烏有亭日乗

烏の塒に帰るを眺めつつ気ままに綴る読書日記

人間行動に潜むジレンマ

2007-12-09 22:48:33 | 本:社会

 『人間行動に潜むジレンマ』(大浦宏邦著、化学同人社刊)を読む。
 進化ゲーム理論を解説しながら人間の社会、特に互恵的な協力がどのように進化してきたかを考察した著作である。
 最初の部分は囚人のジレンマやパレート最適の概念を解説し、第3章では共有地の悲劇を最初に示し、協力的な戦略が進化する機序について考察している。ギンタス・モデルという考え方では多くの人が非協力者にコストをかけてでも罰(サンクション)を与えようとする傾向をもっていることに注目し、十分なサンクションがある場合には協力行動が非協力行動よりも得になることを説明している。この場合サンクションのコストが高くつくと効果がない(サンクションコストをめぐる二次ジレンマ)。さまざまなサンクションの効率的な手段が発達するとそのコストが下がること、これが一旦功を奏するとサンクションを発動しなくてよくなるからさらにそのコストが下がる。サンクションのコストが小さいと集団選択の効果が弱くてもサンクションを提供する戦略が得になることが解説されている。
 このようなメカニズムは一般の人間集団だけでなく、生物個体の統合性維持においても有効な考え方であることが第4章で説明されている。生体の免疫機構もこうしたサンクション機構であるという考え方はたいへん面白い。花粉症という無害な物質に対するアレルギーは、過剰なサンクション機能の発動というわけである。この章の後半では、生物の攻撃性とその抑制がいかに進化してきたか、攻撃性の抑制によってなわばりと順位制が成立することが説明されている。
 第5章では人間社会で独特の発達を遂げている他者への共感という機序が攻撃性と並んで重要な要素であることが説明されている。攻撃性と共感という相反する機構をうまく使い分けて(ここで「しっぺい返し」戦略が有効性を発揮する)、多人数の協力が進化してくる。協力体制をより強固にして維持していくためには「裏切り者探知モジュール」の発達が欠かせない。著者はホモ・サピエンスで高度に発達した言語システムによりより効果的なサンクション(規範)が成立したと考えている。
 こうして成立する「仲間」の協力体制を確立できた集団は非常に有利になるに違いない。しかし同時にそれは他者に対しては排除的に働くという必然的な欠点も存在する。また仲間うちでは権威主義がはびこりやすくなる。著者の言葉によれば「権威主義は社会的な自己免疫疾患」である。自分、自集団のメンバー、外集団のメンバーのそれぞれに利益、不利益かによって行動は8パターンに分けられる。この行動パターンはさまざまな社会での個人や集団の行動を解釈する上で参考になるし、どのように向ければ行き詰った局面を打開できるかのヒントも与えてくれるに違いない。自分の属する集団の勝手により生じる問題は解決が困難だが著者の診断によると、

権威主義のレベルを低く抑えることが、自集団勝手の弊害を減らすうえでは有効である。それは同時に、サンクションのかけ過ぎによってパレート非効率を招くオーバーサンクションを防ぐうえでも有効だ。権威主義には集団内の結束を高め、協力を促進する効果もあるのだが、免疫の過剰反応のようなオーバーサンクションや、外集団に対する攻撃性といった弊害も大きいので、ほどほどにするのが吉であろう。

さらに自集団の範囲を広げていくことを勧めている。これが有効ならグローバリゼーションは進めかたさえうまくいけば有効に機能するはずなのだが。最後により抜本的には集団選択に頼らない多人数協力の促進方法を開発できればと述べられている。しかしこれは今まで人間を進化させてきたメカニズムに拮抗するものでもあるところが難しい点だ。


東京奇譚集

2007-12-05 19:29:45 | 本:文学

 『東京奇譚集』(村上春樹著、新潮文庫)を読む。
 同名の短編集が文庫化されたのを機に購入した。五編のいずれもどこか不思議な余韻が残る短編だった。突拍子のなさということであれば、最後の『品川猿』が一番で、あってもおかしくないという現実味のある奇譚であれば最初の『偶然の旅人』だろうか。
 出来事というのものがわが身に降りかかってきたときに、私たちはまず因果関係という定規で処理してなんとかそれを自分の経験として片付けている。すべてがこれで片付けばそもそも奇譚というものは成立しないのだろうが、どうしても解釈に困ることが残り、これらを偶然と名づけて片付けてしまう。この場合必然という枠内に収まりきれないのが偶然とされるわけだが、この小説を読むと実は世の中で経験することは偶然のあつまりで私たちはそれらをなんとか因果関係の綻びそうな糸で結びつける努力を日々しているだけなのではないかと思ってしまう。
 ある経験に対して「そうだ、これでよかったんだ」と自分を納得させるとき、そうした自分が自分に敢えて語りかけるような行為を必要とするような経験というものは、どこか因果関係の定規を無理やりあてているようなところがあり、どこか無理したような居心地の悪さが残る。この小説のなかの登場人物たちも大なり小なりそうした違和感を感じているに違いない。そしてそれでいながら全体としてはどこかで納得しているところがあり、ふっきれたような視線が未来へと向かっている。どこかせつないこの感じがきっと共感を生むのだろう。この感じはそれぞれの短編の最後によく出ていると思う。まだ読んでいない人がいたらいけないので、これから読もうという人はここでこの文章を読むのをやめてほしいのだが、抜書きすると

ジャズの神様だかゲイの神様だかが-あるいはほかのどんな神様でもかまわないのだけれど-どこかでささやかに、あたかも何かの偶然のようなふりをして、その女性を護ってくれていることを、僕としては心から望んでいる。とてもシンプルに。
                     
 (「偶然の旅人」)

貿易風に流される雲、大きく羽を広げて空を舞うアルバトロス。そしてそこで彼女を待っているはずのもののことを考える。彼女にとって今のところ、それ以外に思いめぐらすべきことはなにもない。ハナレイ・ベイ。
                      
(「ハナレイ・ベイ」)

私はまたどこかべつの場所で、ドアだか、雨傘だか、ドーナッツだか、象さんだかのかたちをしたものを探し求めることになるだろう。どこであれ、それが見つかりそうな場所で。
                    
(「どこであれそれが見つかりそうな場所で」)

同じころ、女医の机の上からは、腎臓のかたちをした黒い石が姿を消している。彼女はある朝、その石がもうそこに存在していないことに気づく。それは二度と戻ってはこないはずだ。彼女にはそれがわかる。
                    
 (「日々移動する腎臓のかたちをした石」)

彼女はこれから再びその名前とともに生活していくことになる。ものごとはうまく運ぶかもしれないし、運ばないかもしれない。しかしとにかくそれがほかならぬ彼女の名前であり、ほかに名前はないのだ。
                     
(「品川猿」)


なにも見ていない

2007-12-04 07:39:45 | 本:芸術

 『なにも見ていない』(ダニエル・アラス、宮下志朗訳、白水社刊)を読む。
 訳者あとがきによると、著者はイタリア・ルネサンスを専門とする美術史家でヨーロッパでは著名であるという。絵画の解読を主題とした本で、ティントレットの「ウルカヌスに見つかったマルスとウェヌス」、フランチェスコ・デル・コッサの「受胎告知」、ブリューゲルの「東方三賢王の礼拝」、ティッツィアーノの「ウルビーノのヴィーナス」、ベラスケスの「ラス・メニーナス」についてそれぞれの章で冒頭にその絵を掲げ、解読していく形をとっている。マグダラのマリアの章だけは著者自身が掲載した絵画はなく、訳者により絵画が選ばれている。各章の語り口はさまざまで、書簡形式だったり対話形式だったりと通常の絵画論とは趣が大いに異なりとっつきやすい。煩瑣な文献学も登場せず、絵画とまず向かい合って「ちょっと気になる」絵画の一部分から大胆かつ刺激的に読解を進めていく。その気になる部分は、ウルカヌスの体位であったり、受胎告知の場面になぜか登場しているカタツムリであったり、登場人物(三賢王の一人ガスパール)の眼差しだったりする(特に面白かったのは受胎告知に描かれているカタツムリの意味の解読だった)。
 原題の『On n'y voit rien(何も見ていない)』という意味がそれぞれの章を読んでみるとなるほどと分かってにやりとさせられるというのは、ちょっとした短編小説を読むような面白さがある。絵画という「目に見える」ものを描くという手法で、いかに「目に見えない」ものを表現するのか、そして私たちは「目に見えない」ものをいかに欲望しているのかということについて教えてくれる。