三島憲一、鈴木直、大貫敦子の共訳になる本書は三部構成で、第一部は「ポートレート」でローティ、デリダ、ドゥウォーキンなど交流のあった思想家の受賞への祝辞や追悼文を集めてある。第二部は「ああ、ヨーロッパよ」と題し、本書のタイトルとなったヨーロッパ統合危機への憂慮と渇仰の論考が収められている。第三部は「公共圏における理性のあり方」で、ハーバーマスのハーバーマスたるべき「熟議的民主主義」への熱意が語られている二つの論考からなる。最後に「付論」として、あらためてヨーロッパ統合への希望が語られている。
《デリダとドゥウォーキン》
讃辞や弔辞に言を差しはさむのはいかがなものかと思い、第一部には触れないでおくつもりだったが、ジャック・デリダとハーバーマスは面白い対比だし、ロナルド・ドゥウォーキンいう名前は初見だったのでメモしておく。
ユルゲン・ハーバーマスとジャック・デリダを対照的に眺めたのは、ジョヴァンナ・ボッラドリ編著の『テロルの時代と哲学の使命』 [1] を読んだときである。「ポストモダン」思想の代表選手の一人であるデリダと「ポストモダン」思想批判を展開するハーバーマスが、〈9・11〉を直接経験したボッラドリの長時間のインタビューに答えた本である。この本の「訳者あとがき」で藤本一勇がハーバーマスとデリダについて書いていることを紹介しておく。
アメリカ「勝ち組」連合によるネオリベラル=ポリス主義政治が、「地球村」を露骨な暴力でもって「改造」しようとしている現在、「力が正義」の覇権主義的発想とは異なる、「ヨーロッパ」的な「正当性」理念の再構築が急務であり、そこに「新しい啓蒙」を軸とするハーバーマスとデリダの「連帯」の意味合いもある。ハーバーマスの「近代の未完のプロジェクト」と、デリダの(こう言えるなら)「ポストモダンの未完のプロジェクト」を接木することは、「脱構築」の発想から見てそれほど突飛なものではない……。 [2]
10年も前に読んだ本で、ほとんど記憶が不鮮明だが、これを機会にもう一度読み直しておこうと思う。
さて本書では、デリダとの関係についてハーバーマスは次のように記している。
ちなみに、あらゆる政治的なものを超えて私とデリダを結びつけているのは、カントのような著作家に対する哲学的な関係です。もっとも、ほぼ同世代に属しながら個人史的な背景をまったく異にするわれわれ二人を分断しているものもあります。それは後期のハイデガーです。デリダはレヴィナスに見られるようなユダヤ教的影響を受けた視点からハイデガーの思想を受容しています。これに対して私が出会うのは、一九三三年に、そしてなによりも一九四五年以降に、市民として失格した哲学者としてのハイデガーです。しかし市民としてだけではなく哲学者としてもまた、ハイデガーは、私には胡散臭く思えます。なぜなら彼は三〇年代にニーチェを、当時の流行であった新異教者としての姿そのままに受容したからです。デリダは「想起」に一神教の伝統の精神に由来する解釈を付与していますが、私の見方は異なります。ハイデガーの粗雑な「存在思想」は、ヤスパースが軸の時代と呼んだ、あの人類の意識史上の画期をなす敷居を取り払うものだと私は見ています。シナイ山で覚醒を呼びかける預言者の言葉やソクラテスのような人物の哲学的啓蒙など、さまざまな仕方で特徴づけられるあの不連続なエポックに対してハイデガーは裏切り行為をなしたというのが私の理解です。
デリダと私が互いに、それぞれに異なるわれわれの動機の背景を理解しさえすれば、解釈の違いがそのまま事柄における違いとなる必要はありません。いずれにしても「休戦」、あるいは「和解」などというのは、われわれの間の親密でオープンな交流にとって適切な表現ではないでしょう。 (p. 68-9)
正直に言えば、真摯に〈ドイツ〉問題に向き合ってきたヤスパースやハーバーマスの篤実さに私はとても好感を持っている。一方、一群のフランス・ポストモダン思想家たちの過剰な装飾がちりばめられているような文章に辟易しながらもその思想性にはとても惹かれている。ただ、そのどちらに対してもガヤトリ・スピヴァクのように「ヨーロッパ中心主義」ときつく批判を浴びせる(彼女によればデリダだけは違うらしい)ことにも、アジア人たる私は同意しているのである。
初見の名前だと上記したロナルド・ドゥウォーキン(1931-2013)は、アメリカ合州国の法哲学者だという。ハーバーマスは、ジョン・ロールズと比較しながら次のように評している。
このようにドゥウォーキンは、一人ひとりの社会市民の倫理的自由を、国家公民の道徳的=政治的自由よりも上位に置くわけですが、ここから、分配の正義に関するロールズとドゥウォーキンの構想に興味深い違いが生じます。社会民主主義的なジョン・ロールズは、資本主義社会の中で正当と見なしうる社会的不平等とは、ハンディキャップを負っている階級でさえも自分自身の利害からあえて引きうけるであろう程度のものに限られると考えます。これに対してドゥウォーキンは彼の野心的著作『至高の徳――平等の理論と実践』の中で分配の正義についての社会リベラル的理論を展開しています。そこでは私的人格の個人的自由が中心に置かれているため、自分の送りたいと思っている人生の選択についてのリスクは、それぞれが自分自身で負うことになります。すべての人が出発点において同じ資源を利用できるようにしたうえで、一種のオークションを通じて、コストのより大きい人生設計とより小さい人生設計の間で落とし听を見つけ出す。それによって機会の平等が保証されるというわけです。ただし資源の平等という観点から、環境や遺伝素質によって個人が負わされている、自分のせいではないマイナスやハンディキャップも補償される必要があります。この高度に洗練された実験ルールは専門家の間で高い評価を受けました。 (p. 83)
現状のヨーロッパ型民主主義政治体制を原理的には容認した上で、「熟議的民主主義」を発展させようと考えるハーバーマスにとって、ドゥウォーキン的リベラリズムは重要な思想ではあるだろう。しかし私は、このようなアメリカン・リベラリズムもまた現代社会の(新自由主義的政治・経済による)格差拡大を積極的に下支えしてきた思想の一つだと考えている。せっかく一人の著名な思想家(私は知らなかったが)を知ったのだが、さしあたって読む予定には入っていない。
《ヨーロッパ統合》
第一次、第二次世界大戦の絶対的な当事国に生まれたハーバーマスにとってヨーロッパのトランスナショナルな統合への渇仰は、次のようなやや感情的な記述にも見て取れる。
まさに運命の日々である。西洋は、〔二〇一〇年〕五月八日に、ロシアでは五月九日にナチス・ドイツに対する戦勝記念日を祝っていた。ドイツでも五月八日を形容する正式の表現は、「解放の日」である。今年は、対独連合国の軍隊が(ポーランド部隊も加わって)一緒に戦勝記念のパレードを催した。モスクワの赤の広場の祝典では、アンゲラ・メルケル首相がプーチンのすぐ横に立っていた。彼女の存在は、「新しい」ドイツの精神を強調するものだった。戦後ドイツを生きた数世代は、自分たちの解放のロシアも参加していたことを、しかも連合軍の中で最大の犠牲を払ったことを、忘れていないことを示したのである。 (p. 243)
しかし、ハーバーマスは、「現在私を不安にさせているのは、ヨーロッパの未来です」と明言し、「何を最終目標としてヨーロッパ統合がなされるのか」を決めることができなければ「ヨーロッパの将来はネオリベラル派の意に即した形」 (p. 100) で進められであろうと深く憂慮して、次のように問題点を指摘している。
現在火急の三つの問題を挙げますが、それは、ただ一つの問題に絡んでいます。それは欧州連合の行動力の欠如という問題です。
(1)……つまり政治的構築力を超国家的なレベルで再獲得するという方法です。各国の税制が同じ方向に収斂しなければ、また財政と社会政策とを、中期的な展望にたって調和させていかなければ、ヨーロッパの社会モデルの運命を他者の手に委ねてしまうことになります。
(2)なりふりかまわぬ覇権的な権力政治の回帰、西側世界とイスラーム世界との衝突、世界の他の地域における国家構造の崩壊、植民地の歴史がもたらす長期的な社会的悪影響、そして失敗に終わった脱・植民地化の直接的な政治的帰結の問題――これらすべては世界がきわめて危険な状況にあることを示しています。欧州連合は、外交上の行動力をもってはじめて、アメリカ、中国、インド、日本と並んで世界政治上の役割を担うことができるでしょう。そうした場合にのみ欧州連合は、世界経済の現存の諸制度のなかで、支配的なワシントン・コンセンサスに取って替わるオータナテイヴの形成を促すことができるでしょう。そして何よりも国連のなかで、もうとっくになされるべき国連の改革――かつてはアメリカが阻止しましたが、いずれにせよこのアメリカの同意がなければ不可能な国連の改革――を進めることもできるのです。
(3)イラク戦争ではっきりとした西側世界の分裂の原因は、アメリカ国民自身を二つのほぼ同等の勢力に分かつ文化の闘争に求めることもできます。このようなメンタリティにおける地盤のずれの結果、これまで妥当性をもってきた政府の政策の基準も横滑りを起こしています。この問題は、アメリカと最も密接な同盟諸国にも無関係ではありません。まさに一緒に行動しなくてはならないような危機的なケースでこそ、われわれはより強いパートナーへの依存から抜け出さねばなりません。それゆえに欧州連合は固有の軍隊を必要としているのです。これまでヨーロッパ諸国は、NATOの出動の際にアメリカの司令官の指示と規則に従わねばなりませんでした。いまこそわれわれは、共同の軍事行動をする際でも、国際法や拷問の禁止や戦争犯罪に関する欧州連合自身の考え方に忠実でありうる能力が必要なのです。 (p. 101-2)
ヨーロッパもまた〈帝国〉としてのアメリカ合州国との〈同盟〉という名の束縛から自由を勝ち得る必要があるというわけである。そうした情況は、日本においてはいっそう深刻で、〈同盟〉はきつい呪縛として政治支配層の被支配者意識を形成しているようだ。かつて、イラクへの軍事侵略に非協力的なヨーロッパを「古いヨーロッパ」と罵ったブッシュ政権の閣僚がいたが、イラク侵略後にはその帝国的様相から「新しいヨーロッパ、古いアメリカ」という言葉が聞かれるようになったが、その「新しさ」は政治システムとしては未だまったく形をなしていないが、ハーバーマスは、NATOからの軍事的切断、独立すら指摘するのである。
「「ポスト世俗化」の意味するところ」という論考では、ヨーロッパ啓蒙主義の伝統の中でのいわば常識的な近代社会の理解の仕方を次のようにまとめている。
まず第一に、科学技術の進歩のおかげで、世界の構造が因果的に説明できるようになり、世界のさまざまなつながりは「脱魔術化され」、人間中心的な理解が発展してきた。科学によって啓蒙された意識は、神中心の世界像、あるいは、形而上学的な世界像とは合わなくなってしまった。
第二に、社会のサブシステムが機能分化していくにつれて、教会や宗教組織は、法、政治および公共の福祉、文化、教育および学問の分野に手が届かなくなって来た。教会や宗教組織は、救済財の管理という自分たち固有の機能に自己限定するようになり、宗教行為は多かれ少なかれ私的な事柄と見るようになった。それとともに全般的に公共の場での重要性を失っていった。
第三に、農業社会から工業社会への、さらにはポスト産業社会への発展に伴い、仝般的に豊かさの水準が向上し、社会的安全性も増大した。生活上のリスクから解放され、個人が生きて行く上での安全性も増大するに伴い、一人一人にとっては、管理不能の偶発性を「向こうの」世界の力、あるいは、宇宙の力とのコミュニケーションによって押さえ込むと称する行為の必要性が消えていった。 (p. 106-7)
しかし、著者自身も認めているように、このようなヨーロッパ中心主義的理解は、世界の宗教意識の高まりをまったく説明できない。例えば、アメリカはキリスト教組織が比較的強大で政治的判断にも多大な影響を及ぼしているし、中東や南アジアでの宗教的紛争は拡大傾向にすらある。こうした現状を踏まえて、上のような啓蒙主義的な見方を、ハーバーマスは「西欧的合理主義のゆえに世界の他の地域にとってモデルになるはずだったヨーロッパの発展のあり方は、むしろ特殊な道に見えてくる」 (p. 107) と評しているほどである。
そして、「宗教的に揺り動かされている世界社会」 (p. 109) にあって、「宗教は、政治的公共圏においても、社会のもつ文化においても、個人的な生活態度においても重要性がなくなったということにはかならずしもならない」 (p. 110) として、次のようにまとめている。
現代社会を「ポスト世俗化」の社会として新たに性格づけるのは、ある種の意識変化と関連してのことである。ここではこの変化の理由を三つの現象に求めてみたい。
(a)第一に、メディアによって世界中での紛争が、しばしば宗教的対立として報道されているのを見ているために、公共の意識に変化が生じている。ヨーロッパの大多数の市民は、自分たちの世俗化された意識状態が、世界基準から見るとあくまで相対的なものでしかないことを、自覚させられている。……宗教は近い将来消滅するという世俗主義的な確信は揺さぶられ、……文化的および社会的近代化とともに宗教の公的なまた個人的な意味も薄れていくとは確信できないのである。
(b)第二に、ナショナルな公共圏の内部ですら宗教は重要性を獲得しつつある。私の念頭にあるのは……、世俗化された社会の政治の分野でも、宗教組織が解釈共同体の役割を引き受けている度合いが高まっている事態である。こうした宗教組織は、論争の的になっているテーマに関して重要な意見を表明し、公共の意見形成・意思形成に影響を及ぼすことがある。……われわれの社会は、世界観的には多元主義的な社会なので、このような宗教組織からの意見表明による介入には敏感な共鳴板となっている。……議論の状況は混迷をきわめていて、どの勢力が正しい道徳的直感に依拠しているかがはじめから明らかということは、まったくなくなっている。……
(c)また労働移民や難民として流人して来た人々、特に伝統の力の強い文化地域から移民して来た人々は、市民たちに意識変化を引き起こす第三の契機である。……ヨーロッパ社会自身が、ポストコロニアルな移民受け入れ社会への変貌という苦痛に満ちた過程にあるのだが、そうした社会において、さまざまな宗教共同体が相互に寛容に共生するにはどうしたらいいかという問題が、流入して来るさまざまな文化を社会的にどのように統合したらいいかという困難な問題によってさらに先鋭化することになった。しかも、労働市場のグローバル化という条件の下で、この社会的統合は、社会的格差の拡大という屈辱的環境の中で果たされねばならないのだ。 (p. 110-2)
ハーバーマスは、やはりハーバーマスらしく「宗教的に揺り動かされている世界社会」へ問題意識を拡大することなく、西洋合理主義へと立ち戻って来るのである。したがって、その上での次のような論述は当然といえば当然なのである。
下位文化(サブカルチャー)としての宗教的共同体は、そのメンバーを囲い込み状態から解放し、彼らがシヴィル・ソサイエティのなかで相互に国家公民として、同じ政治的共同体の担い手およびメンバーとして承認しあえるようにしなければならない。民主主義国家の市民として彼らは、自分たちで作った法の下で、私的な社会市民として自分たちの文化的および世界観的なアイデンティティを守り、さらには相互に尊重しあうようにならなければならない。民主主義国家、シヴィル•ソサイエティ、自立した下位文化についてのこの新たな理解こそは、今日では対立しあうことの多い普遍主義と個別主義の二つのモチ—フの正しい理解の鍵である。この二つのモチーフは本来なら相互補完的なものであるはずなのだ。政治的啓蒙の普遍主義的関心は、正しく理解された文化的多元主義がもつ個別主義のセンシビリティと矛盾するものではないのである。 (p. 116-7)
こうした理念的言説に反対する理由は、もちろん私にはない。ただ、ボードリヤールを引き合いに出すまでもなく、流動化したポストモダン社会(ジグムント・バウマンは「リキッド・モダン」社会と呼ぶ)での恒常性幻想としての宗教性であるとか、新自由主義的政治・経済的な国家侵略への抵抗思想としての宗教性だとかいう観点は、ここにはない。そのため、私にはこのような新啓蒙主義的理念をどのように実現していくのか、その道筋がまったく想像できないのである。
ヨーロッパは否応なく「多文化主義」の問題に直面している。ただ、「多文化主義」は様々な場面で課題を提起し、社会問題として論じられることが多いが、にもかかわらず「多文化主義」をめぐるヨーロッパの現状をハーバーマスは次のように述べて(憂えて)いる。どこまで行っても「西洋中心主義」は西洋中心主義だというわけである。西洋合理主義(啓蒙主義)では、当面「多文化主義」への解答はないと考えた方が良いのかもしれない。
イスラーム過激主義のテロを見て、それまでは多文化主義を信奉していた左翼の多くが、戦争を圧倒的に支持するリベラル・タカ派に変じてしまい、それどころか新保守主義の「啓蒙原理主義者」たちと、予想もされなかった連合を組んでしまったからである。宗旨替えをした彼らは、もともとずっと啓蒙の普遍主義的要求を拒否していた。おそらくそのゆえにだろうが、彼らはイスラーム過激派に対する闘争において、かつては批判し、(保守主義者と似たかたちで)戦いの相手にしていた啓蒙の文化を、これは「西側の文化」で、自分たちの文化だと称しやすかったのだ。「啓蒙が彼らにとって魅力的になったのは、啓蒙の諸価値が、たんに普遍的だからではなく、とりわけ、それらがまさに「われわれの」つまり、ヨーロッパの、そして西洋の価値だからである。」 (I. Buruma, Die Grnzen der Toleranz, München: Carl Hauser Verlag 2006, S. 34.) (p. 123-4)
さて、「行き詰まったヨーロッパ統合」は本書の中心的な主題である。ヨーロッパ統合の行き詰まりのもっとも見やすい結果はEU拡大によってもたらされている。それを説明するために、著者はフォブルハの言葉を引用している。
「拡大と深化のあいだにある矛盾は、今までより明白に高額の援助金によって克服する以外にない。この矛盾はEUをトリレンマへといたらしめる。EUは、これまでにもまして富の再分配を行わねばならないか、あるいは、レベルの低い統合に甘んじるか、あるいは、統一的な統合という理念を断念して、統合のレベルに段差をつけるか、である。」(ゲオルク・フォブルバ、Die Dynamik Europas (Wiesbaden: VS Verlag,2005) S. 95) (p. 140)
ハーバーマスのヨーロッパ統合への期待は、「西側の政治の規範的基盤の信憑性を損なってしまった」アメリカの単独行動主義による不当な「意図的な国連の無視、国際法に違反するイラク侵攻、人道的次元での度重なる国際法違反、露骨なダブルスタンダードの政治」 (p. 145) への反発が多くの国々のヨーロッパヘの期待を生み出したことにも支えられているようだ。
世界的に重要なこの経済圏は、政治的にも注目されるようにならねばならない。それには、 二つの明白な論拠がある。(a)第一に、ひとつの国民国家だけで、国際政治に影響力をもつ可能性はほとんどないからである。国民国家は、自分の利害を実現するためにも、さまざまな国家との共演コンサートに加わらねばならない。(b)第二に、世界社会(weltgesellschaft)は多文化的に分裂していながら、システムとしてはさまざまに複雑化し、細分化している。こうした世界社会のなかでは、もしも中規模・小規模な国民国家群がグローバルな行動能力と交渉能力を備えたEUのような地域規模の政権にまとまらなければ、世界内政治(weltinnenpolitik)のために望ましいトランスナショナルな制度ができる見込みがないからである。 (p. 146-7)
ヨーロッパ統合の「ブレーキになっているのは、政府であって、住民ではない」 (p. 163) として、ハーバーマスが提唱するのは次のようなことである。
政府はこの際、おもいきり態度を変えて、すべての加盟国で同じ選挙規則の下で同時に住民役票を行って、市民が自分たちで決定する機会を作るべきであろう。決定すべき問題は、政治的に立憲化されたヨーロッパを、しかも直接投票で選ばれた大統領と固有の外務大臣をもち、税制政策をいまよりもずっと統一化し、社会政策レジームも均等化したヨーロッパを望むのかどうかいうことである。提案は、加盟国の多数および住民の多数という「二重多数」を得たならば、承認されたとしてよいであろう。承認されたとしても、住民投票の結果、市民の多数がこの改革案に賛成した国々をのみ縛るものとすればいいだろう。私の予測では、東ヨーロッパの新規加盟諸国も、このような、当然のことながらあまりうれしくない選択肢をつきつけられたならば、どちらかといえば、中心部の国家群に加わろうとするだろう。それゆえ段差をつけた統合という政策は、決してこうした東欧の諸国家の意に反するものとして考えられてはいない。中心と周辺をもったヨーロッパとなっても、とりあえず周辺にいたいとする諸国家でも、いつでも中心部に加わるオプションを開いたままにしておけるのである。 (p. 163-4)
ハーバーマスはこのような選挙制度による意志決定システムが実現する可能性は高いと考えているのだが、あいかわらず、私には可能性の多寡の予想すらできないのだ。もちろん、私はヨーロッパ統合を評価している。とくに、ドイツがみずからナチス・ドイツ問題に積極的に向き合い、そのうえでヨーロッパ統合の(経済的)中心となっていることに驚きばかりではなく敬意をも抱いていて、彼我のあまりにも大きな差に今さらながら落胆するばかりなのである。ハーバーマスは、大戦後を生きたドイツ人についてこう書いている。
必要なのは、国民の広汎な層におけるメンタリティの変化だった。そしてこれには大変な努力が必要だった。ヨーロッパの隣国の人々が最後に融和的な気分になったのには、なんといっても、戦後の連邦共和国に育った若い諸世代に規範的な確信が根づいたことが大きかった。そして、世界に対する彼らのオープンな態度が寄与した。そして当然のことながら、外交上の交流において、当時それぞれ活躍していた政治家たちの考えていることが信頼に値すると思われたことが、事態を動かす決定的なきっかけとなった。 (p. 248)
西半球のドイツに対して、東半球の全体主義的侵略国家であった日本ではどうか。「戦後の日本に育った若い諸世代」に含まれる阿倍自民党内閣のもとで、日本という国は「同盟国」アメリカですら不快感を表明せざるをえないほどに東アジアの最大の不安定要因国家になりさがっている。地域統合などは夢の夢であって、それどころか地域内戦争のリスクを高めつつあるのだ。
[1] ユルゲン・ハーバーマス、ジャック・デリダ、ジョヴァンナ・ボッラドリ(藤本一勇、澤里岳志訳)『テロルの時代と哲学の使命』(岩波書店、2004年)。
[2] 同上、p. 326。
【続く】