烏有亭日乗

烏の塒に帰るを眺めつつ気ままに綴る読書日記

1973年のピンボール

2007-12-24 21:02:05 | 本:文学

 『1973年のピンボール』(村上春樹著、講談社文庫)を読む。
 『謎とき村上春樹』を読んだときに未読であった村上作品を遅まきながら読んだ。石原先生の謎ときのごとく、この小説は「聞くこと」についての小説である。この小説の冒頭で主人公は「見知らぬ土地の話を聞くのが病的に好き」だと述べているが、実際は本当に聞くことができない、聞くことの不能者である。「もしその年に「他人の話を熱心に聞く世界コンクール」が開かれていたら、僕は文句なしにチャンピオンに選ばれていたことだろう」と「僕」は自負しているのだが、その後に「賞品に台所マッチくらいはもらえたかもしれない」という余りにも不釣合いな軽いものであることから、実際は人の話を真摯に受け止めることができないことが暴露されている。
 この小説に唐突に出て来る双子の女性について『謎とき』では「繰り返し」を空間的に表象したものだと解釈されていたが、これは時間的な繰り返しというより同時性の不可識別性の表象だと思う。明らかに左右の耳の隠喩であろう。両耳で聞かれる音を私たちは区別することができないように、この双子を区別することは「僕」にはできないのである。物語の最後に双子から両耳の掃除をしてもらっているときに耳垢が詰まり耳鼻科を受診するエピソードが書かれているが、探していたピンボールと巡りあえて心を通わせることができた(ほんとうに聞くことができた)後に詰まっていた耳垢は除去されることができた。そして双子は「僕」のもとから去っていく。
 物語の途中で出て来る配電盤の葬式も聞くことの不能に対する虚しい治療的試みであったといえるだろう。石原先生も指摘しているが、この物語が日曜日に始まり、日曜日に終わるように、この葬式が執り行われるのも日曜日であった。
 「僕」はさまざまな人の話を聞くことによりその人たちを癒していたような幻想をいだいていただけで、この話は「僕」が「聴力」を取り戻すまでの治療的神話だといえるだろう。