烏有亭日乗

烏の塒に帰るを眺めつつ気ままに綴る読書日記

移りゆく「教養」

2007-12-10 19:10:26 | 本:社会

 『移りゆく教養』(苅部直著、NTT出版刊)を読む。
 世間一般の常識によれば、今の大学生は「教養」がないらしい。そしてこれは「今」に始まったことではなく70年代以降そうらしいから、私も「教養」が没落した時代の人間であるようだ。ある数学者はこれからの日本はもう一度その「教養」なるものを復活していくことが必要だと説いていた。ではその失われたり、復活させなければならない「教養」とは一体どんなものなのか。確かに大学には教養部というものがあった(専門課程に入る前の申し訳あるいは前座のようなものとして)。こうした日本の大学の制度の中に組み込まれていた「教養」部というものはどのような系譜をもつものか。本書の前半ではヨーロッパ、特にフランスやドイツ、イギリスの大学教育での「教養」の変遷や「ドイツ的」な教養を受容した日本での「教養」なるものがどのようなものであったかが説明されている。当然それぞれで歴史と風土が異なるので教養の色合いは異なっているのだが、洋の東西を問わず教養というもののなかに世間一般や実学とは距離を置いた人格形成というベクトルと、よりよい社会を作るための市民を育てるための(政治的な色彩を帯びた)ベクトルがせめぎあっていることを教えてくれる。
 第四章ではその「政治的教養」、社会である一定の秩序を形成していくために必要とされる「教養」について論じられている。この部分はトーンが変わるが、あとがきによると「地域文化の同時代史研究会」の報告書にかかれた原稿を改稿したものだということだ。前後の論調とは違う具体的な話が挿入されているという感じは否めないが、逆に政治と教養を考える上でたいへん面白く、重要なポイントとなっている。この部分があるのとないのでは本書の印象が全く違ってくる。
 第五章ではより現在の教育問題に重心を移し議論がされている。著者の指摘するようにこと教育問題については、外野席の素人の論説があまりにも横行しているような気がする。もっと積極的に教育の専門家は発言すべきだろうし、その場が与えられてしかるべきだろう。日本のマスコミは「教養」というものを表向きは失ったことを嘆きながら、実際はその高踏的なものにルサンチマンがあるのではないだろうか。本書にも書かれてあるが、「居酒屋チェーンの社長や、亡き落語家の妻が、政府の「教育再生会議」の委員に「有識者」として名を連ねているのを見ると、そういう人をさげすむつもりはないが、やはり絶句してしまう」よね。
 教養の力というものがあるとすれば、ここで論じられているように自らがいやおうなく置かれている伝統とその権威を客観化し、議論していける種類のものだろうと思う。伝統的な失われた「教養」なるものの復古を叫べばいいというものではないのだ。そこには当然伝統や歴史的背景を異にする人びとへの「物語想像力」(ヌスバウム)が必要となるだろうし、その上でお互いに議論していくためには「政治的」教養が必要となるだろう。本書に引用されているオルテガが語った「教養」の意義は、まさに正論であろう。

 生は混沌であり、密林であり、紛糾である。人間はその中で迷う。しかし人間の精神は、この難破、喪失の思いに対抗して、密林の中に「通路」を、「道」を見出そうと努力する。すなわち、宇宙に関する明瞭にして確固たる理念を、事物と世界の本質に関する積極的な確信を見出そうと努力する。その諸理念の総体、ないし体系こそが、言葉の真の意味における教養「文化」(la cultura)である。

教養というのは授受できるようなものではなく、血肉となるかならないかというもの、というのがいいすぎなら振る舞いとして身につくかつかないかというようなものに近いのかもしれない。だから欲しがって求めれば求めるほどそれから遠ざかるようなものなのかもしれない。教養として読んでおくべきといわれるような著作は、それぞれの時代に生きた人びとが遺してくれた生の密林の歩き方だとしたら、それを単に読んだことがあるというだけではなく、今どのように使えるかを知っていること、その使い方を知らない人に教えることができることこそが大切なはずだ。