遙かなる高き峰々より吹く風に応えて

その風は、ぼくに呼びかけてくる・・・。

日高へ・・・

2009年10月29日 | 本心・・・真の願いを生きる・・・
 11月はじめはの天気は大荒れになる、と先ほどの予報を見て知った。これはなかなか厳しいかもしれない。
 ペテガリ 東尾根ルートを予定している。正確な判断が必要となってくるだろう。
情報によれば、1839峰より南は雪がないという。さて、どうなるだろう。低気圧は急速に発達し、風は相当に強くなるだろう。一部には靴幅リッジがあるから、気をつけないと転落するおそれもある。なにしろ、南日高の急峻というか、崖というか、そういう斜面だからして。
 疲労、低体温症にも気をつけなければいけない。雨がからむとなお厄介だ。潔く撤退することが大切だ。

 しかし、こういう条件のなかで、何が呼びかけられてくるのか、一方で楽しみの想いもあるのである。困難であればあるほど、それを享けいれていく・・・。そんな道もあるのではないか。信じるものを信じ、ひたむきに歩んでいくことこそ願いだ。

 さて、もうひとふんばりやろうか・・・。

 

簡単なことではないね

2009年10月27日 | つれづれなるままに・・・
 いろいろと考えることばかりだ・・・。自分のこともそうなのだけれど、爺・婆の調子がよくないようだ。どう対処すべきか思いあぐねていて、息子に相談してみると返ってきた言葉が「因縁果報に基づいて考えたら・・・」であった。

 ふ~ん、因縁果報ねぇ・・・と内心つぶやきながら、なんだったっけ・・・と思えば、そうそう、ウィズダムのことなんだ。目の前の世界におきる諸現象は、そして自分がとらえるものは、自分のこころの動機などの「因」が基いとなって、周囲の環境、諸条件を媒介として結果がうみだされてくる。ごくごく当然のように思えるけれど、こころを因としてとらえる、その働きをみる、ということはなかなか難しい。
 ともすると、自分の正当化や自己弁護に終始することになるから。究極のところ、自分のこころに始まり、自分のこころに帰ってくるなどと、どうしても思えないだろう。

 ついでに、また、息子から「カルマを浄化してくれないと、みんなが困る」・・・「それなら、息子はどうなのさ?」と聞き返したいところだが、まあ、まずは自分だね、と思うしね。

 「私がかわります」と宣言することは、いやはや、簡単なことではない・・・。
  

まだまだ未熟なる自分

2009年10月25日 | 本心・・・真の願いを生きる・・・
 民放の番組で、インドのヒマラヤ山脈の山、ナンダデビィの麓の花の公園を紹介していた。ナンダデビィもその美しさもさりながら、麓の世界遺産にもなっている「花と谷」公園の花の群落を見て、その美しさに感動した。これまではヒマラヤやネパールのトレッキングはほとんど関心はなかったのだが、この公園を知って行って見たいと思った。

 それにしても、自分の未熟さ加減には、ほとほとあきれるばかりだ。まだまだ、人の気持ち、想いを汲み取ることが出来ていない。まだ、自分中心の世界にいすわっている自分が残念だ。なんとしてでも、この現状から変わらなくては・・・。

 そうそう、ぼくのホームページに、1839峰とカムエクからコイカクまでの縦走を載せた。まだ、アップせねばならないものもあるけれど、まずはこの二つ。



 

基盤を超えるということ

2009年10月24日 | 山歩き~
 夏山納めの山行の一つとして札幌近郊の神威岳から烏帽子岳を歩いてきた。道はしっかりとしていて歩きやすい。天気もこの時期には珍しく快晴のピークも無風状態で暑いくらい。

 仲間からもうちの会社がどうなるか心配していただいた・・・。アー○スの子会社となるだけで、会社そのものは名前を変えて存続いたします。ようやっと株主総会やら取締役会などのスケジュールもみえてきました。

 そして、ぼく自身の心境も今日あたりを境として、また変わり始めました。というか、そのことに自分自身が追いつけない・・・と言ったらいいのでしょうか?
 もう一人の自分が心の奥から言うのです。「虚飾を廃し、さらに素の自分に還れ!」と。

 いわば、自分の血、地、知の流れに翻弄されている現状から、それを捉え昇華していく「行」をせよ、ということなのでしょう。

 

多くの人々の・・・汝の時代が来た

2009年10月23日 | 山歩き~
 明日も天気がよさそうだ。
そろそろ冬の山装備の準備も始めなくては。まずは山スキーのメンテナンスからはじめようか。ここ何年もワックス処理していないから、これからやろうか。
 そして、スノーシュも考えなくては。スノーシュの可能性。どこまで登れるだろうか、ということ。

 兼用靴ではブラックダイヤモンドが新たに参入したようだ。独自に開発し販売したのか、それとも、どこかのメーカーを吸収したのかわからないけれどね。

 やまびこは明日が夏山納めとなる。ただ、ぼくは夜の宴会には参加できない。別の山関係ではない集いがあるためそこに参加するのだ。

 今日の僕の意識・・・ふむ、最近、ずいぶんと様々なことを想いだし始めた。封印の十数年間は終わったように思う。しかし、まともな自分になるのかどうかは、これからの呼びかけへの応えが鍵になるのだろう。

 「  目覚めよ 眠れる魂よ

    悠久の時を知り
    無尽の意味に応える
    汝の時代が来た

    刻々に托身し
    反芻の輪廻を重ねる
    汝の時代が来た

    明晰と神秘に通じ
    愛と智慧の小径を往く
    汝の時代が来た

    目覚めよ  
    眠れる魂よ
    立ち上がれ
    横たわる魂よ 」

               高橋 佳子著「千年の風」より
 

小さな灯火でいいじゃないか・・・

2009年10月22日 | 本心・・・真の願いを生きる・・・
 今日一日、会社法と経理的な仕事の世界に関わっていた。この方が一日の仕事が単調にならなくていいかもしれない。

 うちの奥さんと爺・婆の話をしていたのだけれど、うちの奥さん曰く、三野の家族は、お互いに無関心、無関係で、全く冷たい家庭だと思っていたそうだ。しかし、ようやっとわかってきたらしく、何かあったら、家族でも他人でも、最後の最後まで面倒をみる、世話をする家だということを。(実は、僕も最近わかってきたのだが・・・)

 僕の肉体先祖には平安時代の関白の藤原道長の姉だか妹がいて、彼女は父である藤原兼家から手鏡をもらっている。その手鏡は今でも「健在」だ。そんな裕福で恵まれた環境にあった彼女だが、魂の願いとしては庶民のなかで平々凡々と暮らしたかったようだ。
 しかし、その後の子孫はかなり厳しい状況のなかで生きざるをえなかったらしい。あるとき、僕が禅定していると、数十人の鎧を身に着けた武将があらわれた。よく見ると、顔がなかったり、腕や足がなかったり、目玉がくりぬかれていたりと壮絶な姿だったのだが、それ以上に感じたのは、苦しみ恨み以上に平安な世界、人が人を助ける世界を希求する想いだった・・・。

 最近は山の単独行が禁止されているのだが、これは本当に行きたいのである。それは、禅定を深く深くするなかで、世界と共に呼吸すること、大自然と対話すること、そして、もう一人の自分との対話が目的なのである。でも、これから冬に向かうなかで、寒さはさすがに耐えられないなぁ~。来年の春まで待とう。
 

関わりの再結

2009年10月21日 | 本心・・・真の願いを生きる・・・
 いろいろと書いてきたが、やはり、自分自身ぶれることがある。いや、ぶれっぱなしなのかもしれない。そんなとき、自分の現状に辟易とするがそのままでいても仕方がないから、一歩踏み出すしかないだろう。

 「関わりの再結」とは、過去に過去世において、逆縁となった大切な人との、今生において、再度、絆を結びあうことなのだと思う。しかし、そのためには、過去の繰り返しとなってはいけない。過去の自分のありようから脱皮していなければならないだろう。つまり、過去、逆縁となった原因の基となったカルマを修正していなければ、再び、同じ繰り返しとなってしまうのだ。それは、とても悲しいことだ。辛いことなのだ。
 カルマ・・・魂のなかの未熟な部分・・・。癖、歪みだね。

 その一方で、いろいろと勉強したい、学びたいと思う自分があることに気づく。それは新しい何かを獲得したいという想いなのだが、たとえば、法人税法やら様々な会計基準もそうだし、会社法の関係もそうだ。そして、それらの気休めとして、物理学や数学・・・。欲張りな・・・。

 そうそう、ヴァイオリンやピアノもやってみたい。ついては、歌もね。
もし、ヴァイオリンかピアノが弾けるようになったら、ある人に聞かせたい、という願いもある。ただ、10年後かな?

 今日はいただいた栗を茹でて食べた。  人の心のすべてに感謝!そして・・・


得手・不得手

2009年10月20日 | 本心・・・真の願いを生きる・・・
 今、ぼくの所属は、経営○○室というセクションである。その前はずっと経理屋さんだった。しかし、この経理という仕事、実は小学生の頃は、なぜかわからないけれど、将来はこういう会計の仕事だけは就きたくないと思い込んでいた。それが、いわば就職して、そのような仕事に就いたのだから、それこそ晴天の霹靂だった。そもそも、なじむこと自体がなかなか大変だった。ソロバンはできない。数字はへたくそ。

 つまりは、自分が受け入れることができない、と思ったものを受け入れることが今世のテーマだったのかもしれない。自分からいえば、真逆の世界の在りようを認め、受け入れること。このことが出来ないと、過去世で願いをもとに取り組んだ様々な目的が成就されないのかもしれない。
 誰しも自分の好きなことは、どんどん進むのが常である。しかし、苦手なことはそうではない。
 志半ばで終わるということは、ぼくのなかで、何か半分の要素が不足しているからである。だとすれば、その不足している半分を満たすために、得意・苦手、コンプレックスを超えて丸ごと支えない限り、超えられないのでは、と思うのである。
 
 これは短絡的な考えだろうか?

 

洗濯機

2009年10月19日 | 本心・・・真の願いを生きる・・・
 またまた、中期計画を策定する時期となった。実際には、これだけ変動の大きい時代ともなると1年後にどうなるかもわからないのに、3年後の当社を考えるというのは至難の業だ。そもそも、今回の全株式の譲渡だって予測つかなかった・・・というわけでもないのだが・・・。

 小売業がどんな社会的な役割と使命をもっているのか、そのなかで会社を存続させていかなければならないというプレッシャーと圧力=重力がかかってくる。そして、その企業というものは、利益一辺倒なのか、もっと社会的な関わりを重視していくのか、様々な問題が提起されてくるだろう。
 それらの課題に対して、僕は他人事として向かうのか、それとも、積極的にアプローチしていのか、あるいは全く別のフィールドにミッションを見出すのか、ということが、実は、志半ばの願いの成就という魂の目的の一つと密接な関係があるのだと思う。

 さてと、そろそろ、洗濯機の洗濯が終わっているころだ。今度は乾さなければ・・・。

晩秋の白旗山

2009年10月18日 | 山歩き~
 昼から白旗山を歩いてきた。
この山はずいぶんと歩いたつもりだったが、歩けば歩くほど道があらわれ、そのすべてを歩くにはまだ相当の時間がかかる。
 今日は札幌台から三角点の239m地点、そこからさらに北へと歩き、山部川のほとりあたりまで行ってみた。近くの運動場からは若者(学生?)の声が響いていた。
 落ち葉が道一面に覆い、柔らかな感触のなかでの静かな散策となった。山部川は小さなダム?のようなところもあり、その側の小径を歩いていくと清田につながっているのかもしれない。清田まで歩くとしたら、車は真栄口の駐車場には置けないから・・・まぁ、遠回りして車を回収しにいってもいいか・・・それでも、歩いてみるかもしれない。それは、今年となるのか、それとも雪が降って晴れ渡るその日になるのか、それはわからない。

 で、昨日の続きなのだが、魂の修復と成長という意味は、ぼくの場合には、人は絶対に信頼できない、というカルマがいすわっている。それは、これまでの過去世のなかで、そのようにしか受け取れない出来事が常に起こっているからであり、そのたびに自分は被害者といういわば悲しみと苦しみの意識を背負っている。理屈としては、それらはそうではなく、そうならざるをえない事情があったのだが、また、それも理解しているのではあるけれど、感情をともなった心のレベルでは、絶対に許さない!と、まだ本質的には癒されていない。これが僕の魂の修復の課題なのだ。けれども、一方でそのような体験を幾度も経てきているからこそ、千手観音のごとく、観世音菩薩のごとく、あまねく人の苦しみ悲しみを救いとるための手足となりたいという魂レベルの願いも立ち上がってきているのだと思う。(実態は、ほとんど、遠い世界・・・だが)
 では、この願いは具体的にはどうなのか?と問うたときに、ぼくなりの解釈でいえば、2番目の志半ばの願いの成就 が提起されてくるのだと思う。ん、ちょっと解釈が一面的かもしれないが。