『時間と絶対と相対と』(入不二基義著、勁草書房刊)を読む。
『哲学の誤読』でも触れられていたが、過去や未来の実在についての議論をはじめ、『時間は実在するか』で詳しく議論されていたマクタガードの時間非在論への論駁、そして「運命」についての議論が書かれている。いずれも非常に強靭な思考で議論が進められていて山登りをするような読書だった。山登りと違って登頂してしまえば終わりかというとそうではなく、もう一度議論を辿りなおさねばと痛感させられるところが違うのだが・・。
下手な要約をここに書くより著者自信により冒頭に書かれている序章を読む方がよい。各章ごとのアブストラクトが簡潔に記載されている。これは大変有り難かった。
時間論のところでは、「現在」というあり方には二重性があり、「まさに現在である」という比較不可能な現実性を意味すると同時に、未来や過去と同列に並べて比較可能であるような「可能的な現在」の落差を指摘している点、そして時間が経過するという変化は、他の状態や性質の変化とはまったく異なったもので、「変化の中から切り出される固定的なものに対しての、さらなる高階の変化」であることを指摘している点が重要だ。これはそもそも私たちが生きているこの状態を言語というものを用いて固定化して考えようとすることから必然的に生じる宿命ではないだろうか。
この現に今あることの絶対性は、最終章の運命論でも重要な意味をもつ。アリストテレスとテイラーの運命論について論じ、後者の排中律に焦点を合わせた強い運命論は、形而上学的な運命論であることを示し、それは「現実性」と「現在性」と「必然性」が一つになっているものであることを示している。
「現にいまこうであること」を感じることは論理からは導きだされないことである。デカルトが「今こうして考えていること」を哲学の起点においたのもこのことをまず引き受けざるをえないと考えたからだろう。
読み続けなければいけない本というものがあるが、本書がその一冊であることは間違いない。
『哲学の誤読』でも触れられていたが、過去や未来の実在についての議論をはじめ、『時間は実在するか』で詳しく議論されていたマクタガードの時間非在論への論駁、そして「運命」についての議論が書かれている。いずれも非常に強靭な思考で議論が進められていて山登りをするような読書だった。山登りと違って登頂してしまえば終わりかというとそうではなく、もう一度議論を辿りなおさねばと痛感させられるところが違うのだが・・。
下手な要約をここに書くより著者自信により冒頭に書かれている序章を読む方がよい。各章ごとのアブストラクトが簡潔に記載されている。これは大変有り難かった。
時間論のところでは、「現在」というあり方には二重性があり、「まさに現在である」という比較不可能な現実性を意味すると同時に、未来や過去と同列に並べて比較可能であるような「可能的な現在」の落差を指摘している点、そして時間が経過するという変化は、他の状態や性質の変化とはまったく異なったもので、「変化の中から切り出される固定的なものに対しての、さらなる高階の変化」であることを指摘している点が重要だ。これはそもそも私たちが生きているこの状態を言語というものを用いて固定化して考えようとすることから必然的に生じる宿命ではないだろうか。
この現に今あることの絶対性は、最終章の運命論でも重要な意味をもつ。アリストテレスとテイラーの運命論について論じ、後者の排中律に焦点を合わせた強い運命論は、形而上学的な運命論であることを示し、それは「現実性」と「現在性」と「必然性」が一つになっているものであることを示している。
「現にいまこうであること」を感じることは論理からは導きだされないことである。デカルトが「今こうして考えていること」を哲学の起点においたのもこのことをまず引き受けざるをえないと考えたからだろう。
読み続けなければいけない本というものがあるが、本書がその一冊であることは間違いない。