今日は朝早く起きて
原爆の時間
宮島にいようかと思ったが
起きたら8時40分
あれだけ見たいとも思っていなかった
原爆の・・・
でも、見てしまうね・・・・・
もう何年前だろう~
原爆投下の何年じゃろ
私がまだ30歳の前だったと思う
だから30年間は確実
叔父が原爆の関係をしていたので
本を出すという企画になった
この会は毎年、8月6日の1週間前に
広島にある慰霊碑を巡礼していた
私は、当時会社勤めをはじめて間もないころだったと思う
会社から帰り、風呂に入り食事をとりすぐに寝る
深夜2時に起床、原爆関係の資料を読む
慰霊碑に込められた声が聞こえてくる
そんな毎日の深夜だった
そういえば思い出す、浜井市長の時だったんじゃろ
私が高校1年生の時
原爆ドーム維持の募金集めを
原爆資料館のところでやっていた
暑い日じゃった~~~
それがこんな本になった
そしてはしがきに
私は8月6日に父親がさみしそうな顔をしているのを思い出す
何も語ることはなかったが
自分の一番好きで大事な妹のこと
原爆の後、広島に帰って広島中を歩いて探したんじゃろ
先生になって1年目の夏
「進徳」にしか行けなかったそう
女の子が学校に行くのなら
「南無阿弥陀仏」の学校しか行かせない
広島は「安芸門徒」で親鸞聖人
うちの曾爺さんは儲けたお金はお寺へ寄付
そういう家風だからしょうがないけど
念願かなって母校の先生になりたての8月6日の朝・・・
勉強が好きで子供を教えたかったんじゃろうね
うちの父親と何歳離れていたのか知れないが
とても可愛がっていたらしい
脇田先生~もう行かないで!!
「進徳の~!」「いませんか!!!!」
川を渡って泳ぎ、進徳の子を見つけたら
その子を背負い川を渡って川岸に
そしてまた、川を渡る
「もう!ええけえ!脇田先生~~~」
それでも、また川を渡って行ったという・・・
脇田先生に助けられた、この人の記事を何度も何度も読んでいた
この中国新聞のコラムを大切にして
黙って誇りに思っていたのだろう
語りの少ない我が父
私もまた、8月6日はテレビを見たくない
川を渡らなければ、叔母さんと話ができていたかも・・・
やれのお~~
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