てのひらに太陽を

生涯、元気ハツラツOld Boy’s
70歳現役を目指し!
日々の気付きと思いと書き綴りたい
そんな気持ちのブログ

8月6日ひろしま

2011年08月06日 10時25分03秒 | Weblog

  今日は朝早く起きて
  原爆の時間
  宮島にいようかと思ったが
  起きたら8時40分

  あれだけ見たいとも思っていなかった
  原爆の・・・
  でも、見てしまうね・・・・・
  もう何年前だろう~
  原爆投下の何年じゃろ
  私がまだ30歳の前だったと思う
  だから30年間は確実

  叔父が原爆の関係をしていたので
  本を出すという企画になった
  この会は毎年、8月6日の1週間前に
  広島にある慰霊碑を巡礼していた

  私は、当時会社勤めをはじめて間もないころだったと思う
  会社から帰り、風呂に入り食事をとりすぐに寝る
  深夜2時に起床、原爆関係の資料を読む
  慰霊碑に込められた声が聞こえてくる
  そんな毎日の深夜だった

  そういえば思い出す、浜井市長の時だったんじゃろ
  私が高校1年生の時
  原爆ドーム維持の募金集めを
  原爆資料館のところでやっていた
  暑い日じゃった~~~

  それがこんな本になった
  

  そしてはしがきに
  

  私は8月6日に父親がさみしそうな顔をしているのを思い出す
  何も語ることはなかったが
  自分の一番好きで大事な妹のこと

  原爆の後、広島に帰って広島中を歩いて探したんじゃろ
  

先生になって1年目の夏
 「進徳」にしか行けなかったそう
 女の子が学校に行くのなら
 「南無阿弥陀仏」の学校しか行かせない
 広島は「安芸門徒」で親鸞聖人
 うちの曾爺さんは儲けたお金はお寺へ寄付
 そういう家風だからしょうがないけど

 念願かなって母校の先生になりたての8月6日の朝・・・

 勉強が好きで子供を教えたかったんじゃろうね
 うちの父親と何歳離れていたのか知れないが
 とても可愛がっていたらしい
 

 脇田先生~もう行かないで!!
 「進徳の~!」「いませんか!!!!」
 川を渡って泳ぎ、進徳の子を見つけたら
 その子を背負い川を渡って川岸に
 そしてまた、川を渡る
 「もう!ええけえ!脇田先生~~~」
 それでも、また川を渡って行ったという・・・
 脇田先生に助けられた、この人の記事を何度も何度も読んでいた
 この中国新聞のコラムを大切にして
 黙って誇りに思っていたのだろう
 語りの少ない我が父

 私もまた、8月6日はテレビを見たくない
 川を渡らなければ、叔母さんと話ができていたかも・・・

 やれのお~~