【2014年1月28日】
1848年、「ラファエル前派兄弟団」が結成され、ラファエル前派と呼ばれるグループの活動が始まるが、それは19世紀中葉のイギリスにおけるアヴァンギャルド運動と見なされている。
しかし、アヴァンギャルドといえば、キュビズム、フォービズム、ダダイズム、シュールレアリズムなどを想起する私には、彼らの絵がアヴァンギャルド芸術と見なされる要素を直感的には把握できず、展覧会会場を数往復する羽目になった。
展覧会図録 [1] によれば、ラファエルやその追従者たち(ラファエル派)の絵画が美の規範として高く評価されていたヴィクトリア朝のイギリスにあって、ラファエル前派はラファエル以前、ルネッサンス初期の絵画に美の規範を見いだし、近代的表現へ結びつけたのだという。つまり、「歴史的にして近代的」 [2] なのだ、というのである。
この展覧会は、テート美術館(ロンドン)所蔵の作品に依る。
フォード・マドックス・ブラウン(1821-93)《リア王とコーディリア》1849-54年、
油彩・カンヴァス、77.1×99.1cm (図録、p. 43)。
彼らの新しさの一つは、聖書やギリシャ・ローマ神話に主題を取ることが多かった時代に、《リア王とコーディリア》のようにシェークスピア(1564-1616)の物語を取りあげることにもあった。
いわば歴史画として、イギリス王の逸話を描いた絵ではあるが、この王の衣服には破れや汚れがリアルに描かれている。フランス軍との戦いの地における一時の休息の場面とは言え、そこには王族や貴族を描いたゴヤのような世界はもはやない。
【左】ジョン・エヴァレット・ミレイ(1829-96)《マリアナ》1850-51年、
油彩、・板(マホガニー)、59.7×49.5cm (図録、p. 49)。
【右】ジョン・エヴァレット・ミレイ(1829-96)《釈放令、1746年》1852-53年、
油彩・カンヴァス、102.9×73.7cm (図録、p. 51)。
《マリアナ》もまたシェークスピアの『尺には尺を』の登場人物である(とはいえ、どんな物語だったか、私には思い出せないのだが)。図録解説によれば、持参金を失い、許嫁に捨てられたマリアナが長時間の刺繍仕事に疲れて、立ち上がり伸びをしているシーンで、「自然なポーズで女性の性衝動を素直に表わしている」(図録、p. 48)のだという。
じつに魅力的な婦人の肢体表現で、輝くような藍色のベルベット(たぶん)の衣服や、椅子の赤色など色彩表現が鮮烈な絵である。
《釈放令、1746年》もまた歴史画であって、1688年に起きたジャコバイドの叛乱で捕囚となったスコットランド兵と、釈放令を示して夫を迎える凛とした妻の姿を描いている。男尊女卑の意識が強い時代にあって、イギリス兵よりもスコットランド兵よりも強靭な精神を顕在化させている婦人がこの絵の主題である。
この絵は、いわば「ロッホ・ローモンド」を歌わずに生還できた兵士の物語である。「ロッホ・ローモンド」は虜囚となったスコットランド兵が刑死を前にして故郷・スコットランドのローモンド湖を偲んで歌った民謡である。その歌詞のなかに次のような一節がある。
Oh ye'll tak' the high road
and I'll tak' the low road,
An' I'll be in Scotland before ye',
But wae is my heart until we meet again
On the Bonnie, bonnie banks
O' Loch Lomond.
「君は高い道(天空)を行き、僕は低い道(冥府)を帰って行く。そして、君より先にスコットランドに(土となって)着くのだ。ああ、美しいローモンド湖よ! その畔でまた君に会えるまで、悲しみに胸をふさがれて!」。 おおむねこのような意味の歌である。
わずか100年前の悲劇的歴史の可視化、あるいはラファエル前派流の悲劇の歴史化というべきだろう。
【上】ジョン・エヴァレット・ミレイ(1829-96)《オフィーリア(部分)》1851-52年、
油彩・カンヴァス、76.2×111.8cm (図録、p. 55)。
【下】《オフィーリア(全体)》 [3]。
これは偶然なのだが、気になる絵をピックアップすると、ミレイの作品がどうしても多くなってしまう。《オフィーリア》もまたミレイの作品で、おそらく彼の作品の中でもっとも人々に知られている絵ではないかと思う。私にとっても、どこかで見た作品で、図録を見た妻もどこかで見た記憶があるという。妻はイギリスに行ったことがないので、テート美術館ではない。日本で開催されたミレイの回顧展のころは、私の仕事が忙しくて展覧会に行く余裕はなかった。これだけ有名な絵だから、本か何かで見た印象が残っているだけかもしれない、というのが妻と私の結論だった。
《オフィーリア》は、それだけ印象の強い作品である。「鬱蒼と生い茂る草木と哀れなヒロインが描かれ、ラファエル前派ならではの自然、心理、物語性の表現を見事に示す古典的名作」(図録、p. 52)であることにまったく異論がない。
水におちたオフィーリアは、川底に沈むまで静かに歌を口ずさんでいた。画面から溢れるような静寂さ、水面の上をオフィーリアの低い歌声が流れていく。そんな強靭な想像力に支えられたリアリズムがここにはある。
【左】アーサー・ヒューズ(1832-1915)《4月の恋》1855-56年、
油彩・カンヴァス、88.9×49.5cm (図録、p. 59)。
【右】フィリップ・ハーモジニーズ・コールデロン(1833-986)《破られた誓い》1856年、
油彩・カンヴァス、91.4×67.9cm (図録、p. 63)。
ミレイ以外の画家も上げておこう。《4月の恋》は、アルフレッド・テニスンの詩から主題を取った絵だという。濃いブルーの衣服が浮き立つように輝いていること、窓の外の花木の描写が精細でリアルなことなどに感動した絵である。
首飾りが婦人の足元に捨てられていて、塀の向こうでは睦まじく花を取り合う男女が描かれるという象徴主義的な《破られた誓い》もまた、《マリアナ》や《4月の恋》と同じように紺色の衣服をまとった婦人像である。
このようにラファエル前派の絵は、読み解かなければならない物語性に支えられていて、見る側としてはなかなか大変なのである。私としては、だから、物語性を無視して(その知識もないのだけれど)印象深い作品だけをピックアップするしかない。
【上】ジョン・エヴァレット・ミレイ(1829-96)《両親の家のキリスト(「大工の仕事」)》
1849-50年・油彩、カンヴァス、86.4×139.7cm (図録、p. 79)。
【下】ジョン・エヴァレット・ミレイ(1829-96)《「両親の家のキリスト」の習作》
1849年頃、石墨・紙、91.4×67.9cm (図録、p. 81)。
《両親の家のキリスト(「大工の仕事」)》は、ラファエル前派のアヴァンギャルド性の一端を示す良い例だろう。大工仕事をする家族の情景だが、子供の手のひらの傷を心配する主人はヨセフであり、子供を慰めるように寄り添うのはマリアで、怪我をした当の子供はイエス・キリストである。したがって、右端の子供は、洗礼者ヨハネである。
古典的な絵画では聖家族を描くにあたって、その聖性をどのように表現するかが最大の問題であったはずである。しかし、この絵では、聖家族は普通の家族と同じリアリティで描かれている。いたずらをしたためか、手伝いの最中にか判然としないが、仕事場で不注意な子供が怪我をするというのもありふれたことだろう。
強いて言えば、手のひらの怪我と足元に滴る血が、キリストの磔刑を暗示していることとか、心配するマリアを安堵させるかのように口づけするイエスの慈愛に満ちた仕草に宗教性を見出すことができよう。
さて、下に示した習作は丁寧に描かれているが、じつはヨハネだけが描かれていない。ヨハネがいなくても聖家族は成立している。ヨハネは必然的要素ではないのだ。しかし、聖家族にはヨハネが慣例として描かれることが多い。この習作と本作の関係もまた、そのような事情をありていに示しているのだろう。
ヨハネの扱いはいつもこの程度なのだ、と私は思ってしまう。無数の聖家族の絵が存在する。そして、そこにはしばしば洗礼者ヨハネがともに描かれる。イエスが幼子であれば、幼子のヨハネが、いくぶん成長したイエスであれば、ヨハネもそれに応じて成長した姿で。ヨセフとマリアとイエスの聖家族に、家族の一員ではないヨハネがぽつんと一人だけ描き足されているのである。
そして、私は家族から離れてイエスの家族といなければならない幼いヨハネに同情してしまい、とても哀しく愛しいと思うのである。ずっと長い間、私はヨハネ贔屓なのだが、こんな理由なのだ(絵画から出た話とはいえ、絵画とは関係ないことであるが)。
【左】ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティ(1828-82)《ダンテの愛》1860年、
油彩・板(マホガニー)、74.9×81.3cm (図録、p. 149)。
【中】エドワード・バーン=ジョーンズ(1833-98)《クラーク・ソーンダーズ》1861年頃、
水彩・紙、69.9×41.8cm (図録、p. 153)。
【右】グスタフ・クリムト(1862-1918)《The Kiss(部分)》1907-08年頃、
油彩・金銀箔・カンヴァス、180×180cm [4]。
これはただのつまらないこじつけかもしれないが、《ダンテの愛》と《クラーク・ソーンダーズ》の絵を続けて見た後で、この二つの絵からクリムトが生成するのではないかと思ったのである。
衣服に包まれて肢体が見えない二人が寄り添っている。一方は、意匠化された背景と衣服の婦人像である。それが意匠化された衣に包まれて抱擁してキスし合う二人を連想させるのである。
クリムトの絵を見たとき、その独創性に驚いたが、じつはヨーロッパにはその下敷きになる美的伝統が深く広くあったのではないか、と思わせるのだ(見当違いでなければ)。
【左】ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティ(1828-82)《ベアタ・ベアトリクス》1864-70年頃、
油彩・カンヴァス、86.4×66cm (図録、p. 171)。
【右】ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティ(1828-82))《プロセルピナ》1874年、
油彩・カンヴァス、125.1×61cm (図録、p. 181)。
ロセッティの《プロセルピナ》は、図録の表紙や展覧会のパンフレットに用いられていて、ラファエル前派の代表的な作品らしい。色使いや写実性はたしかにラファエル前派らしさに溢れているが、私としてはロセッティならやや幻想的な《ベアタ・ベアトリクス》のほうが好もしい。
《ベアタ・ベアトリクス》は、ダンテの恋人に仮託して描かれたロセッティの妻エリザベス・エレノア・シダルだという。アヘンの摂取過剰で若死にしたシダルの死をベアトリーチェの死に重ね合わせることで、その悲劇的な死から穏やかで幻想的な死へ昇華させようとしたのではないか。おそらく、画家の心性が強く反映した絵であって、それが《プロセルピナ》との際立った違いの理由であろう。
現在を生きる私にとっては、19世紀中葉のアヴァンギャルド性を理解するのは難しいことだったし、それぞれの絵にことごとく強い物語性が込められていることもシンプルな受容を難しくしていると思う。
もちろん、私は、絵画にとって物語性は本質的な属性だとは考えない、だが、物語性によって絵画の美的価値が著しく高められることがあることも確かなことだ。絵画を見る楽しみには、その物語性の乗り越え、文化的素養の障壁の乗り越えも含まれるようだ(私にはだいぶ難しいことだが)。
[1]『ラファエル前派展 ―英国ヴィクトリア朝絵画の夢』(以下、図録)(朝日新聞社、2012年)。
[2] ティム・バリンジャー、ジェイソン・ローフェルド(木下哲夫訳)「ラファエル前派 ヴィクトリア朝時代のアヴァンギャルド」『図録』 p. 11。
[3] 『西洋絵画の主題物語 II 神話編』(美術出版社、1997年) p. 230。
[4] 『Österrechische Galerie, Belvedere, Vienna』(Prestel, Munich・New York, 1996) p. 129。