放菴日記抄(ブログ)

これまでの放菴特集・日記抄から「日記」を独立。
流動的な日常のあれこれを書き綴ります。

プロメテウスに翼を!!

2014年04月26日 09時57分09秒 | Weblog
 お義父さんが、逝った。
 4月24日の午後1時過ぎだった。

 呼吸不全になりかけて、ひどい酸欠と頭痛とそれから全身の痛みの中で、ゆっくりと意識を閉じていった。
 
 お疲れ様でした・・・。
 みんな、みんな。

 いまは、葬儀の準備でいろいろな人が出たり入ったりする。
 指図する人もいろいろいるので余分に混乱している。
 これも乗り越えないと、休めない。

 癌の痛み以前から、疼痛が全身にあった。左肩に出る疼痛が一番ひどいようで、いつも「いたいいたい」と哭いていた。
 嘔吐、腹痛も。体中、痛みのパニックに苛まれていた。

 義父は、生真面目で、情け深い人だ。体が動かなくなるまで働いてきた。
 こんな苛みをうける謂れはないのだが・・・。

 
 義父の最期、介護する義母も体力の限界を越えていた。昼間はろくに座っていない。夜はろくに寝ていない。
 長男と長女(BELAちゃん)が交代で介護を代わるが、やはり眠れなくなるらしい。
 みんな疲れていた。
 家で看取るって、みんなで合意したことだけど、やっぱり大変だ。

 つい「尊厳死」なんて言葉が浮いてくる。
 
 言っておくが、だれも悪くないし、だれにも責めることはできない。
 ただ、みんな精一杯やっていただけ。そのなかで小さく呟かれる愚痴には、つい、そういう単語が浮かんで来ていたのだ。

 もちろん、自然死が大原則(でなかったら犯罪になっちゃう)であることは言うまでもない。
 自然死とは「遅らせる」ことも「早める」ことも出来ない、ということだ。
 それがこんなにもツラいことなのか。こんなにも無力感に苛まれることなのか。
 最期の一日は、義父はたしかに辛そうだったが、これで楽になれるという、その事だけがみんなの救いになっていたような気がする。 

 そもそも、勝手に人の値打ちというものを考えてしまうから、「死ぬこと」にも何か意味や価値を乗っけたがる。
 死ぬのが早い、もっと早く死んでおけばよかった。
 そんなものは結果の前には無意味だ。

 逆に、生物の「寿命」というものには何か理由はあるのかもしれない。
 人間が考える「意味」や「価値」ではない。自然界の理由が。

 それは細胞の生み出す生体エネルギーの絶対量が一定の水準を維持できるように生死を繰り返しているとか、
 呼吸による酸素、二酸化炭素濃度が大気のバランスを維持しているとか、

 そういう理解できないような何かがあって、お義父さんも、これまで生かされてきたのだろう。
 
 なかなか「お迎え」が来ないことに戸惑っていたのは誰よりも本人だった。
 それが苦しみを相乗させ、家族をも巻き込んだ。
 言い方が変かもしれないが、誰も悪くない。だれも責められるべきではない。

 とにかく、お義父さんは逝った。
 やっとすべての苦しみから解放された。
 僕たちは、生を続けるために、また歩み続ける。
コメント
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