◆長谷川
●私には肩書がない=社会的信用
●私には著書がない=著作物皆無
●私には支持者なし=人気がない
●私のブログ読者0=人気がない
●講師や城郭仕事ない=人気なし
◆対談者
しかし長谷川先生の潜在的人気
は隠然として高い!
◆質問者
尾張岩崎城ビイスタを一度
分析して下さい!
◆岩崎城ウィツキペデイア引用
岩崎城(いわさきじょう)は、尾張国山田郡[注 1](のち愛知郡)
岩崎(現在の愛知県日進市岩崎町)に存在した戦国時代の日本の城
(平山城)である。
概要[編集]
室町時代末期(15世紀末から16世紀前葉ころ)に築城され慶長5年
(1600年)に廃城となった[1][2]。もっとも古い記録によると尾張
国勝幡城(現在の愛知県愛西市)主・織田信秀(織田信長の父)の
支城だった。
享禄(岩崎)の戦い[編集]
享禄2年(1529年)、三河国岡崎城主・松平清康(徳川家康の祖父)が
、織田信秀の属将・荒川頼宗の守備する岩崎城を尾張国攻略の足がかり
として兵7000を率い攻め落とした。しかし天文4年(1535年)
後退し、松平氏の案内人として行動していた本郷城(現在の日進市
本郷町)主・丹羽氏清が移り住み、4代続けて岩崎城主として戦国
時代を生き抜くこととなる[1]。
小牧・長久手の戦いと岩崎城の戦い[編集]
天正12年(1584年)に起きた岩崎城の戦いとは、小牧・長久手の
状態を打ち破るため、秀吉方によって実行された「三河中入
(なかいり)」作戦を阻止し、池田軍の進軍を止めたという点
で大きな功績を残した戦いであった。この時の当主・丹羽氏次は
この戦いで弟の氏重を失ったが、家康からの信頼を得てその後の
戦いにも多くの功績を挙げることとなる。
落城後の岩崎城[編集]
長久手の戦いの後、落城した岩崎城が再建されたかは確かではないが、
慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いで丹羽氏次は徳川方として参戦、
大名として栄転し、岩崎城はここで廃城となる。
◆質問者
尾張岩崎城にも日本の城郭根本
理論とも言える扇型ビイスタが
存在するのですか?純学問とし
てビイスタ論の解説御願します。
◆長谷川
べーシックな縄張のグランド
プラン基礎構図設計としは扇
型の放射ビイスタ読み取れる。
◆長谷川
小牧長久手合戦のおりの羽柴秀吉方
の陣所、犬山三光寺山や、楽田城に
も扇型ビイスタがあり興味のある方
は下記リンク記事青文字をクリック
をして検討して見て下さい。
◆質問者
ビイスタは岩崎城に存在しますか?
◆長谷川
複数の方向から扇型ビイスタ読み取
れます。これが城の縄張の基本です。
基本を知る事こそ重要な事なのです。
◆反論者
こんなデタラメ理論を連発するな!
昭和や平成の城郭図書には一切こ
の城郭ビイスタ論は登場しなよ!
◆対談者
今は令和と言う時代に推移した
事を認識して下さい。新しい舟
を出港させる為に古い水夫では
なく新しい時代の新しい水夫が
乗船するのが世の常なのですよ。
舟は「丸」を付け城郭にも「丸」
◆質問者
尾張知多奥田城の様な
重複縄張は存在するか?
◆長谷川
日本の城は複数の方向から
測量縄張されている事です。