『哲学の誤読 入試現代文で哲学する!』(入不二基義著、ちくま新書)を読む。
いろいろな意味で面白い本だった。
(1)まず素直に哲学論議として面白い。とりあげられているテーマとして他者の痛みの問題、過去および未来の時間の問題といった興味深いものだし、それについて考察している文章が野矢茂樹、永井均、中島義道、大森荘蔵という錚々たる論者だからだ。入試現代文なしにこれらの論者との哲学的対話としてもじゅうぶん本になるし、読めるものだ。著者も冒頭で触れているが実在論対非実在論という通奏低音が流れており、この問題を意識しながら読むと統一的に理解がしやすい。
(2)入試問題についての議論としても面白い。これまで入試現代文をとりあげ、その問題点を論う本は多く出版されていると思う。曰く問題文のとりあげ方が悪い、出題意図が不明確だ、問題文の著者自身にも解けないような問題だなどなどとして国語教育を撃つといったものだ。これは本書が哲学の「誤読」と題されているから問題の不適切さやその解答例の「誤読」を論じるのは当然である。読者は素直にその問題な部分にふれて入試問題の問題について驚いたり、怒ったり、憂えたりできよう。しかしそれと同時にこうした形式で「哲学」について読むことで、「哲学」がこんなふうに「誤読」されるのだということを知らされたことが新鮮な発見だった。もちろん私自身問題を解いてみて自分の誤読について蒙を啓かれたところもあるが、自分が思っても見なかった「誤読」で問題の解説がされているのを読むと、こういう「理解」もあるのだと驚かされた点も多かった。哲学の議論は先行者の考えを正当に理解した上で反論がなされ発展する場合もあろうが、「誤読」して反論がなされ結果として面白い展開となる場合もあろう。そんな可能性を考えてみる楽しさも味わえた。「誤読」がすべて非難されるべきものでもないのだ。
それにしてもこんな難しい問題を入試の勉強として解いていたのかなあ。これがすらすら解ける高校生とはどんな人なんだろう。
(3)本の作り方として面白い。これは内容とは直接関係ないがこういう変わった切り口で哲学の本というのが作れるのだという発見があった。「哲学入門」の本であるが、当然このような形ではないふつうの入門書は書けるだろうが、本書のような取り上げ方のほうが数段面白くなる。他者の企画でくだけた講義調での入門というものがあるが、あれよりはより自分で深く考えることを促される(これはそれだけ試験勉強という強力な条件付けを私たちが受けてきたという皮肉な結果であるかもしれない)。そしてこれが著者の他著(『時間と絶対と相対と』)への絶妙なイントロであり誘いになっている。事実この本を読んで、私はこの著書を読もうと俄然思ったのだ。企画力の勝利というべきであろう。