かわたれどきの頁繰り

読書の時間はたいてい明け方の3時から6時頃。読んだ本の印象メモ、展覧会の記憶、など。

【私事・些事】 三つの書斎

2020年05月03日 | 私事・些事

【2010/11/24】

 じつのところ、我が家には書斎と呼べる部屋はないのである。20年ほど以前のことだが、家の建て替えに際して、無い知恵を絞りつつ間取りを考えているとき、大学の研究者という私の職業を慮ってか、妻が「書斎はどうするの?」と聞いてくれたのだが、即座に「いらない」と答えた。書斎を造るほど余裕のある建坪ではなかったし、書斎に坐って何かを行っている自分が全く想像できなかったのである。書斎の使い方の実感がなかった。

 小学2年くらいから、母と二人暮らしになったが、私は本を読んだり、宿題をしたりということをいつも居間 [1] で、母の側でやっていた。それは家を出るまでの高校2年まで続いた。当時、テレビは当然ながら無かったので、ラジオを聴きながら、そして母ととりとめのないことを話しながら、本を読むのが習いとなっていた。
 じつのところ、六人兄弟の末っ子で、甘えん坊の私には、母とそうしている時間がいちばん楽しかったのである。だから、宿題が終わっても、その時間を長く続けるために、本を読み続け、時にはなにがしかの勉強を続けることも多かった。それでいつも早く寝ろと叱られてばかりいたのである。
  
 職を得て、結婚しても、書斎のある家に住めるわけでもなく、調べ物をし、論文を書くのも居間である。話し相手は妻に代わり、ラジオはテレビに変わったが、やっていることは幼年時と同じなのである。子供をあやす、という新しいことも加わってはいたが。
 だから、私の第一の書斎は居間である。これは今でもずっと続いている。何となく安心で、居心地が良く、いわゆる書斎が欲しいと思ったことは1度もない。

 大学では原子力工学を専攻した。当時は、原子力が未来のエネルギー産業の中核になるだろうと期待されて、主だった大学に原子力関連の専攻ができつつあったのである。しかし、得た職は物理学が専門であった。同じ理工系といえども、物理学の研究者で生きるには、物理学として学んでいない基礎が多く残されていた。
 そこで、第二の書斎として寝室が選ばれた。といっても枕元ということである。眠りに入る前、目覚めた後、僅かな時間でも利用しようと、枕元には小さな本棚をそろえ、大学の講義では学ばなかった物理の本を読み始めたのだ。ただ、そのような本は、じつに有効な催眠導入剤として働くのであった。どちらかと言えば神経質で、なにかの拍子に眠れなくなる私は、その当時はよく眠れたのである。
 それでも、長い間(18年くらい)続けていると、枕元書斎といえどもかなりの量の教科書が読めるのである。この書斎は、凡庸とはいえ平均的なレベルの物理学者になれたのではないかと自覚しはじめた頃、いつとはなしに閉じられた。家にもパソコンを据えたために、論文書きやデータ解析など、自宅への持ち帰り仕事が増えたことも一因ではある。

 家を建て替えた後に、二階にもトイレができた。やや広めだったため、本棚として小さな箱を置き、新しい第二の書斎とした。ここはあまり長居をしないので、ある一定量のまとまりを読まないといけないような本は不適である。雑誌とか、詩集、歌集などがふさわしい。ここでは、万葉集から始まる古典詩歌のほとんどを読んだし、若い頃夢中になっていた現代詩集の再読、再々読もできた。

 トイレを読書の場所にするというのは、ささやかなちょっとしたアイデアのようだが、本読みには普通のことらしい。

  寒き日を書もてはひる厠かな   正岡子規 [2]  

 本好きの娘が、小学校の高学年になった頃、異常に長風呂になったことがある。私と一緒に風呂に入ることを拒否し始めた頃の話である。それなりの年齢になって、体を磨くことに執着し始めたのではないかと疑っていたのだが、長風呂の原因は読書だった。風呂に本を持ち込んで、読んでいたのである。
 第三の書斎は、娘に教えられて、風呂の中ということになった。娘がそんなことをするまでは、風呂で本を読むことなど、思いもしなかったのである。風呂の中というのは、意外に集中して本が読めることに気付くことになった。したがって、ここではどちらかと言えば七面倒くさいたぐいの本が主として対象となる。
 ただし、この第三書斎は欠点が多い。ここを読書の場にし始めた頃、ときどき妻が「だいじょうぶ?」といって覗きに来る。酒好きの私には入浴時が危険な時間帯である、と妻は信じて疑わないのである。私が風呂で倒れることをいつも心配しているらしい。これが第一の欠点。
 第二の欠点は、借用本は読めないことである。風呂というのは、どちらかと言えばリラックスできて快適な場所であって、居眠りにもふさわしい場所でもある。入浴時の読書と居眠りは両立しない。本がズボッと風呂に入ってしまうのである。たいていの場合は、ガクッとなった瞬間に目覚めるので、本の下部、数センチが濡れることになる。
 第三の欠点は、寒い時期に起きる。体を洗って石けんを洗い流すときにはシャワーを使用する。そのときに、本を浴室の中のどこにおいても、シャワーの飛沫がかかってしまう。そこで、体を洗う前に本を脱衣場に出すのであるが、冬場にはそのときに体が冷えてしまうし、浴室の温度も下がってしまう。そこで浴槽に沈んで体を温め直すのだが、体を温める時間こそ本を読む時間なので、何かしら損をした気分になるのである。

 ちなみに、2010年11月24日現在、3つの書斎で読んでいる本は次のようなものである。第1書斎(居間):吉本隆明「超戦争論」下巻、第2書斎(トイレ):「寺山修司俳句全集 全一巻」、第3書斎(浴室):ジル・ドゥルーズ+フェリックス・ガタリ「アンチ・オイデプス 資本主義と分裂症」下巻。

 

[1] 居間と言っても当時は囲炉裏端のことである。私は横座(主座)に坐り、母は嬶(かか)座に坐ってなりわいの和裁をしている。客座には小学時代は「ニコ」という二毛猫が寝ていて、中学~高校の時は「クロ」という文字どおりの黒犬が寝ていた。
[2] 『子規句集』高浜虚子編(岩波文庫 2001年、ebookjapan電子書籍版) p. 178。

 

【ホームページを閉じるにあたり、2010年11月24日にHPに掲載したものを転載した

 

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