かわたれどきの頁繰り

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【書評】小林敏明『風景の無意識――C・D・フリードリッヒ論』(作品社、2014年) 【2】

2015年06月04日 | 読書

【続き】

 


《夏》1807年頃、油彩…カンバス…71.4×103.6cm、
ミュンヘン、ノイエ・ピナコテーク (画集 p. 18)。


《グライスヴァルトの草原》1820-22年頃、油彩…カンバス…34.5×48.3cm、
ハンブルグ、美術館 (画集 p. 18)。

 ドイツ・ロマンティクの風景画には「山頂からの眺望と地平線を意識したパノラマ的絵画作品が数多く描かれる」 (p. 205) のだが、フリードリッヒの絵にはその風景を眺めているであろう人物が後ろ向きで小さく描かれることが多い。それは絵を見る者の視点をその人物の位置に誘導する効果があると評されている。
 著者は、パノラマ的な風景の中に佇む人物によってもたらされる効果を「パノラマ効果」と呼び、次のように説明する。

自然に囲まれている状態とは、とりもなおさず社会や人間関係から離れるということである。つまり自然の真っ只中で人は自動的に孤立する。そうすると、この孤立が外へのまなざしを内に反転させるという現象が生じる。広大な自然を前にしたとき、それを見る者は同時に自分自身をも、というか自分自身のみを見るのである。こうしていわゆる「内省」とか「反省」と呼ばれるものが自然観察の対現象のようにして生じてくる。ただし、これにはひとつの条件がなければならない。それは離れる「社会や人間間係」がすでに自然と明確なコントラストをなすほどに発展していなければならないということである。 (pp. 208-9)

 それは、「自然の中に一人立って自らの内面を眺める孤独な近代人の姿」 (p. 210) そのものである。フィヒテはそのような自らの内面を眺める自我を「何ものにも媒介されない最初の明晰判明な「直接的認識」」をもつことと「自分自身を見る、または自分自身のことを考える「反省」」 (p. 217) することの両面で捕らえている。シュレーゲルやノヴァーリスなどの初期ロマンティクの人々はフィヒテの哲学を熱狂的に迎え入れたものの、「反省」する自我という点においてフィヒテとは異なっていた。その点を著者は、ベンヤミンの言葉を引用して説明している。

 ロマンティクの思惟は存在と措定を反省において揚棄する。ロマンティクの人々は現象としての、たんなる自己自身を考えることSich-Selbst-Denkenから出発する。これはすべてに当てはまる。なぜならすべては自己〔自体〕Selbstだからである。フィヒテにとっては自己Selbstは自我Ichにのみ属する。つまり反省はもっぱら措定に相関するものとしてのみ存在するのである。フィヒテにとって意識とは「自我Ich」であり、ロマンティクの人々にとっては「自己selbst」である。言い換えれば、フィヒテにあっては反省は自我に、ロマンティクの人々にあってはたんなる思惟に関わっており、まさにこの後者の関係を通して(略)独特なロマンティクの反省概念が構成されることになるのである。(Benjamin: Der Begriff der Kunstkritik in der deutschen Romantik, S.29)  (p. 218-9)

ベンヤミンによれば、この自我のもとに展開される無限の反省的思惟の結果がロマンティクにとっての「小説Roman」なのであり、さらにそれを概念化するのが「批評」だということになるが、まさにそれこそロマンティクの人たち自身が言う「ポエジー〔詩情〕」にほかならない。またシュレーゲルはこの無限のポエジーの広がりを「累乗化Potenzieren」と呼び、ノヴァーリスはさらに象徴的に「ロマン化Romantisieren」と呼んだのであったが、それはまた奥深い自我の「内面」への旅立ちでもあった。 (p. 220)

 おそらく、このあたりのことが、私(たち)が若い頃に持ったドイツ・ロマンティクの印象を形作り、次第にドイツロマン派から離れてしまった所以であったと思う。正直に言えば、「ポエジー〔詩情〕」で括ってしまう芸術的感情や思念が疎ましかったのだ。政治的な闘争が激しかった時代に、ポエジーなどと口走ることが恥ずかしかったということもあった。私的なことはさておき前に進もう。
 「奥深い自我の「内面」への旅立ち」によって、「フリードリッヒの風景はたんなる外的自然の模写ではなく、画家の内的な心象風景、そう言ってよければ、内的自然の表現でもあるということにほかならない」 (p. 221) と著者は語る。自然の風景の美しさではなく、コラージュ風に再構成された創作された風景である。私が、フリードリッヒを初めとするドイツ・ロマンティクの絵画につぎ込まれた過剰な感情を見てしまうのは、おそらくそのせいである。それがたとえ宗教的感情に溢れ、自然の「崇高」の表現だとしても、である。

見られるように、ノヴァーリスやシュレーゲルの「内面」にはありとあらゆるものが 「ポエジー」の名のもとに取り入れられていた。なかでもわれわれの目を引くのが神話、宗教、メルヒェンにもつながる夢やファンタジーである。それはひとつ 狂えば幻覚や妄想にもなりかねない反理性的な存在である。別の言い方をすれば、それは合理を目指す自我の内面に宿る反合理的な「我ならぬ我」であり、自我 が自然と対立するものであるなら、それはまた「自我の中の自然」にほかならない。後の言葉で言えば、意識の奥に位置する「無意識」である。  (p. 228) 

 著者は、この「内面」と「無意識」にドイツ・ロマンティクのもっとも特徴的な心性を見ているように思う。それは一見前近代的な意識の残差のように見える。しかし、著者によれば、近代科学のような近代性によって見えにくくなった人間の内面に光を当てていると見なすことができると主張する。「「神性」といった言葉もたんなる過去の神学的名残りというより、ドミナントな「近代」に対抗する「別の近代」の代名詞」だと擁護したうえで、次のように評している。

ロマンティクはたんに「非科学的」なのではない。そうではなく、あくまで「科学的であること」との対質において姿を現すオールターナティヴな運動であり、その意味でむしろ近代の一部なのである。ゲーテの色彩論、シェリングの自然哲学、カールスの病理学はいずれも当時の先端科学の成果を意識したところに生み出されたものである。 (p. 239-40)


《朝日の中の村の風景》1822年頃、油彩…カンバス…55×71cm、
西ベルリン、国立絵画館 (画集 p. 18)。


《大狩猟場》1831-32年頃、油彩…カンバス…73.5×102.5cm、
ドレースデン、国立美術館 (画集 p. 19)。

 ドイツ・ロマンティクの熱狂がドイツを席巻していた時代、ドイツにはネイションとしての統一国家は成立していなかった。それだけいっそう人々は自分たちの国をもとめていた。その「家郷喪失(ハイマート・ロージッヒカイト)」の意識は、「理想化された中世への憧れや廃墟への偏愛」や「あるときは古代ゲルマンであり、あるときは古代ギリシア」 (p. 275-6) への憧憬として表象された。フリードリッヒもまた、新石器時代の遺跡を主題とした《雪の中の石塚》や《昔の英雄たちの墓標》などを描いて「民族の起源への関心」 (p. 243) を強く示していた。
 自分たちの国を希求する人々の思いは「自由・平等・博愛」を標榜するフランス革命の精神に大いに鼓舞されたであろうし、ナポレオンは英雄として崇められていたであろう。しかし、1806年にナポレオンがドイツに侵攻して事態は大きく変わった。占領下のベルリンにおいて一般大衆に向けてかの有名なフィヒテの『ドイツ国民に告ぐ』と題する講演が行われたのであった。

 かくしてフィヒテにとってドイツ人こそが「民族」と呼ぶに値する「原民族」として、唯一共和国の憲法にふさわしいネイションでもあると宣言され、それがそのまま「祖国愛」に直結されていく。「民族」とは何かと問うこと、それはとりもなおさず「祖国愛」とは何かと問うことと同じだとして、こう主張される。

これまでのわれわれの考察の進行が正しいとすれば、同時に次のことが明らかになるはずである。すなわち、ドイツ人、しかも恣意的な決まりの中で死に絶えた人間ではなく、根源的なドイツ人のみが真に民族をもち、それに依拠する資格をもっているのであり、さらにはまたこのドイツ人にのみ自らのネイションに対する本来の理性に適った愛をもつ能力が備わっているのである。(Fichte: Reden an die deutsche Nation, S.127 )  (p. 260)

 著者は、「自由と祖国の独立」を訴えて運動を起こしたブルシェンシャフトという学生運動団体を取り上げている。自由を求める彼らの運動は、新しい統一国家としてのドイツを求める運動であって、「つまり自由を前提にしたネイションへの希求である。このブルシェンシャフトに内在していたナショナリズムが後の歴史でプロイセンによるドイツ統一(ドイツ帝国)やナチの運動(第三帝国)に糾合されていく歴史」 (p. 251) に連続していくのである。
 フィヒテもまた「世界や人類という普遍性に行き着く前に、いやでもその中間にある共同体ないしネイションという問題に突き当たらざるをえなかった」のであり、「本意とはまったく裏腹に、ずっと後のナチの歪められた世界主義となって実現してしまうという歴史の皮肉をわれわれは知っている」  (pp. 260-1) と著者は記す。

 最終章は「ふたたびフロイトとハイデッガーへ」として、序章を受けている。

 象徴的なのは、二人における「Heim」という言葉へのこだわりである。とりわけわれわれの関心を刺激してやまないのは、「家」「住処」を意味するこの言葉の近親概念たる「Heimat (家郷)」に始まって、さらにはそれらから派生した「heimlich (内々に、ひそかな)」や「unheimlich(不気味な)」といった形容詞を哲学や病理学の概念にまで高めようとする試みに掛かっているバイアスである。ハイデッガーはそこに「存在」を、フロイトは「無意識」を見ようとしたのであった。近代以降の思想史ではこうした概念に着眼することはかなり特異な出来事であり、この彼らの独創的な着想はおそらくロマンティクに見られるようなドイツ語圏特有の精神文化の風土を離れてはありえなかっただろう。 (p. 284)

 ここでは、ハイデッガーが1934-35年に行ったヘルダーリンの詩作についての講義録が取り上げられている。

  ハイデッガーによれば、われわれ人間は個人として限られた時間を生きることを知っている。しかし、民族の時間を知ることはない。へルダーリンが「われわ れ」「彼ら」と言うとき、それはわれわれに隠されたままの「本来的な歴史的時間」「われわれの民族の世界時間」「根源的な時間」すなわち優れた意味での 「存在」を指し示している。そしてこの歴史的時間がほかならぬ詩作から生まれるとされる。つまり詩の中にこそ民族が宿っているということなのだ。 (p. 288)

 そして、ハイデッガーの「「存在」にアクセントを置いた特異な読解を裏返せば、ハイデッガーの存在論がそれだけへルダーリンの詩作に近づいているということでもあるわけだが、これが著者のいうハイデッガーにおける自覚されたロマンティクの影の一端」 (p. 292) だとしている。
 著者は、このようにハイデッガーとフロイトの二人とドイツ・ロマンティクに通底する近代を見たうえで、「ロマンティクはあくまで近代の現象である」 (p. 308) と主張する。しかし、「ロマンティクには漠然とした理念のほかに一貫した政治的スタンスというのは結局成立しえなかった」 (pp. 311-2) のであり、「その「場当たり主義」を逆手に取られて現実の暴力に抵抗なく籠絡されてしまったとき、あのような悲劇に加担してしまった」 (pp. 313-4) のである。

 本書は、ハイデッガーとフロイトの視座から一世紀前のドイツ・ロマンティクを読み解き、そこからふたたび一世紀後に引き戻り、ハイデッガーとフロイトに流れ込んでいるロマンティクの影について論じている。 したがって、本書には19世紀初頭から20世紀初頭までのドイツ精神の歴史的俯瞰が与えられていると言ってもいいだろう。
 著者は、最後の章でヘルダーリンの詩作についてのハイデッガーの講義録を取り上げて論じているが、そのハイデッガーの講義から70年の後、ジョルジョ・アガンベンはハイデッガーについて次のように述べている。

 ハイデガーは、ポリス――隠匿性と非隠匿性、人間の動物性と人間性のあいだの葛藤を統べる天蓋――が、いまだなお実践可能な場であると、善意から信じることのできた、おそらくは最後の哲学者だった。ポリスという危険な場に身を置くことで、いまだなお人々――ひとつの人民(ポポロ)〔民族〕――は、みずからの歴史的な宿命を見出すことができるというわけだ。つまり、疑念や齟齬もないわけではないが、すくなくともある程度までは、ハイデガーは人類学機械が、人間と動物、開かれと開かれざるものとのあいだの闘争をたえず裁決し再編することによって、ひとつの人民にとつての歴史や命運をいまだなお生み出すことができると信じた最後の人物だったのである。 [2]

 一方、本書の著者は、上に引用したように、ハイデッガーがヘルダーリンの詩の中に「本来的な歴史的時間」、「われわれの民族の世界時間」、「根源的な時間」すなわち優れた意味での「存在」を見ていると指摘して、「そしてこの歴史的時間がほかならぬ詩作から生まれるとされる。つまり詩の中にこそ民族が宿っているということなのだ」と継いでいるのである。
 ところが、上記のように述べたアガンベンは、ハイデッガーが自分の誤りに気付いていたのではないかと指摘したうえで、本書で引用しているハイデッガーの講義録(Heidegger : Hölderlins Hymnen GermanienundDer Rhein”, GA 39)から次のような文章を引用している。

人民の歴史的実存の大いなる震撼の可能性は潰えてしまった。神殿も図像も衣装も、人民の歴史的召命を帯びて、これを新たな使命へと衝き動かすことは、もはやできない。 [3] 

 もちろん、アガンベンの関心はヘーゲル-コジェーヴ的な「歴史の終焉」後の世界や実際の歴史上の全体主義のことにある。とはいえ、アガンベンの言葉に誘われるように、現代からハイデッガーを経てドイツ・ロマンティクに突き抜けて行くような視座はないものかと思ったのである。
 本書は、フリードリッヒ論にとどまらず、総合的なドイツ・ロマンティク論であり、近代自我論ですらある。このような幅広い視座を横軸とすれば、縦軸である時間軸を伸ばすことは著しく仕事の困難さを増すことになるだろう。そう思いながらも、現代の視座からハイデッガー、フロイトを経てドイツ・ロマンティクまで描ききる才能を期待してしまうのである。絵を楽しみつつ、哲学も歴史も楽しめるという書籍はそうは見つからないのであるから。

 

[1] 『ドイツ・ロマン派画集(ドイツ・ロマン派全集 別巻)』(以下、画集)(国書刊行会、1985年)。
[2] ジョルジョ・アガンベン(岡田温司、多賀健太郎訳)『開かれ――人間と動物』(平凡社、2011年) p. 132。
[3] 同上、p. 133。


【書評】小林敏明『風景の無意識――C・D・フリードリッヒ論』(作品社、2014年) 【1】

2015年06月04日 | 読書

 

ロマン主義の無限憧憬は、遠い過去、遠隔の地方に関心を示す点に窺われる。ノヴァーリスによれば、距離をとることからすべてのものは詩的になり、すべてのものは浪漫的になる。魔術的な空想力は、過去においても未来においても、時間や空間や事実によって限界づけられることから自由である。したがって、ドイツ・ロマン主義には、さすらいの歌や彼方への憧れがきわめて多い。さらに種々の華やかな戦いにまつわる冒険、封建制や騎土道、恋愛歌謡、カトリック、神秘主義、十字軍、東方との接触による人間的地平の拡大を内容とする中世に対する偏愛を見出しても、われわれは驚かない。(ブランケナーゲル「ドイツ・ロマン主義の主要特徴」p.52) (本書、p. 37)

 

 魅力的な題名に惹かれて手に取ったが、もちろんドイツ・ロマン派の代表的な画家フリードリッヒを論じていることにも私の読書欲は刺激されたのである。ドイツ・ロマン派というのは幼い頃から私の周囲のいろいろなシークェンスで顔を出していたように思えて、どこか親しみや懐かしさを伴うのだが、かといって具体的にロマン派の何かを判然と思い出すわけでもない。カール・ブッセのような新ロマン派も渾然となっている記憶だと思うが、青年期になって雑多な本を読み出すと、ロマン派はどんどん遠くへ離れて行って、無縁になってしまった。
 私はフリードリッヒの画集を持っていないので、仙台市図書館から「ドイツ・ロマン派全集」の別巻である『ドイツ・ロマン派画集』 [1] を借り出してきた(『風景の無意識』ではフリードリッヒの絵が挿絵として引用されているが、ここでは可能な限り『ドイツ・ロマン派画集』から引用する)。

 本書はかなり意欲的な書物である。哲学の本であり、歴史の本であり、そして芸術に関する本である。序章では、「フロイトとハイデッガーをめぐる疑問」として、二人の思想の重要な概念である「不安」、「不気味さ」、「死を志向する存在」「死の欲動」、「無意識」を論じている。彼らによって相対化された「近代的自我」を、ドイツ・ロマン派の伝統的な宗教的感情や自然への畏怖的感情と近代の始まりにおける自我の葛藤(ないしは調和)を解明するための主要なキイとして、論が進められている。

 端的に言おう。これまで長々と説明してきたフロイトとハイデッガーの「啞然とするような」類似性、つまり「不安」「不気味なもの」「死への志向」「隠された本来性」「命名し難いエス」といったものに、このハイデッガーの抱く原風景のイメージを重ね合わすとき、著者の想像力を鼓舞してやまないのは、一八〇〇年頃に隆盛を見た、あの「ドイツ・ロマンティク(ロマン主義)である。それは文字通り「風景」としても描き出された芸術思想史上の一大エポックであった。近代的自我や理性的言語に対する懐疑とその反動としての美的衝撃ないし戦慄的美への傾倒は、ニーチェを経て、やがて表現主義において爆発的に顕在化するように、確かに一九〇〇年を前後するドイツ語圏の芸術、思想領域における著しい潮流を成している。フロイトやハイデッガーがそうした流れの中に位置するのは言うまでもない。だが、こうした「近代に反逆する近代」はドイツの場合、すでにそれを一世紀ほど遡った時代、すなわちロマンティクの時代に始まっていたと見ることができるのではないか、というのが本書の出発点である。  (pp. 36-7)

 ヨーロッパ絵画おいて風景画というカテゴリーが歴史的に確立するのは、けっして古い時代ではない。ギリシア(ローマ)神話やキリスト教の逸話は西洋絵画の主要な主題で、たしかにそこには背景としての風景はずっと描かれてきた。しかし、著者も指摘するように (p. 73)、風景自体が主題として描かれるようになるのはニコラ・プッサンやロイスダールが現われる17世紀になってからである。
 19世紀初頭にドイツ・ロマン派(著者は「ドイツ・ロマンティク」と記している)の風景画が現われるが、それはプッサンやロイスダールの風景画とは大きく異なるものであった。


《バルト海の十字架》1815年頃、油彩…カンバス…45×33.5cm、
西ベルリン、シャルロッテンブルグ宮美術館 (画集 p. 10)。


《リーゼンゲベルゲの朝》1810-11年、油彩…カンバス…108×170cm、
西ベルリン、シャルロッテンブルグ宮美術館 (図2、画集 p. 11)。

 一八二一年のベルリンでの展覧会で一躍芸術家仲間の注目を浴び、時のプロイセン国王フリードリッヒ・ヴィルヘルム三世とその皇太子の関心を引くことにもなった一連の作品の一つである「リーゼンゲビルゲの朝」(図2)は、フリードリッヒの山岳風絵画の特徴をもっともよく表わしている。画面の中央を左右に横切る水平線を境界にして、朝の陽光に輝く天空と、淡い逆光に浮かび上がる大地が対比的に描かれ、見渡すかぎりの広大なパノラマを展開している。手前のどっしりとした質感をもった岩塊の頂上には小さな磔刑のキリストが置かれ、それだけが水平線を超え、明るい天空の領域に突き出している。そしてその十字架の下には白装束の女性が岩塊を登ってきた若い男性の手を取って、さらに上へ登ろうとするのを助けている。この小さく描かれた天使のような女性は信仰ないし宗教のアレゴリー、男性はフリードリッヒ自身と思われる。こうした荘厳な風景の中に宗教的モチーフを織り込むこと、これはフリードリッヒ絵画の常套手段である。 (pp. 45-6)

 きわめて印象的な風景画であるが、フリードリッヒはけっして実在の風景を描いたわけではない。「異なった場所でスケッチされたもの」を「キャンバスの上でコラージュ風に再構成」したもので「風景全体のコンセプトはあくまでフリードリッヒ自身の創作」 (p. 46) なのである。その創作は、当然ながら「自然の対象はそれ自体がすでに聖なる創造の所産」 (p. 47) と考える画家の美意識を反映する。そして、それは現代を生きる私にとって自然への過剰な感情移入に見えるのだ。
 これは後世の評価にかかわることでもあるが、文学であれ、絵画であれ、こうした過剰な感情移入こそがドイツ・ロマンティクの特徴であると考えることができる。私が「過剰な感情移入」と評するものこそ、著者がフロイトやハイデッガーを援用しつつ解き明かそうとするドイツ・ロマンティクの精神性なのである。
 フリードリッヒの時代、自然は恐怖の対象から美の対象へと変わりつつあった。著者は、文学や絵画に描かれるアルプスを取り上げて、ニュートンなどによる近代自然科学の登場に見合った自然観の時代的変遷を明らかにしている。
 しかし、近代科学に見合った自然観とはいえ、上のフリードリッヒの絵にも見られるように、そこには科学的自然を越える過剰が存在する。著者が、「それは美しいとか綺麗といった平穏な感受性の枠を越えて、場合によっては恐怖や驚愕さえも誘発するような勇壮さや深遠さを湛えた独特な「美」の創出」 (p. 67) と評するものだ。

〔……〕ここでは新たに生まれつつあった近代科学の知見と宗教的信念が矛盾なく共存していると言ってもよいが、まさにそこにこの時代、この文化圏の大きな特徴があるのである。フリードリッヒと並んでドイツ・ロマンティクを代表する画家ルンゲの風景画観においても、別の形であるが、この近代と反近代の両義性が著しい。〔……〕自然現象の中に「自分たち自身」や「自分たちの本性や情熱」をみるという、いわば近代的な自己反省ないし内省という行為は、〔……〕さきに見たルソー以前にはありえなかった新しい事態である〔……〕。しかしルンゲにおいてこの新たなパースペクティヴは「深遠な宗教的神秘主義」と共存する。そしてそうした両義性に基いて、あの崇高を旨とする新たな美観が生まれ、それとともにまたあの直接ロマンティクにつながる山岳風景画が、まさにジュピターの頭から突如として立ち現われてきたのである (pp. 79-80)


《氷の海》1823-24年頃、油彩…カンバス…96.7×126.9cm、
ハンブルグ、美術館 (図11、画集 p. 23)。

 ドイツ・ロマンティクの自然観をフィヒテ、シェリング、ショーペンハウアーらの哲学から取り出して議論する第二章「産出する自然」も、フリードリッヒの絵画を取り上げることから始まる。たとえば《氷海》(画集では《氷の海》)については、シャルル・サラの的確な評を紹介している。

「氷海」は、一九世紀の初頭フリードリッヒによって創出されたロマン主義的で霊的な風景画の目的を模範的な形で体現している。几帳面なまでのリアリズムは、ここでは深遠な倫理と宗教的象徴を表現することに貢献している。この画家が綿密な人間描写や自然描写の背後に込めたモラルの教え。その筋書きは沈思に取ってかわられ、内に向かった絵はその観賞者にむしろ懐疑と内省を呼び起こし、ドイツ的世界観という概念を媒介してくれるのである。(シャルル・サラ、Sala: Caspar David Friedrich, S.21) (p. 86)

 つまり、「自然は解読されるべき「神の言葉」だった」 (p. 90) ということであろう。そのようなドイツ・ロマンティクの芸術家たちを捉えたのはフィヒテの自然論であった。フィヒテは、自然をNatura naturataとNatura naturansという対概念で説明する。

〔……〕しばしば「能産的自然」と訳されるNatura naturansはここでは自己原因としての神のことを指しており、けっして今日われわれが理解する自然を意味しているわけではないことに注意しなければならない。あえて言えば、今日の自然に当るものはそのNatura naturansの創造活動の結果として生み出される「所産的自然」たるNatura naturataの側に属すると言うことができよう。にもかかわらずここでこの創造する神がNaturaと言い換えられたことの意味は大きい。なぜなら、さきにも述べたnaturaの多義性に基いて、そこから自然そのものが自己産出的な働きをもつという着想が開かれてくるからである。むろん、そこにはあくまで神性が隈なく染み渡っている。 (p. 96)

〔……〕この神を内在させているすべての「事象の本性naturaの内には偶然的なものはなく、すべてはある特定の仕方で存在し働くよう、神的本性naturaの必然性から決められている」のである。 (p. 95)

 シェリングもまた「単なる所産としての自然natura naturataをわれわれは客体としての自然」と呼び、「産出性としての自然natura naturansをわれわれは主体としての自然」 (p. 98) と呼んでいると言う。ここで言う「主体」は近代的自我ではなく、自然の根源的な産出性を意味し、「宇宙霊/世界霊weltseele」と名指されたものに対応している。これはまた、その産出性により「生命の源泉」、「大いなる母」と形容されるものでもある。しかし、その本質(存在)は「あくまでそれ自身が「産出したもの」すなわち「所産」を介して「考えられる」だけ」 (p. 99) しかないものである(このあたりの議論に、私の若い頃に感じていたドイツ・ロマン派のフレーバーを感じることができる)。
 フィヒテ、シェリングに続いて取り上げられるのが「カントを継いで美と崇高を論じたショーペンハウアー」 (p. 114) の哲学である。

周知のように、ショーペンハウアーにとって自然とは、カントの不可知な「物自体」と等置された「意志」が「客体化」したものである。言い換えれば、まさに「意志と表象/としての世界」である。表現こそはちがえ、この発想法もやはりnatura naturansが産み出すnatura naturataという考えと基本的に同じである。だからこの自然においては、スピノザやシェリングにおいてと同じように、無機物から有機物にいたるまで同一の原理が働いていることになる。つまり無機と有機の相違はあくまで根源的で産出的な自然としての意志が客体化していく過程における段階的な相違にすぎない。要するに、自然はその合目的的な意志発現の結果なのである。そのように客体化され、産出された、われわれの目に触れられるnatura naturataとしての自然を直接対象とする芸術としてショーペンハウアーが挙げているのが造園と風景画である。 (pp. 114-5)

 著者は、ショーペンハウアーが風景とともに建築、廃墟、教会などに言及していることに触れたうえで、「ほかならぬこれらの対象はフリードリッヒをはじめとするロマンティク絵画の特徴をなすモティーフの一部である」 (p. 117) と指摘している。


《オーク林の僧院(楢林の中の大修道院)》1809-10年、油彩…カンバス…110.4×171cm、
西ベルリン、シャルロッテンブルグ宮美術館(図30、画集 p. 15)


《海辺の僧(僧侶)》1809-10年、油彩…カンバス…110×171.5cm、
西ベルリン、シャルロッテンブルグ宮美術館(図35、画集 p. 14)

 自然は神の産出物であり、人間は自然を通して自然を産出する存在(神)に近づくしかない。そのドイツ・ロマンティクの美学理念を特徴付けるものは「崇高」である。

図30「楢林の中の大修道院」は「海辺の僧侶」(第五章図35)とセットで描かれ、一八一〇年にベルリン・アカデミー展示会で披露された作品だが、このときプロイセンの皇太子の目にとまって帝室購人となり、一躍フリードリッヒの名声を高めた作品である。
 ここに描かれているのは、新月を頂いた薄明の空の下、楢林に囲まれてまだ闇の中にひっそりと姿を見せているゴシック大修道院の廃墟である。葬列とおぼしい僧たちの黒い影、見捨てられた墓標、葉を落とした楢の異様に歪んだ枝ぶりが霧がかった闇の不気味さをいっそう高めているが、こうした不気味さは「崇高」の理念とは折り合っても、いわゆる「美」のそれとは折り合ってはいない。つまり崇高とはたんに愛でられる美とちがって、何か不気味とか、場合によっては恐怖や不安といったネガティヴな感情とも一体となった特別な「美しさ」なのである。
〔……〕このように、夜、闇、月光、静寂、廃墟、これらは不安、不気味、場合によってはおどろおどろしさといった、ある意味でネガティヴな感情と一体となっているがゆえにこそ、それら固有の特別な美的効果を発揮するのである。そしてそのかぎりでまた夜や死を偏愛するロマンティク一般の理念とも一致したのであった。 (pp. 161-4)

 ここに、宗教的自然から近代自然科学の成立へ、あるいは近代的自我の形成が進みつつある時代の特徴があると、著者は言う。

つまり、自然が(自然)科学の対象として扱われるようになるにしたがって、その対象化された自然が同時に美の対象ともなっていったのである。この移行過程をさらに別様に表現するなら、自然の「脱魔術化」(ヴェーバー)を補うようにして「美学化」が進行したということでもある。「美学」はある面で「魔術(神)」を代償していったのである。その意味でこのパラダイム・チェンジを先取りするかのように、まず近代を先駆けた商業資本国家オランダに静物画と風景画が登場したことは絵画史上画期的かつ象徴な出来事だったと言うことができよう。 (pp. 165-6)

 ドイツ・ロマンティクはフランス革命から強い刺激を受けたのであるが、著者は、恐怖や不安を伴う「崇高」概念を説き明かすために、皮肉なことにフランス革命を全面的に否定した保守思想家エドモンド・バークの考えを援用している。

 話をバーク自身の恐怖/不安概念に戻せば、その崇高概念との関係は次のように説明される。われわれの心に強い印象をもたらすのは基本的に「自己維持self-preservation」と「社交society」の二つに関わってのことだが、なかでも崇高に関して大事なのは、病気や死といった苦ないし危険に反応する自己維持[的な本能]にもとづいて生ずる恐怖心である。だから、崇高は確かに最終的には美に似たプラスの快さをもたらすにもかかわらず、その快はたんに美しいものを見るときのような「快pleasure」とちがって、あくまで恐怖をはらむ快さ、すなわち「喜悦delight」であるという。 (pp. 168-9)

 そして、崇高と美の違いについてバークとカントの次のような語りを引いている。

崇高と美は互いに全く異なった原理にもとづいて成立しており従ってそれが惹き起す感動もまた互いに異なること、偉大はその基礎に恐怖を有し、この恐怖が柔らげられる時には心の中に私がかつて驚愕と呼んだ情緒を生ぜしめること、これに反して美は単なる積極的な快にもとづいており魂の中に愛と呼ばれる感情を生み出すものである… (エドマンド・バーク『崇高と美の観念の起原』p.173)   (p. 172)

雪を被った頂が雲にそびえる山岳の眺めは崇高であり、荒れ狂う嵐の叙述やミルトンの地獄の描写は喜びを引き起こすが、恐怖を伴っている。これに対し、豊かな花咲く草原、蛇行する小川を伴い、放牧の群れにおおわれた谷間の眺望、エリュシオンの叙述やホメロスによるヴィーナスの帯の描写もまた快適な感覚を引き起こすが、それは朗らかで、笑いかける。前者の印象がわれわれに対してふさわしい強度で生じうるためには、われわれは崇高の感情を持たなければならないし、後者を適切に享受するためには、美に対する感情を持たなければならない。神苑の高い楢の木と寂しい影は崇高であり、花壇、低い生け垣、ものの姿に刈り込まれた木々は美しい。夜は崇高であり、昼は美しい。(『カント全集』2、 p.324/5)  (p. 174)

崇高は感動させ、美は魅了する。(『カント全集』2、 p.325)

 カントにおいても「崇高のベースにバーク以来の「恐怖」が働いていることは確か」だと著者は述べているが、そのカント自身は中庸を重んじた哲学者らしく「崇高あるいは美がよく知られた中庸の度を越えると、ひとはこれをロマン的と呼びならわしている」(『カント全集』2、 p.332)  (p. 176) と否定的なのだが、著者はカントの時代からドイツ・ロマンティクの時代への間に「ロマン」概念のパラダイム・チェンジが起きたのだとする。
 カントは、「崇高」を「理性」に、「美」を「悟性」に対応させる。理性は無形式、無制限なので「崇高」は無制限に大きく、「「尊敬」が伴うと同時に、その大きさに圧倒されての「動揺」や「恐れ」が伴うことに」 (p. 180) なる。 

つまり、崇高の感情はたんに恐怖をもたらす自然対象から生じるのではなくて、まずそれに応ずる人間(主観)の構想力がその能力の限度を知らされるほどに刺激を受け、それを通してその恐るべき自然に抗することができるような自らの力が感じられるからこそ生じてくるというのである。つまりここで考えられている崇高は、対象のではなく、主観の側の崇高にほかならない。 (p. 182)

 カントの「崇高」は、見られる対象(自然)の側にあるのではなく、それを見る主観の側に成り立っているのだとして、著者はそれを「崇高のコペルニクス的転回」とよぶ。

 こうして崇高 に固有な、恐れつつ魅了されてしまうというアンビヴァレントな感情、バークの言葉で言えば、快と不快の共存たる「喜悦」が理論づけられるのだが、それとと もにカントはこうした共存が可能となる前提として、そこに「開化Kultur」すなわち「文化」が成立していなければならないと言う。一種の啓蒙主義の立 場である。これがなければ、人間の側に自然を凌駕する感情も生まれようがないからである。  (p. 183) 

 ショーペンハウアーもまた、カントと同じく「認識する純粋な主体」の働きを重要視する。それは、「恐怖や不安、矮小化や無化といった負の感情をもたらす〔……〕強大な対象が知覚されると、主体はそのことを認めつつも、〔……〕脅かされた自分の意志とそれの関わりから強引に身を引き離す〔……〕と、そこに純粋な認識が得られ、それによって意志に恐怖をもたらす対象も観想できるようになり、〔……〕崇高の感情が成立するという論理」で、「観照によって生み出される崇高」 (pp. 189-90) なのである。

崇高の対象となるものとして、ショーペンハウアーはこのほかにも荘厳な建築物、ピラミッド、廃墟を挙げ、さらにはカントに迎合するように、人間およびその行為の偉人さをも挙げてはいるが、記述は圧倒的に自然の景観に傾いており、その分ロマンティクの風景画に接近している。言い換えれば、この頃には、ここでも挙げられているような高山、岩塊、滝、夜、嵐といった表象がロマンティクの代表的イメージとなって共有されていたと同時に、初期ロマンティクの画家たちが描いてきた表象がようやく美的形而上学にまで登りつめたということでもある。 (p. 191)

 崇高を論じる著者は、さらにシェリングやシラーのほかにドイツ・ロマンティクの芸術家たちの言葉も取り上げているが、ずっと後年のアドルノの「崇高が芸術に侵人するに当たっては、かつて啓蒙の自然概念が寄与したのであった。〔……〕荒々しい自然を解き放つことは主体の解放と一体となり、それゆえまた精神の自覚とも一体だったのである」(Adorno: Ästhetische Theorie, S.292)  (p. 197) という時代認識を引用したうえで、次のような述べている。

〔……〕崇高はたしかに一面で近代的な、主体と自然の解放を象徴するが、他方でその解放にともなって見捨てられていく非合理・反合理の、あるいは陽の目を浴びるロゴスの陰に置かれるパトスの代理表象であり、さらにはまた次第に光彩を失っていく神の座を埋めるための匿名の代理超越とでも言うベきものでもある (p. 197-8)

【続く】