WATERCOLORS ~非哲学的断章~

ジャズ・ロック・時評・追憶

堤防に思う ~命が一番大切なのか~

2019年06月29日 | 大津波の現場から


 私の住む街の堤防の上からの写真である。大津波のあと,海岸線には何キロにもわたってこのような堤防が築かれた。先日、私はジョギングコースに使ってみた。空は曇っており,私以外に人は見当たらなかったが、海を見ながらのジョギングはなかなか快適だった。
 
 
ところで、私の住む街には、いまでも堤防建設そのものに反対する人々が多数いる。堤防建設を渋々容認しつつも、できるだけ低いものにするよう訴えている人たちも多数いる。

 堤防は、「人の命が一番大切」という国や県の主張のもと次々建設され、既成事実が積み重ねられていった。説明や話し合いを十分に行ったということになってはいるが、結論ありきの国や県のやり方は、反対派の人たちの立場から見れば、暴力的ともいえるものだったろう。
 
 それにしても、本当に「人の命が一番大切」なのだろうか。「人の命が一番大切」という言い方は、一見もっともで批判できない言葉のように思える。けれど、そもそも「人の命が一番大切」というからには、「命」とは何かが問われなければならない。震災直後には、そのことが問われる可能性があった。社会の中で議論が深められる可能性があった。震災の後、復興を論じるテレビ番組の中で「人の命が一番大切なのではない」と喝破した評論家がいた。勇気ある発言だった。私は共感を禁じ得なかった。しかし、多くの犠牲者を出した震災後の風潮とテレビ局の自粛(自己防衛)のためか、その主張はかき消され、その評論家がテレビに出ることはなくなった。「命」についての思考は停止し、「命」の語は奥行きのない漠然とした記号として流布するようになった。

 「生命」とはあるいは「生きる」とは何なのだろう。生きるとは、どのように生きるかという問題と表裏である。脳死の問題ともリンクすることだが、心臓が動いて、食べて排せつして寝るだけで生きているといえるだろうか。生命あるいは生きるということは、人間が何かを感じ、考え、そして生活するということと大きく関係しているように思える。人間の尊厳の問題といってもいいだろう。堤防は生活の場と海とを遮断し、視界から海を消し去ってしまう。漁師や海辺に生活する人々にとって、海の見えない生活は、彼らの生きる意味や人間としての尊厳と大きく関係しているのだ。

 縄文時代以来、海辺に住む人たちは津波と戦ってきた。家を流されるたびに街を再建し、生活してきた。もちろん命を守ることは必要である。けれども、彼らが長い歴史の中で海を離れることはなかった。それが自然とともに生きるということなのであり、自然に敬意を払うということだろう。堤防は、海と人々の生活を隔ててしまったが、自然と我々をもべててしまったように思う。





大津波の現場に立つ(5)~「復興」の度合い~

2012年09月12日 | 大津波の現場から

 9.11は震災1年半ということで、TV等のメディアでもいくつか特集番組があったようだ。私の住む街は、「建築制限」の影響で、他の街、特に岩手県などと比べて産業の「復興」が遅れているといわれているが、それでも幹線道路の復旧や仮設商店街の開設などで外見的には確かに変わってきてはいる。

 私の住む街は、海があってすぐに山があるという地理的な背景もあり、津波の直接的な被害を受けた人と、そうでない人との「格差」の問題が大きくなってきているように思う。私のように、家が流されず仕事もある人間はもう通常の生活に戻っているわけであるが、一方でいまだに仮設住宅で不自由な生活を強いられている人、仕事を失って生活がままならない人などがまだまだ大勢いる。また、経済力のある人は、家が流されてもすぐに新しい家を作ることができるようで、実際私の家の周囲にはここ1年ぐらいで次々に立派な新しい家ができている。

 下の写真は私が子供の頃まで過ごした地区のもので、つい先日まで中学の同級生たちがこの街にひまわりを植える活動をしていた。上の2枚の写真は、以前アップした記事のもので、震災後1か月程度たってからのものである。一方、下の2枚はほぼ同じ場所を撮影した現在(2012-9-9)のものだ。これが「復興の度合い」である。瓦礫が片づけられ、幹線道路もかさ上げしてなんとか復旧されたが、何もないことには変わりない。地盤が沈下していたるところに水たまりがあるのがわかる。このあたりは、新しい都市計画のための建築制限がかかっており、勝手に工場や住宅を建てられないことになっている。けれども、当の「新しい都市づくり」は一向に進んでいないのが現状である。

 3枚目の写真の幹線道路の奥の方に、仮設商店街「復幸マルシェ」が見える。中学・高校の同級生のひとりはここに店を構えて頑張っている。

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「女性ボランティアを襲う」

2011年07月10日 | 大津波の現場から

 震災以来、ネガティブな報道は自主規制され、復旧・復興に歩み出そうとする被災地の人々の思いや、被災地の人々の力になろうと力を尽くすボランティアの人々の活動が連日報道されている。中には、共感をおぼえ、思わず涙してしまうような話題も多い。それらの「美談」はそれ相応の脚色はあるだろうが、もちろん嘘ではなかろう。

 しかし、被災地の現実はそういった真摯さや誠実さや善良さだけからなっているわけではない。薄汚く、ずるがしこく、破廉恥な現実だってあるのだ。そういったネガティブな現実もやはりきちんと報道されるべきではなかろうか。醜さを捨象して築き上げた美談の王国は、やがてその醜さに復讐されるだろう。大切なのは美談の王国を建設することではなく、生身の現実から共生を紡いでいくことだ。

 数日前、新聞に載った「女性ボランティアを襲う」という見出しの事件も被災地の生身の現実のある側面を映し出している。私の住む街で会社員(38)が強姦致傷の疑いで逮捕された。この容疑者は7月3日午前4時ごろ、市内の避難所で、神奈川県からボランティアで来ていた30代の女性が就寝しているところを襲い、頭部を数回殴り、カッターナイフのようなもので頭や首を切りつけ、全治2週間程の「軽傷」を負わせたという。この会社員の容疑者は自宅で生活できるようになるまでの間、この避難所で生活しており、女性と面識があったという。

 何といっていいのかわからない。被災地の人間のひとりとして、本当に申し訳がないとしかいいようがない。

 この事件に類する、せっかく来てくれたボランティアに対するひどい仕打ちは、これまでにもいくつかあった。震災から1ヶ月ほどの頃実施された、一般市民に対する大規模な支援物資配布会において、ボランティアの方の金銭入りバックが盗まれた事件もそうだ。行政側や地元のメディアは地元紙等を通じて、「間違ってもっていったなら返してください」というメッセージをだしたが、空の支援物資と中身の詰まった重いバックを間違えるはずもなく、盗難・窃盗であることは明らかだろう。

 本当に申し訳のない事件だ。


サルベージ船

2011年06月11日 | 大津波の現場から

 大津波から3ヶ月、私の住む街は、大津波の跡はまだまだ生々しいが、それでも瓦礫は減ってきており、復旧作業は確実に進んでいるようにみえる。もちろん、経済的なことも含めた、街の復興・再生はこれからのことであり、いくつものハードルを越えねばならないだろうが……。

 2週間程前、海岸付近をクルマで走っていると、見たこともない大きなクレーンをもつサルベージ船を見かけた。恐らくは、大津波で流され陸地に乗り上げてしまった船を引き上げるための物なのだろう。あまりにめずらしいので、思わずクルマを止めてシャッターを切ってしまった。かなり遠くまで離れたのだが、全貌がおさまりきらないほどの大きさだった。

 ただ、陸地に乗り上げた船の中には、このサルベージ船をもってしても引き上げ困難なほど巨大な船がいくつもある。どう考えても困難だと、素人目にもはっきりとわかるほどの巨大な船である。これらの船をいったいどのようにして海に戻すのだろうか。単純な疑問だが、個人的にはとても興味をひかれる。

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「悪臭」・「震災バエ」(加筆)

2011年06月11日 | 大津波の現場から

 あの大津波から3ヶ月たった。それにしても、昨日も臭かった。

 私の住む街では、大津波襲来現場を中心に以前記したような悪臭問題が深刻化している。冷凍工場から魚や魚のすり身、つり餌などが流出して腐敗し、悪臭を放っているのだ。被災現場はもちろんのことだが、風の向きによっては現場からかなり離れた場所でも強い悪臭となることもしばしばだ。現場から数百メートルの私の家でも、日によってかなりの悪臭を感じ、気軽に窓などあけられない状況である。家に近い被災現場が瓦礫置き場になったこともそれに拍車をかけているのかもしれない。

 悪臭は大津波の数日後からあったが、当時は気が張っていたこともあり、なんとか我慢できた。しかし、生活も落ち着き始めている現在、この悪臭は我々の神経にボディーブローのようにじわじわとダメージを与えてくる。私なども日によっては、もう限界だなどと絶望的な気分になることもある。もちろん、気を取り直して日常生活にもどるわけだが……。

 最近では、この悪臭現場を中心に「震災バエ」が問題化している。腐敗物から緑色のピカピカした大型のハエが大量発生しているのだ。場所によっては洗濯物を干すことも困難な程のようだ。一週間ほど前の朝、早起きして庭の草花に水をやっていると、私の家の壁(クリーム色だ)にたくさんのハエがたかっているのを発見、ハエたたきを使って10分程で40~50匹のハエを撃退したがむなしく、状況の根本的解決には程遠い有様だった。清潔を旨とするコンビニの中をハエが飛んでいることもしばしばだ。行政も被災現場に薬品をまくなどの対応をしているようで、ここ数日ハエの数は若干減ったが、根本的解決とはなっておらず、また暑い日々が続けばハエは増加するものと思われる。次の写真は今日の我が家の様子である。ああ、気持ち悪い。お食事中の方、すみませんでした。

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 数日前の「回覧板」では、「ペットボトルの集ハエ容器」なるものも紹介された。この装置に、お酒1合、酢1合、砂糖1合でつくった溶液を入れるのだそうで、グレープフルーツジュースを入れるとさらに効果的であるとあった。まだ実践していないので、効果の程はさだかではないが、そのうちやってみようかと考えている。

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  今年の夏は「節電ファシズム」が到来しそうな雰囲気であるが、エアコン使用をせず、悪臭と震災バエのために窓もあけられず、蒸し風呂のような室内で扇風機を回している光景を思い描くと、絶望的な気持ちになる。そもそもエアコンを使ったところで、外の空気を取り込むわけで、悪臭が室内に侵入する問題は避けられない。

 一体、どうしたらいいのだろう。我々東北人は我慢強いらしいので、やはり我慢するしかないのだろう。


大津波の現場に立つ(4)

2011年04月23日 | 大津波の現場から

 私の住む三陸地方では、昔から津波の怖さについては家族や学校で繰り返し聞かされてきた。私なども祖父母や両親から三陸津波やチリ地震津波の経験談をしつこいと思うほど聞かされたものだ。だから、我々は津波に対するあるイメージをもち、地震があったら(それがたとえ地球の裏側であっても)、津波に警戒し、高台への避難を考えることが習慣になっている。実際、そのために助かった人は今回も大勢いたはずだ。しかし、そのことで逆に犠牲になった人たちもいたことを忘れてはならない。津波に対するイメージや対策の多くが、「チリ地震津波」をモデルにしていたのだ。私の街もそうだが、今回被害の多かった宮城県南三陸町(志津川)や岩手県陸前高田市などは街のいたるところに、「チリ地震津波到達線」のような標識があり、チリ地震津波を基準にした防災対策がとられていたのだ。この場所はチリ地震津波の時も水はこなかったから大丈夫だ、といって避難せず、犠牲になった人たちの話をいくつも聞く。

 私の職場の仲間の場合もそうだ。あの地震の2日前にちょっと大きな地震があり、津波注意報がでた。私は何気なく、「君の家も海の側だから危ないんじゃないの」といったのだが、「大丈夫、ああ見えても私の家は高台で、チリ地震津波も来なかったんですよ。地区の避難区域にもなっているんですよ。」と彼は答えた。もちろん私はそうなのかとだけ思い、何となく納得してしまった。2日後の大地震で彼の家族は避難せず、彼の両親と奥さん、そしてまだ幼い三男が流された。奥さんは何とか助かったが、両親と子どもはそのままである。家も跡形もなく流されてしまった。

     *     *     *     *

 さて、今回は、O地区である。ガソリン不足の中、長男とともに自転車でこの場所を訪れたのは津波から3日後のことだっとた。到着したのは夕方で、辺りはもう薄暗くなっていた。すべてが流され何も無い荒野の中に、日本一海岸に近い駅として売り出していた建物だけが無残な姿で残っていた。夏には多くの海水浴客を集めてにぎわった海岸は、砂浜も松林もほとんど失われ、へし折られた松の木々だけがただ転がっていた。

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(写真はクリックすると拡大されます)

 後日、再びこの場所を訪れてみると、そこは「更地」といってもよいほどの状態だった。軒を連ねた家々も、旅館も民宿も何も無かった。遠くに、建物だけ残った旅館が見える。中はもちろんめちゃめちゃだ。

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 海水浴客はもちろん、地元の商売人や高校生たちの足を支えた鉄道は、この沿線はどこも壊滅である。本当に復旧するのだろうか。

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大津波の現場に立つ(3)

2011年04月16日 | 大津波の現場から

 M地区である。私の親戚の家も流された。叔母の話によると、大津波警報の放送で避難を促され、必死の思いで高台にある神社の階段を駆け上り、振り向くと、もうそこには自分の家は無かったとのことだ。逃げるのが数分遅ければ、叔母も流されてしまったかも知れない。

 ガソリン不足の中、長男とともに自転車でこの場所を訪れたのは大津波の三日後だった。衝撃を受けた。《壊滅》とはこのことをいうのかと思った。街がひとつ完全に消えてしまったといっていい状況だった。

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 数年前に亡くなった叔父がやっとの思いで建てた自慢の家は、基礎部分を残してきれいさっぱり消滅していた。家がどこに流されたのか、未だにわからない。

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 粉々になってしまった電信柱が津波のパワーを物語る。イカの塩辛で全国的に知られる企業の工場も壊滅的な打撃を受けた。(これは片づけが進んだ現在の様子)

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 線路も車も工場もめちゃめちゃである。叔母が逃げ込んだという神社だけが何事もなかったかのように背後で被災現場をながめていた。(これも現在の様子)

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(写真はクリックすると拡大されます)

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(神社の写真は片付けが進んだ現在の様子)


大津波の現場に立つ(2)

2011年04月15日 | 大津波の現場から

 S地区である。私の生まれ育った場所だ。高校生ぐらいまで生活をした場所だ。街全体が火災に見舞われた。湾の入り口にある石油コンビナートが地震と津波で崩壊して重油が海に流出・引火し、火のついた津波が湾の一番奥にあるこの地区を襲ったのだ。避難場所で長く不安な一夜を過ごした震災の日の夜、携帯電話のワンセグTVでこの街が炎上する映像を見て、大変なことが起こっているのだということを認識した。それが私が生まれ育ったこの街だと知ったのは、数日後のことだった。

 ガソリン不足の中、やっとこの街を訪れたのは、大津波から約一週間後のことである。まだ、街の奥深くまでは入れず、高台から町全体を見渡した。

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 町全体に焦げ臭さと重油の臭いが立ち込めていた。大小の船が何艘も陸に打ち上げられていた。

 私が街の奥深くに立ち入ったのは、震災から一ヶ月も経過してからである。自衛隊や消防隊らのおかげで、応急的な道が整備され、瓦礫の撤去も始められていた。

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 火災の跡は今も生々しい。

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 かつての私の家の側にあった缶詰工場も大破していた。かつて住んでいた場所はこの奥にあるのだが、もうこれ以上は進めなかった。

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 街を縦断する国道も大きな船によって通行不能だ。何艘もの漁船が打ち上げられていた。

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 言葉を失い、そこに立ちつくすのみだった。幼い頃遊んだ懐かしい路地はもうそこにはなかった。こんちゃんちも、とおるちゃんちも、あきらちゃんちも、そこにはなかった……。否、薄っぺらい感傷にひたっている場合ではない。そこには人々の生活があったのだ。一体、どれぐらいの人々が犠牲になり、家を失ったのか、見当もつかない。この街に住んでいた同級生たちの安否は今でもはっきりはわからない。

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 自衛隊の人たちによる行方不明者の捜索は今でも続いている。 私には、「ありがとうございます」と声をかけるしか出来なかった。


大津波の現場に立つ(1)

2011年04月13日 | 大津波の現場から

 腐敗物の海洋投棄が始まったせいか、ここ数日、あの悪臭が影を潜めている。このままなくなってくれればよいのだが……。電気も水道も復旧し、瓦礫の撤去も少しずつだが進んでおり、私のような「在宅」の者は、「日常」を取り戻しつつある。避難所暮らしの人たちには申し訳ないが、落ち着いて音楽を聴ける状況にもなってきている。

 福島・茨城沖の地震の頻発が心配だ。昨夜も大きな地震があったような気がした。本当にあったのだろうか。よくわからない。最近、地震の夢を見るのかもしれない。深夜に地震で目を覚ますことしばしばだが、本当にあったのかどうかわからなくなることがある。夢のような気もするのだ。夢か現か判断がつかない。こんな状況で、デカルトの夢の話などを思い出してしまう私は、やはり震災のリアリティーがないのだろう。

 幸か不幸か、たまたま所用で海から比較的遠い地域にいた私は、あの大津波を見ていない。多くの人たちが避難していることを知り、避難所になっている中学校に子どもたちを捜しにいって、はじめて津波のことを知ったのだった。避難所で長く不安な一夜を過ごし、翌日まだ避難命令の続いている中、こっそり被災現場に侵入した私は、津波の現実を目の当たりにして愕然とした。あまりに変わってしまった風景に足が震えた。そこにあったはずの家々も道路も、美しい砂浜も、緑の松原も、すべて消え去ってしまっていた。そして時間の経過とともに、返ってこない人たちがいることがわかってきた。その中には、私とかかわりのある人たちもいた。

 だから私には震災についての大きな衝撃はあるが、津波そのものに対するリアリティーがない。ずっと後で、停電がおわってから、You Tube などで津波の映像を見たのだが、作り物のようにしか思えない。そこにあるはずの、太く大きな轟くような音や、温度や臭いの感覚がないのだ。生死を分けるような恐怖や海水が肌に触れる感覚ももちろんない。津波の翌日見た被災地の信じられない現実と、You Tubeの映像とが、自分の中できちんとつながって整理されないのだ。だからだろうか。私は時間が空くとできるだけ自分の周りの被災地の状況を見ておこうと考え、実際そうしてきた。最初は、津波というものに対する単純な興味もあったと思う。けれども、それは次第に苦痛な作業になっていった。どこを見ても同じなのだ。どこを見ても瓦礫の風景が際限なく続くだけだ。そこには希望というものがない。

 これから何回かにわけ、いくつかの写真を掲載しようと思う。すべて私が携帯電話やビデオカメラの撮影機能で撮ったものだ。メディアの流す衝撃的な映像を見た人は、もはやこの程度で驚きはしないかも知れない。けれども、これらはまぎれもなく私自身が目撃したものであり、そのたびに足が振るえ、恐怖におののいた風景である。そこには写真だけでは到底伝えきれない、温度や臭いやそれらすべてが醸し出す独特の皮膚感覚があった。それが、この震災の、私のとってのリアルだ。

 今回は、津波の翌日、私の住むH地区でとった写真だ。

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 全漁連の建物だけが残っているが、それも中はめちゃめちゃである。

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 海水の水溜りがいたるところにできている。家々が軒をつらねていた面影すらなく、瓦礫の風景が一面に続く。

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 遠くに地元の高校が見える。4階まで津波は押し寄せ、中には何も残っていないとのことだ。


悪臭 ~メディアが伝えない震災現場のもうひとつの現実~

2011年04月10日 | 大津波の現場から

 震災から1ヶ月が過ぎ、私の周りでも少しずつだが生活が落ち着いてきている。もちろん、家族や家を失った人にとってその現実に何の変わりもないが、全国の善意のおかげで多くの物資が集まり、避難所の生活も物質的には軌道にのっている。我々在宅者も電気・水道が復旧し、日常の生活を取り戻しつつある。ガソリン不足もかなり解消され、自衛隊などのおかげで道路も応急的な復旧がなされている。また、瓦礫が続く風景に変わりはないが、震災直後に比べれば瓦礫の撤去作業が進んできていることがわかる。

 地震や津波の惨状をはじめ、被災者たちの生活などについては、多くのマスコミが伝えるとおりであり、その内容自体には大きな誤りはないと思う。ただ、メディアの性質上、報道されにくい現実もある。それは例えば、以前少し触れた災害現場での略奪行為や倒壊家屋等から金品の物色・窃盗行為である。また、災害現場における「悪臭」の問題もそうだ。三陸海岸には多くの漁業の基地があり、そのため冷凍会社も数多くあったが、今回の津波でそれらが破壊され、冷凍していた魚や釣り餌が流出してしまったのである。これらの冷凍物はものすごい量にのぼり、災害現場は魚や釣り餌だらけだ。それらが腐敗して辺りにものすごい悪臭を撒き散らしているわけでだが、その匂いは日増しに強まっている気がする。災害現場はもちろんのこと、災害現場から1km程度の距離にある私の自宅でも、戸外に出るのがつらいほど強烈な匂いであり、これにはホトホトまいっている。吐き気をもよおすほど強烈な悪臭である。

 幸い今日はいつもより異臭が弱いようだ。天気も良いので、しばらくぶりに窓をあけ、ビル・エヴァンスを聴きながら家の片づけだ。午後からは時間が空きそうなので、また災害現場の視察にいってみようかと思っている。歴史学を学んだものの一人として、このような事件の教訓はきちんと後世に伝えなければならないと思っている。

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これはマグロですかね。


また地震だ!

2011年04月08日 | 大津波の現場から

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 昨日の深夜、また大きな地震があった。津波警報もでて、夜中に高台に避難したため、今日は一日寝不足気味だった。余震にはもう慣れっこだが、昨日のやつは3・11を思い出させるような大きな地震だった。2階のベットで眠りにつく寸前だったのだが、家がこのまま倒壊してしまうんじゃないかと思うほどだった。重いタンスや本棚が1m程もずれ動き、食器棚のグラスは割れ、本やCDが棚から落ちて床に散乱している有様である。(ただ、3・11の地震の際は棚の書籍・CDが一つ残らず下りたが、昨日のは少しだが棚から落ちなかったものもあり、その意味では地震の規模は3・11程ではなかったのかも知れない)

 ついこの間、やっとの思いで3・11の後片付けが終わったと思ったばかりだったのに、またこれを片付けるのかと思うと絶望的な気分になる。ところで、CDのプラスチックケースはなぜにこうも壊れ易いのだろうとしみじみ思う。3・11と昨日の地震でCDケースの多くが破損してしまった。小さな破損で済んだものもあるが、大きなひびがはいったり、ケース自体が割れてしまったりしたものも多く、ちょっとショックだ。家族や家を失った人も多い中、CDケースの破損を嘆くなど自分のせこさが恥ずかしいく大きな声でいうのが憚られるが、何か自分の世界のある種の完全性が損なわれてしまったような気がして、落ち着きが悪いものだ。

 余震には慣れっこと書いたが、一方で地震に対して過敏になっている部分もある。地震の前兆を認識でき、少しの揺れでは驚かなくなった反面(震度4程度ではどうってことないという感覚がある)、ベットに寝ていると、ずっと揺れているような気がして、落ち着いて眠れない。一晩に何度も起きてしまう始末である。

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レコード一枚夢残す……

2011年04月02日 | 大津波の現場から

 昨日は午後から時間が空いたので、ちょっと思い立って岩手は陸前高田市まで行ってみた。突然思い立ったのは、昨日の『河北新報』にジャズ喫茶「h.イマジン」店主の冨山勝敏さん(69)についての記事が載っていたことがきっかけだ。新聞は「レコード一枚夢残す」「心癒やし集える場必ず」という見出しで、瓦礫の中から拾った一枚のレコードをもって立ち尽くす富山さんの写真が掲載されていた。この街の状況をこの目で見ておきたくなったのだ。

 天気がよく、青い空と海が溶け合い、透き通るように美しかった。この美しい海が我々に暴威を振るったとは信じられない。陸前高田市は、報道の通り、街がひとつ消滅したといっていい程の壊滅的状況だった。予想どうりだ。予想以上とは書かない。震災以来、私の街の周辺のいろいろな場所を見たが、もうどこも同じなのだ。瓦礫と泥と悪臭。場所によっては焼け跡。それだけだ。けれども、そこにはやはり人間がいる。この狭い土地にへばりついて生活してきた人々がいる。復興を願う人々がいる。私はそれがいとおしい。

 陸前高田市にはかつて日本ジャズ専門喫茶「ジョニー」があり、私も何度も足を運んだものだ。「ジョニー」が盛岡に移転して以降、この街に足を運ぶ頻度もめっきり減っていたのだが、知らないうちにこんなジャズ喫茶が出来ていたのですね。新聞によると、冨山さんは東京の大手ホテルの会計システム責任者やベンチャー企業の役人などを経て、2003年岩手・大船渡に店を開いたそうだが、昨年2月に火事で全焼、昨年12月にこの陸前高田市に移り、再出発をしたばかりだったという。店は旧高田町役場庁舎を改装した、「柔らかい線と赤の外壁、広いテラス、欧風の内装」の建物だったとのこと。このジャズ喫茶を訪問したことがなかったことが、今となっては何としても悔やまれる。けれど、冨山さんは、「昔の建物だから土台は大丈夫だ。これが私の元手。木材を集めて堀っ立て小屋を建て、そこからまた始めるよ」といっており、再起の折には是非ともいってみたい。「東京にはなかった人の情が何よりの財産になった。しばらく、みんな苦労の日々が続く。心を癒しに集える場をつくるのが、次の仕事だ」という冨山さんの言葉に救われる。

 昨夜、知人の家が火事になった。全焼である。電気が通ったその日だったという。漏電ではないかという噂だ。そういえば、最近火事が多い。最近といえば、余震が活発化している。ここ数日、毎日のように震度4や5クラスの揺れがある。揺れ方や揺れの方向が前とは変わってきているような気がするのだが……。心配だ。

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善意と「醜さ」

2011年03月25日 | 大津波の現場から

 震災のような特異な状況の下では、人間の善意や「醜さ」が顕在化するのだろうか。

 大きな傷を負ってなお気丈に振る舞い、助け合う被災者たちをはじめ、日本全国からあるいは世界各地から駆けつけてくれたボランティアやメディカルチーム、自衛隊や消防隊の人たちには、まったく頭の下がる思いだ。妻はこれらの人々を見ると涙が出るといっている。ある種の人間の善意が形となってあらわれたものといえるだろうか。

 しかし、震災の現場はこうした善意や連帯や共同だけからなっているのではない。人間の「醜さ」が突出するのもまた、震災の現場の宿命ようだ。大地震と津波と火災で大混乱だったあの日の夜以来、さまざまな「醜さ」を見、また耳にする。地震と津波で破壊されたスーパーマーケットから商品を盗み出す人々、倒壊した家屋で金品を物色する人々、それらが中国人窃盗団による仕業であるとの流言も流布している。また、キャッシュサービスに重機で突っ込み現金を盗むという事件もあったらしい。新聞では地元の銀行の金庫から4000万円が盗まれたという事件も報じられた。さらにガソリン不足を背景として、他の車からガソリン抜き取る事件も頻発している。実際、わたしがボランティアをしていた避難所でも消防車からガソリンが盗まれたという出来事があった。同じ宮城県の他の地域では婦女暴行が横行し、治安が悪化しているとの流言もある。

   ※     ※     ※     ※

 東京都の石原慎太郎知事が、今回の大地震と大津波を「我欲」を洗い流すための「天罰」だと発言して話題となったようだ。被災地に対する想像力を欠いた発言だと思う一方、一歩引いて考えてみるに、一面の真理を理解できないでもない。また、石原氏のような右翼教条主義の立場からは、そのような見方となるのも頷ける。ただ、石原氏がその論理を貫徹するためには、もう一言付け加えるべきだった。「大地震と大津波は、最も我欲に満ち溢れた首都東京を襲うべきだった」と・・・・。


長男の卒業式

2011年03月25日 | 大津波の現場から

 一昨日行われた長男の中学の卒業式がNHKなどで放映されたようだ。この卒業式は多くのメディアで取り上げられ、友人からのメールによると、ニューヨークタイムス紙にも掲載されたようである。

 10日遅れの卒業式だった。卒業式は、避難所の片隅で行われ、多くの人々が見守った。涙の卒業式だった。ただ、通常の卒業式の涙ではない。息子の同級生の1人は死亡が確認され、2人が行方不明である。家族を失った者や、家を流されたものも多数いる。PTA会長も行方不明で、学年主任の先生のご親族も何人か流されたようだ。そんな状況の中での涙だった。スピーチに立った代表生徒はこういった。「自然の猛威の前には人間の力はあまりにも無力で、私達から大切なものを容赦なく奪っていきました。天が与えた試練と言うには惨すぎるものでした。辛くて、悔しくて、たまりません。」彼は何度も天を仰ぎ、涙にむせびながら歯を食いしばってこう続けた。「しかし、苦境にあっても天を恨まず、運命に耐え助け合って生きていくことが、これからの私達の使命です。」

 「使命」・・・・・。我々の生は自由気ままにあるのではない。多くの死者の魂とともにあるのであり、歴史とともにあるのだ。そこにはやはり、「使命」というものが付随する。瓦礫と焼け跡の街を思い、人間が社会や歴史とともにあるのだということを、この15歳の少年のスピーチに改めて、考えさせられた。

 ところで、昨日はのびのびになっていた高校の合格発表があり、息子も何とか地元の高校に合格できた。行方不明の息子の友人はすでに同じ高校に推選合格している。死亡確認された生徒ともう一人の行方不明の生徒もそれぞれ別の高校に合格した。息子にとっては忘れられない記憶になるのだと思う。

 けれども、避難所の生活が暗く沈んだものかといえば、そうではない。みんな明るく気丈に頑張っている。笑顔もあるし、笑い声もある。家族や家を失ってもなお、ボランティアや仕事に一生懸命の人たちも多い。そうしなければ、自分自身を支えられないのだ。

≪逝ってしまったあんたにはこれからずっと朝がない・・・・・≫


被災しました

2011年03月21日 | 大津波の現場から

すごい地震でした。
すごい津波でした。

私の住む街も多くの地区が壊滅状態です。

私も家族も何とか無事ですが、周囲には不条理で理不尽な死が横溢しています。

この出来事を経験して思うのは、今生きているのは一つの偶然にすぎないということです。

みんな気丈に頑張っています。私もボランティアを頑張ります。