道南の山に登ったときである。冷水岳のピークから見た遊楽部岳はその山頂付近は雲がかかっていた。
「雲よ、去ってほしい・・・」と願う。気がついたときには、山頂付近の雲はすっかりなかった。
そして、その下り。もうまもなく登山口というあたりの針葉樹林。前を歩いていたMさんが「暑い、風がほしいなあ」と言う。そして、ぼくも呼びかける。「どうか、風よ、吹いてほしい!」
すると、まもなく、風が吹いてきた。
邪心なく、よこしまな気持ちなく、願うと、大いなる存在は、その願いを聞いてくれる。しかし、思うのだ。自在に風を吹かせ、雲を飛ばすことができたとしても、あのエジプトのモーゼのときのごとく、人のこころのなかに本物の新しい風を吹かせることは難しいだろう。いや、それこそ、自分の力だと増上慢におちいり、あまねく存在に対する感謝の想いも消えうせ、詰まらない人間になってしまうだろう。
そんな「力」は必要ない。
本当に必要なのは、地球の津々浦々から聞こえてくる小さな声。哀しみ、憤り、苦悶・・・、それらの声を聴き取り、応え、癒し、道を切り開くことのできる集団のなかの一人に参入させていただくこと。
自我の枠をはずし、欲望の闇から毅然と離れること。
「雲よ、去ってほしい・・・」と願う。気がついたときには、山頂付近の雲はすっかりなかった。
そして、その下り。もうまもなく登山口というあたりの針葉樹林。前を歩いていたMさんが「暑い、風がほしいなあ」と言う。そして、ぼくも呼びかける。「どうか、風よ、吹いてほしい!」
すると、まもなく、風が吹いてきた。
邪心なく、よこしまな気持ちなく、願うと、大いなる存在は、その願いを聞いてくれる。しかし、思うのだ。自在に風を吹かせ、雲を飛ばすことができたとしても、あのエジプトのモーゼのときのごとく、人のこころのなかに本物の新しい風を吹かせることは難しいだろう。いや、それこそ、自分の力だと増上慢におちいり、あまねく存在に対する感謝の想いも消えうせ、詰まらない人間になってしまうだろう。
そんな「力」は必要ない。
本当に必要なのは、地球の津々浦々から聞こえてくる小さな声。哀しみ、憤り、苦悶・・・、それらの声を聴き取り、応え、癒し、道を切り開くことのできる集団のなかの一人に参入させていただくこと。
自我の枠をはずし、欲望の闇から毅然と離れること。