城郭 長谷川博美 基本記録

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石田三成 佐和山城 ビイスタ論 長束正家 水口岡山城 ビイスタ論

2021-08-19 07:05:40 | 規矩術、ビイスタ工法、城郭平面幾何学、
城郭ビイスタ論 上文字クリック

石田三成 佐和山城 ビイスタ論
長束正家 水口岡山城 ビイスタ論

◆質問者
佐和山城って織田政権においては丹羽長秀の城
でしよ?しかも丹羽は安土城の普請奉行もある。
という事は当然安土城と今回の佐和山城も山城
部分で類似する縄張があるのですか?

◆長谷川
重複する放射状測量を根幹に置くと事に関して
佐和山城も安土城もビイスタ縄張の現実を否定
できる段階や次元や時代ではなくなって来てい
ます。日本の城を語る場合、我々は縄張と言う
概念を升形や虎口や曲輪配置のみに捉われて城
の基本形状が如何に決定されたのかつまりは城
の構図は如何なるものなのかと?読み解いて行
く城郭研究の段階へと時代は進捗して来てます。

▼佐和山城複合ビイスタ

◆長谷川
領域を英訳するとTerritory[テリトリー」と翻譯する。
縄を張るを英訳するとA rope is stretched.となる。
stretched.「ストレッチド」は伸ばすと言う意味だ。
もし我々日本の城郭研究家が城の縄張を領域のみに
に戦前戦後固執し続け城郭縄張をテリトリー領域
のみに拘束され続けたら、今回紹介する近江の
佐和山城や水口岡山城から検証確認される放射状
に設計配列された曲輪群の配置配列は一体何を意味
するものであろうか?令和の我々は今一度城郭が
城外から計測されていた事を認識し世相や流行に
浮かれた城郭研究を進捗するべき時節ではないか!?
▼長谷川博美 佐和山城のコンポジション「構成」


▼江戸期の城郭測量法 享保18年

▼甲斐 武田氏 新府城の放射線城縄張
◆対談者
今回の投稿では関ヶ原で敗れた織豊大名
石田三成の城 佐和山城と
自刃した長束正家の水口岡山城
の両城のビイスタ工法が存在したのか
一度長谷川先生に検討して頂きたい!

▼佐和山城 赤色写真
▼佐和山城 本丸 推定復元図 著者作図

◆対談者
令和3年8月21日の横山城見学会大変楽しみです!
何しろ横山城は石田三成出身地長浜の石田に近く
信長、秀吉、三成に由緒の城ですから期待します。
◆反論者
横山城って、ただの土の砦でしょう?
矢倉も塀もない、柵だけの砦てしょ?
◆長谷川
あなたは城跡も文献も読み双方から
歴史を冷静に確実に楽しんで下さい。
文献『信長公記』に横山城の塀も矢
蔵も台風でそれらが吹き飛んだ歴史
的事実が記録されている史学文献で
す。そもそも文献『信長公記』に記
されてる城は当時の城としては一流
の城にしか、記録されていませんよ。


◆反論者
でも横山城は小さな砦でしょう。多数の兵員が
入城できる様な城では絶対なかったのですよね?
◆長谷川
いいえ、横山城には多数の放射状ビイスタ線も
確認できる非常に大規模城址であり『信長公記』
には秀吉の大人数を入れ置いた事が記録がある。
西暦1571年『信長公記 元亀2年の記録』です。

◆対談者
横山城にもビイスタ工法があると言う事で私は
城址段築や曲輪も丁寧に見学したいと思います。

▼「扇型複合縄張」

◆反論者
横山城のビイスタ論なんて本当ですか?
米原市に住んでいますが朝妻城なんて
長谷川先生のビイスタ論なんかと全く
関係ないと私は固く思っております!
そんなの絶対にビイスタ論など絶対に
無いんです!長谷川先生から私は絶対
学びませんし、城を考えたりしません!
◆対談者
私は頭脳が柔軟だから長谷川先生に傾聴
致します。しかし先生は僕と言う人間を
信奉しないで下さい。城の本当の先生と
は現地の実際の城郭遺跡ですと言われる。

◆長谷川
近江国坂田郡朝妻城も白黒の明治の地割
図からかつて世継城のビイスタ工法さえ
もおおよそではありますが判明致します。
また朝妻港とは琵琶湖の内陸の交通要衝
であり古くから文献や『伊勢物語』にも
登場している港ですから地籍ずから復元
すると琵琶湖の湖中になんと城郭測量点
を読み取る事が可能です。「みどり色」
が内城で「茶色」が外輪つまり外郭で
あると読み取る事が可能かと私は思う。
◆長谷川
また外郭外堀もビイスタ工法の影響と右の町屋の
通路の赤線にも「筋違道」「鉤折道」が観察可能

◆対談者
すごいわ!しんじられない!でも私には
城郭遺跡の平面構造を解読解説できる
先生の様なセンスや能が全くありません!

◆長谷川
最初からもう絶対に解らないと脳に信号
を送らない!決め付けないで地道に考察
を継続を続けられる事を私は希望します。

◆対談者
石田三成の逸話では大原観音寺つまりは
近江横山城山麓で三成が秀吉の三献の茶
を献上した事で特に有名です。また三成
は元来若年の時に「三也」と署名してま
すし石田氏の家紋が「大一大万大吉」の
三吉祥文字をモチーフにしたものですか
ら石田三成の近江佐和山城の鳥居本側に
三カ所の城郭の見晴を考慮した石田三成
の3ビイスタ構造が想像したと私は思って
います。それに三成は九曜星り家紋も用
いてますから佐和山には無数の砦が放射
城に存在したと私は個人的には思います。

◆長谷川
石田三成の3に関したエビソードから彼の
城、佐和山城に3ビイスタが存在したかと
発想するあなたの発想力はユニークです。

◆対談者
三成に過ぎたるものが二つあり 島の左近と
佐和山の城と落首(落書)さえされるほど
佐和山城の景観は素晴らしかったと聞きま
す。「またおおれは都の者なれど、近江
佐和山見物しょ、大手のかかりを眺むれば、
金の御門に八重の堀、まずは見事なかかり
かよ、うらの御門をまず出てて、北を眺む
れば、すそは湖やや見事。良い城よ見事な
城よ堀ほりあげて、せきしょをうえて、せき
しょに花が咲きしならば、この城ほりは花盛り
(滋賀県犬上郡多賀町に伝わる、かんこ踊りより)
とありますから絶対に佐和山城には見晴や
見栄えの良いビイスタ工法が施工されてます!


◆長谷川
解りました。貴方の御意見を取り入れて佐和山
城のビイスタ工法を一度考察してみましょう。

▼佐和山城 山城部分 城郭ビイスタ ▼「扇型複合縄張」
▼佐和山城 山城部分 城郭ビイスタ ▼「扇型複合縄張」


▼佐和山城 山城部分 城郭ビイスタ「扇型縄張」


◆男性質問者
長谷川先生!?部分総構の意味とは何ですか?

◆長谷川
総構は城の全周囲を塁濠で囲んだ形式と一部
城下や武家屋敷を取り囲んだ部分総構があり
ます。天正11年の賎ケ岳の戦いで羽柴秀吉は
東野山と堂木山の谷間に掘削した堀を総構の
堀と表現しております。近江では彦根城初期
の総構は山城の全集に気付かれた土居に相当
する全回型総構があります。安土城の安土御
構は水堀二重と城下土塁の三重構造が総構に
相当致します。部分総構の様相を物語る例と
しては近江八幡山城の古図の緑色の部分が
本来「土居敷」と書かれた、土塁を伴う城の
▼部分外構と解釈可能かと思われます。八幡
山城の山麓には今でも三カ所の橋梁が存在し
ます。

◆男性質問者
近江佐和山城の土居敷「土塁を伴う総構」部分総構位置は?
◆長谷川
江戸期の佐和山城古図を検討しますと明確に茶色で土塁と
水色で佐和山城の大手口の部分総構の様子が記されてます。
◆男性質問者
ちょつと待って!横山城の東山麓の観音寺池はもしか
すねと横山城は一時信長や秀吉の逗留していた城です。
この観音寺池の右側にもしかすると横山城東砦が
あるのか?8月21日是非とも此れを見学したい!



◆対談者
石田三成の鳥居本方面の3ビイスタ工法の解説を!
◆長谷川
現在残っている水堀の水濠の跡の3カ所をビイスタ
工法の起点の仮定しましょう。

◆長谷川
先ず第1のビイスタ視点です。
◆長谷川
第一ビイスタ方面からの実際の佐和山眺望の様子です。

◆長谷川
次に第2のビイスタ視点です。見事な城郭眺望ビイスタです。

◆長谷川
その次の第三のビイスタの眺望です。

第三ビイスタの眺望は三之丸、二之丸、本丸と折り重なる見事な眺望。


◆対談者
さすがは鳥居本方面から沢山ビイスタは見事ですね!
◆長谷川
私は3ビイスタには納得していません何故ならば
ビイスタ線の中央主軸が大手門跡を通過してない。
歴史的建造物の中心主軸を「正中線」と言います
が正中線が大手門跡に存在しなければビイスタ論
の整合性がありません。扇の要たる佐和山城正面
の位置がずれていては納得できません。理論から
言うと佐和山城大手門跡に中央線が存在し門から
は天守を仰ぎみる完璧なビイスタ工法が存在した
筈です。


◆長谷川
再度佐和山城古図を考察しましよう。下の画像から曲輪は
彦根カントリークラブ方面にも存在した事が考えられます。
鳥本本から彦根に至る切通道の右にも水堀が描かれてます。
◆長谷川
つまり青線が本来の鳥居本側からのビイスタ工法の正中線
つまりセンターラインであった事は確実であり大手門から
天守を望む非常に見栄えのするビイスタ工法を駆使した城
が佐和山城であったと私は推測致します。

◆長谷川
青線つまり鳥居本側から見た佐和山城の眺望こそ最も
佐和山城のビイスタつまり佐和山の山容の素晴らしさ
である事に気付く人はおられると思います。

◆長谷川
石田三成が出した文書には天正十八年(一五九〇)
『佐和山惣構部普請』にあたって犬上郡、坂田郡、
浅井郡、伊香郡の四郡の百姓たちを動員したい旨
が記されています。石田三成の佐和山城総構普請
は四郡の人々をそれぞれ四つの割普請にして佐和
山城の外郭群を形成したと私は考えております。
上の佐和山城写真を見ると、一見して近江八幡
山とも非常によく似た山容であるとも言えます。

勿論佐和山城鳥居本側にも琵琶湖側にも睨み
を利かす天正の大小2天守が存在したのかも
しれませんし、山頂を中心に週にビイスタ線
を九曜星の様に曲輪を配置したかとも思います。

◆湖南様
長束正家 水口岡山城 ビイスタ論も御願いします。
◆長谷川
では髙田徹氏の優れた図面をお借りして検討します。
▼東海道水口の宿方面の城郭ビイスタは完璧に存在
 します。水色の部分ビイスタや北東の裏ビイスタ
 も是非検討してみて下さい。
◆長谷川
東海道の裏側に面した北面ビイスタも素晴らしい縄張!

◆対談者
正直衝撃と言うか一種のカルチヤーショツクを
私は今回受けました。

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3 コメント

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Unknown (匿名)
2021-08-16 19:02:51
近江朝妻城のビイスタ解説に仰天しました。
返信する
Unknown (Unknown)
2021-08-16 19:03:57
水口の大岡山の城にビイスタ工が法あるなんて全く知りませんでした。
返信する
Unknown (Unknown)
2021-08-17 14:40:28
リアクションボタンで良いね!を全国の皆様から賜りました事を深甚に感謝致します。また6名の良いね!投票を賜った賢者の方々には江戸城のビイスタ論を是非ともお読み下さい。何故ならば江戸城は日本の築城技術の粋を結集して天下普請で築城された日本最大の城郭であり城の模範でもある事、日本の城の根本に
ビイスタ工法が存在すると言う意義が大きく江戸城は全国区の城「グローバリズムの一種」とも言えます。佐和山城は一地方の城であり地域の城「ローカリズム」の城とも言えます。心を広くもち日本全国の城や世界の城にも目を向けて謙虚冷静に「比較研究」していく本当の意味の城郭を洞察できる「心眼」を養う事につとめましよう。
返信する

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