城郭 長谷川博美 基本記録

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剣熊考№17 羽田矢国の「斧鉞」

2019-07-10 19:57:50 | 剣熊考
  ◆私の剣熊考は17回を迎えてしまった。まだ続くと私は思う。興味ある人は№1から是非お読み願いたい。さて672年の壬申の乱において羽田矢国は大海人皇子(天武天皇)側に寝返り、琵琶湖北回りの軍を率いて三尾城を攻略した。彼は近江の将軍とも呼ばれた。

◆壬申の乱における羽田矢国の活躍
壬申の乱が勃発した際に矢国は近江朝廷側の軍の将であった。山部王、蘇我果安、巨勢比等(巨勢人)が率いた数万の軍の中にあった。この軍は琵琶湖東岸を進んで美濃国の不破にある大海人皇子の本拠を攻撃する予定であったのだが、ドオ年の7月2日頃に果安と比等が山部王を殺したため、混乱して止まった。このとき、近江の将軍・羽田公矢国とその子、大人らは己の族を率いて大海人皇子側に寝返った。大海人皇子(天武天皇)から斧鉞「斧鉞」を授かり、将軍となって、ただちに北越に行くよう命じられた。北陸時節道将軍と言う事になる。時節将軍とは乱に臨んで王から任命される臨時将軍である。

◆北陸道将軍
 つまり羽田矢国は北陸道将軍として大海人皇子「天武」から斧鉞を授かった事に相当する。斧鉞を国王から下賜される意味は重要でこの慣習の起源は中国にある。。『淮南子』(えなんじ)の兵略訓によると中国の地方で戦争や反乱が起こると,国王は将軍を召して君命を与え、出陣の儀式をとり行い、旗鼓と斧鉞(ふえつ)を授ける。将軍は戦車に旌旗と斧鉞をたてそろえて出陣する。唐の軍防令にも将軍への「斧鉞」下賜の件が見える。

◆羽田矢国ら北陸道を制圧した軍兵は必然的に西近江路から高島の三尾城方面に向かう陸路
は否応なく剣熊の地、万字峠を通過しなけばならない。彼ら東近江勢力が北陸道に向かう過程または乱の一か月後の8月25日に、近江国浅井郡田根(現在の滋賀県東浅井郡北部)で中臣金が斬り殺された。事を考えると余呉の足海峠、西浅井の岩熊峠、そして万字峠こと剣熊
を羽田矢国らが通過したと私は考えている。この琵琶湖東部から琵琶湖西部へと向かう
ルートには無数の延喜式式内もあり古くから湖東と湖西を結ぶ間道が存在したと考えられる。



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