かわたれどきの頁繰り

読書の時間はたいてい明け方の3時から6時頃。読んだ本の印象メモ、展覧会の記憶、など。

『ジョルジュ・ド・ラ・トゥール ――光と闇の世界――』【図録】(国立西洋美術館・読売新聞社、2005年)

2013年08月02日 | 鑑賞

 7月23日の夜は、京都・烏丸五条のホテルの2泊目だった。姉の胃癌手術で一日中病院に詰めていた。末期がんの一歩手前で、摘出が可能かどうかは開腹してみなければ分らないという状況で朝8時半に手術室に入った。昼ちょっと前にようやく摘出手術に入るという連絡があって、最悪の事態の中のさらなる最悪はなんとか避けられて、午後3時頃に手術が終った。

 ベッドに入る前のボトル半分ほどのワインもたいして功がなく、眠りが浅い。午前1時半頃にすっかり目覚め、どこか体の芯が疲れているのにどんどん目が冴えていくので、テレビを付けてみた。NHKBSにチャンネルを移したら、1枚の絵が大写しにされていた。
 ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの《大工の聖ヨセフ》の子どもの右手に持つ蝋燭の光が左手を透かしているという絵である。光で透ける指に目を奪われたのだ。

 ラ・トゥールという名は聞き慣れている感じがするものの、私の知っているそれはボルドー・ワインのことで、そういう名前の画家はまったく知らなかった。ベッドから起き出して、ネット検索をしたら仙台市立図書館にラ・トゥールの画集があるという。2005年に国立西洋美術館で開催された「ジョルジュ・ド・ラ・トゥール展」の図録である。
 仙台に帰ってから、その本を借りだした。「内部資料」というラベルが貼られていてごく最近閲覧図書になったという。こんな偶然でラ・トゥールに行きつくことになった。

  
   《大工の聖ヨセフ》(ルーブル美術館所蔵作品の模作)油彩、カンバス、126×106cm、
    ブザンソン(フランス)、市立美術・考古学博物館(図録、p. 91)。

 テレビで見た《大工の聖ヨセフ》はルーブル美術館にある真作で、「ラ・トゥール展」では模作が展示されたらしく、図録の絵は模作である。テレビで見たり図録写真で見たりと、いずれにしても真作か模作かが問題になるような鑑賞はしていないのだが、図録には参考として真作の写真も載っていた。

        
           《大工の聖ヨセフ》油彩、カンバス、137×102cm、
            パリ、ルーブル美術館(図録、p. 172)。

 写真で見る限り、きわめて良くできた模作と思われる。蝋燭だけが光源の絵で、蝋燭が浮かび上がらせる小さな空間以外はすべて闇である。このような構図には特別に惹かれる要素がある。一つは視線の向かう先に迷いが生じないこと、あるいは闇の中の狭い空間のなかの人や物の存在感が濃密に感じられること、一瞬を切り取っているにもかかわらず過去と未来の時間が圧縮されたような時間感覚が生じること、などがこのような絵の魅力を生み出しているように思える。

 手指が蝋燭の光に透けて見えること自体は、物理的には何の不思議もない。可視光が手の平をまっすぐ突き抜けることはないけれど、乱反射しながら何とか通り抜けることはできる。だからX線のように骨の形などは写さずに、ぼーっと光を感じるように透ける。ごく普通のことなのだが、このように描いた絵を私は知らなかったので、驚いたのである。光源は蝋燭だけに徹底していることと、そのリアリティの凄さに目を奪われた。
 ふつう、芸術家が見る場合であれ、凡庸な私(たち)が見る場合であれ、写実とか「見えたまま」のリアリティとかいっても、いわば錯視を内包した観測であることは避けられない。むしろ、その錯視のありようの共同性が客観的事物の形象に芸術的余剰を与えているのではないかとすら思えるのである。

 
  《聖ヨセフの夢(聖ヨセフの前に現れる天使)》油彩、カンバス、93×81cm、
   ナント(フランス)、市立美術館(図録、p. 87)。

 《大工の聖ヨセフ》のように蝋燭の光だけで描かれた絵は、ラ・トゥールの「夜の情景」の絵として分類されているらしい(当然のように「昼の情景」もある)。

 「夜の情景」の絵の代表作と模されているのは、《聖ヨセフの夢(聖ヨセフの前に現れる天使)》である。絵の題は、後世に解釈として付与されたものに過ぎないが、この題意にしたがえば、幻想世界の写実的描写ということになる。作品解説は、「対峙するように描かれたふたつの存在は、希望に満ちた子供と運命を甘受する老人の対比でもある。少年でも少女でもなく、現実のものとも非現実のものともつかない天使は、空想的な衣装をまとう姿で描かれ、その確かな存在感が、言葉では言い尽くせない詩情を作品に与えている」 (図録、p. 86) と述べている。

 「天使のリアリティ」というのは少なくとも私(たち)にとっては奇妙な概念である。客観的存在ではなく宗教的存在である。そのため、ほとんどの画家が描く天使には概念的美化が伴う。それに対して、ラ・トゥールの絵の特徴は対象を美化しない美意識にあるのだ、と私は思う。錯視などけっして認めないというような意志を感じるのだ、それがたとえ不可能であっても。

 
  《書物のあるマグダラのマリア》油彩、カンバス、78×101cm、
   ヒューストン、個人蔵(図録、p. 83)。

 《書物のあるマグダラのマリア》も「夜の情景」である。同じようなモチーフのマグダラのマリアの絵がたくさん描かれている。それらのどの絵も、けっしてマリアの表情を描こうという意志は働いていないようだ。表情によってではなく、光と闇、弱い光が浮かび上がらせる構図によって信仰への強い想いを描こうとしているのか、あるいは、ひたすらマグダラのマリアは美の空間を構成する画材に過ぎないのであろうか。「凝縮された時空」というのが「夜の情景」作品群の特徴であると私は思い、それゆえに信仰者は凝縮された信仰心を見ることが可能になるのではないかと思う。それは画家の意図を超えた絵の力かもしれないのである。


左:ラ・トゥール《ランプをともす少年》油彩、カンバス、61×51cm、ディジョン(フランス)、市立美術館(図録、p.93)。
左:エル・グレコ《燃え木で蝋燭を灯す少年》1571-72年頃、油彩、カンヴァス、60×49 cm、コロメール・コレクション [1]。

 《ランプをともす少年》は、エル・グレコの《燃え木で蝋燭を灯す少年》との対比で紹介されている。《燃え木で蝋燭を灯す少年》は、「エル・グレコ展」の作品解説で「後のカラヴアッジョ派の夜の室内画を思わせるような、光の劇的な効果に主眼を置いた作品」 [2] と評されていて、私自身は「エル・グレコ展」を見た後で、「はっきりした物語性は描かれていないものの、何らかの物語(それがどんな物語かは措くとしても)の始まる予感が感じられて、私の感情が揺すぶられるのだ」と書いたことがある。 《ランプをともす少年》はさらに光の使い方を極端にした描き方である。視線と意識は1点に集中し、その点に向けて過去の時間が収束し、その点から未来の時間が放射していくように感じられるのだ。どんな美化もなく描くがゆえにいっそうその感じが強い。

 さて、ラ・トゥールには「昼の情景」の作品群がある。もともと、2005年の「ラ・トゥール展」は、国立西洋美術館がラ・トゥールの「昼の情景」群の一つである《聖トマス》を購入したことがきっかけで開催されたということである。
 1593年に当時はまだフランスの一部ではなかったロレーヌ地方の町ヴィック=シュル=セーユに生まれたジョルジュ・ド・ラ・トゥールは、17世紀にはきわめて評価の高い画家だったらしく、それは模作の多さでも窺い知ることができる。しかし、その後2世紀近く忘れ去られた画家で、20世紀初等に再発見されてから、その世界的評価はきわめて高くなったのだという。国立西洋美術館の高橋明也は、展覧会開催時点での「この作家のあまりにも大きな国際的評価と我が国での知名度の低さとの乖離」 (図録、p. 11) を指摘している。私もまた、日本における知名度の低さに寄与した一人である。

    
      《聖トマス》油彩、カンバス、65×54cm、ヒューストン、東京、国立西洋美術館(図録、p. 37)。

  《聖トマス》は、キリストと十二使徒を描いた連作の一つで、画家の初期の画業であるという。アトリビュートとして槍が描かれているが、聖トマスは伝道に赴いたインドで槍に刺されて殉教したと伝えられている。ここにはいかなる美化も与えられない聖者がいる。喜びや安らぎのかけらもなく、苦悩に満ちて人生を積み重ねた「老い」が容赦なく描かれている。
 ジャン=ピエール・キュザンは、ラ・トゥールへの影響を云々される北方の画家たちと対比させて「北方の画家たちにはラ・トゥールと同じような力強さと高貴さ、洗練と色彩の大胆さを見出すが、彼以上に慎ましく率直な優しさと人間の悲惨さへの関心、さらに登場人物へのより強い暗黙の共感が見られる。ラ・トゥールは冷たく、おそらく意地悪で、無関心であった」 (図録、p. 29) と述べている。
 ラ・トゥールにとってすべては画題としての客観的な存在物であって、おそらくは心情を注ぐような自らの人生の随伴者(者)のような対象ではないのであろう。


   左:《聖アンデレ》1620-25年、油彩、カンバス、62.2×50.2cm、
     ヒューストン美術館(個人コレクションより寄託)(図録、p. 41)。

   右:《聖小ヤコブ》油彩、カンバス、65×54cm、アルビ(フランス)、
     トゥールーズ=ロートレック美術館(図録、p. 43)。

 《聖アンデレ》と《聖小ヤコブ》もそれぞれ「キリストと十二使徒」の一つである。どの使徒像も、アトリビュートとともに伏し目がちの姿が描かれている。当たり前のことだが、すべては画家の想像の中から生まれてくる。想像力の中の冷徹な写実性と呼ぶべきか、そのリアリティが個々の使徒の個性を際立たせている。
 想像の中での姿形を写実的と呼ぶべきかどうか戸惑ってしまうが、「ラ・トゥールが好んで表わした禁欲的で寡黙な農民の像は、この《聖小ヤコブ》の姿に最も凝縮された典型的な形で結実している」 (図録、p. 42) と評されていることはこの機制を明らかにしてくれるのではなかろうか。想像の中の聖人像は身近の農民の姿に重ねられ、一人一人の農民像はそれぞれの聖人の姿に結像している。そのようにして写実は徹底され、徹底の余剰としての宗教的リアリティが生まれている、と私には思える。

     
        《犬を連れたヴィエル弾き》油彩、カンバス、186×120cm、
         ベルグ(フランス)、市立美術館(図録、p. 55)。

 写実性がふさわしい対象を得たとき、物語性が際立つ例が、《犬を連れたヴィエル弾き》ではなかろうか。老いた盲目のヴィエル弾きが演奏しながら歌っている。足下には盲導犬の仕事をする相棒であろう小さな犬が、怯えたような目をして伏せている。物語は完結している。

 生きている間にジョルジュ・ド・ラ・トゥールの絵の実物を見ることができるかどうか覚束ないが、《大工の聖ヨセフ》や《犬を連れたヴィエル弾き》という絵がこの世に存在することを知り得たことだけでも良しとしよう。

 ただの判官贔屓だけれども洗礼者ヨハネ好きの私としては、ラ・トゥールの《荒野の洗礼者聖ヨハネ》を最後に見ておくことにする。

 
    《荒野の洗礼者聖ヨハネ》油彩、カンバス、81×101cm、ヴィック=シュル=セイユ(フランス)、
    県立ジョルジュ・ド・ラ・トゥール美術館(図録、p. 121)。

 

[1] 『エル・グレコ展』【図録】(NHK、NHKプロモーション、朝日新聞社、2012年)p. 35。
[2] 同上、p. 34。