かわたれどきの頁繰り

読書の時間はたいてい明け方の3時から6時頃。読んだ本の印象メモ、展覧会の記憶、など。

『メアリー・カサット展』 横浜美術館

2016年07月08日 | 展覧会

【2016年6月28日】

 メアリー・カサット、どこかで聞いたような画家の名前だが判然としない。アメリカ生まれの印象派の画家ということに惹かれて横浜まで出かけた。
 仙台から出ていくと東京を越えるというのは心理的に微妙なバリアがある。上野で乗り換え、東京で乗り換えるというずっと若いころの記憶が身に染みているらしい。それでも、二度目の横浜美術館である。一度目はJRを桜木町で降りて美術館まで歩いたが、今回は横浜でみなとみらい線の乗り換えるとずっと便利だという知恵もついた。


《バルコニーにて》1873年、油彩/カンヴァス、101.0×54.6cm、
フィラデルフィア美術館 (図録 [1]、p. 27)。

 会場に入って最初に眼に映ったのが《バルコニーにて》という作品で少し驚いた。印象派だというのに、半年ほど前の『プラド美術館展』 [2] の会場に入ったような印象だ。
 作品解説には、カサットは6ヶ月間スペイン、セビーリャに滞在し、プラド美術館を訪れた際にムリーリョの絵画に魅了されたと記されている(図録、p. 26)。『プラド美術館展』ではムリーリョ作品は宗教画ばかりで、風俗画に近い《バルコニーにて》とは主題が大きく異なっているが、人物も描法もスペイン画の息吹を強く感じる。
 画家が初期から盛期、晩期へと大きく変容を遂げるのは個展ではしばしば見られることだがが、《バルコニーにて》を見て、印象派の画家、メアリー・カサットへの期待感の質が微妙に変化したのは確かだ。


《桟敷席にて》1878年、油彩/カンヴァス、81.3×66.0cm、
ボストン美術館 (p. 43)。

 《桟敷席にて》は、「印象派との出会い」と題されたコーナーに展示されていた作品である。この絵を見た瞬間に感じたのは、ここにはえエドゥアール・マネがいるということだった。その場ではどこがどんな風にマネなのかまったく思い浮かばなかったのだが、帰宅してマネの画集を引っ張り出して頁を繰ったら、《黒い帽子のベルト・モリゾ》に描かれた肖像画の婦人(モリゾ)とオペラグラスを持つ婦人が似ているのだった。あるいは、《フォリ・ベルジェールの酒場の女》の黒い帽子を被った女性にも似ている。
 解説には《桟敷席にて》は《オペラ座の黒衣の婦人》と題されることもあったと記されている(図録、p. 42)が、決して服装が似ているというだけではない。女性の描き方が似ていると思うのである。ミシェル・フーコーがエドゥアール・マネを「クヮトロチェント以来の西洋絵画において基礎をなしていたもののすべてをひっくり返し」、「二十世紀絵画の始まりの一人」 [3] と評した際に取り上げた《給仕する女》や《フォリ・ベルジェールのバー》に描かれた女性(けっして黒い帽子は被っていない)にも共通した印象がある。


《髪を結う若い娘(No. 2)》1889年頃、ドライポイント(3/3ステート)、
25.8×18.3cm、アメリカ議会図書館 (p. 55)。

 カサット作品には圧倒的に女性像が多いが、《髪を結う若い娘(No. 2)》は素描に近い小品のドライポイントの作品である。あらゆる装飾を外して純粋に髪を結う仕草、上半身の姿態のみを描いていて、とても好もしい作品になっている(素描好きの私にとってという意味だが)。
 髪を結うという動きをする肉体の美しさという一点のみを抜き出して描かれ、それ以外は空白として残されている。その何もない空白こそがその作品が生み出すものの余剰と思われ、私のような受け手の情感を豊かにしてくれるような気がするのである。


【左】《化粧台の前のデニス》1908-09年頃、油彩/カンヴァス、83.5×68.9cm、
メトロポリタン美術館 (p. 87)。

【右】喜多川歌麿《高嶋おひさ 合わせ鏡》1795年頃、木版、34.9×25.1cm、
メトロポリタン美術館 (p. 101)。

 「新しい表現、新しい女性」というコーナーに「ジャポニズム」という小コーナーが含まれていて、そこに展示されていた《湯あみ(たらい)》という作品を見て、メアリー・カサット作品を見たことがあったという事実をやっと思い出した。『ボストン美術館 華麗なるジャポニスム展』(2014年6月、世田谷美術館)で《湯あみ》として展示され、喜多川歌麿の錦絵《(母子図 たらい遊)》から主題や構図をとっていると紹介されていた作品 [4] だった。
 《化粧台の前のデニス》もまた、喜多川歌麿の《高嶋おひさ 合わせ鏡》と同じ主題、似た構図の作品であるが、扇子や和服を配してジャポニズムだと称する作品に比べれば、主題も構図もとても好もしいカサット作品そのものになりえている。


【左】ベルト・モリゾ《バラ色の服の少女》1888年、パステル/カンヴァス、81.5×51.3cm、
東京富士美術館 (p. 81)。

【右】マリー・ブラックモン《お茶の時間》1880年、油彩/カンヴァス、81.5×61.5cm、
プティ・パレ美術館 (p. 82)。

 上に挙げた《桟敷席にて》に描かれた婦人がマネの描いたベルト・モリゾ像に似ていると書いたが、そのモリゾ作品が同時代の女性画家に一人として《バラ色の服の少女》など数点展示されていた。
 《バラ色の服の少女》は、モリゾ作品らしくとても柔らかで淡々しい印象の作品だが、ブラックモンの作品は点描ながら主題がくっきりと描かれている。暗い木々を背景とした女性の淡いピンク色の顔が印象的な作品である。東洋人である私にはいくぶんドキッとするような印象である。


《果実をとろうとする子ども》1893年、油彩/カンヴァス、100.3×65.4cm、
ヴァージニア美術館 (p. 107)。

 モリゾやブラックモンの女性像と対比させる作品として多くの母子像の中から《果実をとろうとする子ども》を選んでみた(母親の衣服がモリゾ作品を思わせ、濃色でしっかりと描かれた背景がブラックモン作品を思わせるという理由だけだが)。
 西洋絵画では無数の聖母子像、聖マリアと幼子イエスが描かれてきた。例えば、最近開催された『ボッティチェリ展』(2016年1月) [5] では、あたかもフィリッポ・リッピ、サンドロ・ボッティチェリ、フィリピーノ・リッピの聖母子像の競作展の趣ですらあった。カサットの母子像は、そのような聖母子を描いた絵画の系譜につながるものだろう。聖母子像が多く描かれ、受容されてきたのは、その聖性、宗教性によるばかりではなく、宗教性を離れてもそこに明確に描かれている母親と子の深い情愛や堅固な結びつきへの強いシンパシーが生まれるために違いない。
 《果実をとろうとする子ども》は、たとえばグエルチーノの《聖母子と雀》 [6] のように母子そろってある対象を見つめるというしばしば見られる構図がとられている。この構図は、世界に目覚め、成長していく子とそれに寄り添う母親の姿が象徴されているだろう。


《母の愛撫》1896年頃、油彩/カンヴァス、38.1×54.0cm、
フィラデルフィア美術館 (p. 119)。

 カサットの母子像作品群の中で、私にとってもっとも印象的だったのは《母の愛撫》だった。子を抱く母の左手や子の腕をつかむ右手の力強さも印象的だが、頬に触って母親の実在を確かめようとしているかのような子の左手、少し反身になって母親の顔全体をしっかりと見定めようとしているかのような子の表情もまた強い印象を与える。
 頬に触れる幼子の柔らかな掌の感触、それに加えて、掌に伝わってくる母親の頬の暖かい感触も同時に見る者に喚起させるような絵である。私の感情は、母親の頬の皮膚感覚と、子の掌の温感とで多元的に構造化されているような美しい錯覚を与えてくれる絵である。

[1] 『メアリー・カサット展』図録(以下、『図録』)(NHK、NHKプロモーション、2016年)。
[2] 『プラド美術館展――スペイン宮廷 美への情熱』(読売新聞東京本社、2015年)
[3] ミシェル・フーコー『マネの絵画』(阿部崇訳)(筑摩書房、2006年)
[4] 『ボストン美術館 華麗なるジャポニスム展――印象派を魅了した日本の美』(NHK、NHKプロモーション、2014年)

[5] 『ボッティチェリ展』(朝日新聞社、2016年)
[6] 『グエルチーノ展 ―よみがえるバロックの画家』(TBSテレビ、2015年)



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