『なにも見ていない』(ダニエル・アラス、宮下志朗訳、白水社刊)を読む。
訳者あとがきによると、著者はイタリア・ルネサンスを専門とする美術史家でヨーロッパでは著名であるという。絵画の解読を主題とした本で、ティントレットの「ウルカヌスに見つかったマルスとウェヌス」、フランチェスコ・デル・コッサの「受胎告知」、ブリューゲルの「東方三賢王の礼拝」、ティッツィアーノの「ウルビーノのヴィーナス」、ベラスケスの「ラス・メニーナス」についてそれぞれの章で冒頭にその絵を掲げ、解読していく形をとっている。マグダラのマリアの章だけは著者自身が掲載した絵画はなく、訳者により絵画が選ばれている。各章の語り口はさまざまで、書簡形式だったり対話形式だったりと通常の絵画論とは趣が大いに異なりとっつきやすい。煩瑣な文献学も登場せず、絵画とまず向かい合って「ちょっと気になる」絵画の一部分から大胆かつ刺激的に読解を進めていく。その気になる部分は、ウルカヌスの体位であったり、受胎告知の場面になぜか登場しているカタツムリであったり、登場人物(三賢王の一人ガスパール)の眼差しだったりする(特に面白かったのは受胎告知に描かれているカタツムリの意味の解読だった)。
原題の『On n'y voit rien(何も見ていない)』という意味がそれぞれの章を読んでみるとなるほどと分かってにやりとさせられるというのは、ちょっとした短編小説を読むような面白さがある。絵画という「目に見える」ものを描くという手法で、いかに「目に見えない」ものを表現するのか、そして私たちは「目に見えない」ものをいかに欲望しているのかということについて教えてくれる。