hokutoのきまぐれ散歩

ブログも12年目、4000日に到達。ネタ探しはきついけどまだまだ毎日更新を続けるつもりです。

そよいち〜人形町ランチグルメ

2016-08-21 05:00:48 | グルメ

人形町に洋食の名店『キラク』があったことを知る人は多い。実は今も同じ名前の店が地下鉄人形町駅の近くにあるが、これは店自体が同じ名前だが、従業員は全て2008年に違う店に移って、今は『そよいち』という名前で営業している。

そよいちは玉ひでの先を左に入った床屋の向かい、いわゆる路地裏にあるカウンター15席のみのこじんまりとしたお店。店に行くには幟を探すまて分かりやすい。厨房では『キラク』の元おかみさんが注文の料理を作り、他の従業員がライスや味噌汁を出し、昼時はお客が途切れることのない繁盛店である。

小生は1人で12時少し前に到着するも満員、とりあえずランチ限定のメンチカツ(千円)を注文する。すぐに席が空き、ほぼ中央に陣取ると目の前で次々と料理にかかっている。白木のカウンターが気持ちがよい。作っているのはポークソテー、フライパンで肉を焼き、最後に酒でフランベ。アルコールに火が付いたところで肉を取り出し、醤油ソースを入れ、一煮立ち。これを皿に盛った肉にかける。中々美味そうである。ぼけっと見ているうちに小生のメンチカツも到着。

メンチカツが2枚、たっぷりのマヨネーズで和えたマカロニサラダ、千切りキャベツが乗っている。ソースは中濃とウスター、小生はウスターをかけ、さらにとき辛子をたっぷりとる。


あとは豚汁、これは具は多くないが、豚とごぼうが効いて美味い。ライスは平皿にやや少なめに盛られているが、お代わり可である。

まずはメンチカツを箸で切って、辛子を付けて食べるが、肉汁と炒めた玉ねぎの甘さがコントラストがよく、中々美味い。添えられたマカロニサラダも濃厚なマヨネーズであえられている。ライスを食べながら、どんどん食がすすむ。ライスのお代わりもしたいが、ここは我慢。限定10食のため、次々にメンチカツのオーダーも入る。人気はビーフカツとポークソテー、下ごしらえがされており、短時間で供されている。

伝統に培われた味、店は新しいが、人形町で洋食を食べるのならばこの店がイチオシである。


そよいち
中央区日本橋人形町1ー9ー6
0336669993

圓成寺

2016-08-20 05:00:05 | 日記

滋賀・京都・奈良の古刹巡りも奈良県に入った。奈良好き、運慶好きの小生が見逃していたお寺の一つ、圓成寺にようやく行くことができた。 この寺は756年聖武・孝謙天皇の勅願により開創されたと伝えられてはいるが、史実としては1126年に命禅(みょうぜん)上人が十一面観世音を祀ったのが最初。応仁の乱で主要な伽藍は焼けたが、再興され江戸時代には修行道場として栄えた。廃仏棄釈の影響で現在の境内と建物のみとなってしまった。

場所は奈良市内から柳生に抜ける柳生街道沿いにあり、道路から少し入ると庭園の池の前に出る。この庭園は平安時代まっきに寛遍僧正が築いたものと言われ、池越しに楼門が見える風景は美しい。


池を半周すると受付があり、拝観料を支払い中に入る。右手には多宝塔が見えるが、まずは本堂にお参りする。この本堂は室町時代のもので重文に指定されている。

風格のある寺としてはやや変わった寝殿造で本尊阿弥陀如来像(重文)が中心に置かれている。

定朝様の穏やかなお顔の阿弥陀様で須弥壇の周りには四天王像が配され、阿弥陀様を守っている。ほかにも聖徳太子の二歳像など多くの仏像があるが、目を引くのは本堂の柱に書かれた来迎図らしきもの。時代が経ち、一部しか見られないが、その彩色の美しさ、絵の技術の高さを感じる。

さらに本堂左には護摩堂。本堂の左には春日堂・白山堂があるが、この二つは国宝に指定されている。というのはこれら社は1228年春日大社ご造営の際に旧社殿の寄進を受けたものだが、全国で最も古い春日造社殿とのことである。

最後に多宝塔を訪れる。多宝塔自体は昭和後期に建て直されたものだが、中には大日如来坐像が置かれている。これは運慶25歳の頃の作で修理の際に台座天板裏面から運慶真筆の墨書が発見され、注目を浴びた。現在は国宝に指定されているが、ガラスの向こうにある。

しかし、寺の工夫で箱メガネ風の双眼鏡が備え付けられ、これでみると凛々しいお姿がよく見える。かつて某宗教団体がニューヨークで落札した大日如来坐像に姿はよく似ている。

そして、朱印帳を受け取りに受付に行き、寺の女性と話をするが、本堂の柱に書かれた絵の話をするとその技術のレベルはかなりのものとのこと。

もちろん、運慶作の大日如来坐像も素晴らしいが、コンパクトにまとまり、これだけのものが見られるのに、参詣者は小生以外は2グループのみ。少し不便かもしれないが、見逃すには勿体無いお寺である。

即成院

2016-08-19 05:00:33 | 日記

京都の古刹巡り2社目は即成院。現在は泉涌寺の塔頭であり、泉涌寺の総門のすぐ手前左側にある。駐車場を探すとないので電話で問い合わせると山門をくぐり、境内に駐めてよいとのこと、門前ではなく、境内に駐めて参拝する。

即成院は992年恵心僧都源信にあるより伏見に造られた光明院が始まりで藤原頼通の子である橘俊綱が山荘造営にあたり、当院を持佛堂として傍に移設し、即成就院と呼ばれていた。現在の地に移され、再興されたのは1902年である。真言宗泉涌寺派で、那須与一の墓所があることでも知られている。

本堂の扉を開けて参拝するが、それほど広くない本堂にはご本尊阿弥陀如来像を始め二十五菩薩像が安置されている。定朝の作といわれているが、阿弥陀如来像は丸くてふくよかな仏像で典型的な平安後期の作と言えよう。
この時代は末法思想の影響を受け、死後の世界に強く人々は関心をもち、極楽浄土を求めた。真ん中に阿弥陀如来(重文)、周りに二十五菩薩(重文)を配置することにより、立体的な極楽さながらの情景を見た人々は深く崇拝したであろう。現代の目で見てもありがたい仏たちと思えてくる。即成院では内陣に入る事が許されており、間近で仏像を拝む事が出来るのも嬉しいことである。

お堂の右奥に戸があり、これを出て坂を少し登ると大きな五輪塔があるが、那須与一の墓がある。係りの人の説明ではお骨は外の小さな墓石のところに埋葬されている。源義経の命を受け京に向かう途中伏見で病に倒れた那須与一は熱心に阿弥陀如来像を拝み、その霊験から病もいえ、屋島の戦いであの扇の的を射ることができた。その後、与一は京都に凱旋した後に出家し、屋島の戦いで亡くなった人の菩提を弔い、その後、平和に暮らし、阿弥陀如来像の前で亡くなったとされている。このため、与一の墓は即成院に造られたとのことで、今も子孫が大阪に住み、墓参りにくると寺の人から聞いた。

それほど名が通った寺ではなく、我々以外に参拝する人もなかったが、阿弥陀如来像と二十五菩薩は圧巻であり、仏像が好きな人にはおすすめの寺院である。

うろこ雲

2016-08-18 05:00:29 | 日記

台風一過で久々に東京は夏らしい暑さに戻った。通常、終戦記念日が涼しい朝になること自体がなんとなく腑に落ちなかったが、わずかな間でまた夏に戻ったようだ。台風が通過した後はフェーン現象のようになり、さすがに一気に35度となると体がついていけない。

しかし、外出した際に空を見ると一面のうろこ雲が青空を覆っている。この雲は気象学的には巻層雲というらしい。同じ雲でも集まり具合でサバ雲、イワシ雲、ヒツジ雲などとも呼ばれるがいずれも同じ雲のことである。
うろこ雲は秋の季語だが、気象学的には朝夕の温度が下がると放射冷却が起き、小さな雲の塊が出来るようになるため、夏から秋に季節が変わると表れやすくなるのだとか。


ところで前出の写真は地震が発生する前に出ると言われる地震雲である。これを見るとうろこ雲は形状がよく似ている。もちろん、地震雲自体の発生メカニズムも分からないため、正確なことは言えないが、地震雲の方が雲が厚い、雲の塊が大きい、低いところにあるなどと言われているが、簡単に比較できないので雲を見ただけでは判断は難しい。

まあ、そんなことはともかく、8月もお盆を過ぎて、秋が近づいてきていることは間違いないようである。『秋きぬと目にはさやかに見えねども…』という歌もあるが、『雲の形に驚かれぬる』なのかもしれない。

千本釈迦堂

2016-08-17 05:00:21 | 日記

滋賀・京都・奈良の古刹巡りも京都に入ったが、最初に行ったのは大報恩寺である。京都では『千本釈迦堂』と言ったほうが通りが良いのだが、場所は四大色街の一つ上七軒からすぐのところにある。

このお寺は真言宗智山派の寺院で本堂の行快作本尊釈迦如来像のため、千本釈迦堂の名前がついた。また、開創は1227年と鎌倉時代であるが、本堂は創建当時のままで応仁の乱でも燃えなかった京都最古の木造建築物(国宝)である。

まずは本堂に行くが、ご本尊は秘仏で見ることが出来ない。しかし、これを収めた厨子や天蓋も創建当時のもので古いには古いが見事な造りである。また、柱にも彩色が残っているが、かつては見事なものであっただろう。

さらに堂の奥に行くとおかめ像があり、ケースには集めたのか、寄贈されたのかたくさんのおかめのグッズがならんでいる。実はおかめとはこの本堂の建築に携わった大工、長井飛弾守高次の妻のことである。エピソードは高次が重要な梁の寸法を間違えて短く切った際に、おかめが枡組を使えば良いとアドバイスして事なきを得た。しかし、専門家でもない大工の妻のアドバイスで仕事を成し遂げたと言われては高次の恥と上棟式の日におかめは自害してしまう、というもの。これを夫婦円満の話として後世に伝えられたものだが、現代ならばやや違和感を抱く人もいるかもしれない。ただ、昔の人にとっては雨月物語の『菊花の約』同様、死生観が違うのかもしれないが。



別棟の霊宝館に行くとこちらには仏像が多数保管されている。目を引いたのは定慶作の六観音(聖、千手、馬頭、十一面、准胝、如意輪)、いずれも秀作である。ほかにも快慶作の十大弟子像(重文)はその厳しい眼光にひるむほどである。

外に出るとおかめの碑があり、さらに大木が3本。銀杏と松と桜があるが、桜は見事なしだれ桜で阿亀櫻と言われているそうである。春にはさぞかし綺麗な花を咲かせるだろう。大報恩寺は小さなお寺ではあるが、見所の多いスポットであった。

大報恩寺
上京区七本松通今出川上ル
0754615973

油長酒造

2016-08-16 05:00:13 | 日記


『きまぐれ酒蔵散歩』その10。昨年5月以来の酒蔵散歩は奈良県御所市の油長酒造。當麻寺まできたら御所市はもう目の前とカーナビに油長酒造と入れて出発。御所市中心部は道が狭く、一方通行も多いためかなり迷いながらも目的地に12時過ぎに到着。


近くにあるタンクのあたりに車を止めて油長酒造に行く。前には『風の森』の一斗樽が並んでいるが、中を見せてくれないことは調査済み。それでも杉玉が飾られた昔ながらの建物をしばし眺める。酒を買うならと張り紙があるが、旅の途中ということもあり、断念。また、ここから車で10分ほどにある風の森の起源である風の森神社も残念ながら断念した。

しかし、今回の目的は油長酒造の地元向け銘柄である『鷹長』。試飲がしたいのだが、車ではと諦めて宿に車を止めて奈良町へ。

歩いていると奈良の地酒を試飲ができる店『なら泉勇斎』を発見。それが奈良県酒蔵29蔵120種類もの地酒が試飲できる嬉しい店。もちろん、鷹長も5種類扱っており、純米吟醸を頂く。

風の森に比べて少し荒削りだが、独特の粘りは同様でしっかり、しかし喉越しの良い酒。これに味をしめ、古代製法で作った『菩提もと純米酒』『純米酒生酒』を購入。


東京で飲むのが楽しみ。なお、このお店にはほかにも沢山の奈良の酒があり、夕飯が近くなければもっと楽しめたのだが、それも叶わず残念であった。リベンジするぞ。

なら泉勇斎
奈良市西寺泉町22
0742266078

仙川公園の平和のモニュメント

2016-08-15 05:00:39 | 日記

毎年8月6日は広島、9日は長崎の平和祈念式典、そして15日は終戦の日に当たり戦没者慰霊の式典が行われる。毎年、この時期は平和について改めて考えさせられる時期である。

そんな中で意外に我が家の近くに平和に関するモニュメントがあることを発見した。三鷹市の仙川沿いに仙川公園があるが、これは小生がよく散歩や買い物に行く農業公園からすぐのところに位置する。

東八道路から少し行った長嶋橋のたもとに広場があり、ここにはあの長崎の平和祈念像をダウンサイジングした北村西望作の平和の像がある。これは北村西望氏は井の頭公園内にアトリエを持っていた縁で平成元年に建立されたもの。

ほかにも昭和20年の新川の空襲で内部が焼けた『プラタナスの木』、みたか100周年祈念事業で来日したノルウェーの平和学者ヨハン・ガルトゥング博士が平和を願い記念植樹した『桜の木』、アンネの日記で有名なアンネフランクが隠れていたアムステルダムの裏庭に咲いていた野ばらをアンネの父親が形見として世界に送った『アンネフランクのバラ』など幾つもの平和のモニュメントがある。それにしても新川が空襲の標的となっていたとは知らなかった。戦時中は中島飛行機の工場も近かったからかもしれない。



蟬時雨の中でこれらのモニュメントを眺め、オリンピックや高校野球などで新聞紙面がいっぱいとなる平和の尊さを改めて感じた。

奈良ホテル〜奈良とっておきグルメ

2016-08-14 05:00:53 | グルメ

クラシックなホテルが好きで昨年は蒲郡ホテルに宿泊。奈良に来たなら奈良ホテルとも思ったが、いかんせん値段が高いので宿泊施設はサンルート奈良にしてディナーを予約する。実は宿から歩くと奈良ホテルまでは5分ほどの好立地。6時少し前に宿を出て、少し坂を登り奈良ホテルに到着。開業が1909年で外観は和風建築。しかし、中に入ると重厚な西洋建築ながら暖炉の前には鳥居を配し、ポストは日本家屋型など日本の良さも併せ持つ素晴らしいもの。

中に入ろうとするとベルボーイがドアを開けてくれ、少し進み左に曲がるとメインダイニングルーム『三笠』がある。

ネット予約すると窓際の席に案内され、折角なのでフルコースを注文する。その内容は『前菜』『スープ』『鮮魚のポワレ エビ添え赤ワインソース』『シャンパンシャーベット』『国産牛フィレステーキ鴨フォアグラ添え』『デザート』というもの。ワインはシャンパン、白、赤ワインのグラスワインセットを御願いする。


まず、前菜は大和肉鶏のテリーヌ コンソメジュレ添え。上品な味でシャンパンによく合う。続いてスープへビシソワーズ、やはり暑い夏はこのスープに限る。ただ、ジャガイモの風味が少し弱いかも。



魚料理は鮮魚のポワレ、イサキと思われる切り身を皮をカリカリに焼き、身がしっとり。通常合わせるのはバターソースかと思うが、マデラ酒のソースもなかなか美味い。



ソルベで落ち着かせ、メインの肉料理はフィレステーキフォアグラ添え。体に悪そうなんて言ってられない美味さ。赤ワインにはやはりこれだ。やはりこうしたちゃんとしたレストランでフルコースを年一回でいいから食べたいものと実感。


最後のデザートも目と舌を楽しませてくれる。しっかり時間をかけ、暮れ行く奈良を見ながらのディナーには大満足であった。少し高いけど、まあ、小生の誕生日祝いだからいいかな。

食後は興福寺まで万灯会を見に行く。やはり、奈良はいいな。



奈良ホテル
奈良市高畑町1096
0742363300


當麻寺を歩く(2)

2016-08-13 05:00:26 | 日記

當麻寺を一通り参拝した後、塔頭である奥の院に向かう。といっても本堂の裏にある赤い欄干のついた階段を30段ほど登ったところにあるのだが。
當麻寺は真言宗と浄土宗の二つの宗派が共存している珍しいお寺でほかには長野県善光寺くらいしかない。奥の院は元々は浄土宗総本山知恩院奥の院として建立されたお寺で最初は往生院と呼ばれていた。起源は知恩院第二代誓阿普観上人が知恩院のご本尊法然上人像を1370年に還座したもので元々當麻寺とは別の寺であった。浄土宗信仰が高まる中、近畿地方を中心に参詣の人は多かったが、場所が當麻寺の奥に位置していたため、いつの間にか『當麻寺奥の院』と呼ばれるようになったものである。

奥の院で参拝料を払い、本堂にお参りする。その後、寺宝が保管されている宝物館に行く。お坊さんに色々と説明してもらうが、まずは当麻曼荼羅の複製品。

その大きさも見事さにも驚くが、天平時代に織られたものは糸自体に染色し、一針ずつ織り上げられたため、風呂敷ほどの厚さしかなく、大変軽いものであったことを知る。本物も寺で保管されてはいるが、さすがに長年本尊として掲げられていたため、傷みが激しく、とても飾ることができないことなどを教えてもらう。また、最新の技術で当麻曼荼羅をCGで再現したものの公開もこの秋にすると聞いた。


ほかにも二十五菩薩来迎像(室町時代)、弘法大師が日本に持ち帰った経本が入れられていた倶利伽羅龍蒔絵経箱(国宝)、中将姫絵伝(江戸時代)、法然上人行状絵伝(重文)などを見せてもらう。

外に出て少し歩き、浄土庭園に行く。二上山を借景に阿弥陀如来像を中心とした池を配した庭園で浄土の世界を再現しようとしたもの。行く途中にはボタンが植えられ、今はサルスベリのピンクの花が咲き乱れていた。

相変わらずクマゼミの声を聞きながらも心落ち着く奥の院である。

當麻寺を歩く(1)

2016-08-12 05:00:10 | 日記

今回の旅行の最大の目的は小生の京都にある墓参り(2カ所)であったが、もう一つの目的は當麻寺への訪問である。當麻寺は奈良県の中部二上山の東南の麓にある。

縁起によると612年用明天皇第三皇子麻呂子親王が兄聖徳太子の教えにより開いたもので親王の孫にあたる當麻真人国見により681年現在地に移され、寺号も當麻寺と改めた。
しかし、この寺は鎌倉時代に入ると浄土信仰の展開に合わせて当麻曼荼羅への信仰が高まり、曼荼羅を中心に発展することになる。特に浄土宗が伝わり、中将姫の物語が浄瑠璃や謡曲により演じられることにより浄土信仰のメッカとなっていった。

當麻寺は近鉄当麻寺駅から歩いても行けるが、今回は寺の門の横にある駐車場まで車で行く。気温が37度もある中で寺を回るのも命懸けとでも言えそうなほど暑い。逆に小生以外の車も1台しかない。

鄙びた山門から中に入ると広い境内が広がる。まず見えてきたのは鐘楼、その中には古い鐘があるが、これがまず国宝である。

その先には幾つかの塔頭があるが、まずは本堂(曼荼羅堂)を目指す。するとおばあちゃんと孫だろうか、虫取り網を持った4歳くらいの子供がセミ捕りをしている。蟬時雨がうるさいほどなのにセミは見つからない様子。可哀想になり、セミを見つけて呼ぶが、網の使い方も分からないようなのでアブラゼミを1匹取ってやると子供は大喜び。殺生を禁じる境内でセミを取っていいのかなとも考えたが、まあ、いいか。

さらに中に入って行くと右に講堂、左に金堂、突き当たりに曼荼羅堂が見えてくる。曼荼羅堂(国宝)にまずはお参りするが、この寺のご本尊は中将姫が織ったと伝えられる曼荼羅で天平時代に作られたものは国宝だが、実際の展示は室町時代に転記された文亀本(重文)である。

その大きさは縦横約4メートル四方の大きなもの。図柄は感無量寿経に説かれた阿弥陀十六思観と九品往生の姿を図示し、真ん中に阿弥陀如来はじめ観音・勢至菩薩などを配したものである。たぶん現在も変わらないが昔の人は死ぬことを怖れ、その後どうなるのかを求めたのだろう。


ちなみに中将姫伝説をぬきに當麻寺は語れない。中将姫は藤原豊成の娘と言われ、継母にいじめられ、殺されかかるが、従者がその信仰心の厚さに刀が振り下ろせず、置き去りにする。その後、當麻寺で出家し、ひたすら極楽往生を願った。そして、蓮の糸を使い、一夜で織り上げたのが当麻曼荼羅である。姫は29歳の時に生身の阿弥陀仏と25菩薩が現れ、西方浄土に旅立ったというものである。


本堂にお参りした後で金堂に行くが、ここには本尊の塑像では最も古い阿弥陀菩薩像、同じく塑像の四天王像を安置するが、建物自体も国宝に指定されている。


また、講堂には本尊の阿弥陀如来像、地蔵菩薩像など4体の重文の仏像があり、それぞれ素晴らしいが、大きさもまちまちである。また、建物自体も重文である。



ほかにも、珍しく西塔、東塔の三重塔が二つ揃って残されているが、これも素晴らしい。曼荼羅堂の奥、左手の少し高いところにあるのが西塔。金堂の裏、日本一古い灯篭の先にあるのが東塔。いずれも静かな中に立っており もちろん中には入れないが、これも国宝に指定されている。

伽藍は人も疎らでゆっくりと汗をダラダラ流しながらも鑑賞することができた。(奥の院、中の坊は後日)これだけの立派な寺院がこれだけの完全に残されていること自体が驚異で素晴らしいことである。奈良の中心部から離れているからなのか、とにかく足を運んでも決して後悔することのない場所である。