか切りだすべきものだとかなんとか、コメントしているとか。

そのいきさつは、ちょっと日本ではありえない。最近娘の帰りが遅いのを気にしていた母親が、娘が出かけた折にその妹にあとをつけさせて、居所をつかんだ。同じパヤタス内の娘の友達の家だった。母親がその家に乗り込んでいったら、娘の友人たちはみんな逃げ出した。奥の部屋をあけるとその娘がボーイフレンドと二人きりでいた。お酒を飲んでいる。母親はベッドの下に逃げ込んだボーイフレンドを踏みつけ、彼はあわてて逃げていった。3流コメディ映画のような、でも本当の話。。。娘は母親に引っつかまれて、家まで連れて帰らされたが、その道すがら母親は娘のふしだらさに逆上して大声で罵倒し続けた。おかげで近所の人びとをはじめ大勢がこの騒ぎ目撃してしまい、すっかり娘は有名人に。

みんなの前で恥をかかされたことが娘は許せずに、それ以来母親と口をきこうとしない。母親はもちろん娘の行動にたいして今も怒っている。母親は、このままでは娘が妊娠してしまうのではないかと心配し、親戚のいるビコール州に送ってしまおうかとまで考えているとか。

日本人の私からしてみれば、お酒を飲んでいたのはよろしくないが、男の子とふたりきりでいたくらいで、そこまで大騒ぎになることが疑問である。二人きりでいただけで、何をやっていたわけではないのに、フィリピン人スタッフに聞いたら、「二人きりで密室にいただけで、フィリピンではもうすでにふたりの間に何かあったと同じこと」とのこと。こわ。。。

コミュニティではその娘は妊娠しているらしいとの噂まで広がっている。スタッフが本人に確かめると、「私はそんな軽がるしい女じゃないし、母に反対されるから、実際その日はその彼とは別れるつもりだったのに。。。」とのこと。(じゃ、酒を飲むなという気もするが)

娘は母親はいつもえこひいきをして、7人の子どものなかでに彼女にだけ特にきびしいと不満をこぼしている。近所の人たちをはじめ、ICAN関係者も仲直りを勧めているが、どうなることやら。

その娘がこうなった原因は、そもそもは近所に住んでいる女友達の影響だということになっていて、娘のきょうだいたちは、その女友達のせいで家族が混乱してしまったと怒っているという。コミュニティではその娘はいまだに「捕まった!捕まった!」とからかわれ、もうすぐ3歳になる妹にまで「姉ちゃん、かわいそー。姉ちゃん、かわいそー。」と歌われているらしい。

ひとつのごくプライベイトな出来事が、こんなに公衆に広がってしまい、多くの人に様々な言説で語られる。コミュニティの人びとは、この娘とその家族を思ってこそ(?!この辺の無責任の度合いがよくわからない。。。)、自分なりの意見を述べ、そうした語りが本人たちの行動をまた規定していく。出来事の因果関係が思い思いに語られ、そこでまた人間関係がこじれる。だからコミュニティって恐ろしいとともに、おもしろい。おもしろがっていては、本人たちには失礼ではあるが。。。しかし、こうしてブログに書いている時点で、また私もこのコミュニティのチスミス(噂話)を構成する一員となってしまっているのをまた改めて思う。


「人間は互いに尊敬すべきものである」

2008年05月23日 | 先住民ブラアンの子どもたち
ゆきよ@まにら。

今月頭のジェンサンキッズの集会は、ジェンサン市内の小学校で行われたのだが、その学校の用務員さんは、ジェンサンキッズのひとりのお父さん(写真)。彼は、ブラアン族の父とビザヤの母との間に生まれた。ブラアンの言葉も理解し、ブラアンとして差別も受けてきたという。

「何かものをうっかり落としてしまったときなどに、この辺では『あっ、ビラアン!』という表現を使うんだよ。(しまった!というような意味あいで。)辛いよね。どうしてそんな言われ方しないといけないかと思う。そもそも『ビラアン』じゃなくて、『ブラアン』なんだけどね、僕たち。そんな変な表現で使われて、その上、呼び方も間違ってるんだ。学校の先生でさえ、そんな調子だよ。」

「差別的な言い方されても、僕は気にしないように努めてる。子どもたちにも言っているんだよ。ブラアンだからって恥かしがらなくてもいい。同じ人間なんだから。そうでしょう?」

彼の話を聞きながら、先月日本に帰ったときに見たテレビ番組を思い出した。全国創立についての番組。ブラアンの彼と同じような、被差別出身の女性の嘆きが心に残っている。「私を流れるこの血は、そんなにも穢れたものなのでしょうか。。。」

同じ人間を見下して自分が上になりたい心を誰もが奥底に持っている。その心に意識的になって、差別者にならないでいたい。私も差別されたくないから。「人間は互いに尊敬すべきものである」と掲げたの思想は、ごく普遍的な古くて今もなお新しい思想だと改めて思う。

インターン募集のお知らせ

2008年05月22日 | お知らせ
特定非営利活動法人 アジア日本相互交流センター(ICAN)では現在、インターンを募集しています。

アイキャンは「一人ひとりのできること(ICAN)」を持ち寄ることによって貧困や暴力のない社会を構築するNGOとして、1994年に設立されました。「人々の『ために』ではなく、人々と『ともに』」を合言葉に、3つのプログラムを日本とフィリピンで実施しています。2008年のアイキャンは「アイキャン運動の拡大」を運営テーマとし、積極的に「できること(ICAN)」を実践する人を募集しています。

インターンとして、名古屋とマニラの事務所で以下の業務に従事してくださる方の応募をお待ちしております。
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インターン募集要項

募集要項:PDFファイル)

■ 勤務地
1、日本事務局(愛知県名古屋市中村区)
2、マニラ事務所(フィリピン共和国マニラ首都圏ケソン市)

■ 期間
1、2008年5、6月から10ヶ月以上、週2日以上
2、2008年5、6月から10ヶ月以上、週4日以上
*ご相談に応じます。

■ 業務内容
1、国内業務(以下のいずれかの業務)
・フェアトレード担当:マニラ事務所や日本の委託店とのやり取り、イベントでの販売、商品開発、新規委託店開拓等フェアトレード事業運営全般。
・国際理解教育事業担当:学校等でのワークショップ。
・イベント担当:イベント企画、実施。
・書き損じはがき担当:書き損じはがきの募集
・デザイン・広報担当:デザイン、広報業務一般
・事務担当:事務作業一般
*その他、自ら積極的に「できること(ICAN)」を提案し、アイキャンの活動を盛り上げてくださる方、大歓迎です。

2、海外業務(以下のいずれかの業務)
・フェアトレード担当:事業地にて女性生産者団体とのやり取り・商品開発補助、販売、生産者の情報提供、フェアトレード事業の業務全般
・事業補助担当:事業担当スタッフの補助、及び会員や賛同者への報告業務
*その他、自ら積極的に「できること(ICAN)」を提案し、アイキャンの活動を盛り上げてくださる方、大歓迎です。

■ 資格条件
1と2共通条件
・アイキャンの理念と活動に賛同すること。
・貧困問題の解決に強いコミットメントを持つもの。
・基本PCスキル(word, excel, mail等)を持つこと。
・細かい作業を最後までこなす責任感と単純作業をこなす忍耐力を持つこと。
・自分から積極的に課題を発見し、業務を遂行できること。
・「人々の『ために』ではなく、人々と『ともに』」活動を推進できること。

2の業務における追加条件
フェアトレード担当
・応募時点で20歳以上の男女
・フェアトレードの基礎知識と商品開発、マーケティング能力
・手芸裁縫の能力
・異文化コミュニケーション能力(英語、フィリピン語力は基礎的なものでも構わない。)
・サバイバル能力(海外経験があることが望ましい。)
事業補助担当
・大学、又は大学院以上の学力を持つもの。
・高度な日本語能力。(報告書作成レベル)
・英語文章読解能力、フィリピン語会話能力(コミュニティで住民とのやり取りはフィリピン語になり、報告を作る元資料は英語が多い。)・サバイバル能力・異文化適応能力(海外経験があることが望ましい。)

■ 人数
1、数名程度
2、若干名程度

■ 待遇
・1、2とも無給(旅費・交通費、海外旅行保険等も自己負担)
・団体主催イベントの参加費無料、その他ケースによって割引等。
・団体のアドレス(名前@ican.or.jp)や名刺の提供

■ 研修
・1、2とも数日程度のインターン研修(アイキャンの理念や事業の理解促進、開発の基礎知識、NGOについて等)
・1の場合、日本事務局で毎週実施しているスタッフ勉強会への参加(希望者のみ。)
・在フィリピン日本NGOの連絡会議等の出席

■ 応募方法
履歴書(写真付)と志望動機作文をEメールか郵送で送付ください。履歴書は市販やウェブ上でダウンロードできるものに書いていただいても、アイキャンが提供するのものでも構いません。志望動機には、志望動機(「なぜアイキャンなのか」を含む)、今までの自分の経験、それをどのように「できること(ICAN)」として業務(上記希望業務:複数可)に活かせるか、等を書いてアピールしてください。文字数制限は設けません。(履歴書は返却せず、個人情報保護法に基づき、採用者の情報は適切に保存、不採用者の情報は個人情報に配慮した形で破棄いたします。)

*事務作業軽減のため、できるだけEメールで履歴書(写真付)と志望動機作文をお送りください。(諸事情により困難である場合は、郵送でも受け付けます。これによって選考段階で不利益が生じることはありません。)

■ 選考方法
応募者の中から書類選考、面接によって選抜をいたします。選抜結果は合否に関わらずメールでお伝えいたしますが、その理由等についてはお答えいたしかねます。

■ 締め切り
適任者が決まり次第締め切らせていただきます。お早目の応募をお待ちしております。

■ 採用担当者コメント
1、日本事務局
単純作業も多い業務ですので、そのような業務も楽しく持続性と主体性を持ってできる方をお待ちしております。大学生も大歓迎です!
2、マニラ事務所
体力的にはハードな業務ですが、マニラ事務所やコミュニティの現場で住民たちとともに活動を進めていくやりがいのある仕事です。

*お気軽にどのようなことでもご質問ください。

■ 連絡先・郵送先
特定非営利活動法人 アジア日本相互交流センター・ICAN(アイキャン)
453-0021
愛知県名古屋市中村区松原町1丁目24番地
地域密着型ビジネス支援施設(Combi 本陣)内N103
電話番号:052-908-9314
Eメール: info@ican.or.jp (@を半角にしてメールをしてください。)

始業の合図は石で -ジェンサン給食校

2008年05月21日 | 先住民ブラアンの子どもたち
ゆきよ@まにら。

ブラアン族の子どもたちが通うダアンバンワン小学校の朝の一風景。

子どもたちは谷を超え、山を越え、学校に集まってきます。先生たちもバイクで街からのぼってきます。



このぶら下がっているのは、車輪の中の金具の部分?



おもむろに子どもが大きな石で、この金具をたたきます。カンカンカーン。山の中の小学校に鐘の音が鳴り響きます。これから授業のスタート。

ちなみにマニラの学校では、ジリジリジリというベルが多いようです。







ごちそうを食べるお祭りフィエスタ@ジェンサンキッズの自宅

2008年05月20日 | ジェネラルサントスの子どもたち
ゆきよ@まにら。

フィリピンのお祭り(フィエスタ)の日は、町を音楽隊がにぎやかに練り歩いたり、即席の遊園地がやってきたりするのですが、家々では前日から料理をはじめていて、たくさんの客を招待して食べてもらう、「食べる祭り日」です。

「キッズが数人住んでいる町がちょうど明日お祭りの日だから、お昼ごはんはそこにしましょう。」とジェンサンスタッフ。日本的には、「そんなお昼時にわざわざ食べさせてもらいに行くなんて恥かしい!ただでさえ、日々ごちそうを用意することもできない経済状態のお宅に、なけなしのお金で準備するであろうごちそうを私が食べていいものか。」と思うのですが、「お祭りだから行くとかえって喜ばれるもの。」とケロリとしています。

この町は、海からけっこう離れているにもかかわらず、家庭の多くが海から生計の糧を得ています。というのも、住民たちの多くはかつて海辺の町に住んでいたのですが、1997年に大きな火事があって、再定住地として指定されたために、ここに移り住んできたとのこと。海から離れてしまったけれど、新しい地で仕事にありつけるわけでもなく、結局慣れた海での仕事をそのままずっと続けているというわけです。

お邪魔したジェンサンキッズのお宅のお父さんも漁師さんでした。でも収入はごく不安定で、週に2回しか収穫がないときも。それでも、お祭りの日には必ずごちそうを用意するのだそうです。海からの恵みを日々もらっているので、きちんとお祝いをしなければならないとのこと。近所に養豚をしている友人がいるので、このお祭りの日にお母さんが豚肉を売りさばく仕事をして、それで儲けた分で、自分の家用の豚肉を手に入れました。豚料理が2品食卓にあがっていて、私は申し訳ないような気持ちをまだ感じながらも、ありがたくごちそうをいただきました。同行したジェンサンスタッフやマニラスタッフ、大学生のジェンサンキッズは、手放しでごちそうを喜んで食べていましたが。。。

お母さん(写真一番左)は週に3回、港にある工場から出る洗濯物を洗っています。子どもは4人いて、うち3人目がICANのキッズ(写真左から2番目)です。6月から小学5年生になる彼女は、外を出歩くよりも家にいるのが好きなタイプの控えめな優等生。このたび成績優秀者として表彰もうけています。日ごろは朝5時から起きて家事を手伝ってくれるとお母さんは語ります。試験の前には朝3時から勉強していることもあるとか。長い髪が気に入っていて、お母さんは手間がかかって面倒だから切るようにいうのですが、本人は切るのは嫌。学校に行く前に時間をかけて自分で髪をまとめるのだそうです。長い髪のよく似合う、はにかんだ表情がとてもかわいらしいキッズでした。

こどものこえ -南レイテ島地すべり被災地⑥

2008年05月19日 | 災害の影響を受けた子どもたち
まい@まにら。

今回は、ステラちゃんのストーリーの続きをお届けします。
危険地帯に住居を持っていた家族は、その後他の地域で避難所生活をはじめました。しかしその後、被災した子ども達は学校などで「避難民」という呼び名で呼ばれ、違った目で見られることもありました。



【ステラちゃんが書いてくれた絵:避難所と災害前の生活】

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わたしの家は、自分の土地はないから、お父さんは他の人の大きな土地で、木がいっぱい生えてるところで、仕事をしていたの。今もそうよ。
それで、お金をもらうの。

前はわたしたちはいつもお米を買えてたわ。お腹がすくことなんてなかったわ、一度も。だって、お米が足りなくなったり、おかずがいつも干し魚しかないときもあったけど、村には野草がいっぱい生えていて、それを調理しておかずにしてたの。わたしが探しにいくこともあったわ。でもここ(避難所)にはないの。

あと、前の村にはバナナや、パパイヤ、カカオ、サントール(スープなどに使える甘酸っぱい実がなる木)、ココナツもたくさんあったわ。だから、昔はお金足りなくなっても、いつもお腹いっぱいだった。ここには木がないわ。校庭の外とかには木が生えてるけど、でも、勝手に登って取ったら、怒られるの。わたしたちの村では、怒られなかったわ。ここで野菜を植えたいけど、それも駄目って言われたわ。それに狭いから、小さい畑を作る余裕もないしね。

ここでは、タダのものがないの。電気はまだ払わなくてもいいけどね。(2007年7月現在)やっと電気がきてよかったわ。ずっとなかったもの。ここは、マルンガイ(野菜)とか野草みたいなのがいっぱい取れたときは、ただでくれる人がいるけど、でも、そんなものもでも大体はお金で買うのよ。

ここでの生活はとっても不便なの。水がないし、トイレもないの。あら、あったかしら。でも、壊れてるの。簡単に壊れるんだって。ハイウェイのすぐ側だから、すごくうるさいの。夜も大きい車が通ると、ちょっと家が揺れるのよ。家が竹でできてるからだと思うわ。わたしの本当の家は、もちろんコンクリート製よ。自分の部屋だってあったわ。壁に色んな写真を貼ってたの。今もそのままだと思うけど、もう忘れたわ。

サグアンゴン小学校の生徒はみんな友だちよ。喧嘩することなんて全然なかったの。少ないのよ、人数も。一年生と2年生合わせても11人ぐらいだったかしら。

でもここの学校は嫌いよ。ここの子どもたちなんて、学校のものが壊れたりすると、いつも「避難民が壊した~」ってわたしたちのせいにするの。え?そしたらわたしは「それがどうしたのよ?!」と言い返してやるわ。先生はアヤハグ出身の先生もいるけど、何もしてくれないわ。わたしたち、何も壊さないし、悪いことしないのに、壊れたらいつもよ。わたしはここの子どもたちとうまくやっていけてないの。だから学校嫌いよ。え?制服の色?もちろん違うわ。わたしたちは青と白のしましまだけど、ここの子は赤いスカートよ。でもわたしたちの制服の方が気に入ってるわ。新しい制服はいらないわ。

わたしは数学が嫌い。でも、英語は好きよ。夢は先生になること。なんでかって?そんなのわかんないわ。とにかく先生になりたいの。ここの先生に、ノートとか鉛筆とか紙とかボールペンもらったわ。誰がくれたのか知れないけど、先生がわたしたちにくれたのよ。だって全部村においてきてたから嬉しかったわ。

地滑りが起きる前にしていたことで、一番懐かしいことは、遊ぶことよ。
昔は川で遊んだり水浴びしたり、洗濯したり、木に登って果物とったり、かくれんぼしたりいつも遊ぶことがあって忙しかったわ。え?ここでもかくれんぼするわ。でも、それだけしかしないからつまらないし。あまりウロウロしたら怒られるかもしれないからあまり楽しくないわ。汗かいたら水がないから水浴びできないもの。
だからあまり汗かきたくないの。

再定住地にも行ったことあるわ。わたしたちも新しい家がもらえるのよ。中も見たわ。早く完成しないかな。とっても嬉しいわ。早く引越したいわ。え?どこが一番ハッピーかって?そんなのサグアンゴンに決まってるわ。帰りたいわ、家に。でも怖い。またヘリコプターみたいな音が聞こえるかもしれないからね。

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ICAN連続講座第2弾@おかやま

2008年05月18日 | ごみ処分場の子どもたち
ゆきも@にほん

現在、一時帰国中のゆきも@にほんよりICAN連続講座第2弾のイベント開催のお知らせです。この度は、岡山大学農学部岸田芳朗助教授のご協力を得て、岡山市津島にある同大学キャンパス構内で帰国報告会を開催いたします。

中国地方にお住いのICAN会員のみなさん、ICANの活動にご興味のご友人をお誘いあわせのうえ、是非ご参加ください。お待ちしています!

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開催日 :2008年5月21日(水)
時 間 :14:30~16:00
会 場 :岡山大学農学部付属山陽圏フィールド科学センタ-第2実習室
(岡山県岡山市津島中3-1-1)
アクセス-> http://www.okayama-u.ac.jp/user/agr/access.htm
     
*当日場所が分からない場合は、事務局へお問い合わせいただくか、山陽圏フィールド科学センターのゲートの案内をご覧ください。

参加費 :無料(一般参加、飛び入り参加歓迎!)

内容:フィリピンのマニラ首都圏パヤタス地区にある国内最大のごみ集積場は、これまで多くの人々に現金収入の機会を与えてきました。ICANは、このごみ山周辺のコミュニティに住む人々と、保健環境の改善や、生活を良くする活動に取り組んできました。ごみ山の閉鎖は生活の糧を失う大きな危機を意味します。間近に迫るこの危機を乗り越えるため、住民、そしてICANはどのような活動を続けているのかなど、一時帰国中のICANマニラ事務所職員(森崎)が分かりやすく活動の進捗をお伝えします。

夏の補習授業 -ジェンサン給食校ダアンバンワン小学校

2008年05月16日 | 先住民ブラアンの子どもたち
ゆきよ@まにら。

フィリピンの学校は今夏休みですが、ブラアン族の子どもたちの通うダアンバンワン小学校では、読解の補習クラスが行われています。



写真は、ICANまにらスタッフのテスと生徒たち。テスが飛び入りで特別クラスを教え始めたのかと思いきや、実は、この写真の先生役は子どもたちです。子どもたちがテスにブラアンの言葉を教えているところです。フィリピン語と日本語は比較的発音が似ていて、覚えやすいのですが、ブラアンの言葉は「F」がたくさんあって、発音が難しいのです。テスがうまくいえない様子が、子どもたちはおかしくてたまらない様子。



しばらくすると、場所を変えて本当の読解クラスが始まっていました。フィリピン語の教科書を読んでいきます。みんなで読んだり、ひとりひとりがあてられて読んだり。



先生がつきっきりの子どももいます。



ブラアンの人びとは、山岳地域に住み独自の文化をもっていますが、低地の人びとから、「汚い」とか「教養がなく無知だ」と言われて、見下げられています。先生たちは、少しでも子どもたちに基本的な読み書きが身につくようにと力を注いでいる様子でした。ここの校長先生は、数学の教科書の著者でもある人で、さまざまなセミナーに参加するように言われるそうですが、この学校に赴任してから、そんなセミナーや数学コンテストから遠ざかざるを得なかったとのこと。「ICU集中治療室の担当になっちゃったからね。笑」山奥のブラアンの子どもたちの学力をアップさせるのは、集中治療室並みのつきっきりの大変な苦労のようです。「でも、去年よりずいぶん学力は上がってきたんだよ。」

フィリピン語や英語を理解しなくても、豊かな山の資源のなかで十分に生きてこれた昔と違って、現在は、読み書きができないために、土地を不当に収奪されるブラアンの人びとのケースが相次いでいるそうです。今の世の中でサバイバルのためには、やはり既存の教育をある程度クリアすることは、必須のようです。生徒もがんばれ! 先生もがんばれ!

日常化しているキケン -ジェンサン事情

2008年05月15日 | ジェネラルサントスの子どもたち
まにら@ゆきよ

「そういえば爆弾事件の犯人は見つかったそうですね? 最近の治安はどうですか。」と出張でジェンサンにやってきたマニラスタッフが地元のある小学校校長に尋ねると、「そう、また爆弾事件あったわねー。もう私たちは慣れっこになってるわ。」

幹線道路にはときどき国軍が検問をするチェックポイントがあり、車が止められ中を確認される。軍服がなにか重々しい雰囲気をかもし出している。

ICANと学校給食の事業をしている小学校では、ちょうど先日、給食担当の先生の夫が、銃で撃たれて亡くなったばかりだった。その夫は、MILF(モロイスラム解放戦線)の司令官の家をたまたま訪ねていて、司令官が狙撃されたのにまき沿いをくったのだそうだ。

ジェンサンの学校では、マニラのほうでよく見られる学生たちの遠足や課外活動は、行わない方針になっているそうだ。なにか起こると学校が責任を問われることとなり、行わないほうが賢明という判断らしい。

カラバオを使って畑をたがやすのどかな牧歌的な風景もまたジェンサン。殺伐としたニュースの舞台もまたジェンサン。

早起きしてジェンサンの町の市場で買い物をして、市場の中にある小さな食堂で朝ごはんを食べた。私は治安のことなんてすっかり忘れて、イスラムの文化についてあれこれ食堂のおばちゃんに質問していた。食べ終わって代金を払って、さあ、出かけようかと、立ち上がろうとしたが、連れのスタッフがなぜか動かない。しばらくしてから、その食堂から移動したが、あとで聞いてみると、同じ食堂で食べていた男が挙動不審だったので、危ないから気をつけるようにと、スタッフに耳打ちしてくれた人がいたのだそうだ。だから、その男が遠くに立ち去るまで待っていたという。いかにも私たちがよそ者だったので、狙われたのか。何も知らずにべらべらあれこれ質問して、外部者であることをさらして目立っていた自分ののんきさに、ちょっとあきれた。

新学期の準備は万全 -ジェンサンキッズ集会1

2008年05月14日 | ジェネラルサントスの子どもたち
ゆきよ@まにら。

去る5月8日、ジェネラルサントスのICANキッズたちとその保護者が勢ぞろいする集会が行われました。

写真は、その集会の最後に、各種ノート、鉛筆、ボールペン、はさみ、消しゴムなどの文具から、靴下、帽子、制服などなどまでがつまった手作り鞄を受け取ったばかりのポールくん(仮名)。

来月のはじめから学年もひとつ増えて、小学5年生となります。準備は万全で、新学期にのぞめます。日本のパートナーさんに感謝。

ICANではこのような通学に必要な文具や身の回りのものに加えて、学校に支払うさまざまな経費や、通学交通費もサポートしています。

こどものこえ -南レイテ島地すべり被災地⑤

2008年05月13日 | 災害の影響を受けた子どもたち
まい@まにら。

2006年にレイテ島で発生した地滑りの緊急支援時のインタビューより、「こどものこえ」の第3段をお届けします。

2006年2月17日、サグアンゴン村の隣のギンサウゴン村で地滑りが発生。山の麓にある小学校が土砂の下敷きとなり、小学生200人以上が犠牲となりました。今回の主人公であるステラちゃん(仮名:小学校6年生)の住んでいたサグアンゴン村は、災害発生後すぐ他の3つの村と共に村での居住を禁止され、セントラル公立小学校へと移り、校庭での避難所生活を開始しました。


【一番手前がステラちゃん】

ステラちゃんは5人きょうだいの4番目。両親と幼い従妹との8人家族です。
お父さんは、土地を持っていないため、他の人のココナツ林で、ココナツの炭作り要員として雇われています。一家はその他に、母親の姉の娘を育てることで月2000ペソの収入を得ています。


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わたしは今セントラル小学校に通っています。住んでいるところは小学校の校庭。わたしの村は(危険地帯に指定されている)サグアンゴン村で、今一番地滑りが起きやすい場所だから、ここに住んでるの。

もちろん、村に帰りたい。お父さんは危なくても仕事があるから山に毎日通わないといけないけど、村の入り口にはずっと軍隊が見張っていたから、わたしたちは村に帰りたくても駄目だったの。でも、お母さんは、お父さんのランチを料理するために、時々一緒に山にいくのよ。

地滑りが起きてからずっとここで生活してる。
地滑りで死んだ人とか、家族が亡くなった友達とかいっぱい知ってるわ。わたしのいとこもみんないなくなっちゃったわ。多くて何人いたのか思い出せないけど15人以上よ。

かわいそう。寂しいわ。お母さんの兄弟が地滑りが起きたギンサウゴン村に住んでいたから、よくわたしもいとこに会いに行って遊んだわ。ギンサウゴンの人たちは、家も豊かだったし、わたしたちよりハッピーだったと思うわ。大人の人もみんなそう言ってたもの。

2006年に地滑りが起きたとき、わたしはサグアンゴン村の小学校の教室にいたわ。大きなヘリコプターみたいな音がしてたから、みんなヘリコプターだと思ったの。でも、外を見るとみんな走ってたわ。だからわたしもびっくりして走ったの。何が起きたか分からなかったから、みんな山の方へ向かって走ったの。だって先生も「山の方へ走れ」って言ったから。妹のアンナ(妹当時2年生)と一緒に走ったわ。たくさんの人々が街の方からわたしたちのところに走ってきて何が起きたのか観たことを教えてくれたから、ヘリコプターじゃないって知ったわ。

ギンサウゴン村は土がゆっくり覆ったから、ココナツの木によじ登った人は、助かったみたいだわ。地滑りが終わったら、もう隣の地域の大人の人たちが、既に埋まった人たちを助けていたそうよ。そっちの方向(ギンサウゴン村)へ行き止まりにされていたから、わたしたちサグアンゴン村の人たちは、低地に行くしかなかったの。(地滑り発生後30分後には既に自治体の人々が人命救助にとりかかっていた。)

妹はアヤハグ村まで走ってバイクで山を下りて、わたしはヌエバエスペランザ村まで行ってダンプカーに乗って、お母さんは一人でサグアンゴン村に残されてたのよ。みんなバラバラだったからお母さんはわたしたちが無事かどうか心配だったのよ。わたしもお母さんが心配でダンプカーの中で泣いてたわ。だって、次はサグアンゴンに山が落ちてくるかと思ったから。

その日はにわか雨が降ってたけど、強い雨は降っていなかったわ。お母さんは、家に戸締りもせずに、そのまま出てきたの。わたしもよ。教室にバッグもノートも全部おいて、着の身着のままで逃げたわ。なんでって、だって訳分からなくなってたから、みんな何も持ってなかったわ。

それぞれ別々に山からおりてきて、体育館で家族みんなが会ったときは本当に安心したわ。それからわたしたちはすぐには避難所には行かずに、いとこのところに4日間泊まったの。一番末っ子(いとこ)のラブが水疱瘡にかかったから、避難所には行ってはだめと言われたからよ。多分ストレスで病気になっちゃったんだと思うわ。そしてその後、3ヶ月くらい借家で暮らしたわ。それで、6月になってから避難所に越してきたの。

地滑りは嫌。怖い思いをするのはもう嫌だわ。(続く・・・)