幸福維新の志士となれ <幸福の科学>

国難打破から、いざ、未来創造へ

【正論】「離米・親中」に舵取りしている

2009年12月20日 | 民主党政権
産経新聞2009.12.18 より)

拓殖大学学長・渡辺利夫

≪台湾の老指導者の懸念≫
 つい先だってのことだが、台湾の北東亜学会のシンポジウム『日本の総選挙後のアジア情勢』の基調講演者として招かれ、「鳩山政権の外交課題」について話をしてきた。沖縄米軍基地に関する日本の新政権の迷走ぶりは台湾でもつとに知られており、日米同盟が廃棄に追い込まれるようなことになれば台湾はどうなるのかという強い危機感が会場を漂っていた。

 強まる中国からの外交的攻勢に抗してなお台湾独立を志向する黄昭堂、許世楷、羅福全氏等の老指導者から立ち上る香気にも似た風貌(ふうぼう)に接しながら、こういう断固たる政治的意志をみなぎらせる指導者が日本にもいないものかと思いをめぐらせたのだが、浮かんでこない。

 黄昭堂氏は、馬英九政権の登場により「一中一台」(一つの中国、一つの台湾)は「一中二台」(一つの中国、二つの台湾)となり台湾の自立が危うくなっているところに、あろうことか日米同盟までも危うくなれば台湾の将来は暗澹(あんたん)たるものだといい、氏は私の講演にコメントを残して、統一地方選の仕事のためにあわただしく会場を去っていった。その後ろ姿に私は熱いものを感じていた。

≪ルース大使の怒りを理解≫
 帰国して12月15日付の“普天間移設先振り出し”を首相が決意したという新聞報道に接し、虚(うつ)ろな感覚を味わわされている。本欄(11月18日付)で私は、2006年5月の日米両国政府合意の早期決着のために設置される日米外務・防衛当局閣僚級作業部会など決着先送りのための「擬装」にちがいないと書いたが、はたせるかなそうであった。

 同コラムで私はこうも書いた。政党であるからには「主義」をもち、この主義を政策化するのは民主主義社会にあっては当然のことだ。しかし安全保障にだけは「主義」をもちこんではならない。みずからを取り巻く国際政治環境を怜悧(れいり)に見据え、いかにすれば国益が守られるか、その1点のみに思いを定め、その思いを徹底させよと主張した。

 「子ども手当」「高校授業料無料化」「ガソリン税無税化」「高速料金無料化」など、所詮(しょせん)は国内の所得移転の問題である。前2者は、子供・高校生をもたない人からもつ人への、後2者は、自動車を保有しない人から保有する人への所得移転である。マクロ的にいえば「一得一失」である。帳尻はまあ大体がゼロである。私は賛成もしないかわりに反対もしない。社会主義者まで包摂する民主党政権なのだから、強者を矯(た)め弱者にやさしい政策であっておかしくはない。しかし外交と安全保障だけは「一得一失」ではない。まかりまちがえば国民の生命と財産を無にしてしまう「オール・オア・ナッシング」の大事なのである。

 先月13日夕刻の日米首脳会談で普天間問題の早期決着を迫るオバマ大統領に鳩山首相は“私を信じてほしい”と述べて年内決着の印象をはっきりと伝えたのだが、どうやらこれも「擬装」だったようだ。擬装が剥(は)がれて真実が明らかとなり、ルース駐日米大使は“3人だけで話したい”といい岡田外相と北沢防衛相を前に大声で鳩山政権の不誠実をなじったという。

 オバマ氏を支える中心的人物の一人ルース氏が激怒した気持ちは私にもわかる。作業部会で岡田外相は、社民党という連立与党がキャンプ・シュワブ沿岸部への移設に反対しているので年内合意は難しいといい、北沢防衛相は来年度予算で移設関連経費を計上するから作業部会での検討作業をつづけるよう米側も協力してほしいと発言した、とのことである。真実であれば、これに怒りを露(あら)わにしない外交官がいようか。

≪沖縄県民の心理を弄ぶ≫
 いかな連立政権といえども、わずか数名の議席しかもたない政党に300議席を超える数をもつ政党がみずからの意見をひっくり返されるわけはない。やはり民主党指導部は普天間基地の県外・国外移転に本気であり、「離米・親中」の方向に日本外交の舵(かじ)を取ろうとしているのであろう。“連立与党との関係で厳しい立場にある”というのもただの言い訳に過ぎまい。名護市と沖縄県知事が日米合意に同意しているのに、県外・国外移転を唱導して沖縄県民の複雑な心理を弄(もてあそ)んでいるのが日本の新政権である。

 なんという皮肉か。ことここにいたって、作業部会での検討をつづけようという呼びかけに応じるほど米国が寛容であるはずもない。米国の怒りに直面しながら、鳩山首相はなおキャンプ・シュワブ沿岸部以外の新しい移設先を探るよう外相と防衛相に指示している。どうしてそうなのかを、米側はもとより日本国民に説明する重大な責任が鳩山首相にはある。

 現実を直視せず、実現できそうにない高い理想を掲げてこれを追求することを私は「理想主義」とは呼ばない。容易に変えることのできない現実と格闘し、理想に向けて小さなブロックを一つ一つ積み上げていく忍耐強い人間の営為が本当の「理想主義」なのではないか。


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