WATERCOLORS ~非哲学的断章~

ジャズ・ロック・時評・追憶

室根まきばの湯もコロナ対応

2021年08月29日 | 今日の一枚(O-P)
◎今日の一枚 539◎
小曽根 真
Ozone 60
 退院して以来、諸手続きや買い物のほかは自宅で過ごしていたが、明日から仕事に復帰することもあって、今日は近隣の日帰り入浴に行ってみた。岩手県一関市大東町の室根山の中腹にある《まきばの湯》である。気仙沼市の自宅から車で45分程度の、時折訪れる日帰り入浴施設である。浴槽もそれほど大きくはなく温泉でもないが、交通の便が悪いこともあってめったに混んだりはしない。窓の外に広がる牧場の眺めと、空いている休憩室でゆったりと寝転ぶことができるのが魅力である。料金も安い。なんと、大人320円である。
 しかし、コロナ禍はこの地にも及んでいるようだ。岩手県独自の緊急事態宣言が出されているとのことで、当分の間、一関市在住の人以外の利用はできないとのことだった。今日は知らずに来たということで、特別に利用を認めてもらったが、今後しばらくの間は自粛せねばならないようだ。これまでは、施設利用の際、名前と電話番号を用紙に記入すればよかったが、ついに一段進んだ対応となってしまった。岩手県がコロナ0人記録を更新していた頃が遠い昔のようである。
 さて、しばらくぶりの《まきばの湯》である。最高だった。青空に雲が漂う牧場の風景を見ながら入浴し、ガラガラの休憩室で横になって休んだ。気持ちの良い涼しい風を感じながらうとうとし、一時間ほど眠った。入院していた汗臭い病室が夢のようである。
 今日の一枚は、小曽根真の2021年作品、『OZONE 60』である。小曽根の還暦を記念した2枚組作品だ。クラッシック中心の一枚と、ジャズの書下ろし新曲からなる一枚からなる。apple musicで聴いている。小曽根の作品は数枚しか所有していないが、何となくフィーリングの合うピアニストだと思ってきた。入院をきっかけに、apple musicで小曽根真を聴くようになった。波長の合うアルバムがたくさんある。購入してコレクションに加えたいとも思うが、一方で退職を控えてこれ以上物を増やしてどうするのだとの思いもある。膨れ上がってしまったコレクションを電子データ化しようと考えたりすることもあるのだ。当面は、apple musicをステレオ装置につないで、小曽根を聴き込みたいと思う。

蜂との闘い

2021年08月29日 | 今日の一枚(G-H)
◎今日の一枚 538◎
Grand Fank
We're An American Band
 1か月ほど前、庭周辺の草刈り作業中に、足を蜂に刺された。痛かった。本当に痛かった。蜂に刺されたことはこれまでにもあるが、比べものにならないほど痛かった。10分以上のたうち回り、もがき苦しんだ。スズメバチにやられたに違いないと思い、病院に行くことも考えた。痛みが少し落ち着くと、家族のためにこのまま放置しておくわけにはいかないと思い、刺された付近を探して蜂の巣の駆除に取りかかった。巣は意外と小さく、市販の強力スプレーで比較的簡単に撃退・駆除することができた。スズメバチではなかった。アシナガバチだった。
 昨日、妻が慌てて二階から降りてきた。寝室の外側の壁に蜂が巣を作っているという。外に出てみると、まだそれほど大きくはないが、蜂の巣があった。一匹の黄色い大きな蜂と何匹かの小さい蜂が見えた。今度こそスズメバチかと一瞬緊張が走ったが、どうも巣の形状が違うようだ。スズメバチかと思ったのは、数日前、家の庭でスズメバチを見かけ、殺したからである。一匹だけだったが、栽培している甘いフルーツミニトマトを食べに来ていたのである。追い払ってもすぐにリターンし、いつまでも居座り続けたので、シャワーで放水し一瞬地面に落ちたところを踏みつけた。なかなか絶命しなかった。さらに踏みつけ、絶命した後は仲間が来ないように土に埋めた。
 昨日の蜂の巣は、ホームセンターで購入した「ハチ・アブ、バズーカー・ショット」で容易に駆除することができた。もちろん、完全防備で取りかかった。今回も、アシナガバチだったようだ。アシナガバチといっても油断はできない。webで検索すると、こんな説明があった。
アシナガバチは、ハチ目スズメバチ科アシナガバチ亜目に属する昆虫で、スズメバチに比べるとおとなしい性格だといわれています。ただし、毒性が強い種類もおり、刺されたときの痛みがスズメバチに勝るとも劣らないほどになることもあるので注意が必要です。 
 今年は、蜂と関わることが多いようである。
 今日の一枚は、グランド・ファンクの1973年リリース盤『アメリカン・バンド』である。このアルバムは以前に一度取り上げたことがある(→こちら)。入院中、apple Musicをいじっているうちにこのアルバムに出会し、しばらくぶりにちょっと聴いてみた。私の古いレコードには収録されていないボーナス・トラックが入っていた。ボーナス・トラックにはそれほど興味はない。所詮、選ばれなかったトラックである。ところがである。ボーナス・トラックのStop Lookin' Backは何だ。アコースティック・バージョンではないか。カッコいい。いい演奏である。入院中、このトラックを10回以上は聴いたかもしれない。
 中学・高校生の頃、恥ずかしながらグランド・ファンクが大好きだった。恥ずかしながらというのは、グランド・ファンクは中身の薄い能天気な、つまりアメリカンなバンドとみられる雰囲気があったからだ。私が聴いたのはリアルタイムより5年以上遅れてのことだったが、まだとこかにそういう雰囲気はあったように思う。例えば、渋谷陽一『ロックミュージック進化論』(新潮文庫)は、次のように記す。
グランド・ファンク・レイルロードは、当時とても高い人気を得ていたアメリカのハードロック・バンドである。ツェッペリンの前座として登場し、本命のツェッペリンを食ってしまった事で有名である。ただ、人気はあっても音楽的水準は低いという事で、意識的なロック・ファンから嫌われ、グランド・ファンクをけなすことがロック・ファンの良心とさえ言われていた。
 かわいそうなバンドである。あれから40年以上経過したが、今聴いても得体のしれない熱いものがこみあげてくる。おやじロックといわれるような懐古趣味では片付けられない、身体の深部で細胞が共鳴するような気がするのだ。

1990年2月、完全なストーンズのライブを見た

2021年08月28日 | 今日の一枚(Q-R)
◎今日の一枚 537◎
Rolling Stones
Steel Wheels
  退院して3日目である。ステロイドパルス療法のために、近いうちにまた3週間の入院をしなければならない。
 私の退院した日(ロンドン時間8月24日)、チャーリー・ワッツが亡くなったらしい。ローリング・ストーンズのドラマーである。最近ずっと聴いていなかったが、ストーンズは大好きである。チャーリー・ワッツのドラムとキース・リチャーズのギターが作り出す独特のビートがストーンズの個性であるといってもよかった。そんなこともあって、退院してからこの3日間、ストーンズをずいぶんと聴いた。
 1990年2月の公演に行ったことが蘇ってくる。ローリング・ストーンズの初の日本公演である。東京ドームでの公演だった。ホンキー・トンク・ウィメンで巨大なダッチワイフのような人形が登場したあのライブである。「悲しみのアンジー」と「ルビー・チューズディ」が隔日で演奏されたが、私が見たのは「ルビー・チューズディ」の日だった。まだベースのビル・ワイマンが脱退する前の、完全なストーンズのライブだった。ご機嫌なライブだった。眼前に展開するストーンズのパフォーマンスに涙を禁じ得なかった。ミック・ジャガーはステージを駆け回り、キース・リチャーズはギターを弾くには不必要と思われる回転を繰り返した。その熱狂の中で、静けさを湛え、求道者然としたたたずまいでドラムに向き合うチャーリー・ワッツは、不思議な存在感を放っていた。静けさに勝る強さはないということだろう。

 今日の一枚は、ローリング・ストーンズの1989年作品『スティール・ホイールズ』である。ストーンズを語る際、あまり取り上げられることのないアルバムである。私自身、ストーンズはミック・テイラーが在籍した1970年代前半が最も好きであるが、ストーンズの初来日公演の直前に初日発表されたこのアルバムは、当時よく聴いた。1980年代以降の作品の中では例外的によく聴いたといってもいい。このアルバムで、気分を盛り上げていたのである。今日、おそらく30年ぶりぐらいにこのアルバムを聴いた。意外だったが、いいアルバムだと思った。テレキャスターの独特の響きがご機嫌である。ストーンズのライブが瞼の裏で蘇ってくるようだ。
 退院後は、ちゃんとしたステレオセットで思いっきりジャズを聴きたいと思っていたのだが、もう少しストーンズを聴くことになりそうだ。

 2021年8月24日、ローリング・ストーンズのドラマー、チャーリー・ワッツが亡くなった。完全なものは少しずつ不完全になり、時代は変わっていく。

IgA腎症と私⑥

2021年08月24日 | IgA腎症と私
(6)右往左往する患者の私

 社会福祉士と「指定難病助成制度」の話をしていた時、社会福祉士が資料を見ながら、eGFRは29だからギリギリOKかも知れないといった。29?。えっ。そうなの。私のeGFRは32じゃないの。 eGFRが29とは、腎臓が29%しか機能していないということだ。ショック。ショックである。人間ドックでは、確かにeGFRは32だったはずだ。29と32の間には、慢性腎臓病の重症度分類の《G3b》と《G4》境界があるのだ。32は《G3b》であり、29は《G4》である。《G4》とは腎不全の手前なのである。資料を見せてもらうと、確かにeGFRは29だった。腎生検後の退院する前日の尿検査のデータである。なぜ下がったのだろう。腎生検で腎臓にダメージがあったのだろうか。社会福祉士は、医師に聞いてみなければ、一過性のものかどうかわからないと付け加えたが、私の頭の中はeGFR=29でいっぱいである。
 どうも、腎機能低下のスピードが速いようだ。現在の治療は、本当に効果が期待できるのだろうか。Webによると、初期の段階のIgA腎症は扁桃摘出+ステロイドパルス療法でかなりの効果を上げているようだが、私のように腎機能が低下している場合、寛解に持ち込むことができるのだろうかなどと良からぬ考えが頭を巡り、軽いパニックである。Webを検索して、自分に都合のいい情報を探そうとする始末である。

 そんなことを知ってか知らずか、夕方、腎内科の担当医師が病室にやってきた。腎生検のとき、病棟担当だったベテラン風医師である。思い切って、eGFR=29のことについて聞いてみた。私の場合、確かにeGFR=29だが、腎生検の結果は壊れている組織は少なく、しかもタンパク尿も見られないため、扁桃摘出+ステロイドパルス療法で良くなるといわれた。ただ、腎機能悪化がやや早い気がするから、ステロイドパルス治療はできるだけ早くやった方がいいとのことだった。リップサービスかもしれないが、そう言ってもらうと、ちょっと心が穏やかになった。結局、寛解するかどうかは結果の話だ。私としては、今は信頼できる医師にゆだね、できることをやるしかないのだ。

 webをみると、治療によって、eGFRが上昇したという経験談は少なからずあるようだ。腎機能を表すeGFRは、血液中のクレアチニンの量から計算式で数値を導き出したものだ。クレアチニンの量が減れば、eGFRも上昇することになるのだろう。そういう意味では、腎組織が再生・復活することはないとしても、腎機能が数値上、上昇することはありうるのかも知れない。

●IgA腎症と私① →こちら
●IgA腎症と私② →こちら
●IgA腎症と私③ →こちら
●IgA腎症と私④ →こちら
●IgA腎症と私⑤ →こちら

IgA腎症と私⑤

2021年08月24日 | IgA腎症と私
(5)指定難病助成制度
 
 入院8日目術後6日目、のどは痛かったが時間は十分にあったので、社会福祉士と話したいと申し出てみた。入院前に、困ったことやわからないことがあったら社会福祉士と話すことができると案内されていたのを思い出したのだ。IgA腎症が指定難病66であることをwebで知り、指定難病助成制度について具体的に説明を受けたいと思ったのである。お昼頃に看護師に申し出たが、社会福祉士はその日の午後に来てくれた。対応が早い。しっかりした病院だと思った。

 指定難病とは、「原因不明で治療方法が未確立な疾病のうち、難治性で重症度が高い疾病で、厚生労働省の定めた疾患」ということだ。指定難病助成制度は、その認定を受けることで医療費の自己負担が軽減できる制度であり、認定されれば、患者負担が2割になるほか、所得に応じて1か月の自己負担限度額が設定される。限度額認定証(あるいは高額医療費還付)の利用より、かなり負担が軽くなるはずだ。

 申請のために必要なものは、「臨床調査個人票(診断書)」「世帯全員の住民票(マイナンバー入り)」「住民税(非)課税証明書」「保険証の写し」であり、これらを住所管轄の保健所に持参し、必要書類を記入して提出すればいいという。私の場合は、気仙沼保健福祉事務所になる。

 もちろん、申請しても病気の重さによって認定されない場合もあるが、その場合でも「軽度者特例制度」が利用できるという。「軽度者特例制度」とは、月ごとの医療費総額が33330円を超える月が年間3回以上の場合、先にあげた自己負担限度額が設定されるという制度だ。認定基準ははっきりしていないようであるが、冒頭にあげた「慢性腎臓病(CKD)重症度分類」の赤の部分がとりあえずの目安となるようだ。
 認定のための申請は、年度ごとの更新となる。9月から10月までが単位年度のようだ。認定の適用は、申請日からとのことであり、私の場合、扁桃摘出のための入院は、遡って認定されることはないようだ。今後、申請して認定されれば、ステロイドパルス療法のための入院で適用されることになる。

 私は、一応申請してみようと考えている。病院側の迅速な対応に感謝である。参考までに、病院からいただいた資料を載せておく。

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●IgA腎症と私③ →こちら
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IgA腎症と私④

2021年08月24日 | IgA腎症と私
(4)扁桃摘出手術

 扁桃摘出手術のため入院した。入院は10日間である。経費は139190円だったが、後日共済組合から結構な額の還付金(高額医療費)があるはずだ。また、民間の入院保険が2つ該当し、合わせて69700円の保険金が下りた。退院後の経過や、最終的な収支がどれくらいになったかについては、後日加筆して報告したい。

 開放腎生検のための入院を終えていったん帰宅し、2日後には再入院のためのPCR検査を行なった。お盆の期間を5日間だけ自宅で過ごし、再入院した。入院したのは、IgA腎症の治療法として選択した《扁桃摘出+ステロイドバルス療法》のうち、扁桃摘出手術を行うためである。病棟は同じだが、今回は耳鼻科への入院の扱いのようだ。退院した水曜日に耳鼻科の医師の診察を受けて打ち合わせをし、月曜日に入院、翌火曜日に手術をした。病室は今回も4人部屋をお願いした。

 手術は全身麻酔で行った。2度目の全身麻酔である。前回の開放腎生検の手術同様、いつ、どのように眠ったかは記憶にない。眠っていた時間は0分という感覚であり、目覚めたらすべては終わっていたという感じである。目覚めた後しばらくの記憶は断片的にしかない。今回は夜10時過ぎまで眠気が続き、ちょっと目をつぶると30分~1時間程眠ってしまうということを何度が繰り返した。そのため、真夜中にはあまり眠れなかった。
 
 前回の開放腎生検の手術でやや苦しんだ導尿は、今回はなかった。ほっとした。ただ、一回目のおしっこは看護師とトイレまで車いすで行かねばならず、2回目は看護師の付き添いで自分で歩いてトイレへ、3回目のトイレからは自分で行けるということだった。私の場合、1回目は夕方に、2回目は深夜に、翌朝からは通常通りトイレに行くことができた。はじめから普通に歩いていけると思ったが、指示に従った。
 のどについては、麻酔が効いていたせいか、術後しばらく痛みはなかった。むしろ鼻の挿管チューブの先がのどにに当たって気になった。挿管チューブのため鼻水が出るが、うまく鼻がかめないずだんだん呼吸するのがつなくなってきた。夕方に鼻をかんだ際、挿管チューブが外れてしまった。鼻が通りとてもスッキリした。ラッキーだと思ったが、翌朝までは装着する必要があるといわれ、再び医師に挿管チューブを入れられた。翌朝、チューブが抜かれると、ほとんど通常通り生活できるようになった。
 のどの痛みについて、やはりのどは若干痛かった。我慢できない痛みではない。何もしなければ痛みはなかったが、唾をのみ込むとき若干痛むのである。
 食事は手術の翌日から出たが、流動食→3分粥→5分粥→7分粥→全粥→米飯、と一日ずつ変わり、おかずも増えていった。上の写真は術後4日目の昼食である。7分粥だ。病院の食事を食べると、のどが滑らかになり、痛みが軽減された。また、のどが痛む場合に飲むようにと「カロナール」を処方された。食事前に2錠飲むよう指示され、痛ければ一日に10回まで飲んでかまわないといわれたが、それほど痛みは強くなかったので、朝食と夕食の前のみ服用している。私の場合、痛みは思ったよりひどくはなかったといっていいと思う。
 そう思っていたら、術後5日目ぐらいから痛んできた。瘡蓋が取れる時期だからということだった。夜寝ている間、乾燥して痛む。唾を飲み込む時も、今までより痛い。お粥から米飯になった術後6日目の夕食では、食後に痛みが増した。食後痛みが増したのは、初めてだった。何かがしみたのかと思った。術後7日目の朝には、痰に血がついていた。耳鼻科の医師の話では問題ないとのことだった。webによると、激しい出血の場合は再手術らしい。
 退院の前日に耳鼻科の担当医師から、万一、退院後に出血した場合に備えて、気仙沼市立病院の耳鼻科の医師に連絡しておいた、という話があった。紹介状も付けてくれるという。自宅が仙台から遠いことへの配慮である。まったくありがたい。

 入院10日目、術後8日目での退院となる。退院する今日現在、のどの痛みはある。瘡蓋が剥がれる時期だからか、あるいは炎症止めの投与が終わったからか、ここ数日やや痛みが増した感じだ。我慢できない程ではないが、夜は乾燥して特に痛いようだ。カロナールは、相変わらず朝夕の食事前にしか飲んでいない。痛み止めは頻繁には飲みたくないのだ。飲まなくても問題ない我慢できるレベルだと思っている。
 今後の動向や要した経費、退院後の経過については、後日、加筆・修正して改めてアップしたい。
 次の治療は、ステロイドパルス療法である。3週間の入院である。扁桃摘出後、入院を継続してステロイドパルス療法をやる人も多いようだ。一旦退院すると、改めてPCR検査をやらねばならなかったり、職場に提出する病休のための診断書が必要になったりと、手間もお金もかかるが、私は一旦退院することにした。仕事が気になることもあるが、一度退院して仕切り直したいというのが大きい。気力を蓄えて、できるだけ早期に次のステロイドパルスにのぞもうと思う。今の病室にステロイドバルス療法をやっている人が2人いる。安易に考えていたが、副作用があって結構大変そうだ。けれども、そうやって頑張っている人を見るのは心強い。ステロイドバルス療法についても、少し後になるがレポートしたい。

[術後14日目]
 術後14日目ぐらいからだいぶ良くなった。まだ、違和感はある。ものを飲み込むとき引っかかる感じがある。しかし、「痛い」という感じではない。術後14日目から少しだが、アルコールも飲んでみたが、痛みや腫れはなかった。ただ、入院中節制し、必然的に禁酒したことで、体重も減り身体も調子がいい。これからは、お酒の量は減らしていこうと思っている。

●IgA腎症と私① →こちら
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『菊と刀』と農地改革

2021年08月22日 | 今日の一枚(A-B)
◎今日の一枚 536◎
The Beach Boys
In Concert
 大学に入学して間もないころ、何という科目かは忘れたが、『菊と刀』を読んでレポートを提出するようを求められ、当惑したことがあった。時間はかかったが、悪戦苦闘して何とか読むことはできた。しかし、ほとんど高校生と変わらない、入学したばかりの私に分析や検討などできるはずもなく、なるほどそういうものかとただ納得するばかりだった。昨日から読んでいる池上彰・佐藤優『真説・日本左翼史 戦後左派の源流1945-1960』(講談社現代新書)という本に、『菊と刀』と農地改革についての興味深い指摘があったので記しておこうと思う。
 周知のように、『菊と刀』は、第二次大戦中に日本文化や日本人特有の気質について解明することを求められた文化人類学者のルース・ベネディクトが提出した、「日本人の行動パターン」というレポートがもとになっており、米軍はこのレポートを対日作戦や捕虜の扱いだけでなく、戦後のGHQの占領政策にも参考にした。
 ところで、ベネディクトがこのレポートを作成するにあたって、日系アメリカ人たちにヒアリングしたが協力を得られないことが多かったという。当時の日系アメリカ人は第一世代だったため、祖国への思いから協力には消極的だったのだ。そんな中で、積極的に協力したのがアメリカ共産党に所属する日系アメリカ人だった。アメリカ共産党は、第二次世界大戦をファシズムとの闘いと位置付けていたので、ルーズベルト大統領に積極的に協力したのだ。その結果、ベネディクトの作成したレポートには、アメリカ共産党のバイアスがかかることになる。当時、アメリカ共産党は日本共産党の「32年テーゼ」を共有しており、この結果、ベネディクトのレポートには、日本共産党の「32年テーゼ」が、もっとはっきりいえば、《講座派》的な考え方が色濃く影響することになったという。
 周知のように、《講座派》とは、日本資本主義論争で《労農派》と対立した一派である。《労農派》が、明治維新を不完全ではあるがブルジョワ革命と位置づけ、日本には資本主義が成立しているとしたのに対して、《講座派》は、ブルジョワ革命がおこっていない特殊な国であると考え、日本をまず資本主義国にしてから社会主義革命をおこすのだという「二段階革命論」を唱えていたのである。
 戦後の農地改革は、193万ヘクタールの農地を地主から強制的に買い上げ、小作人にただ同然で譲渡し、日本の農家の大半を自作農に転換した政策である。日本の土地制度が江戸時代さながらの封建的なものであり、少数の地主が多数の小作人を農奴として搾取しているという《講座派》的問題意識がなければありえなかった政策だというのである。納得のいく説明だと思う。

 今日の一枚は、ビーチ・ボーイズの1973年リリース盤『イン・コンサート』である。
ブライアン・ウイルソン不在時のライブアルバムだが、ビーチ・ボーイズ最良の最良のアルバムといわれているらしい。ディストーションを付けない、キラキラしギターの響きが好ましい。軽快なノリがいい。軽快だが、決して軽薄ではない。乾いた悲哀の感覚がビーチ・ボーイズの持ち味なのだ。Leaving This Townに聴き入ってしまった。20曲、1時間14分のライブアルバムを通して聴くなど、ここ数年なかったことだ。入院中という特殊な状況でなければ、できなかったことだと思う。

イヤーパットを変えてみた

2021年08月22日 | 今日の一枚(E-F)
◎今日の一枚 535◎
Phil Woods
Warm Woods
 入院中ということで、iPhoneにステレオイヤホンをつないで音楽を聴いている。少しでもいい音で聴こうと、前回の入院の際、病院のコンビニで一番高いやつを買った。といっても、1500円程度のものだが。tamaというメーカーのものだ。音質はいいのか悪いのかわからない。ほとんどイヤホンなど使ったことがなかったので、比較しようがないのだ。モニタースピーカーと比べるわけにはいけない。ただ、いくらなんでも音がスカスカすぎやしないか。ちょっと前に、耳に入りやすいようにと、付属のイヤーパット(イヤーチップともいうらしい)のうち一番小さなものに変えていたのだ。もしかしてこの付属のイヤーチップを変えれば音質が変わるかもしれないと思い立ち、思い切って一番大きいものと交換してみた。あら不思議、これまでより低音が出てきて、ちょっとはマシになった。イヤーパットは耳の大きさやフィット感だけでなく、音質にも関わりがるようだ。追求するつもりはないが、材質や形状にもこだわればもっといい音がでるのかもしれない。

 今日の一枚は、フィル・ウッズの1957年録音盤『ウォーム・ウッズ』である。原曲を生かしたストレートなメロディーラインと流麗なアドリブである。タイトル通り、くつろいだウォームな演奏である。病院の退屈な日曜の午前中には好ましい。うってつけである。心が穏やかになってゆく。しかし、流麗でウォームな演奏の中に時折垣間見える直情的なトーンは、さすがビリー・ジョエルの「素顔のままで」の魅惑的な間奏のソロを吹いた人だ、と思わせるに十分である。フィル・ウッズは、ずっと以前から知っているが、「素顔のままで」のソロを吹いたのが彼だということを知ってから、どうもそれと重ねて聴いてしまう。とても、いい作品だけに、本当はちゃんとしたステレオ装置で聴きたい一枚である。

USA LIVEを通して聴いてみた

2021年08月21日 | 今日の一枚(W-X)
◎今日の一枚 534◎
Wings
Over America
 入院中である。術後の経過はいい。点滴も昨日で終わったようだ。
 退屈だ。ネット動画もつまらない。第一、そんなに見たら制限を超えてしまう。やはり、本を読むか、音楽を聴くかしかないようだ。次に入院するときはkindleを持参しよう。もう購入してあるのだが、今回は間に合わなかったのだ。病室に居ながらにして、本を手に入れることができるのは魅力である。apple musicが大活躍である。ChillやFavorites, Mixのほか、ステーションの機能も利用して楽しんである。ただ、コンピレーションもいいが、時間があるのだから、やはりアルバムをじっくり聴きたい、と思った私はやはり古いタイプのおじさんなのだろう。そんな訳で、昨日の午後から夜にかけて、いくつかの古いロックのアルバムをダウンロードして聴いてみた。病室のベッドに横になり、ただ目をつぶってステレオイヤホンでじっと聴いた。

 今日の一枚は、ポール・マッカートニー&ウイングスのWings Over Americaである。1976年リリース作品である。同時代には、「USAライブ」と呼ばれていたように思う。中学生の頃、手に入れたかったアルバムだったが、3枚組という高価なものでとても手が出なかった。たまたま買うことができた友人からテープに録音してもらい、そのうちエアチェックしたりして、とりあえず満足してしまった。だから、今日に至るまで所有していないし、恐らくは購入することはないだろう。その意味でも、apple musicはありがたい。
 全28曲通して聴いたのは、恐らく初めてだと思う。ジミー・マッカロクの加入によって、よりロック色が濃くなったサウンドは好ましい。このギタリストがヘロイン中毒で亡くなってしまったのは本当に残念だ。オープニングから期待感がこみ上げてくるようなワクワクする演奏が続く。中盤はオベーションを使ったアコースティックな演奏である。やはり、ポール・マッカートニーはアコースティックギターが上手い。Bluebirdには聴き入ってしまった。BlackbirdやYesterdayといったビートルズナンバーが効果的に配されているのもいい。単なる懐メロではなく、新しい演奏として聴くに値するものだ。その優しい響きに、早く退院して自分でギターを弾きたくなった。後半に入っても、「マイ・ラブ」「あの娘におせっかい」と佳曲が続き聴き飽きしない。ただ、最後の数曲がややパワーダウンのような気がした。名曲Band On The Runは、精緻を尽くした構成のオリジナル盤の演奏を水で薄めたようで、ライブの清新さがうまく表出されていなかった気がする。最後の2曲も不完全燃焼で、えっ、これで終わっちゃうの、といった感じだった。

 いずれにしても、アルバム数枚を聴いて、退屈な時間があっという間に過ぎてしまった。入院しているという状況がなければ、経験できなかったことかもしれない。Apple musicにも感謝である。

IgA腎症と私 ③

2021年08月19日 | IgA腎症と私
(3)IgA腎症と治療方針
 
 腎生検結果の説明を受けたのは、術後7日目、退院の前日だった。入院すると担当医師が変わるしくみなのか、最初に診察してくれた外来の医師は姿を現さず、入院中回診に来ていたベテラン風の医師と若い医師が説明してくれた。説明書の署名欄にも2人の名が記されていた。後で聞いた話だが、腎生検の手術中、待機していた妻のところには、外来の時の先生も来てくれていたとのことだった。

 腎生検結果からの診断確定の根拠に関する説明はなかったが、IgA腎症と診断された。ちょっと意外だった。というのは、外来の時の医師に、血縁にIgA腎症の人がいるためその可能性を尋ねたところ、IgA腎症ならここまで腎機能が低下している場合、蛋白尿が出るはずだとつぶやいたのを憶えていたからだ。私の場合、尿潜血はあったが、何度検査しても蛋白尿は出なかったのだ。

 病棟のベテラン風医師は、IgA腎症について、分かりやすく丁寧に説明してくれた。説明をまとめるとこんな感じだった。
 IgA腎症はふつう、血尿(尿潜血)→蛋白尿→腎機能低下→腎不全と進むが、実際にはいろいろなパターンがある。私の場合は、腎機能低下の段階と見ていいという。このまま放置すれば、20年で30%, 30年で50%程度の確率で透析が必要となる。今59歳だから、おじいさんになってから透析になる可能性がある訳だ。
 腎臓は血液をろ過して老廃物を尿と一緒に捨て、必要なものは血液に戻す働きをしている。それを担うのが腎臓に100万個ある《糸球体》と呼ばれる毛細血管の束である。《糸球体》が壊れると、本来必要な血液やタンパクが血尿・蛋白尿として流出したり、老廃物であるクレアチニンが血液中に流入したりするのだという。この100万個ある《糸球体》が10万個程度にまで減少すると、透析が必要になる。私の場合、腎生検で29個の糸球体を採取したが、22個が正常、1個が半壊、6個が壊れてしまったものだったという。eGFR 32にしては意外に正常なものが多いのでびっくりしたが、正常なものも弱ってきているという説明だった。
 IgA腎症は、基本的には原因不明であるが、体内の免疫システムの異常が原因らしい。白血球は体内に侵入したバイ菌を感知し、そのタイプごとに攻撃する玉(免疫)を出すが、この玉(免疫)をIgAというのだそうだ。白血球は一度記憶した玉(免疫)のタイプは忘れないらしい。ところが、何らかの原因で異常なIgAが発生し、腎臓の糸球体を攻撃するのだという。攻撃された糸球体は炎症を起こし穴が開いてしまう。周りの糸球体は、攻撃されて壊れた糸球体の分まで働こうとするが、それもキャパシティーを超えると壊れてしまう。こうして悪循環が起こり、腎機能が低下していくという。この時、異常なIgAの生成に関わるのが扁桃腺らしいとのことだった。
 
 治療法については、①血液をサラサラにする薬、②血圧を下げる薬、③ステロイド剤、④扁桃摘出などの方法があるが、①と②については効果は弱い。この病院では、③と④の併用(扁桃摘出+ステロイドパルス療法)を行なっているという。扁桃摘出に10日程の入院、ステロイドパルス療法は点滴投与3日と服薬4日を3回繰り返すから3週間の入院が必要とのことだった。また、扁桃摘出とステロイドパルスは続けてもいいが、分離して行なってもいいとのことだった。
 この治療法は、この病院のOB医師が提唱したものであり、ここ10年来多くの大学病院等で効果が認められているが、否定的な意見をもつ医師もいる。その意味で、完全に確立し承認された治療法ではない。十分に納得できない場合は、セカンドオピニオンの道もある。その場合は、データを提供するとの説明だった。もちろん、私の場合、完治を目的とするのではなく、これ以上悪化して透析とならないことをめざす保存治療となる。

 私は、提示された治療の方針に了承した。このころには、ある程度、扁桃摘出+ステロイドパルス療法のことは調べていたからだ。合計すると1か月以上仕事を休まなければならないので、できるだけ夏休み中にやりたいと考えた。耳鼻科の先生にも相談して、一旦退院して次週に扁桃摘出のために入院し、職場の様子を見て10月か12月にステロイドパルス療法のために再び入院することにした。

 次は扁桃摘出手術について記そうと考えている。

●IgA腎症と私① →こちら
●IgA腎症と私② →こちら




IgA腎症と私 ②

2021年08月19日 | IgA腎症と私
(2)開放腎生検と全身麻酔
 
 腎生検とは、直接腎臓の組織を採取して顕微鏡等で観察する検査であるが、これによって病名を確定し、適切な治療法を選択できるのだという。私を診察し、腎生検の必要を説いた医師の説明によれば、腎生検には背中から針を刺して腎組織を採取する方法と、開腹手術して直接腎組織を採取する開放腎生検があるが、この病院では安全に行うために開放腎生検を推奨しているという。私は任せることにした。後日調べてみると、全国的に主流なのは背中から針を刺す方法であり、こちらの方が部分麻酔で行なうため患者への負担が少なく、入院日数も4,5日~1週間程度で経費も安く済むようだ。ただ、web記事や体験ブログを読むと、熟練していない医師の場合何度も失敗したり、うまく腎組織がとれなかったりすることがあるようだ。また、件数は少ないが死亡例もあるという。一方、開放腎生検は、全身麻酔で行ない、2週間程度の入院を要するが、腎臓を目で見て組織を摂取するため、確実に多くの組織を採取することができ、血の塊である腎臓の止血を確実に行うことができるのがメリットのようだ。私の場合、13日間入院したが、手術の日の次の日から数えると、8日間で退院できた。安全にできて、良かったと思っている。費用は188980円だったが、限度額適用認定証を申請すればかなり軽減できる。私は申請しなかったが、共済組合から後日同額の還付金があるはずだ。結構な額のはずである。また、検査とはいえ、医師の指示による入院手術ということで、私の場合、民間保険のうちの2つが該当し、合わせて74730円の保険金が下りるはずである。

 さて、開放腎生検である。ここでは初体験だった全身麻酔による開腹手術について記したい。
 私の場合、右脇腹を5センチ程切ったが、すごい、というのが感想である。人生の時間の一部が、きれいさっぱり消え去ってしまった気分だ。麻酔は点滴で入れた。手術台に寝て何か話しているうちに眠ってしまったようだ。いつどのように眠りに着いたかわからない。眠りに着く過程は全く記憶にない。名前を呼ばれて目を覚ますと、もうすべて終わったといわれた。この間、時間の感覚はまったくない。だから、眠っている時間については、0分という感覚だ。起きたらもうすべて終わっていたのだ。9:00から始まった手術だったが、別室で待機していた妻が、目覚めたので帰宅してよいといわれたのは、11:30過ぎだったらしい。

 起きた時の記憶は何となくある。誰かから声をかけられて目を開けたのだ。手術室のライトを見た記憶がある。その後記憶は途絶える。次の記憶は、天井が流れている映像だ。べッドで移動したらしい。記憶はまた途絶える。次に現れるのは病室の天井である。看護師が数人いたと思う。何か尋ねられ答えたと思う。それ以降はずっと記憶がある気がするが、本当のことはわからない。確信が持てないのだ。同じ病室という空間にいたことで、持続的な記憶があると誤解しているだけかもしれない。
 意識や記憶というものが不確かなものであることを実感した。その不確かな意識や記憶に立脚しているのが人間というものであり、世界なのだ。すべてをこれは夢かもしれないと懐疑したデカルトを思い出した。デカルトは《夢を見ている私》を疑いえないものとしたが、意識のなかった私は《意識のない私》を認識することはできなかった。全身麻酔という経験によって、時間や世界、現実というものが、記憶や意識によって成り立っている脆いものであることを改めて考えさせられた。

 もう一つ書き記しておきたいことがある。導尿のことである。手術の後、その日は一日中安静にしていなければならなかった。開腹した傷の痛みもさることながら、最も苦しかったのは導尿だった。尿道に管を差し込んで尿を出すのだ。痛い訳ではない。激しい尿意を感じるのだ。尿意を感じるのだが、出ないのだ。もちろん、勝手に尿は流れ出ているのだが、おしっこをした感じにならない。激しい尿意だけが続き、膀胱が爆発しそうだった。はっきりいって地獄だった。チューブは次の日の朝抜くというが、どう考えてもそんなにもつわけがない。精神は、ズタボロだった。
 2~3時間程のたうち回ったと思うが、ベッドを少し起こして水を飲めるようになるなると、不思議と激しい尿意がひいていった。水を飲めば飲むほど尿意はどんどん引いていった。おかげで何とか朝までしのぐことができたが、水を飲むと尿意がおさまることをなぜ誰も教えてくれなかったのだろう、と思った。翌日の朝、尿管は抜かれ、トイレまで歩いて行くことが許された。翌々日にはエレベーターを使って1階のコンビニまで買い物に行くことも解禁された。ただし、腎臓に衝撃を与える危険があるため、階段の歩行はしばらく禁止された。傷はまだ痛み咳をするのも辛かったが、日増しに痛みは軽くなっていった。
 
 次は腎生検後の診断確定と治療方針について記す。

●IgA腎症と私 ① →こちら


IgA腎症と私 ①

2021年08月18日 | IgA腎症と私
(1)人間ドックから病院へ

 私が入院しているのは、IgA腎症という病気のためである。今回の入院にあたってwebページや体験者のブログから多くのことを学び、勇気づけられた。私の失敗や拙い経験を公開することにも多少の意義があるかもしれないと考え、ここに記そうと考えた。不定期で連載する。

 IgA腎症は、一応、難病指定されている疾病であるが、慢性腎炎の中で最も高頻度に見られる病気らしく、腎生検(腎臓の組織をとって調べる検査)を受けた患者の30~40%がIgA腎症であるといわれる。また、透析にいたる患者数の最も多い病気としても知られ、腎生検から10年で20%、20年で40%の患者が透析にいたるという。IgA腎症という病気については、後日、まとめたいと思う。

 いま考えてみれば、腎臓について本当に何も知らなかった。馬鹿である。クレアチニンという言葉も、eGFRという指標が何を表すのかも知らなかった。人間ドック結果の裏の説明をちょっと読めばわかったはずだ。2017年の人間ドックでは、私のeGFRはすでに★印の58程になっていたが、肝臓と同じで酒を少し控えれば復活するぐらいにしか考えていなかった。eGFRが58とは、大雑把に言えば腎臓が58%しか機能していないということであり、一旦壊れた腎組織は多くの場合復活しないのだ。私の腎機能は2019年の人間ドックでは、eGFR 39 、2021年にはeGFR 32になってしまっていた。ちなみに人間ドックでは、eGFRは60以下に★マークがつく。

 2019年のときには、eGFR 39 に加え尿潜血もあったので、一応地元の掛かり付け医に相談したが、「今すぐというわけではないが、5年後、10年後に透析になる可能性もある」、「気になるなら詳しく検査した方がいい」と言われ、もし行くのであればと、現在私が入院している病院を紹介された。しかし私の中では、《今すぐというわけではない》や《可能性もある》《気になるなら》という言葉が響き、そのうち検査してみようと思いつつも、予定は未定の様相であった。そして何より自覚症状がないことが、それらを補強していた。

 ここ20数年来、人間ドックはすべて同じ病院で受けている。現在入院しているこの病院だ。大した理由はない。仙台の大きな病院ならいいんじゃないかと、何となく思っていただけだ。この病院が腎疾患とくにIgA腎症で有名なことなど全く知らなかった。地元の掛かり付け医から紹介されたときは、いつも人間ドックを受ける病院だったので驚いた程だ。

 さて、2021年の人間ドックである。もちろん、現在私が入院している病院で行った。ドックが早く終わったので、中間説明を希望した。どうしますかと聞かれ、時間もあるし、腎臓のことが多少気になっていたこともあり、何となくお願いしますといっただけだ。ところが、担当医師からeGFR 32とは腎臓が32%しか機能していないという意味だと告げられた。衝撃を受けた。32%という響きに、人生が半分終わったような気になった。担当医師は「詳しく検査した方がいい」「紹介状を書きます」といった。できればこの病院でお願いしたいと私が希望すると、その医師はしばし中座した後、その日の午後に予約してくれた。病院のある仙台までは遠い道のりである。ありがたいと思った。もちろん、この病院で詳しい検査をしようと思ったのは、地元の掛かり付け医の薦めで、腎臓で有名なところだと知ったからだ。

 午後の予約だったが、実際には午前中に呼ばれた。診察してくれた医師は、何となく信頼できそうな医師だった。彼が、その病院の腎内科の中心的な存在であることを知ったのは、ずっと後のことだ。午前中のドックの中間データを吟味し、もう一度採決・採尿・エコーを行なった。診察にもかなり時間をかけてくれた。問診の中で、親族にも腎臓の病気でこの病院に入院した人がいたことを思い出した。昔のデータを手間をかけて引っ張り出してくれ、IgA腎症だったことがわかった。私の場合、腎機能の低下と尿潜血は見られるが、蛋白尿はまったく見られなかった。教科書通りではなかったようだ。診察してくれた医師は、もう少し検査してみる必要があるが、直感的には腎生検をした方がいいと思う、と語った。腎生検とは、腎臓の組織を直接採取して調べる検査だ。それ以降3回、検査と診察を受けた。病院のある仙台までは、私の住む気仙沼から2時間程度だ。これでも、三陸道が開通して短縮されたのだ。結局、何度調べても、尿潜血と腎機能の低下は認められるが、蛋白尿はまったく見られない。3回目の診察で腎生検の決断を求められた。私は、その場で了承した。その場で了承したのは、この間、腎疾病の怖さとその治療、特にこの病院の治療方針について学んだからだ。ここに賭けるしかない、と思ったのだ。

 腎生検を決断した数日後、地元の掛かり付け医にそれらのことを告げたが、「私もそうしたいと思っていた」と語り、データ提供等の協力を最大限することを申し出てくれた。

 私が重い腰を上げ、現在の入院治療にいたったきっかけは、まったくの偶然の重なりである。長年人間ドックをしていた病院がたまたま腎臓病で有名なところだったこと。その病院を地元の掛かり付け医も推薦したこと。その病院でドックの中間説明を受けたすぐその午後に診察の予約を入れてくれたこと。診察した医師が信頼がおけそうな予感がしたこと。やや遅きに失した感があり、保存治療とならざるを得ないが、やらないよりはいい。あと何年生きるかわからないが、できれば透析は避けたい。

「花嫁」

2021年08月16日 | 今日の一枚(various artist)
◎今日の一枚 533◎
Various Artist
フォーク・ベスト
 数日前に一旦退院したが、今日また入院した。今度は治療のための入院である。明日手術をし、10日間で退院の予定である。ただしその後、半年以内に3週間の入院治療をしなければならない。これまで、入院などしたことがない私にとっては、ずいぶんと長く感じられるが、一方未知の経験であり新鮮でもある。
 退院から数日間の自宅での生活は、家族の配慮もあり、のんびりと過ごすことができた。食事等の制限がなかったので、かつおやメカジキを食べ、酒も飲んだ。メカジキを刺身で食べるのは、気仙沼だけらしい。お盆期間に入ると、船が休みなのか、スーパーから生のかつおは消え、冷凍ものに変わった。お盆のためか、値段の高い本マグロの中トロも並ぶようになった。コロナ禍で今年も東京の長男の帰省はなしだが、長男が来れば、高い中トロを買ったかもしれない。

今日の一枚は『フォーク・ベスト』である。熱狂的なフォーク体験などなかった私が、アップルミュージックでこのアルバムをダウンロードしたのは、病院のコンビニで買った『週刊現代』(2021.8.21, 28号)の「1971年夏、名曲《花嫁》と僕の青春」という記事を読んだからだ。「花嫁」という曲は知っていた。ヒットしたことも知っていた。なかなかいい曲だと思う。しかし、成立の背景や歌詞の意味を考えたことはなかった。
 駆け落ちの歌なのだ。そして、古い価値観の中で自由に生きる人生を肯定する歌なのだ。1969年に東大安田講堂が陥落したことを契機に、学生運動は退潮に向かった。目標を見失い、進むべき道に逡巡する若者たちが、自分の信念に基づき自由に生きればいいというメッセージに共鳴したというのである。記事には、人生の中でこの歌に励まされた話しがいくつか紹介されている。「花嫁」を作詞したきたやまおさむ氏は、次のように語っている。
71年は、それまでの価値観が音を立てて崩れ落ちていく時代でした。たとえば、結婚もそのひとつです。当時は親の敷いたレールに従って結納品や嫁入り道具を揃え、望みもしない結婚をする若者たちも多かった。もちろん、それは女性だけではありません。男性だって同じです。そんな古い価値観を跳ねのけて、みんなで新しい時代に突き進もう。生きたいように生きればいい。これからの時代を作っていくのは、俺たちなんだ。そんな思いを込めて、「花嫁」の歌詞を書いたのです。
 そう思って聴くと、やはり考えさせられるものがある。現在に比べてかなりシンプルな古き良き時代だったのだと思う反面、自由な生き方へとテイクオフするのは、実際にはかなりの勇気とエネルギーが必要だったのではないかとも思ったりする。時代を象徴する歌には、それなりの背景があるものだ。
 私はこのコンピレーションアルバムの1曲目の「あの素晴らしい愛をもう一度」が好きだ。卓越した歌詞とメロディーだと思う。

女子バスケ笑顔の銀

2021年08月08日 | 今日の一枚(E-F)
◎今日の一枚 532◎
Eric Dolphy
At The Five Spot vol.1

 今回は、アメリカには勝てなかったようだ。オリンピックの女子バスケ決勝の話である。
 結果的には大差がついてしまった。仕方ない。相手のインサイドの長身プレイヤーとアウトサイドシュートにやられた印象が強いが、アメリカのディフェンスに悉く攻撃の芽を摘まれたことが大きな原因だったと思う。
 強烈なブロックショットでインサイドを潰され、タイトなディフェンスでシューターを封殺された。1対1を打開できなかったため連携プレーが機能せず、インサイドに人数をかけて守るために、前を走るのが遅れてしまう。日本の攻撃の芽が摘み取られたといっていい。
 それでもチャンスはあったのだ。前半に、ノーマークに近いイージーシュートを何本も外したことが痛かった。もちろんそれは、ブロックに対する脅威からくるものであるが、ああいったシュートをきちんと決めて、離されずについていければ、流れは変わったかもしれない。なかなか点差が離れなければ、アメリカにこんなはずはないという焦りが出てくる可能性があるからだ。焦りはシュートを単調にし、ミスを誘発する。ディフェンスの連携にズレをもたらし、ファールを増やすのである。そしてそれが、ほとんど唯一の可能性だと私は思っていた。
 金メダルへの千載一遇のチャンスを逃したが、選手を責める人は誰もいまい。ここまで、決勝の舞台まできたこと自体、多くの人が予想し得なかったほど素晴らしい活躍だったのであり、日本の女子バスケに希望と誇りをもたらしたのだ。
 私はタイムアップのブザーを聞いて、涙が溢れてしまった。
 今日の一枚は、エリック・ドルフィーの『アット・ザ・ファイブスポット第一集』である。ファイブスポットでの1961年のライブ盤である。
Eric Dolphy (as,bcl,fl) 
Booker Little (tp) 
Mal Waldron (p)
Richard Davis (b) 
Ed Blackwell (ds)
エリック・ドルフィーは、基本的に好きだ。何というか、フレーズが予定調和的でないところ、どこか外れたようなところがいいのだ。このアルバムでは、そんなドルフィーとブッカー・リトルの哀感を帯びた正統派のトランペットがよく絡んでいる。
 以前にも記したことだが、このライブでピアノを弾いているマル・ウォルドロンの晩年の演奏を生で聴いたことがある。私の住む気仙沼市の「ヴァンガード」というジャズ喫茶で見たのだ。小さなジャズ喫茶の最前列、わずか2m程の距離だった。マスターは「今夜は歴史を聴くんだ」といっていたが、演奏も悪くはなかった。ただ、今では、タバコをくわえてピアノの前に座ったそのカッコいい姿と、握手をした時の手の冷たさだけが記憶に焼きついている。

日本の女子バスケが決勝の舞台へ

2021年08月07日 | 今日の一枚(Q-R)
◎今日の一枚 531◎
Red Garland
Groovy

 昨夜はよく眠れた。こんなによく眠れたのは、入院して初めてだ。術後の体調が回復してきたということだろうか。隣のベッドだった困ったちゃんが転院したからだろうか。あるいは、昨夜の日本の女子バスケのストレスを感じさせない大活躍を見たからだろうか。
 格上のはずのフランスを相手に圧勝である。フランスの選手は集中力を切らし、チームは崩壊寸前だった。町田の落ち着いたゲームメイクとアシスト、驚異的な3ポイントシュート、たびたび繰り出されるファーストブレイク、そしてオールラウンダー赤穂ひまわりのドライブ。赤穂ひまわりは絶対WNBAにいって欲しい選手だ。
 途中までほとんどメンバーチェンジをしない戦術に、私はフランスが盛り返し、4pに競ったらどうすんだと思ったりしたが、そんな心配は杞憂に終わった。
 日本の女子バスケが世界の決勝の舞台に立つ。長年、高校バスケの指導に関わってきた者としては、感慨深いものがある。

 今日の一枚は、レット・ガーランドの1956〜57年録音盤『グルーヴィ』である。モダンジャズの定番作品である。
 レット・ガーランドというピアニストにはそんなにハマったことはなかったが、気分の良い今日は、すんなり入ってくる。得意のブロックコード奏法は力強いが気品のようなものがあり、ファンキーなテイストだが、音が柔らかい。聴く者は、軽やかな心持ちでノレる。
 入院という特異な条件ではあるが、このアルバムを通して聴いたのは、おそらく30年以上はなかったと思う。
 明日の決勝、どのような展開となるか楽しみである。自分たちのバスケットを表現して欲しい。